水際のウルヴァシー

14

「先輩大丈夫ですか」
「君らは午後からなわけね」
「えっ、先輩朝からですか!?」
「監督ですら来たの10時頃だからね。私は7時からだけど。終わるのは君らより後だけど」

国体代表合同練習の初日、昼頃からやってきた神はがどす黒いオーラを出しているのに気付いて声をかけてきた。夏休み中、平時なら体育館の施錠は20時なので、それに間に合うように片付けて引き上げねばならない。だが、国体代表のホストとして体育館を提供することになったため、この制限が解除されてしまった。

代表中一番遠い翔陽の都合を考えるとどんなに遅くても21時が限界といったところだろうが、しかしそれは選手の拘束時間の話であって、例えば21時に練習が終わって解散になったら、そこから諸々の片付けや掃除を済ませて後始末をするのはだ。その場合学校を出るのは22時近くなる。

「さすがにそこまではしないんじゃないですか。そんなことしてたら先輩また倒れますよ」
「監督の顔見てるとどうも信用ならなくて」
「まあ、いつになくはしゃいでますよね」

海南だけでなく県内の優秀な選手を使い放題である。楽しいのは仕方あるまい。

「送ってってもらったらいいじゃないですか。家、近いんでしょ」
……神くんはどうしてそう意地悪なの」
「そんなつもりないですけど……

三井が元カレだとカミングアウトした先日も、神はよりを戻せなどと平然と言っていた。

「ただほら、先輩は今でも三井さんのことよくわかってるなあと思ったから」
「わかってる?」
「予選の前にどういう選手なのか話してくれたでしょ。2年以上も離れてたのにその通りの人だったから」

それがなぜよりを戻すことになるのか。そんなのあいつがブランク明けで代わり映えしなかったからでしょ。は首を傾げた。だが神は本当に意地悪をするつもりがないというような顔でにっこりと笑う。

「それだけ三井さんのことを理解してたんだなあと思って」
「そうかもしれないけど……
「つまり、よっぽど好きだったんだろうなあと。お姫様だったんだし」
「神くんまた蹴られたいの……

またどす黒いオーラが放射され始めたので、神は笑いながら逃げた。

理解してた? そりゃそうでしょう、スーパースターだった頃はずっと一緒にいたんだもん。あいつがあの頃どんな選手だったのかはよくわかってる。死ぬほど好きだったことも一応事実だ。だけどそれと今の私たちは繋がることはない。繋がる理由がない。

マネージャーと言っても、今日は監督のパシリ。いつでも走れるように監督の背後でじっとしているのが仕事。

そのはずだった。

「よう、おはよう」
………………おはよう」
「なんだよその顔」
「海南のマネージャーさんか? 三井、知り合いなのか」
「そう。中学同じで」

合同練習の時は海南バスケット部の広い部室の一部が他校の選手たちにあてがわれ、急ごしらえの控室となる。普段たちがミーティングや何かの作業に使っているテーブルのある場所だ。全員男子なので荷物をまとめておくバスケットと椅子があるだけだが、ここにひとまとめにされる。全部で11人分。

例の元全日本だという監督と一緒にやってきた湘北の代表たちは、海南の高頭監督に部室に行くよう指示され、もちろん場所などわからないので早速パシリが呼び出された。だが、パシリが現れるなり三井はにこやかに手など振ってを迎えたというわけだ。

三井の方は何だかニコニコしているが、の方は海でのキスが蘇ってきて気が気じゃないし、まるであの日のことを忘れているようにも見える三井にイライラし始めた。

「湘北の赤木です。よろしく」
「どうも。マネージャーのです。部室に案内するので、そこで支度をして下さい」
「海南て部室こんなデカいのか」
……私立だからね」
「今の部屋ってジムか? 贅沢だな〜」
「私立だからね」
「うちなんかシャワーもねえのにな」
「私立だからね」
「お前な」

三井が話しかけてくるけれど、は仏頂面のままろくに相手もせず部室に入った。午前中の練習を終えた部員たちが昼を済ませて見学待ち、代表は陵南を残して全員揃っているので、部室の中は人で溢れかえっている。は既に一度翔陽の選手にした説明を繰り返す。

「合同練習の時は毎回ここを使うので覚えておいて下さい。何か困ったことがあれば監督か私に」

説明を終えたはマネージャー用のロッカーエリアに戻ろうとした。どうせ陵南の選手が到着したら案内しろと呼び出されるに決まっている。普段ならテーブルの辺りで座って待機をしていることも多いが、今日は選手たちで溢れかえっているし、長居したくない。

だが、戻ろうとしたの襟首を三井が掴んで引き止めた。

「何よ」
「今日の練習って何時までなんだ?」
「さあ……監督がもういいって思うまでじゃないの」
「お前最後までいるのか」
「最後までどころかあんたたちが帰った後も仕事がありますが」
「おいおい、大変だな。んじゃ帰り一緒に帰ろうぜ」
「ハァァァ!?」

三井は普通か、騒がしい部室の中では小さいかくらいの声で話していたのだが、は驚くあまりほとんど悲鳴に近い声を上げた。本日合同練習に参加する各校の引率やスタッフにも女性がいないのではここでも紅一点である。女の子の悲鳴はよく響く。部室が静まり返り、三井も慌てた。

「バカ、何て声出してんだよ!」
「あんたがバカなこと言うからでしょ! 何でそうなる!!」
「他意はねえよ! 遅くなるからだろ!!」

なんとなく空気を読んで部室の中にいた誰もが無視してくれたのだが、他校代表エリアの一角で「あっ」という声が上がって、と三井を含めた代表が一斉に振り返った。翔陽の代表3人だった。

「どうした一志」
「あ、いやすまん、見覚えがあったもんだから」

翔陽からの代表である長谷川が気まずそうな顔でキョロキョロしている。ポカンとしていた一同だが、一瞬ののち、と三井は顔を見合わせてサッと青くなった。そして一斉に走りだして長谷川の肩を掴むと部室の隅に引きずっていった。

「お前確か梅園だったか」
「やっぱりあの時の……
「今はもう何の関係もないから、お願い、余計なことは言わないで」

ふたりに一気に詰め寄られた長谷川はまだ目が泳いでいたが、一応頷く。今はマネジメントに徹しているだが、中学の時はただの観客、しかし三井が好きで仕方なかったので、必要もないのに試合の記録などは全部取ってあったし、今でもそのことはよく覚えている。なので、梅園と聞いて血の気が引く。当時を知られている。

確か梅園は県大会のトーナメントで対戦している。土曜のことで、も観戦に行っていて、つまり試合終了後に人目も憚らずにイチャコラしていた可能性は高い。と三井、超がつくほどバカップルのピークの頃である。は冷や汗が出てきた。

だが、三井は長谷川の肩を掴んだままひょいとを見下ろして顔をしかめた。

「関係ないとか余計とか、さっきから何なんだ」
「は? 関係ないし余計なことでしょ、あんたこそ何言ってんの」
「何でそんなに刺々しいんだよ」
「お盆休みのことを思い出せこのバカ」
…………あのー」

三井との間に挟まれた長谷川が口を挟むと、ふたりは慌てて咳払いをして黙る。

「そ、そういうわけだから、お願いします」
「それはいいけど……変わったな、ふたりとも」
……そりゃ、3年も前の話だからね」

長谷川は三井の方は見ずに、の肩をポンと叩くと、そのまま戻っていった。

「あんたもさっさと支度しなさいよバカ」
「さっきからバカバカしつけえよ。てか帰り、待ってるからな」
「いいからそんなの。みんなと一緒に帰りなよ」
「オレたちはそれほど遠くねえんだよ。だから現地解散」

げんなりしただが、そこへ陵南が到着したから来いと監督から呼び出しが入った。携帯をポケットにしまい、そういうわけだからじゃあね、と立ち去ろうとしたの背中に、三井はもう一度声をかけた。

「待ってるからな」

その日の19時頃、は台車を押してクラブ棟を駆け抜けていた。休憩に入った選手たち用の飲み物、そして食事である。この後まだミーティングがあるとかで、午後中くらいには監督の方から食事の手配が指示され、パシリは駆けずり回ってその支度を整えた。場所はクラブ棟の中の会議室。

だが、人数が人数だし、それを準備できるのがひとりということを甘く見ていた高頭は牧や高砂にも「さすがに可哀想です」と小言を言われていた。とりあえず次からはよくよくきちんと予定を組んで、食事の必要があれば事前にちゃんと手配すると言って反省していた。

さて、出来るなら飲食してもいい休憩である。会議室はまた選手たちでいっぱいになっていた。が長机に準備した飲み物や食べ物は好きなものを好きなだけのセルフサービスである。

そこでペットボトルを傾けていた三井は、後ろから肩を叩かれて振り返った。

「お疲れ」
「お、おう、お疲れ。どうした」
「どうしたってこともないけど、部室で騒いでたから一応な」

牧だった。三井はペットボトルのキャップを閉め、小さく頷く。

……知ってるのか」
「簡単にだけどな」

同じようにペットボトルを取った牧はそう言いながら微笑んだ。の件と思うと構えてしまった三井だったが、牧に敵意があるわけじゃないのを見て取ると適当に食べ物を見繕ってその場を離れた。牧も同じようにして後を追う。が集めたテーブルについて、ふたりは声を潜めた。

「まあそうだよな、あの浜でしょっちゅう走ってたもんな、海南」
「残念ながらその頃は何も知らなかったし、たぶん見たこともないと思うぞ」
「そりゃよかった」

海南の部員で長い髪の三井を見たことがあるのは、先代のマネージャーだけだ。

「さっきはつい騒いじまったけど、迷惑はかけねえよ。悪かったな」
「いや、そういうことじゃない」
「は?」

牧はペットボトルを開けて少し流しこむと、またにこやかに微笑んで三井を見つめた。

「今思い返すと、入学した直後、あいつは復讐心の塊だった。だけどお前は予選に出てこなかっただろ。それを知って今度は目標をなくしたみたいになってな。それでも頑張ってたし、ずっとオレたちはチームとしてうまくやってきた。それがおかしくなったのはお前に会ってからだ」

三井はまた小さく頷く。を惑わせた自覚はある。

「平気なように見えるけど……今でもまだおかしい。お前に振り回されてる」
「そういうつもりはねえんだけどな」
「まあそうだろうな。そこはあいつの方にも問題はある」

ふたりとも持ってきたパンやらおにぎりだのには手を付けない。選手たちがみんなわいわいと食べたり飲んだり喋ったりしている会議室の片隅で、ふたりだけが重苦しい空気の中にいた。

……のこと、好きなのか?」
「ハァ!?」

つい低い声で聞いてしまった三井に、牧も素っ頓狂な声を上げた。それに自分で驚いた牧は吹き出す。

「勘繰り過ぎだ。けどまあ、まだそんな顔でそんなこと気になるくらいなわけだろ」
「どういう意味だよ……
は冬まで残る。惑わせないで欲しい」
「だからそのつもりは――
「ないのはわかってる。だけどあいつはまだ囚われたままだからな」

三井が照れたような難しい顔をしているので、牧の方は少し緩んできた。

「どっちだっていいけど、もういい加減けじめつけたらどうだ、って話だよ」
「そんな簡単に済む話なら苦労しねえけど」
「そこは知らん。お前らが勝手にややこしくなってるだけだからな。お、いいところに、長谷川、ちょっと」
「おい、何する気だ」

牧は近くを通りかかった長谷川を呼び止めると、手招きをした。牧が三井と声を潜めて話していることが気になっていた高砂と神と清田の海南組も呼ばれてないのにやってきた。

「さっき、大丈夫だったのか」
「あ、ああ――
「牧、どういうつもりだ」
「あれか、ふたりのこと知ってたのか」
「中学の時にな。あんまり衝撃的だったもんで、覚えてたんだ」

長谷川は表情に乏しいので、何を言い出すのか予測が付かない。三井が青くなってきた。その横で牧はちらりと海南組の方を振り返りつつ、また長谷川に喋りかける。

「みんなそう言うよな。魚住も覚えてたし、三井、お前よっぽどすごかったんだな」
「な、別にオレはそんな――

急に褒められたようなことを言われたので、三井は面食らって身を引いた。本当はふんぞり返りたそうな顔をしている。が、それを見ていた長谷川は少し首を傾げると、静かに言い放った。

「いや、衝撃的だったのはプレイじゃなくて、ものすごいバカップルだったから」
「てめえ!!!」

そこで初めてニヤリと口元を歪めた長谷川は、片手を上げると翔陽組の方へ去って行ってしまった。

「バカップル……?」
「バカップルってバカップルですか?」
先輩とバカップルすか?」
「バカップルなのにお姫様抱っこできなかったのか」

海南組4人に畳み掛けられた三井は見るも無残に耳まで真っ赤になって狼狽えた。

「ほう、これは引退まで先輩をイジるネタになりますな」
「うむ。ほどほどにしてやれよ清田、脇腹ペンチは死ぬほど痛い」

腕組みをしてうんうんと頷く高砂と清田は、堪えきれずに後ろを向いて吹き出し、それを見ていた神も俯いて吹き出し、3人は肩を震わせたまま牧を残して散らばっていった。三井も真っ赤になってプルプルと震えている。

「何なんだよ、しょうがないだろ子供の頃の話だっつーの」
「子供、って小学生じゃあるまいし」
「そんなようなもんだろ。昔の話だ。オレにしても向こうにしても、今とは違う」
……じゃあどうだったんだよ」

からかってやろうという気はなさそうだった。少しだけ首を傾げた牧がそう言うと、三井は大きくため息を付いて背もたれに寄りかかり、短い前髪をガリガリと掻きむしった。

「どうって……
「この間、昔は姫ポジだったとか言ってたけど」
「あー、まあそういう感じだったかもな。何しろオレが目立ってたから」

三井と付き合いだす前から姫ポジだったわけではない。バスケ部のエースと付き合っていたから、は姫ポジだったのだ。三井にもその自覚はある。自分が少し特別だったから、他のものが何も見えなかった。

「もっとこう……化粧とかおしゃれとかばっかり気にしてたな。イベントも大事にしてたし、こだわってたし、あんな風に怒鳴ったり駆けずり回ったりするタイプじゃなかった」

当時のが高校に入ったらマネージャーをやりたいと考えていたのは、単に三井と一緒にいたい、彼だけを支えたいと思っていたからだ。髪がボサボサになるのも厭わずに監督のパシリになるだなんて、思っていなかったに違いない。

「オレたちはまったく想像つかねえな、そんなは」
「まあそうだろうな。もうあの頃のあいつじゃない」
「そんな風になったのは、誰のせいだ?」

三井が顔を向けると、また牧はゆったりと微笑んでいた。

……オレのせいだな」
「オレたちは出来る限りの範囲であいつを大事にしてきたからな」
「ああ……そうだろうな」
「家族みたいなもんだ。母親で姉で妹だからな、頼むぜ」

牧は三井の肩をグッと掴むと、席を立ってその場を去った。ひとり残された三井は、また前髪を掻きむしる。

そんな簡単に済む話なら苦労しねえっつってんだろ――