水際のウルヴァシー

04

海南大学は、その名の通り、海のすぐ近くにある。附属高校はそれよりは少し内陸に入るが、それでも海が近い。高校自体は住宅地を背にした立地で交通量も少ないので、運動部は長距離のランニングなどで外に出ることも多かった。海まで行って帰ってくるコースはどの運動部でも定番になっている。

さすがにランニングには監督は着いてこないけれど、気温が高い日のランニングには熱中症対策で自転車のマネージャーが追いかけることになっている。マネージャーがいなければ監督や指導者が出動するしかないが、この年ふたりのマネージャーがいるバスケット部は、交代で伴走をやっていた。

「今年も伴走始まってしばらく経つけど、もう慣れた?」
「まあ何とか……

はこの伴走があまり得意ではないので、ちょっとげんなりしている。なぜかといえば、ランニングの速度が早いからだ。走りが遅いのもいるけれど、一番後ろにくっついていては全体が見えないので、中間あたりをキープしていなければならないし、海に着くとなぜかさらに速度が上がるし、も相当疲れる。

2年生になり、部活にはすっかり慣れただったが、どうにもこの伴走は許容量をオーバーしている気がする。海に着くと部員たちが浜ダッシュを何本かやるのだが、その間は浜に降りずに自転車と共にゼイゼイ言っている。やっと落ち着くと、折り返して帰還である。帰着する頃には毎回ぐったり。

「まだ5月だけど、初夏って意外と熱中症多いみたいだからね。部員にやらすわけにもいかないし」
「寒い時期にはやらないから慣れないんですよね。セグウェイとかだめなのかな〜」
「速度が足りないでしょ〜!」

部員たちの速度を考えると、自転車が一番ちょうどいいのだ。原付きでは車道と歩道になるし、部員たちの速度に合わせられないし、後方に何かあっても簡単に後退できない。

も気を付けるんだよー。伴走がブッ倒れたらシャレにならないからね」
「伴走続くと怖いくらい体重落ちるんですよね……
「去年はどうしてたの」
「ある程度までは放置してたんですけど、さすがに途中でマズいと思って摂取カロリー増やしました」

ダイエットになってラッキー! などと言えるレベルではなくなってしまって、とその母親は慌てて体重維持メニューを考え、伴走がなくなる季節までを何とか凌いだ。疲労が過ぎて食欲も落ちるので中々難しかったが、今年は早めに対策が取れるはずだ。

「まあでも、脇目もふらずに走ってる部員を追いかけてるのが女の子ひとりってのも、問題あるけどねえ」
「かと言って監督もヘバリそうだし……
「私もこの間浜ダッシュ待ってる間にナンパされたしなあ」

薄汚れた外車が背後に停車し、ジャージ姿の先輩マネージャーに向かって遊びに行こうと声をかけてきたという。呆れた彼女はついジャージでどこ行くって言うんだと言い返し、またナンパしてきた男も正直に「ホテル」と言い、先輩マネージャーはさらに呆れて「ハァ!?」と大声を出した。

「怖い顔がいっぱいいて助かりましたよね」
「華がないわーと思ってたけど、あいつらの顔が役に立つとはね」

その時はバカでかい部員たちが異変を感じて集まってくれたので、事なきを得たが……

「今年もねえ、神はちょっと可愛い顔してるけど、まだなんとなく地味だよね」
「先輩が好きなのは翔陽の藤真でしょ」
「好きってわけじゃないよー! 眼福って感じかな」

彼女は同学年の野球部員と付き合っているけれど、顔のいい男子が大好きだ。彼氏は素朴な風貌だけれど、作り物っぽい顔がお好みらしい。はその言葉に久しぶりに三井を思い出した。少し濃い目だったけれど、あいつも顔はよかったんだよな――

だから余計に自慢の彼氏だったわけだ。中学時代、彼には欠点が見当たらなかった。完璧な彼氏だった。

約束を反故にされたことから来る憎悪の気持ちはすっかりなくなっていたが、それでも当時のことを思い出すと、何であんなにトチ狂っていたんだろうと首を傾げたくなる。何か変な物質が脳内にドクドクと溢れ出ていたとしか思えないほどの陶酔ぶりは見事な黒歴史だ。

そう考えると、あの状態のまま海南や翔陽に進まなくてよかったのかもしれないと思えてくる。もしあんなバカップル状態でバスケット部に転がり込んでいたら、とんでもないご迷惑になるところだったと背筋が震える。

約束があったのに勝手に進路を変更したことを許そうとまでは思わないけれど、彼とは潮時だったのだ。あのタイミングで別れるべくして別れただけなのだ。いずれあんな風にこじれて別れる運命にあったのだとしたら、同じ高校にバスケット部に進んでいなくて幸いだったのかもしれない。

「じゃあ伴走帰ってきたら声かけてね」
「はーい、行ってきまーす」

まだ5月だというのにこの日は日差しが強くて、しかも乾燥していて肌が焼ける感じがする。室内競技なので普段はまるで気にしていないだが、今日は日焼け止めを塗り、サングラスを掛けて自転車にまたがる。ひとつ先輩の主将の号令とともに、部員たちが走りだす。はペダルを押しこみ、その後を追った。

「汗で全部出ちゃってトイレ行きたくならないってほんと?」
「ほんと」
「絶対にってことはないけど、まあまあほんと」

浜に着き、部員に水やらスポドリやらを渡していたは素朴な疑問をぶつけていた。汗だくの部員たちは水分補給をしたら浜ダッシュである。これが真夏になると海に飛び込みだす者が現れるそうだが、湿気が強くなってくる季節にそれをやると中々乾かない服を着たまま走って帰ることになるので、2〜3年生はやらない。

もちゃんと水分取っとけよ」
「大丈夫、自分用の用意してあるから」

浜ダッシュに向かう部員たちを見送ると、は少し休憩できる。ヒップバッグにはこっそりガチガチに凍らせた保冷剤を隠していたので、水分補給をするとともに、動脈のある場所にあてがって体温を下げる。ついでに汗で流れてしまった日焼け止めも塗り直す。

基本的にはずっと室内で練習しているので、部員たちは牧を除くとみんな白っぽい。浜ダッシュしている彼らは海があんまり似合わない。初夏から夏にかけてはこういったランニングで焼けもするが、冬あたりになるとすぐに戻る。それを眺めていたは、体が少し冷えたのと疲れで眠くなってきた。

帰ったらシャワーを浴びて、乾いた服に着替えたらそのままベッドに飛び込んで眠ってしまいたい。エアコンを効かせてぐっすりと眠り、目が覚めたら冷たいアイスクリームが食べたい。

去年の合宿を思い出す。海南大の合宿所を特別に借りているバスケット部は、朝から晩まで練習していた。たちマネージャーも普段のように練習の管理などをしていたけれど、何しろ片付けや掃除の手間がなく、練習が引けた後は館内施設を使えることにもなっていたので、と先輩はプールで大はしゃぎ。

そうして疲れた後に女子用の部屋で食べたアイスクリームがおいしかった。迫るIHで1年生は緊張が続いていたけれど、は全く関係なし、IHの間も帰ってからも、はいつも全力で楽しんでいた。

約束なんかどこかへ行っちゃったけど、私は今すごく楽しい。充実してる。

眩しい初夏の日差しに弾ける白い波を眺めながら、はそっと微笑んだ。先輩マネージャーも、部員も、監督も。みんなみんないいヤツで、部活は疲れるけど本当に楽しい。去年はIHを4位で終えたけれど、海南の場合は日々の努力に結果がついてくるので、やりがいも感じる。

現在高校2年生、もう中学時代のことなど、小学生の頃とひとまとめに感じてしまうくらい「子供の頃のこと」だった。子供だったんだもん、しょーがない! 黒歴史のひとつやふたつ、誰にだってあるさ!

浜ダッシュを遠くに見ていたは、背後をガヤガヤと騒がしく通り過ぎて行く声につい振り返った。明らかにガラの悪そうな喋り方で、タバコの臭いもする。先輩のナンパの件もあったし、はつい声の方を見て確かめようとした。スルーできそうになかったら、浜ダッシュの方へ行かなければ。

そしてはその場で硬直し、息ができなくてウッと喉を鳴らした。

の背後をだらだらと通り過ぎて行く集団は、下着が透けそうな勢いで汗をかいているをチラチラ見ながら通り過ぎたのだが、やはりその中のひとりが足を止めて固まってしまった。真っ黒な肩まで届く長髪にタンクトップ、ツナギのトップ部分を腰に巻いた男で、を見て同じようにウッと喉を鳴らした。

誰であろう、三井寿その人だった。

三井だけでなく、集団は「ヤンキー」としか言い様がない男が5〜6人、煙草の煙を吐き出して低い声で笑いながら、のろのろと歩いている。足を止めた三井は集団から遅れ、引きつった顔でを見ていた。

も三井も、どちらも口をパクパクさせている。何か言わなきゃいけないような気がして、しかし何を言えばいいのかもわからず、何を言いたいのかもわからず、ただ唇だけが震えていた。だが、集団から外れた三井に、仲間のひとりが声をかけた。

「おい、どうしたよ。知り合いか?」

その途端、三井は金縛りが解けたかのように姿勢を崩し、ハァッと大きく呼吸をすると、半分だけ振り返って首を振った。夏空の下に長い黒髪がサラサラと揺れる。

「いや……人違いだった」

そう言ってを一瞥すると、くるりと振り返って歩き出した。目が眩むほどの太陽の光が砂浜に反射して、辺りを真っ白な光で覆い尽くす。三井はその真っ白な光の中に消えていった。後には真っ白な光に焼かれて引いたはずの汗が大量に噴き出しているだけが残された。

この汗は熱いからじゃない。汗が冷たい。さっき補給した水分がどんどん失われていく気がする。

砂浜と道路を隔てる低い防波堤に沿って自転車を停めていたは、ぐらりと傾いて手をつく。焼けたコンクリートが熱い。しかしそれもあまり感覚がなかった。白い光で目が眩み、噴き出す汗にはよろよろと膝を折った。波音が聞こえなくなるほどの耳鳴り、立っていられない。

一体どういうことなの。今のは、本当に三井寿だった?

しかし、髪型が変わっていても、散々キスを交わした相手である。間違いようがなかった。背が伸びて、それとともに少しだけ面長になって、以前よりあっさりした顔になっていたが、三井寿で間違いない。そして何しろ、声が同じだった。ほとんど変わっていなかった。あの夏の夜、「が欲しい」と囁いたあの声だった。

はやがて目も開けていられなくなり、その場にばったりと倒れた。

「どう? 体の方は大丈夫〜」
「すみません、大丈夫です。明日はちゃんと行かれます」
「いや、いいよそんなに焦らなくたって。ちゃんと治す方が大事だよ」

海でショックのあまり倒れたは慌てて車ですっ飛んできた監督の車で保健室に搬送され、母親に連絡がついたところで病院送りになり、熱中症ではないことが確認されたので、成長期の女性特有の不安定な心身に無理が祟ったのかもしれないと言われて帰された。異常がないので治療も薬もなかった。

海南のバスケット部は確かに厳しいけれど、いわゆるスポ根体質ではない。ただ練習がハードなだけで、体調不良を起こしたを監督はじめ全員が案じていた。普段元気なだけに、まさか深刻な病気じゃないだろうな、と不安がっていた。健康に問題はなかったが、監督はちゃんと休めと先輩マネージャーに言付けていた。

不本意ながらも学校を休んだは、昼頃になって先輩マネージャーからかかってきた電話にしょんぼりしながら応対していた。こんなことで休む羽目になってしまうとは。

「生理前だったとか? そういう時は私代わるからね、遠慮しないで言って」
「いえ、そうじゃないです。むしろ終わったところだったし」
「疲れちゃったのかなあ。すごい苦しそうな顔してたってみんな言ってたから」

倒れたに気付いた部員たちは慌てて先輩マネージャーに電話をし、を担いで日陰に運び込んだ。彼らはが苦悶の表情を浮かべていたので、かなり肝を冷やしたそうだ。それに、ジリジリと焼けつくような日差しの下だったのに、の体はあまりに冷たくて、怖い思いをしたらしい。

「あー、先輩みんなにごめんなさいって伝えてください〜」
「いやいや、謝るようなことじゃないでしょ。無事で安心してるよ、みんな」
「だけど、別に体調不良じゃないのにこんな心配かけて――

申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまったは、ついそう漏らした。

「だけど具合悪かったんでしょ、違うの?」
「え、あ、あの、ええと、その――

はバチンと額に手を叩きつけて項垂れた。言っちゃった。先輩の声が途端に曇り、低くなる。

……ねぇ、今日お見舞いに行ってもいい?」
「いやそんな、大丈夫です、見舞いなんて」
「察しが悪いなあ。女子トークしよ、って言ってるの」

先輩の声は優しかった。は勢い目頭が熱くなって、ギュッと瞼を閉じる。

「別に私たちってお友達〜ってわけじゃないけどさ、こんな機会ないから、少し話、しない?」
……はい、わかりました。ありがとうございます」

学校へ戻る車の中で気が付いても、病院で処置をしてもらっても、自宅に帰ってきても、疲労は感じなかった。体が不調だとも感じなかった。しかし、素直に先輩に返事をした途端、は全身がズッシリと重くなって、強烈なだるさに襲われた。マラソンをゴールした時のようだった。

私、疲れてたのかな――

それから数時間後、授業を終えた先輩が差し入れを片手にやってくるまでの数時間、は昏々と眠った。

眠っている間、は夢を見ていた。いつものように海南の体育館に行くと、今年の1年生に混じって三井が自信満々の笑顔で並んでいた。はどうしてこんなところにいるんだ、遅れるから早く駅に行きなさいと彼を追い立てた。けれど三井は笑顔でそれを無視して、体育館中を走り回っていた。

物音に気付いて目覚めると、先輩が来てるよ、と母親がドア越しに声をかけてきていた。

「顔、浮腫んでる」
「すいません寝てました」
「いやいいんだって。やっぱり疲れてたんじゃないの」
「そうかもしれません……

先輩は手に大きなビニール袋をぶら下げていて、それをガサゴソやっている。部屋の真ん中にある座卓を勧められると、彼女はぺたりと座ってビニール袋の中身をひょいひょいと取り出す。

「これ監督からダッツねー! ついでに私も買っていいって言うから色々買ってきた! こっちは3年生からスタバカードチャージ済み、これが2年生からが食べたいって言ってたフロレスタのドーナツ、で、これは1年生から、ルピシアのフレーバード麦茶。麦茶なら具合悪くてもいいよね、ノンカフェだし!」

雑なビニール袋から続々と嬉しいプレゼントが出てくるので、は乾いた悲鳴を上げた。どうしようこんな風に労ってもらうほどじゃないのに。ただショックでブッ倒れただけだというのに。

「えー、だけどこれってだいたいひとり200円くらいの予算だから気にすることないよ〜」
「だけど私、その……

口ごもるに構わず、先輩はアイスクリームを選ばせると、残りを持って部屋を出ていき、の母親に預けて帰ってきた。はテーブルの上の見舞い品をぼんやりと見下ろしている。フロレスタのどうぶつドーナツが可愛いので余計に申し訳ない気がしてくる。

「そのドーナツ可愛いよねー。選んだの牧だけど」
「ええええ」

あまりにも似合わないのでは情けない声を上げた。うさぎにくろねこパンダ、そしてトドメがひよこちゃんとこっこさんというニワトリである。まあ、牧の方もヘラヘラ笑いながら選んでいたそうだから、きっとこういう反応を期待してのことだったんだろう。

疲れを感じてぐっすり眠ったけれど、そもそもは心因性だし、食欲は問題ない。は先輩とともにアイスとドーナツを食べながら、ぼそぼそと話していた。

「てかなんかガラの悪そうなのが近くにいたって宮が言ってたんだけど、それは関係ない? もし――
「あの、先輩」
「この間みたいなナンパだったら――おお、どうした」

自分でも経験があるだけに先輩は顔をしかめていたが、の声に体を起こして背筋を伸ばした。

「あの、誰にも言わないでくれますか」
……危険が伴うようなことでないなら」
「それは大丈夫です。私の……中学の時の話です」
「中学? 確かあんたって武石が優勝した時の3年」

ひよこちゃんドーナツをかじっていた先輩に向かってゆっくり頷き、は心を決める。

「私、その時の主将と、付き合ってました。今日、そいつがいたんです。ヤンキーに、なってました――

静まり返る部屋の中、先輩の口からひよこちゃんドーナツがぼたりと床に転がり落ちていった。