水際のウルヴァシー

05

先輩に全て話してしまったはそれだけでも気が楽になり、また先輩の方が「それは向こうが悪い」と憤慨してくれたので、かなりショックは和らいだ。2日もすると浜で見たものは夢か幻覚だったんじゃないかと思うほど遠い記憶になっていった。

それに、ただ復讐のために選んだ海南で、復讐を成すための道具でしかなかった部員たちがあんまり親身になって心配してくれたものだから、は大いに反省し、彼らのために、彼らが頂点を目指すためにまたしっかり頑張ろうと決意を新たにしていた。

三井のことは確かにショックだった。それが怒りなのか悲しみなのか、それ以外のどんな感情なのかもわからなかったけれど、例えばあれが本当に三井だったとしたら、本当にあの自信に満ち溢れたMVPプレイヤーはこの世から消えてなくなってしまったことになる。あの日の彼は、死んでしまったのだ。

絶対に結婚しようねなどと幼稚園児みたいな約束をし、キスしたことを自慢気に話し、君が欲しいあなたにあげるなどと言い交わしていた相手は、もう存在しない。死んでしまって、燃えて灰になってしまったのと同じ。

三井の記憶に囚われているとは思わなかったけれど、変わり果てた姿を見てしまったことで記憶が鮮明に蘇ってきたことは確かだ。それに負けて束の間意識まで朦朧として、今自分が真正面から対峙すべき仲間に心配をかけた。二度とそんなことがあってはならない。

マネージャーは後方支援が本分。自分が主役じゃない。主役のために頑張らねば。

すっかり元気を取り戻し、部活に復帰したを部員たちは笑顔で迎えてくれた。先輩も同学年も後輩も、みな等しくを案じてくれていた。涙が滲みそうになるのを堪えながら、は三井の記憶を頭の中の暗くて狭い場所に閉じ込めた。二度と出てこないように、二度と惑わされないように。

また、いつも元気いっぱいだったが急に不調を起こしたことで海南バスケット部はなぜか結束が強まり、仲良しこよしをするわけじゃないが、共に日本一を目指す仲間としての彼らはとてもいい関係になりつつあった。

直後に迎えた県予選ブロック戦、そして決勝リーグ、もちろん海南は強かったし負けなかったし、今年も神奈川の絶対王者としての面目は保たれた。MVPはもちろん主将、牧も昨年に引き続きベスト5に入り、結果的に海南が全て持って行ってしまう――というここ数年の神奈川の傾向そのままの予選であった。

IHに出場するのはもはや当たり前なので、それに喜びはするけれど、感激に打ち震えるような感慨はない。予選が終わると、部員たちは手分けして予選が終わっていない都道府県の試合を観戦しに行ったり、録画を取り寄せたりして、早くもIH対策を取り始める。特に新人の動向は押さえておきたいところだ。

そんな7月に入ってすぐのことである。

地方まで遠征して試合観戦などというのは、主にスタメンや3年生の役目なので、1・2年生やのようなマネージャーはお留守番、主力選手不在のためやや縮小された練習をしたり、部室で予測される対戦相手の試合を見たりしていた。

この日は3年生がほとんど出払っていたので、マネージャーふたりと1・2年生は部室でビデオを見ていた。監督の知人だとか言う人から送ってもらった今年の某県予選のビデオである。

それを見終えて闘志が湧いたかどうか、まだまだ外が明るいので、走りに行ったらどうだろうという話になった。監督も不在なので、一応決定権は先輩マネージャーにある。管理する立場だし、今日は唯一の3年生だ。

「じゃあ全員で行こうか。監督がいないから勝手が出来ないし、それで終わるけどいい?」

いくらお留守番と言っても、1・2年生の中には来年再来年のスタメンが紛れているかもしれないのだし、生徒だけで勝手な練習をして怪我や事故になってはマズい。先輩マネージャーは一番短いコースで海まで行って、浜ダッシュなしで休憩のち折り返して帰るだけなら、という条件でOKを出した。

と先輩マネージャーは自転車を引っ張り出してきて水やスポーツドリンクなどを用意する。充分に明るいが、走っている間に日が傾き始めるのでさっさと支度をして出発し、暗くなる前に帰ってこなければ。

「よし、じゃあ行くけど、もし想定時間内に浜に付かなかったら手前で折り返すからね〜!」
「いつもより速度落としていくからね、私が先頭行きま〜す」

伴走がふたりなので、先を行くのは、しんがりを先輩が務める。いつもは3年生とスタメンの速度に合わせてどんどん行くランニングだが、今日はそれらが丸ごといないのでゆるゆるランニングである。

しかし、高校トップクラスの試合を見たせいか、お留守番部員たちは元気に走って行く。いつもよりゆっくり走れると思っていたは、すぐに追い越されそうになって慌てて速度を上げた。それでも浜ダッシュはしないし、この調子なら暗くなるまでにちゃんと学校に帰りつける。

「気持ちがノるってのはすごいもんだね……
「スタメンのタイムよりちょっと遅いくらいですかね」
「あんまり長く休憩すると逆に疲れちゃうかなあ。まだテンション高いみたいだけど」

いつもの浜までやって来たお留守番部員たちは、全員大人しく防波堤に寄りかかったり座ったりして水分補給をし、息を整えている。まだ梅雨明けの報が聞こえてこない7月は湿度が高くて不快指数も高い。曇り空でも熱中症になりやすい時期だ。先輩マネージャーも水のボトルを開く。

……ってあれ、のないじゃん」
「え? わたしこっちのカゴに……あれー!?」
「向こうに自販あるから、早く買っておいで」

ちゃんと全員分用意したはずなのだが、ふたりの自転車のカゴはすっからかん。浜と道路を挟んだ対岸にある自販を指して先輩はぐいっと水を飲んだ。は車の通行を確認すると、急いで道路を横断する。いくら自転車でもきちんと補給しておかねば。本当に熱中症になってしまってからでは遅い。

飲食店と、倉庫なのか店舗なのかよくわからない建物の横に2つ並んだ自販機、その前には滑り込んで素早くラインナップを確認する。が、片方は炭酸飲料などジュースばかりでアウト。片方も下段はお茶、2段目がコーヒーばかりで焦る。どれも水分補給にならない。

だが、上段にやっと水を見つけると、ヒップバッグから小銭入れを取り出そうとして体を捻った。こんな風に部活中に外に出る時は、必ず1000円分の小銭が入ったケースを持参している。だが、小さな小銭入れがバッグの中でひっかかり、中々取れない。は体を捻ったまま慌てる。

そしてやっと小銭入れを取り出せたので、満足そうな笑顔では体を戻した。次の瞬間、その笑顔のままガチンと音がしそうなほど固まった。

……よう」

三井だった。今日は生成りのヘンリーネックに、首にはジャラジャラとアクセサリーが下がっている。

もう前回のような目眩がするほどのショックは襲ってこなかったけれど、は固まったまま動けない。自販機の向こうから出てきた三井は、ちらりと浜の方を見ると、長い髪に表情を隠したまま鼻で笑った。潮風に髪がそよぐけれど、鼻の頭しか見えない。

……海南か。近いからな」

そしてゆっくりとの方へ向き直ると、眉間にしわを寄せて見下ろした。

お前……ずいぶん痩せたな。着いていけてるのか」

はまた返事ができずに口をパクパクさせた。倒れた後に、もしまたあの浜で会ってしまったらどうしよう、とは考えた。まあそんなことはないよねと思いつつも、万が一遭遇してしまったら何を言えばいいのか。それを何度か考えて、自分なりに納得の行く言葉を用意出来ていたのだが、全て飛んでしまった。

潮風に髪を翻している三井が一歩、の方へ近付いたその時だった。

、何してるの。お金なかったの?」

前回の三井のように、は先輩マネージャーの声で金縛りが解け、がくりと体を震わせると慌てて先輩にすがりつき、三井とは距離を取った。先輩はこちらに背を向けていたので三井が現れたことに気付かず、の戻りが遅いので振り返ってみたら、話に聞いたロン毛のヤンキーである。彼女は怖い顔をしてすっ飛んできた。

は水だよね、あれ、これ100円だ。貸して、やったげる」

の手から硬貨を取り上げると、先輩は水を買い、三井の方は見もしないでの背を押した。そして何も言わずに対岸まで渡り切るとペットボトルを開けてに持たせ、腕を持ち上げて強制的に飲ませた。さらに「休憩終わり」と声を上げ、帰りは後ろから付いてきて、と言い残して自転車に跨った。

お留守番部員たちはまた一列になって浜から離れていく。先を行く先輩マネージャーの後を追いかけ、元気に走って行く。全員がスタートしたところでも漕ぎ出し、どうしても抗えない誘惑に負けたは、ちらりと自販機の方を見てみた。

遠くから見ると妙にアメリカンな外装の店がふたつ、その角にある自販機、三井はそれに寄りかかってを見ていた。ポケットに手を突っ込み、潮風に髪をそよがせたまま、自転車を漕ぎだしたを目で追っていた。

あまり長い間は見ていられなかった。はすぐに顔を戻し、前を行く部員たちの背中に深呼吸をする。

どうして何も言えなかったんだろう、もう何の関係もないからと言えばいいだけだったのに、どうしてそれが言えなかったんだろう。話しかけないで、あなたとはもう無関係の他人です、そう言うつもりだったのに。

三井の声が耳にこびりついて離れない。けれどそれは、心のどこかにまだ好きという気持ちが残っているとか、そういうことではなさそうだった。あの頃と変わらない声が「」と呼び、あの頃より高いところから降ってきた。それがどうしてか、の胸を深く抉った。

3年生とスタメンが不在なので、先輩マネージャーはいつもより早く練習を終わらせ、ヨロヨロと帰り支度をしていたの襟首を掴んで引き止めると、部員たちのいない部室のベンチにどっかりと腰を下ろした。

「あれが元カレ?」
……はい」
「ランニングコース、変えようか」

先輩マネージャーはとても厳しい顔をしてそう言ってくれたけれど、はすぐに首を振った。気遣ってくれる先輩の気持ちはありがたいが、このランニングコースはバスケット部だけでなく、海南の運動部ならどこでも使うコースなのだ。遠回りコースと時短コースのふたつがあり、それはもう何十年と前から使われている。

そのコースをのプライベートな事情で変更する道理はない。

「だけど、例えばほら、ナンパがしつこいとかいうことなら……
「そういう目に遭ってないことは、みんな見て知ってるじゃないですか」
「まあそうなんだけど」
「それに、私だけ特定の人物にナンパされて困るなら、私が退部すればいいという話になります」

は部員たちとも仲良くやれているし頑張っているけれど、優先されるべきなのは選手たちであって、それをサポートしているの方ではない。ランニングコースを利用する女子生徒が無差別に被害に遭うならまだしも、今回ののケースはあまりに個人的な問題だ。

「みんなには、事情を話したくないです」
「まあ、そりゃそうだよね。もしかしたら知ってるのもいるかもしれないし」

三井の経歴などいちいち話さなくても構わないのかもしれない。けれど、事情としては元カレがヤンキー堕ちして会いたくないです、というところだ。そんな理由を述べねばならないのはとんでもなく恥ずかしい。呆れられて笑われる気がしてならない。それをきっかけにして部内の空気が悪くなってしまっても嫌だ。

「だけど、また会っちゃったらどうするの」
……もうビビったりしません。ちゃんとやります」
「ちゃんとやるったって、何かされてからじゃ遅いんだよ」
「そういうのは、ないと思います。今日も出会い頭というか、それで少し話しかけられただけで」

先輩の言葉に三井の声がまた蘇り、しかしはおやと首を傾げた。

あいつ……何であんなこと言い出したんだ? 私が海南行ったことは知ってたはずでしょ。それに、中学の頃に比べて痩せたからって、何で着いていかれてないって発想になるんだ。元気にマネージャーやってるじゃないか。置いて行かれてへたりこんでるわけじゃなし、一体何なの……

まあそれはいい。今考えたところで何も答えは出ない。

「もしまた話しかけられても、今度はちゃんと言い返せます。もう関係ないから話しかけないでって言います」

その決意は確かにあるのだ。そう言おうと思っている。しかし、先輩は心配そうな顔をして腕を組む。

「本当に出来る?」
「怖いという気持ちは今日もなかったんです。ただこんなに続けて遭遇するとは思わなくて」
「あー、そうじゃなくてさ」

言いづらそうに前髪をかき上げた先輩は、小さく咳払いをしてをひたと見つめた。

「進路のことで喧嘩して別れたんでしょ。彼のことが嫌になって別れたわけじゃない。今でもどこかで――
「それはありません」
「そうやって苦しそうな顔して断言できるところが心配」

その言葉を読んでいたかのような返しに、は身を縮めた。そんなはずはないんだ。例え今あの三井寿が真剣な眼差しで謝罪をしてもう一度やり直そうと言われたとしたら、心底ゾッとすると思う。今でも好きだと言われたら、腹が立つと思う。そんなところに未練なんか欠片も存在し得ないじゃないか。

付き合っていた頃はどれだけくっついていても気にならなかったし、付き合いが1年以上経過していた別れの寸前でもは三井にドキドキしていた。彼の笑顔を間近に見るたびに心がときめいていた。

今そんなの、ないんだけど。

「あのね、冷たい言い方に聞こえたらごめん。好きでも嫌いでも、私はどっちでも構わないと思うのね。だけどね、がこうしてあの子に会うたびにどこか傷付いて、どんどん気持ちが黒くなっていったりして、好きでも好きじゃなくても中学の頃の記憶に振り回されるのはつらいだろうと思ったから」

確かにもうかなり振り回されている。は小さく頷くと、ため息をついた。

「だけどいつかそれと決別しなきゃいけないんだろうと……思うんです。それは向こうがどうとかではなくて、私が自分で中学の頃の記憶から抜け出さなきゃいけないと思うんです。わざわざ会いたいとは思いません。だけど、逃げてしまったら、いつまでも囚われたままなんじゃないかという気もします」

中学の頃の記憶と、今のあの長い髪の三井寿、その間に挟まれて身動きがとれなくなっている。その自覚はある。けれど、ずっとそこで呻いているつもりはないのだ。一刻も早く抜け出したい。そのためにも、自分の生活を三井の存在によって変えたり、捻じ曲げることはしたくない。

私の日々は私のもので、いくら過去の記憶とともに三井寿が現れたとしても、私の日常はそんなものに惑わされたりしない。彼はもう無関係、他人、何の感情も思いもない相手だから、私はそれに振り回されてはならない。例えあいつがランニングコースにいても、私は道を譲ったりはしない。

「私、海南に、バスケ部に入ってよかったと思ってるんです。部活楽しいんです」
「それは疑ってないよ。みんなを仲間だと思ってる。仲間としてすごく大事に思ってる」
……トラブルのないように、気を付けます。慎重に行動します。だから――

先輩は顔を上げたの頭をくりくりと撫でて、ふにゃりと笑った。

「わかったわかった。そこまで言うなら、やってみなよ」
「すみません……
「私、外部目指してるから、夏には引退だからね。2学期から、ひとりなんだからね」

頭を撫でられながら、は何度も頷いた。もうこうして頼りになる先輩に助けてもらえない日々がやって来る。全国でもトップクラスの海南バスケット部をひとりで支えていかなければならない。それは意地や根性だけで務まるものではない。私情は二の次であるべきものだ。

だからもう、邪魔しないで。あの頃のあなたのまま、もうその記憶だけで、蘇ってこないで――