水際のウルヴァシー

12

牧の言うように、はこの夏を最後に引退するつもりでいた。今年の3年生の中には外部志望はひとりだけ。あとは推薦が取れそうなのと内部進学なので、みんな冬まで残るという。殆どの部員が残留する中を引退してしまうのは寂しいけれど、やむを得ない。

今のところ都内の私大と考えているが、自分の将来とともにやはりバスケットの強さも譲れなくて、知っている先輩が4人もいるのも決め手となった。割と可愛がってくれた先輩もいるし、そういう人がいるチームの方が応援するのでも気が楽でいい。

だが、がIH後に引退ということを知って慌てたのは監督である。

お盆休みの前に監督から直々に呼び出されたが生徒指導室に行くと、監督と担任と学年主任が勢揃い。が竦み上がって硬いソファに縮こまっていると、がばりと監督が頭を下げてきた。いわく、引退しないでほしいという。苦笑いの担任と学年主任を追うように、も苦笑いになる。

監督は、は内部進学をするものだとばかり思っていて、だから今年新入生からマネージャー希望の生徒が現れなくても放置していたのだという。その上で、今年の国体が選抜チームになるから人手が足りないと言ってまた頭を下げた。人手が足りないってなんだよ……はまだ苦笑いのままだ。

「先生……だけど私もう志望校も決めてて」
「まあ待って、それでね、これはちょっと内密でお願いしたいんだけど」

今年の担任が人差し指を唇に当てて声を潜める。

「バスケ部が人手不足なのは事実だし、推薦やってみない? よくわかってると思うけどウチはバスケ部強いんだし、それをサポートするのも必要なことだし、それの一環として先生たちも出来る限りの協力をするから」

つまり、内申は色をつけると言いたいのだろう。は少し呆れて、しかし首を傾げた。

「だけど先生、もし推薦が通らなかったら受験になるんですよ。推薦があるからいいや、って部活してて落ちたらどうにもならないじゃないですか。推薦の合否がわかってから受験勉強始めるなんて無茶だと思うんですけど」

正直今だって心許ないのに。普段の成績は中の上という程度。超難関校というわけではないけれど、志望校に安全に合格するにはバスケット部のことをきっぱり忘れて受験に備えなければな、と思っていたところだったのに。気まずい顔をしている監督に代わり、担任は優しい声で言う。

「もちろんそれはの言う通り。だけどまさかIH終わりでがいなくなると思ってなかったからさ、国体が間に合わないんだよ。新学期が始まるまでには今後のマネージャーについても検討しておくし、の負担にならないようにするから。あと、これはほんとに秘密なんだけど、あの大学、ちょっと貸しがあるから」

そう言って担任と学年主任はにやりと笑い、監督はまた頭を下げた。

「引退撤回おめでとーございまーす!」

お盆休みに入り、バスケット部員はほぼ恒例の浜辺で花火のために集まっていた。今年はIHを準優勝で終えたので、部員たちはそこそこ機嫌がいい。あとちょっとで優勝に届くところだったという悔しさはあるけれど、それを引きずるよりは次への糧とした方がいい。

ついでにIHを最後に引退して受験生になるはずだったが監督に泣きつかれて出戻ってきたので、それも嬉しい部員たちは楽しそうだ。今も清田が両手に花火を大量に掴んでの周りをぐるぐる回っている。

「ああ、そこか。貸しってのはほら、毎年うちからバスケ部に行ってるから」
……え、毎年!?」
「何だよそれも知らなかったのか」

牧や高砂によると、の志望校は強いには強いが、足踏み状態の成績がもうずっと続いているらしく、チームを躍進させてくれるような選手の獲得に余念がないのだそうだ。そのため、海南からの進学が3年続いたのをきっかけにして、以来、毎年ひとり下さい状態になっているのだという。

「人身売買みたい」
「今のは言い方が悪かったな。向こうも欲しがってるし、ここはどうだ、って薦めてるってことだよ」
「今年も誰か行くの?」
「それはまだ決まってないけど、行ってもいいっていうのがいればな」

しかし、いくら海南でも全員が牧並みなわけではないから、バスケットで進学できるなら行きます! というのが現れるのはほぼ間違いないと思われる。もそれに思い至ると、自分もそういう扱いと同じだと思えばいいか……と納得してきた。

「マネージャーとはいえ、海南だからな。そのバスケ部に貸しもあるし、いい部活動実績になるんじゃないか」
「うちのバスケ部ってそんなにすごいのか」
「知らなかったのかよ」

牧と高砂は嫌そうな顔をしたけれど、にそういう実感はあまりなかった。確かに準優勝はしたけれど、コートを離れた選手たちは家族のような存在で、彼らを特別に感じることはあまりなかった。いいところもダメなところもよく知っている、仲間だったから。

「まあそうだよな、オレらにとってもお前は妹みたいなもので」
「妹なのか」
「何がいいんだよ」
「いやその、牧とか高砂はぶっちゃけお父さん的だったというか」

黙って先輩たちの話を聞いていた神が可哀想なくらいに吹き出し、激しくむせた。

「何でだよ、むしろお前の方がおっかさん的だっただろうが」
「おっかさんとか失礼だなあ、こんなキュートなJKなのに」
「キュートなJKは怖い顔で1年生威圧したりしない」

今となっては、まかり間違って姫ポジなんかにならなくてよかったと思う。はそう言って満足そうにため息をついた。こうしてわいわい話しているのは本当に楽しい。やっぱり自分は海南の一員なのだなと実感するし、つい思い出してしまいがちな三井のことも忘れられる。

「まあ姫ポジってキャラじゃないしな」
……昔はそういうキャラだったんだよー」
「え!?」

驚いて声を上げる3年生に、はにやりと笑ってみせる。スーパースターと付き合っている特別な女の子だと思っていた。周りもそういう立場の女子という扱いをしていた。遠い日の恥ずかしい思い出だ。

「当時彼氏の身長が176くらいでさ、中3だからまだ細くて、お姫様抱っこ出来なくてねえ」

それ以前にスーパースターである。怪我をさせては大変なので、お姫様抱っこチャレンジは1度失敗した時点で二度とやらないことになっていた。三井は結婚するまでには出来るようになると言っていたけれど、それも思い出すだけで恥ずかしい。忘れたい。

だが、遠い目をしたの横で、高砂が首を傾げた。

「お姫様抱っこ? お前くらいなら出来ると思うけど」
「はい?」
「出来るだろうなあ。オレもたぶん出来ると思う」
「自信ないけどオレも出来るんじゃないかな」
「先輩先輩先輩、オレも出来ますよ!」

高砂に続いて牧と武藤と清田にそう言われたは音を立てて吹き出し、涙目で笑いを堪える。

「いやちょっと待って無理、あんたら、王子様って顔してない」
「ふざけんな」
「あのね、王子様ってのは神みたいなのを言うんだよ」
「ファッ!?」
「そうだねー、高砂には肩車、牧にはおんぶして欲しいかな〜」
「だからそれお父さんだろ!!!」

は夜の砂浜で潮騒を聞きながら、けたけたと笑った。お姫様抱っこしてやれと言われて慌てる神、ジャイアントスイングなら余裕だという高砂にジャイアントスイングされる清田、吹っ飛んだ清田に牧がキャメルクラッチで、は腹を抱えて笑った。本当に楽しかった。

この浜にいても、こんな時はの頭の中から三井の存在はきれいさっぱり消えている。家族にも等しい仲間たちと笑い合っている幸福感で満たされて、三井のことを思い出す隙間がない。けれどそれは仲間たちがいるからだ。すぐ近くにいて声が聞こえるからだ。

楽しく花火で遊んだ翌日、はポツンと砂浜に立ち、打ちひしがれていた。

昨夜、花火で遊んだたちは20時半頃に全員揃って引き上げた。もちろん片付けをし、ゴミは全て持ち帰った。だが、花火で遊ぶたちを見ていたか、その後に無許可で花火をやったのがいたようで、朝になると砂浜の一角がゴミだらけになっていた。

それが地域住民から市役所に通報され、そこから海南さんどうなってんの、と苦情がリレーし、一応学校の方もバスケット部員はきちんとゴミを持ち帰っているから他の誰かだと主張をした上で、きっかけになったことは否定出来ないので最終的に監督を通ってに来た。

部員たちのほとんどは寮暮らしなので帰省していて不在、近所にも何人かいるけれど、それこそ年に何日もない休みなので、近いという理由だけで駆り出すのは可哀想になったは、ひとりでむくれている。

そりゃあ復帰したけどさ! 推薦で行けるかもって言ったら親喜んで「部活ちゃんとやっておいで」とか言い出したけどさ、なんでどこかのバカの不始末を私が片付けなきゃいけないの。てかほら吸い殻とか酒の缶とか、どう考えてもうちのバスケ部じゃないじゃん!

は頭からタオルを被り、黙々とトングでゴミを拾う。ゴミは学校に持っていくのである程度は分別しなければならないし、ひとりでゴミ袋3つも掴んでのゴミ拾いは精神的なダメージが大きい。

みんなといる時は何も考えなくてよかったけど、ひとりだときついな……

潮騒の音はIHを思い出す。三井を思い出す。海南の仲間たちではなくて、三井を思い出す。

ゴミを拾い終えたは、防波堤に寄りかかって水を流し込む。潮風が気持ちいいけれど、真夏の太陽は目を眩ませる。それがまぶしくて目を閉じると、歓声とともにコートが脳裏に浮かぶ。海南大附属史上もっとも勝ち上がった決勝戦の試合ではなかった。湘北と山王の試合だった。

怪我で戦力を欠いた湘北は翌3回戦でボロ負けしてこの夏を終えたけれど、この夏のIH男子バスケットでの最大のトピックは彼らが山王に勝ったことだったし、それは今年の優勝校が初優勝だったことよりも事件だった。山王が湘北に負けていなかったら同じ結果になっただろうか――それは誰でも考えることだった。

三井がそういう事件の中にいるということが、少なからずを打ちのめしていた。

湘北は3回戦敗退という結果だけれど、山王はあまりに特別だったから。海南だって牧だって一度も勝てたことないのに、あいつは負かしちゃった。日本一になって当たり前の高校を負かしちゃった。IHで優勝してやるなんてとんだ身の程知らずだと思ってたけど、似たようなものなんじゃないのかな、あれって――

三井と別れてひとり海南に入り、黙々と3年間努力してきた。けれど、海南は優勝できなかった。は防波堤の上にごろりとひっくり返って、長いため息をついた。負けたような気がしたからだ。途中で道を踏み外したあいつが勝って、3年間努力してきた私が負けなのか。翔陽かよ。気持ちわかるわ。

その時、視界が突然暗くなったので、は悲鳴を上げて足をばたつかせた。

「おい大丈夫か、具合悪……いわけじゃなさそうだな」

眩む目をこらして見てみると、三井だ。驚いたは虫を追い払うかのように両腕を振り回し、それを三井が避けたところでがばりと起き上がった。だが、炎天下の作業後、体を横たえて休んでいたところを急に起き上がったので、そのまま防波堤から転げ落ちた。砂浜についた足もよろけてぐらりと傾く。

「何やってんだよ、大丈夫か」
「はな、離して」
「バカ言え、ヨロヨロじゃねえか」

砂に足を取られてヨロヨロのを三井が抱きとめ、抱きかかえるようにして支えている。はますます焦るしパニックになるしで暴れた。だが、ヨロヨロが暴れたところでたかが知れている。三井に引きずられては防波堤まで引き戻され、その上お姫様抱っこ状態で上に乗せられてしまった。

あ、お姫様抱っこ、出来るようになったんだ。

混乱する頭でそう考えたは許容量オーバーで半泣きだ。それに気付いた三井は焦り、やっぱり具合悪いんじゃないのかと大きな声を出したが、は手でそれを制して再度長くため息をつく。

「なんだこれ、ひとりで清掃ボランティアかよ」
「いやそういうわけじゃ……
「こういうのは涼しい時間帯にやれよ。真夏なんだから午前中でも30度近くなるんだぞ」
「だから……
「ああ休憩してたのか、って日陰でやれよそのくらいわかってんだろ」
「ちょっとうるさい! こっちの話も聞け!!」

矢継ぎ早に畳み掛けられたは顔を上げて叫んだ。が、目の前に三井の顔があったのでまたぐったりと肩を落として俯いた。何でいるの……どうしてひとりの時ばっかり会うの……

「もう足洗ったんじゃないの……
「あー、まあ店にはほとんど行かないけど、すぐそこが友達の家だから」
「別に、具合悪いとかじゃないから。疲れて休憩してただけだから」
「何でこんなことひとりでやってんだ」
「説明面倒くさいから」

暑いし疲れたし三井はケロッとした顔をしてるし――潮風に吹かれながらはそう言ったきり黙った。話すことなんかない、話したいとも思わない、ずっと頑張ってきたのは私の方なのに、なんでこんな惨めな思いしなきゃいけないの。だが、三井はの隣に腰を下ろすと、ゆっくりと話し出す。

「海南、すごかったな」
「ああ……まあね」
「予選の時は一点差だったんだけどな」
「ああ……そうね」
「何だよ、優勝できなかったのがまだ堪えてんのか」

は頬のあたりがチリッと痛むのを感じた。けれど、カッとなって食って掛かるのは絶対にダメだという気がしてならなかった。反論しない、反応しない、やり過ごせ、向こうが逃げていくのを待て。

「そういう……わけでもないけど」
「準決勝でお前らと対戦したかったよ」
「ふうん……
「本当に大丈夫か? 日陰、行った方がいいんじゃ――

だが、我慢の限界だった。

「いい加減にしてよ!!!」

誰もいない砂浜にの叫び声がこだまする。

「いつもいつも……なんでそう、初めから何もなかったみたいに、どうしてそんな無神経なの」
……そりゃ悪かったな」
「悪かったなんて、思ってないくせに……!」
……思ってるよ」

力を入れて押さえつけておかないと何度でも叫んでしまいそうだった。体を縮めて感情の爆発に耐えていたの隣で、三井はまた穏やかな声で言う。がつい顔を上げると、三井は少し目を伏せて海を見ていた。時折吹き付ける潮風に揺れる長い髪はもうないけれど、その代わりに彼のTシャツをはためかせた。

「何をよ……
「まあ色々と。お前をこんな風に怒らせてたり泣かせたりしたのも、まあオレのせいだろうしな」
「よ、よくわかってんじゃん、全部あんたのせいだから、あんたが、あんたが……

うまく言葉にならない。息も苦しい。

「私、あんたのせいでひとりで海南で、一緒にIH行くはずだったのに、こんな、ひとりでゴミ拾いして」
「ああ、そうだな」
「こんなボサボサ頭で、焼けて、海デートとか出来たかもしれないのに、そんなの全部なくなって」

またパニックになってしまったは、いきなり手を取られて息を呑んだ。おかげでパニックは止まったけれど、今度はサッと体が冷たくなる。長い髪の三井の姿が重なり、恐怖にも似た緊張が腕を通って全身に走る。

三井はその手を引くと、動揺しているを引っ張って砂浜を歩いて行く。サクサクと砂が鳴り、また潮風が三井のTシャツとの髪を揺らした。波打ち際まで来た三井は速度を緩めずに波に足を浸し、が驚いて声を上げたところで止まった。

ただ掴んでいた手を繋いで指を絡めると、波音にかき消されそうな声で言う。

「こっち見るな。足元だけ見てろ」
「はあ? 何言って――
「誰か、好きな男でも思い浮かべてろよ」
「ハァ!?」

三井を見上げて威嚇の声を上げただったが、彼はの頭を掴んで海の方へ向けてしまった。

「オレじゃ嫌だろうけど、海デート、してるみたいだろ」
「ちょ、そんなのいいから! もうほんとにわけわかんない!!」

力の限りに三井の手を振り解いたは、まだ伏し目がちな三井を睨み上げて肩で息をする。

「何がしたいの、一体何のつもりよ」
「何って……出来なかったことを」
「出来なかったって、これが?」
…………オレが海南を選んでたら、出来たことだっただろ」

ひときわ大きな波が打ち寄せ、ふたりの足を洗い流してから、また遠ざかる。

「ごめんな、。一緒にいられなくて」

一呼吸置いて、はまた声を上げて泣き出した。