水際のウルヴァシー

02

はええと――何だこの志望校」
「何って……今来てるスカウトの中だったらこの辺かなと思ったので」
「スカウト? え、お前まさかこれって」

2学期に入ってすぐの面談での担任はがっくりと肩を落として頭を抱えた。の志望校は、第1希望が海南大附属、第2希望が翔陽高校、第3希望が陵南高校となっていた。全て三井というバスケット選手を欲している高校ばかりだ。

「だいたい、翔陽は通うには遠くないか?」
「寮に入ってもいいかな、と」
「スポーツ推薦ならともかく、なんで一般受験の子が寮に入るんだよ」

は担任の落胆の意味がわからず、ポカンとしている。愛する彼氏と同じ高校行くのは当たり前でしょ?

「気持ちはわからんでもないが、同じ高校に行かなきゃならない理由もないだろ」
「何言ってるんですか、同じ高校行ってマネージャーやって、一緒にIH行くって決めてるんです」
、自分のための進路、という考え方はないのか?」
「はあ?」

三井と同じ高校に進み、彼の所属するバスケット部で念願のマネージャーになり、そしてIH優勝を目指す。それは100パーセント自分のための進路ですけど。はまだポカンとしたまま首を傾げた。

後々、この担任はこの時のことを「は決してバカじゃないのに、一体この時期に恋愛に夢中になるとこうも判断力をなくすものだろうかとショックだった」と振り返る。何しろは三井がどこの高校に進んでもいいように勉強を頑張っていたし、そのおかげでこのふざけたラインナップならどこでも行かれる成績ではあった。が、しかし。

「でも先生、翔陽は遠いかもしれないけど、海南とか陵南で悪いことなんかないんじゃないですか」
「まあそれはそうなんだけど」
「どっちも普通科だし、例えば海南ならエスカレーターで進学できるし」

そうなのだ。動機が不純という点を除けば、特に問題のある進路ではない。は頭からモジャモジャしたものが出てきそうな担任に向かって鼻で笑う。三井が普通科の高校を選択する場合に限るけれど、が一緒にその高校を目指すことに何の問題もないのだ。

もし県内最強のバスケット部があるのが工業科や商業科などで、がその分野に全く適していないとか目指す方向が違うなら、高校が違ったって付き合えないわけじゃないだろ、高校が違ったくらいで破局するほど生ぬるい付き合いなのかと突っつくことも出来ただろうが、残念ながら三井をスカウトして来ている高校は全て私立の普通科。しかもバスケット部だけでなく、どこも学校としても良い所だ。

春の三者面談の際に、の母親は娘に対して過度な期待や飛躍を望む気持ちはないと言ってきていた。自身も夫も平凡な人間だし、娘が望む道を安全に進めればそれでいいと言う。によれば、娘が彼氏と同じ高校へ進みたいと望むことも、特に問題視していないらしい。

「たぶんこの中のどれかだと思うんですが、願書提出までには決まると思いますから」
「まあ、そうだろうな。県大会が終わったらすぐ決まっちゃうかもしれないし」

結局最後まで難しい顔をしていた担任だったが、成績に照らし合わせて無理がなく、本人も保護者も納得の進路、その志望動機が例え彼氏だったとしても、が高校3年間をしっかりと全うできるならそれでもいいのかもしれない、と思い始めていた。

だが、担任は11月の半ば頃になってとんでもない話を耳にした。方々からスカウトが来ていた三井は、その全てを辞退して受験生になるという。声をかけられなかった強豪校があっただろうか、それとも遠方の高校? などとのんびり考えていた彼は三井の担任に話を聞くや、背筋に冷たいものが走った。

「もったいない話ですけど、仕方ありませんね、本人の決断ですから。県立湘北高校ですよ」

の担任が慌てて調べてみると、バスケットではろくな実績もない県立高校だった。偏差値も低いし、ざっくりと言って家が近いか勉強が苦手な生徒でなければ目指さないような高校だ。わざわざこの高校を勧める理由もないような、真面目な生徒なら別の選択肢を提案したいような高校。

担任は冷や汗をかいていた。

どうするんだ、三井は何を考えてるんだよ一体――

スカウトの件は三井の担任と学年主任と校長教頭、それに本人とその両親だけで対応していたので、の担任など、ほとんど事が片付いてから噂程度に話を聞いたようなものだった。だが、どうにも心配になった彼は三井の担任に事情を話して、一体何があったのかを聞き出した。

「元全日本選手で、大学の鬼コーチ?」
「という話です。私もまだそれについては詳しく聞いていないのですが……
「その方のもとで学びたい……いや、ええとバスケをしたいというわけですか」

三井は県大会の決勝の際、来賓として観戦に訪れていた湘北の監督に感銘を受け、どうしてもその人に師事したいと言って聞かなかったそうだ。彼の両親も息子の意思を尊重すると言っているし、こちらも疑問視しているのは周囲だけ、という状態のようだ。

「彼氏と同じ高校に、という志望校選びは今に始まったことではないですけどねえ」
「三井の方はまだいいんですが、どうにもには不安が残ってまして」
「それも自分のためと思うでしょうが、三井ありきというところがねえ」

三井の担任もはーっとため息をついた。

「しかし困りましたね、どうなさるんですか」
……僕が告げ口するようなことだろうか、という葛藤もありまして」
「しかし知っていたのに黙っていたのかと言われても困りますしね」

の担任はまたがっくりと肩を落とした。は三井が受験で湘北を目指すことを知らない。なぜか三井はこのことをに話さないまま、さっさとスカウトを断ってしまった。

「なんといいますか、の方は三井とともに『バスケの強い高校』に入って、そこでIHを目指したい気持ちがあるようなんですよね。それが昨年どころかここ数年ずっと県予選1回戦負けの湘北でいいと言うかどうか」

三井の方は、弱小ならそれでも構わない、自分が湘北を強くしていくと言い切ったそうだ。

「それはそれでひとつの道には違いないでしょうし、私もバスケットは素人ですが、スカウトにいらしていた各校の監督さんたちのお話を聞いていると三井は本当に良い選手だそうですから、あるいは、ということも考えられますけれど、さんの場合は海南や翔陽と湘北を比べてしまうとね……。その先の進路にも不安がありますね」

湘北の生徒の進路は実にその半数が就職、残る半数は一応進学だが、専門と短大が殆どで、4年制の大学は数えるほどしかいない。そういう道を取るつもりがあるならいいけれど、とりあえずのところ、はそういう生徒ではなかったし、それは三井も同じだった。

「あのう、三井と話、出来ませんかね」
「なぜさんに黙っているのか、ということですか?」
「それだけわかれば。にどうしても言いたくない理由があるならそれは尊重します」

三井の担任は少し考えさせてくださいと言って、話を切り上げた。

だが、担任たちがため息混じりで肩を落としてから数週間後、は三井が名だたる強豪校のスカウトを全て蹴ってしまったことを知ることになった。推薦で高校進学をするはずの三井が期末テストを頑張っていたからだ。

テスト最終日、休み時間に三井がスカウトを全部断ったと知ったは激怒、喧嘩は放課後に持ち越され、つい先月頃まではイチャコラし放題だったカップルの危機はむしろ忌避すべき災難と思われたようで、クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすようにして下校してしまった。の教室にふたりきり。

「ていうかほんとに意味わかんないんだけど」
「わかってもらおうとは思ってねーよ」
「何その言い方!? ねえほんとにスカウト全部断っちゃったの」

目が吊り上がっているから顔を逸らして三井は頷く。

「だって、海南、翔陽、陵南、全部来てたでしょ、どこだって超強いところだったじゃん」
……まあな」
「何が嫌だったの、何かムカつくこと言われたの?」
……別に」

傍から見るとが三井を説教しているような状態だ。身を乗り出し強い口調で詰問する、椅子にだらりと腰掛けて顔をそらし生返事の三井。12月の冷えた教室が余計に低温になりそうな空気だった。

「じゃあ何なの!? 何の相談もなく全部断っちゃって、しかも弱小校受けるとか、理解できない」
「理解できなくていいって……
「ちょっと待って、さっきから何その態度。優勝したら私が欲しいとか言ってたじゃん、あれは何!?」

三井が湘北の監督に感銘を受けて進路を悩んでいる頃というのは、県大会を優勝に導きMVPを獲得した彼をぜひ我が校にというスカウトが殺到していた時期と重なる。は三井が最良の決断をしなくてはならない時なのだから、と距離を置き、彼のぼんやりも見て見ぬふりをしていたのだ。

それが落ち着いて進学先も決まれば、その時こそやっとふたりの時間が出来る。はその時が来るのを心待ちにしていた。少し怖さや不安はあったけれど、初めてを捧げる相手は三井しかいないと決めていたし、優勝したらが欲しいと絞り出すようにして呟いた彼を早く受け止めたかった。

そんな風にひたすら三井を思っていたというのに、この有様。は怒りが収まらない。

「そりゃ今でも欲しいと思うけど、お前、湘北に行くオレじゃダメなんだろ」
「ダメとかいう問題!? そんなところで何するっていうの!? ひとりでIH優勝できると思ってるの!?」

この時三井は自身の人生の指針となる師を見つけたばかりで、つまり彼のバスケット人生においての「生き方」を心に決めたのも同然だった。強豪校は確かに魅力的だ。しかしそこには県内外から自分と同じような選手が集められているに違いないし、スカウトの常套句である「君の力で」という言葉も白々しく聞こえた。

あの人のもとでバスケットがしたい、あの人の指導でバスケットというものをもっと深く掘り下げていきたいし、あの人のやり方で強く上手い選手になりたい。そういう三井の決意だった。それはひとりの男が自らの人生の行く道を選び取ったということなので、つまりこういうの言い方も、三井は面白くなかった。

確かには可愛くて大好きな彼女だ。だけどオレの生き方に口出しすんじゃねーよ!

「だったらどうなんだよ。オレが湘北を優勝させてやるよ」
「落ち着いて考えてよ、出来るわけないでしょそんなこと。高校の予選見たことあるでしょ!?」
「出来るわけないって何で決め付けるんだよ。オレには無理だって言いたいのかよ」
「バスケは個人競技じゃないんだから、ひとりでどうにかなる問題じゃないじゃん!」
「知ったような口聞くなよ! ワンマンチームでも強いところはいくらだってあるよ!」
「だからそういうところはいっぱいあって、だけど結局海南とか翔陽に勝てないんじゃん!」

それも事実だ。三井の言うようにワンマンチームで躍進した高校は珍しくない。けれど、ここ15年ほど神奈川は海南大附属が絶対王者の椅子を譲り渡したことはなく、それを追う翔陽や陵南にしても、方々から優秀な選手を集めてふるいにかけ、精鋭を作って試合に臨んでいる。

「そんなお金かけてもらえないような県立で、ひとりで、監督がどれだけすごい人でも、チームメイトが私みたいなド素人だったらどうするの!? 数ヶ月でIH行かれるくらいの選手に育つと思うの?」

また顔を逸らした三井は眉間にしわを寄せて鼻で笑う。

「高校バスケットの頂点は県立の工業高校だけど」
「だから山王でしょ!? あそこだって全国から優秀な選手を集めてるじゃない!」

高校に入ったらマネージャーになって三井を支えるのだと決めていたは、中学の事情はともかく、高校バスケットの世界については勉強を始めていた。それと平行してルールや練習法など、マネジメントに必要と思われることをコツコツと学んでいた。

だから余計に腹が立つ。

「ねえ言ったじゃん、同じ高校行って、私がマネージャーやって、IH行こうって」

そうしてIHで優勝して、また同じ大学に行って、そして結婚しようって。

「約束したじゃん、それもどうでもいいの」
……別に湘北でだって出来るだろ」
「私との約束は、どうでもいいんだ」

正直言って、どうでもよかった。三井は湘北の監督に師事するという夢と希望を得たのだし、それに比べたらとの約束など些細なものと感じた。なぜ湘北ではいけない? なぜオレひとりの力でIHに行かれないと決め付ける? オレが好きならオレを信じて湘北に付いてきてくれたらいいじゃないか。何でダメなんだよ。

「私が欲しいとか言ったことも、嘘だったんだ」
……別に嘘ってわけじゃ」
「私だから欲しかったわけじゃなくて、ただヤリたかっただけなんでしょ」
「いい加減にしろよ!」

背もたれに深く身を沈めていた三井は体を起こして怒鳴った。は上目遣いに彼を睨み、黙っている。

「お前と付き合ってることとオレの進路は別の話だろ! 確かに同じ高校行ってIH目指そうとか言ったけど、それをやるのはオレで、お前は見てるだけじゃないか! オレは自分のバスケ環境を自分で選んだだけだ。お前の都合でそれを選ばなきゃいけない理由は何だよ!」

これもまた、事実だった。はあくまでも彼女、同じチームでプレイする仲間でもなければ、今のところマネージャーでもない。IHに行くのだとしても、そこで戦うのは三井で、じゃない。その選択をするのは三井本人なのだから。ただ考えの甘い、蕩けるような甘さの約束があっただけだ。

……理由? だったら、約束を勝手に破った理由は何? オレのバスケに関することはオレが勝手に決める、お前はそれに黙って従ってりゃいいんだよとかそういうこと? 何様!?」

もさらに身を乗り出して顔を近付けた。何度もキスした愛しい顔だったけれど、今はグーで殴りたい。

「たかが県大会のMVPで調子に乗ってんじゃないの。そういうことは全国、IH優勝してから言いなよ」

パン、と乾いた音が教室に響き渡る。しばし置いて、もう一度。カッとなった三井がの頬を殴り、もまた殴り返した。多少の遠慮があった三井と違っては全力で平手打ちをしたので、三井は椅子からずり落ちそうになっている。

……たったひとりでIH優勝出来るかどうか、楽しみにしてる」

叩かれた頬を擦りながらは立ち上がると、自分の荷物を掴んで肩にかける。

「あんたみたいなのとヤらなくてよかった。今までのキスは全部忘れるから。じゃあね」

12月の冷たい教室、が力任せに開いたドアから冷気が吹き込んでくる。ひとり取り残された三井はまた椅子にだらりと寄りかかり、叩かれた頬を撫でる。思いっきり殴りやがってあの野郎……

少なくとも三井の方にはまだを好きだと思う気持ちが残っていたけれど、のために湘北を諦めて海南や翔陽に行こうという気持ちは全くなかった。湘北という選択をした自分は間違っていない。これが自分の選択であり、覚悟であり、生き様なんだ。それをは理解できなかっただけだ。

県大会優勝したらとかかっこつけてないで、さっさとヤっときゃよかった――

そんな三井の後悔だけを残して、校内随一のウザいバカップルは破局した。

だが、折しも季節は受験シーズン真っ只中。同級生たちはそれにはほとんど無関心であった。人目も憚らずにイチャついて結婚まで考えているとブチ上げていたカップルが喧嘩別れしたことなど、自分の受験に比べたらどうでもいいことだった。もうすぐ中学生は終わるのだし、好きにしたらいい。

そして数カ月後、三井は希望通り県立湘北高校に合格。の影で身を潜めていた太鼓持ちと共に県予選ずっと1回戦負けの湘北に入学することになった。気分は揚々、MVPの称号ひとつを手に、心に決めた師の元へ行く。きっと自分をさらなる高みへ導いてくれるはずだ。

そしては渋る担任を振り切り、海南大附属を受験、合格した。

目標は、IHでの優勝である。