水際のウルヴァシー

09

中間テストが終わった直後、5月も半ばのことだった。

「3年になったら見に行けるかと思ってたのにさ〜」
「先輩は行ってなかっただろ」
「そうだけど〜」

神奈川県予選が始まり、スタメンや3年生は手分けして方々の試合を観戦しに行っていた。は自分も見に行かれるものだと思っていたのだが、マネージャーが試合見てどうするんだと監督に真顔で返されて、すごすごと引き下がってきた。マネージャー3年目だが、結局ほとんど他校の試合を見られないままである。

公欠で試合を観戦してきた牧が戻るなり、は不貞腐れた。

「で、どうだったの。どうせ決勝リーグはシードのままだろうけど……
「まあまだ1回戦目だからな。どこも様子見というか、余力残してるところも多いし」

海南のようなシード校の初戦は、予選開始から5戦目にあたる。1回戦目から4度対戦して勝ち上がってきた高校とシード校がブロック勝ち抜けをかけて戦う。そうしてブロック戦を制した4校で神奈川頂上決戦、となるわけだ。それを決勝リーグという。

海南、翔陽、陵南、武里。今年のシード校はもう何度も決勝リーグにまで駒を進めている高校ばかり。だけでなく、海南の中でもこれは覆らないんじゃないかという意見が圧倒的だった。中でも実力的に海南に肉薄しているのは今のところ翔陽と陵南だろうか。それも負ける気はしないけれど、油断は禁物だ。

「この間さ、備品の買い出しに行った時、三浦台のやつに絡まれてさ〜」
……そういうことはちゃんと言えって言っただろうが!」
「これは平気だよ、監督いたもん」

まだランニングの伴走は始まっていないが、牧が怖い顔になったのでは慌てて付け足す。昨年ブロック最終戦で当たった三浦台の何だとか言う選手がに詰め寄り、牧に首を洗って待っとけと伝えろと言ってきた。が、はそれが誰なのかわからない。あんた誰よ、と言おうとしたら監督が来たので逃げてしまった。

「年間何試合してると思ってんだか。名前までいちいち覚えてられないよ」
「三浦台……だったら村雨じゃないか? ゴツイ顔したツーブロックの」
「それだ。よく覚えてるね……

特に海南の場合、選手たちのサポートという意味ならマネージャーはがっちりと食い込んでくるが、ことプレイに関してはノータッチが暗黙のルールになっている。余程の知識と経験があるならともかく、中途半端な口出しが通じるレベルではないからだ。そういうわけで、はあまり対戦校の選手を覚えていない。

「離れて客席から見てると顔は覚えづらいしな。ポジションと名前覚えた方が早いんだよ」
「そーいうものかー。今年の1年はいいのいた?」
「だからまだ何とも言えないって」

に話してやるほどではないけれど、チームの中でならあれこれ細かく話す。特に地元出身であれば、後輩だったということもあったりして、話が通じやすい。の方はそれがあまり面白くないけれど、マネージャーの本分をわきまえているので、深入りはしない。

だが、それから数日後、は観戦から戻ってきた1年と2年の声を耳にして椅子から転げ落ちた。

「大丈夫ですか先輩」
「へ、平気、ありがと」

つい先日話題になっていた三浦台の試合を見てきたという2年生の神と1年生の清田が、その試合についてああだこうだ言いながら部室に入ってきた。はちょうどその時牧からもうすぐ戻ると連絡を受けたので、待機していた部員たちを体育館に移動させようかと考えて立ち上がろうとしたところだった。

手を貸してくれた神にすがって起き上がると、は動揺を悟られまいとして手をギュッと握りしめ、着替えのためにロッカーの方へ行こうとしている神と清田を引き止めた。

「え? はい、そうです。三浦台負けましたよ。湘北が勝ちました」
「湘北って確か……
「ふん、去年まで毎年1回戦負けのとこっすよ。海南の敵じゃないす」

神の方は湘北が勝つと踏んでいたらしく、予想通りの結果でしたという口調だった。対する清田の方は湘北が勝ったことがちょっぴり面白くないらしい。これまであまり対戦校事情に首を突っ込んでこなかったせいで話が見えない。はまたロッカーに行こうとするふたりを引き止めた。

「流川なんか大したことねーすて。確か湘北は翔陽のブロックでしたよね。そこで終わりです」
「なんか中学ん時に因縁があるらしいですよ」
「その1年生が、入ったことで急に強くなったの?」
「それがどうも様子が変なんですよね。もうひとり変な1年生がいたし、3年生もいきなりひとり増えてて」

の心臓が痛むほど跳ねた。3年生、自分と同い年だ。

「湘北って、主将の赤木と2年の宮城は割と知られてたんですけど、まあその、そこだけって感じで。だから1回戦負けだったんだと思うんですが、今年はその流川含めて3人も急に強力なのが入ってきたので、様変わりしましたね。流川はよく知られてるんですけど、他のふたりがまったく知られてなくて。もしそのふたりが地元出身なら、うちは特に越境多いですから、余計に情報少ないんだと思うんですけど」

そう丁寧に説明してくれた神も海南に近い地元中学出身なのだが、知らない顔だったという。

いつまでも引き止められないのでそこで解放したけれど、はドクドクと自分の鼓動が耳に響いていて、寒気を感じた。湘北の3年生、昨年1回戦負けを覆すほどの戦力、1年生ふたりがものすごく上手いだけで、3年生の方は言うほどでもないのかもしれない。だけど、だけど、だけど。

現在2年生の神は海南近くの地元中学出身、海南スタメンでは珍しい実家通いで、もし彼の出身中学が強い学校だったなら、3年前の県大会を見ていた可能性がある。それでも知らない顔だということは、神が決勝の試合を見ていないか、「彼」ではないか――

ドキドキが治まらなくて気が気でなかったは、牧が戻るとまた動揺し始めた。彼も試合を見てきているはずだ。湘北対三浦台、一体どんな試合だったんだろう、1回戦を突破した湘北は一体――

「お疲れ。武藤がまだ戻らないから、監督が先に走っ――
、お前確か武石中だったよな」

詳しい話を聞き出したい気持ちをぐっと堪え、業務連絡を済ませようとしたは、牧の言葉にぴたりと止まり、普通の顔を、にこやかな普段通りの顔を作れなくてかくりと首を傾げた。あんた中学の時バスケ部入ってなかったくせに何でそんな話持ってくるんだよ……

「武石の話なんて、どこで聞いたの」
「陵南の魚住から。ロビーで話してるの聞こえたもんで、教えてもらってきたんだ」
「あのさ、私の個人的なことだからどうでもいいこと、なんだけど、一応話したい」
「わかった。練習終わってからでいいか」

牧だけでなく、共に頑張ってきた3年生にはもう全てブチ撒けてしまいたかった。けれど、その判断も含めて先に牧に話すべきだろうと思った。は頷き、この後戻る予定の武藤を待つため、またミーティング用のテーブルの席についた。牧が出て行った部室は妙に静まり返って、そしていつもより薄暗く感じた。

「はあ、元カレ。ああ、前に先輩が話してたあれか」
「子供っぽい付き合いだったけどね。中学だからマネージャーもできなかったし」

部室に長居はできないので、は牧と駅までの道のりを歩きながら中学時代のことを話した。

……本当に、去年の夏までは髪が長くて、不貞腐れたヤンキーだったんだよ」
「近くで顔を見たわけじゃないから何とも言えないけど、髪は短かったし、普通に見えたけどな」

牧はの話があまり信じられないようだ。の方もまた、牧から聞く三井の様子が現実のものとは思えなくて、まだドキドキが取れない。居心地の悪い緊張と軽い吐き気がずっと続いている。

「だけど、それが本当ならちょっと異常だ。少なくともオレらが1年の時の予選には出てなかったことになるだろ。てことは丸2年のブランク。グレてたって言っても、外でバスケ出来ないわけじゃないからな、遊びでやってたんじゃないか? 終盤だいぶヘバッてたみたいだけど……

正確で安定したシューターだったと牧は語る。

「あの頃、みんな『機械みたいだ』って言ってた。いくらでも入る、どこからでも入るって言われてた」
「それまでの湘北なんて本当に弱小だっただろ。重宝されそうなもんだけどな」
「神は、主将の赤木と2年の宮城だけしか知られてないって言ってた」
「まあそうだな。特に赤木は去年陵南とやって知られたようなものだけど……

高校に入ってからの三井寿は、本当に影も形もなかった。もちろん名前も聞かない。1年以上経って再会して初めて不貞腐れたヤンキーになっていることを知ってしまっただけで、その間彼に何があったかを知るすべはない。牧もやけに上手い見慣れないシューターが気になったから、その話をしていた魚住に声をかけたわけだ。

「そしたら3年前の県大会でMVP取ったやつだって言うだろ。それがなんで今頃、とは思ったけど」
「湘北の監督を気に入っちゃって、海南も翔陽も陵南も蹴って受験したんだよね」
「ああ、安西監督か。あの人元全日本だし、元々は大学の監督だからな」
……はい?」
「何だよ知らなかったのか。なぜか湘北にいるけど、けっこうすごい人らしいぞ」

選手の事情ですら怪しいのに、監督がどんな人かなんて知るわけがない。はくらりと目眩がした。

「さっきウチの監督とも話したんだけど、まさに鬼監督、って感じの人だったらしい。監督は湘北あんまり気にしてないみたいだったけど……そんなすごい人の元にいてなんでそんなことになったんだろうな。大学でまで教えてたんならああいう選手の使い方はわかってただろうに」

言われてみればそうだ。あれだけ夢中になっていたバスケットを放棄してグレるからには、それだけの理由があるはずだ。それがどんな理由だったのだとしても、立派な監督のもとにいてなぜ、という疑問は残る。

「監督、何だって?」
「特に何も。翔陽のブロックだからな、そこを突破するとは思ってないんじゃないか」
「まあ、普通はそう思うよね」
は思わないのか?」
「えっ、ええとその、思わないというか、うーんと」
「別に怒らないぞ」

だが、も湘北が勝つと思ってるわけじゃない。牧が淡々と言うので、首を傾げつつ色々言葉を探した挙句、は難しい顔をしてぼそぼそと話し出す。

……中3の時も、実は負けてたの。残り12秒しかなくて、1点差。それをひっくり返した人で、そういう時ほど集中してプレイできる人で、無理とかもうダメだとか、思わない人で。そういうところは牧に似てるかも」

最後まで彼は自分をスーパースターと自称していたし、その通り彼は勝った。

「だから湘北が強いとかじゃなくて、波乱があるんじゃないかって気がする」
「なるほどな。その上妙なヤンキー期間があるし、妙な1年生はいるし」
……きっともうあの頃とは別人のようだとは思うけど」
「そう願うよ。今でもお前の言う通りの人物だったら、厄介だからな」

ふふん、と鼻で笑った牧はしかし、すぐに真顔に戻ると声を落として続けた。

、試合の時はお前は見てるだけしか出来ないんだし、倒れたりしない限りはいくらでも悩んでていいからな。それを部の中に持ち込むような女じゃないのはよく知ってるし、オレたちだって相手が誰だろうと関係ない、一切の容赦はしないからな」

は顔を上げて隣を歩く牧を見上げた。海南の頼れる大黒柱、神奈川最強と言われて久しい我らがリーダーである。はしっかりと頷く。

「ありがとう。容赦しないどころか、叩き潰して」
……お前あいつと付き合ってた頃ってそんな性格じゃなかったんじゃないのか?」
「よくわかるね、嫌な男だ」

牧はまた鼻で笑い、もへらへらと笑って応えた。

それから約2週間、シード校である4校はブロック勝ち抜けをかけた5戦目に挑むことになった。海南にとってはこれが今年のIH県予選最初の試合となる。は牧の言うように緊張してしまう自分を抑えずに、あまり調子が良くない体を抱えて会場に向かった。

「ありー、先輩具合悪いっすか」
「まーね。自称スーパールーキーがヘマしたらどうしようと思うとね」
「うわ、ひど」

勘の鋭い清田に気付かれたけれど、牧の言うように試合当日のなど観客席部員と変わらない。試合が始まってしまえばもう何の役にも立たないのだ。この重苦しい緊張と吐き気は大事に抱えておくことにする。

三井のプレイしている姿を目の当たりにすれば、あるいは逆に気が楽になってこのモヤモヤした思いが吹き飛んでくれないだろうか、という期待もある。昨年まで1回戦負け続きだった湘北がブロック最終戦まで漕ぎつけたのだから、追っ付け各選手の情報なども入ってくるだろう。それがわかればもっとすっきりするはずだ。

そして、彼にどんな事情があろうとも、海南が強いということを証明できればいい。

ないしは、ここで翔陽に敗れて決勝リーグに進めないというのでもいい。ワンマンチームなんかもちろん、急に強くなったチームでもだめだったと思い知ればいいんじゃないだろうか。県ベスト8程度では強いチームを有する有名大学の推薦など簡単に取れないのだからして、いよいよ道を塞がれる憂き目に遭えばいい。

思った以上に体調の悪さが精神にも影響を及ぼしているは、試合展開が変わるまで控室にいるという部員たちと別れてスタンドに出る。揃いのジャージでやってきている部員たちと違って、は制服だ。スタンドへの階段をゆっくり登っていく。翔陽の部員の応援コールがうるさい。

スタンドに出て座ろうかどうしようか迷っていたの目の前を、湘北の制服を着た女の子が3人通り過ぎて行く。まだ制服は硬さがあって、それを着ている女の子の頬はまだあどけなさが残り、きっと湘北の1年生なのだろうということがわかる。緊張と一緒に期待に満ちた目をして、通り過ぎて行く。

好きな子の応援にでも来たのかな――

彼女たちを微笑ましく思う反面、3年前の自分を思い出したは胃が痛んできた。中学3年生の県大会、あの時は自分もこんな女の子だった。観客席で両手を組んで、大好きな三井を食い入るように見つめていた。

あれから3年、県下最強の海南の部員たちを尻に敷くの目に、三井はどんな風に映るのだろう。

スタンドが沸き返り、コートを見下ろすと翔陽の選手たちが入ってくるところだった。何度も対戦して何度も下してきた相手だ。が高校生になってからは「牧藤真時代」と呼ばれ、牧と翔陽の主将である藤真のふたりは神奈川の高校バスケットのシンボルでもあった。

やがての視界に白いユニフォームの湘北の選手の姿が入ってきた。主将の赤木、噂の流川、妙な1年だとかいう赤い髪、そして遠目でもはっきりとわかる三井の後ろ姿を認めた瞬間に、は少し痺れを感じる頭で、心で思った。

あんただってそのシンボルになれるだけの可能性を持っていた――

牧に聞いていた通り、三井は長い髪をバッサリと切り落としていて、あのだらしなく不貞腐れたヤンキーの面影はない。中学の頃に比べると背が伸びて、少し引き締まっただろうか。その分あの頃より細く感じる。顔も小さく感じる。それは髪が短いからだろうか。手足が長いからだろうか。

体と心に負担が来ないよう、はできるだけ頭を空っぽにしてぼんやりとコートを眺める。主将であり選手兼監督である藤真はやはりベンチから出ない。高頭監督がそうだったように、昨年まで1回戦負けだった湘北など、フルパワーで潰しにかかる必要はないと判断したか。

はそれを見ながら思う。甘い――

案の定翔陽は、実績で言えば相当格下の湘北を抑えきれずに、じわりじわりと翻弄され始める。高さで完全に上を行く翔陽だが、それがもはや意味をなさなくなってきた。そして、席にも着かずにコートを見下ろしていたの目の前で、とうとう三井がシュートを放った。

あの頃のように機械じみた正確な動きで放たれ、きれいにネットの中に吸い込まれていくボール。スタンドが沸き、翔陽の部員たちの中から「三井寿だ」という声が上がる。

それを耳にしながら、は泣いていた。気付いた時にはボタボタと涙を零していた。

どうして海南に入ってくれなかったの、どうして湘北なんか入ったの、何で今頃そんなシュートを打つの――

観客席は絶対的強豪の翔陽を押している湘北に大盛り上がり、勢い藤真が立ち上がったので、交代かとまた騒ぐ。コートの中の戦いに一喜一憂するスタンドで、はやっと涙を拭った。そのために下を向いたら、足元は既に自分の涙が溜まっているほどだった。

この涙は一体何なんだろう。悔しさだろうか、悲しさだろうか、愛しさだろうか。だが、それらは少しずつ全部なのではないかという気がした。同じ高校に行かれなかった悔しさ、約束を反故にされた悲しさ、そして「スーパースター」だった頃の三井への愛しさ。

気持ちの置きどころがわからなくなったは、それを涙で押し流すしかなかった。観客はみんなコートに夢中だ。こんなスタンドの片隅でひとり泣いていたところで――

「先輩!? どうしたんすか!!!」

野生児のアンテナは誤算だった。は駆け寄る清田を制してスタンドを降りる。ひとり気になって観戦していたらしい清田が後をついてきた。それは仕方ないけれど、あまり騒いで欲しくない。

「大丈夫すか先輩、やっぱ具合悪いんじゃ」
「ごめん、本当に大丈夫。信長、色々面倒くさい事情があってさ、誰にも言わないでくれないかな」

スタンドから降りる階段の途中で、背中を擦ってくれる清田を見上げたは、手を合わせる。

「それは構いませんけど……本当に平気ですか」
「試合の時はグズグズしてていいって、牧に許可もらってるんだ」

一応事実なのでそう言っては笑った。いつか正面から向き合わなければならなかった現実、それが2年も遅れてやってきただけの話だった。覚悟はしていたつもりだったけれど、あの砂浜の、あの身勝手で一方的なキスも今頃になっての胸を締め上げてくる。

スタンドの歓声がひときわ大きくなる。何かいいプレイでも出たんだろうか。つい後ろを振り返る清田の腕に手をかけたは、そのまま力を入れて押し出す。

「私は大丈夫だから、試合、見ておいで。どっちかと対戦することになるんだからね」
「そうですけど……先輩、無理しないでくださいね」
「ありがとう。ちょっと休んでくるよ」

清田を送り出したは、壁にもたれて大きくため息をついた。自分は間違ってなかった、間違っていたのは三井の方だ、勝つのは海南、海南は最強、そのはずだから、それが正しいはずなのだから――

鳴り止まぬスタンドの歓声、どよめき、叫び声、ホイッスル、過去の影に押し潰されそうになっているの耳にはそんな音だけが聞こえてくる。ボールの音、バッシュの軋む音、誰かの怒鳴り声、歓喜の声、応援の声。

「バカ、バカ寿――

の涙とともに、湘北は翔陽を下し、勝利した。