水際のウルヴァシー

16

国体が終わり、それと同時には一旦全てのマネージャー業務から離れることになった。推薦入試があるからだ。選考日が11月の初旬だというので、そこで推薦が通れば冬の選抜までサポートをする、ということになっている。監督や担任は楽観視しているようだが、は毎日無駄に緊張していた。

その上あんな話をしておきながら三井とは連絡先を交換しなかったので、国体の合同練習がなくなってからは会う機会もないし、例えが決断を下しても伝えようがなかった。

だが、はまだ決断を下すには至らなかったし、今はそんなことよりも自分の進路の方が大事だし、つい三井をかっこいいと思ってしまったことについては、どうしてもついて回る悔しさと共に心の奥底にしまっておくことにした。後でゆっくりジタバタするから今はどっか行ってて!

離脱中には困ったことがあっても彼女を頼らないこと、とバスケット部員たちにも監督からお達しが出て、海南に入学して以来初めては部活から完全に切り離された生活になっていた。

しかし部活中心の生活が約2年半、逆にストレスが溜まるようになってきた。

そんなわけで11月、無事に推薦入学が決まったが部に戻ると、部員たちよりホッとした顔をしていた。

「ここにいるのが当たり前になっちゃったからねえ……
「それはいいんですけど……どっちみちあと1月ほどで引退ですよ」
「断ち切れなくて戻ってきちゃう先輩ってよくいるよな……

しかしそこは全国にその名を轟かす海南である。3年生にもなると部に残っているのは大学でも名門チームという進路の選手が多くて、引退後は暇ではない。何しろ中学でも高校でも引退から春休みまでが一番まとまった休みということになる。やらなければならないことは多い。頷く牧の隣で神が首を傾げる。

「やっぱりみなさん教習所ですか」
「今行っておかないともっと面倒になるからな。県外からの寮生だと地元で取らなきゃならないし」
「あ、そうか。住民票移してないから神奈川じゃ取れないって言ってた先輩いたね」

それに、寮は卒業後1週間以内が退寮期限となっている。卒業後にはまた進学先の寮や新たにアパートを借りるなどして引っ越しを繰り返さないければならない事情もあるので、殆どの寮生が自由登校が始まると同時に退寮していく。そして地元に帰り運転免許を取り、新生活の準備をし、その間も必要な時には戻ってこなければならないというのがよくある海南バスケット部3年生の3学期だ。

「あ、神くんてそういうのないんだ。近所だから」
「そうですね。先輩も地元だし、大学は実家からですか?」
「今のところね。気持ち的には出たいけど、距離が微妙だから」

首都圏とひとくちに言っても、1都7県意外と広い。都心部の校舎に通わなければならないとなると、移動距離が長く時間もかかる。それがロスになると思うと、近くに居を構えた方がいいんじゃないかと思うが、例えば新幹線例えば空路の距離ではないので何となく現実的ではない。

「そうか、もうそういうのが間近なんだね。確か去年はひとり受験の先輩が一番寂しがってて、キャプテンとか遠方組は感慨に浸ってる暇なんかなさそうだったよね。私もそうなっちゃうのかなあ」

一応無事に受験をクリアして志望校に進学していった先輩マネージャーだったが、早々に引退したせいもあって一番グズグズ言っていた。それを1月いっぱいくらいしかのんびり出来ない先輩たちは完全にスルーしていた。はそれを見てちょっと冷たいなと思っていたけれど、きっと今年の3年生も同じようにするんだろうなと思ったら、余計に寂しくなってきた。

……オレたちは学校が変わる度に敵と味方がゴッソリ入れ替わるからな」
「そうですね。お友達と思ってると何も出来ませんから」
「うん……そうだね。友達ってわけじゃないからね」

の思いを察した牧が口を挟み神がフォローするも不発、はふたりから視線を外して窓の外を見た。いつか三井に遭遇してが倒れた時、先輩マネージャーは「別に私たちってお友達〜ってわけじゃないけど」と言っていた。それを思い出したのだ。

そう、牧たちとはお友達ではない。一つの目標に向かって共に戦う仲間だったけれど、放課後に遊んだり恋愛なんかで揉めたりする仲良しお友達ではなかった。そういうのは、それぞれ部の外に持っている。だってバスケ部員以外に話せる人がいないわけじゃない。同じ武石から進学した女の子が何人かいるし、が忙しくてもたまには遊ぼと言ってくれる大事な友達だ。

けれど、お友達ではないけれど、何より大事な仲間だ。思いは強い。それをたかだか3ヶ月ほどで断ち切ってしまわなければならないことには疑問を感じるし、あっさり出来てしまう男の子たちが不思議でしょうがない。

同じようなことを先輩マネージャーも言っていた。だが、現在彼女は学生生活を思いっきり楽しんでいて、彼氏も出来たし、もう海南バスケット部員にもにもほとんど連絡を寄越さない。それを考えると、時間が全てを解決してしまうものなのかなと納得はできる。

高校バスケットという、ほんの一瞬で消えてしまう絆があるだけで、双方の間を繋ぐ糸は案外脆い。

が迫る引退に感傷的になっているのを察した牧が何か言ったのだろう。部員たちは急にそっけなくなった。そもそもが3年生の有終の美を飾る冬の選抜が目の前だ。そういう風に寂しくなってしまう女子マネージャーに覚えがある監督も、を気遣いつつ淡々と接していた。

そんな日々の中で、は冬の選抜県予選を迎えた。

夏は4ブロックで行われた予選だが、今回は2ブロック。夏の成績に応じたトーナメント戦であり、両ブロックを勝ち抜けた同士が決勝に挑む。つまり、この年のIHに出場した海南と湘北は同じブロックにならない。決勝リーグに出た高校で言えば、海南と同じAブロックになったのは陵南、湘北と同じBブロックになったのは武里である。

だが、ひいては海南は湘北との再戦を望んでいたわけではない。元々3年生が3人しかいなかった湘北だが、その内ふたりが引退してしまっているし、主将は2年の宮城だし、そう言う意味ではとても新しいチームだ。脅威に感じないのは以前と変わらない。

相手が誰であろうと叩き潰すのが当たり前、ではあるのだが、対戦相手を望むのであれば、海南の場合それは翔陽だった。夏に番狂わせに翻弄されて沈んだ翔陽だが、主力の3年生は全員残っているし、そもそもがこの3年間は「牧藤真時代」とうたわれたほどなので、神奈川頂上決戦は翔陽を下すことで制したい。

さて、そんなわけで予選だが、何しろ激戦区の神奈川なので試合数が多い。海南も湘北も一応シード扱いだが、1戦目を飛ばしているだけだし、そのせいで夏の予選など決勝リーグ合わせて4戦しかしていない海南もしばし試合漬けである。

予選期間中、は進路が決まっていることを理由に初めて公欠で予選の観戦を許された。推薦試験と平行して国体の合同練習を引き受けてくれたことへのお礼だという話だった。これまで基本的に海南の試合しか見て来られなかったは浮き立った。

「自分の学校のことそんな風に言うのもなんだけどさ、うちって特別じゃん」
「いや、そんなのみんな思ってるから」
「だよねー。だからさ、やっと本物の高校バスケットが見られる感じがする」

同じく公欠で予選1戦目を見に来た牧と高砂に挟まれたは、興奮で頬がピンク色になっている。

「よかったな、これで湘北の試合も見られるぞ」
「いや別によかったとかそういうことじゃ……
「でも見ておいた方がいいと思うぞ。三井だって進路がどうなってることやらわからないからな」

もし推薦が叶えば、場合によっては遠い大学へ行ってしまうかもしれないから――牧はそう言いたかったのだろう。それは自分の進路が決まった時点でも考えていたことだ。自分がどんな答えを出したところで、3年前のように三井が遠くへ行くことを選ぶのなら、の決断にどんな意味があるというんだろう。

三井は距離だけの点で言えば神のような「地元組」である。そもそもが一介の県立である湘北、越境入学者はいない。来年はどうなるかわかったものではないけれど、とにかく三井も進路が決まっているなら引退したところであまり暇はない。地元にいる分、1月から教習所に行ってしまうかもしれない。

それでも彼のプレイを見ておいた方がいい、という牧の意見には同意するところだ。主将ではないけれど、ひとり残った3年生である彼が一体チームの中でどんな存在感を見せるのか、それは確かめておきたいと思っていた。

答えを出すのはそれからでも遅くない。

「まあまずBブロックは翔陽と湘北だろうな。夏のリベンジなるか、ってところだな」
「その夏みたいに番狂わせ、ってことはないと思う?」
「遠い話じゃないからな。どっちも冷静だと思うぞ」

予選の日程表を見ていたはしかし、同日同時に試合が行われる都合上、結局湘北はブロック最終戦までは見られないと気付いて、がっかりと安堵が一気に来た。三井の戦いぶりを確かめたい気持ちと、答えを出す意味がわからない気持ちの間では揺れていた。

海南の方は当然と言おうか安定の牧無双でさくさくと勝ち進む。毎度のことながら対戦校が可哀想になる試合展開になることがほとんどで、試合終了後に対戦相手が生気のない目をしていると、頭を下げて謝りたくなってしまう。もちろん海南にとって予選はいつでも「通過して当たり前」なのだから。

牧の予想通り、準決勝に当たるブロック最終戦の組み合わせは海南対陵南と湘北対翔陽になった。どちらもIH出場を逃した方は夏の予選のリベンジだ。しかし、この中で言えば主力の3年生が全員残っているのは海南と翔陽で、湘北には三井がひとりいるだけ、陵南に至ってはひとりもいない。

決勝と3位決定戦が最終日に行われるため、準決勝の2戦がその前日に行われる。結局のところこの4校は両日とも試合があることになるので、はマネージャーとしての緊張感と、三井を見届けなければという緊張感の両方を抱えたまま会場入りをした。

正直、海南の仲間たちに関しては何も心配していなかった。しかも対戦相手は3年生がひとりもいない陵南である。いくら新主将の仙道が天才と呼ばれるプレイヤーだったとしても、未だ牧には及ばないとは考えていた。10代の1年の差は大きい。

海南の試合を案じるなら、それは本戦の方だ。何しろ夏は優勝を逃している。あと一歩のところで優勝に手が届かなかった。目指すのは高校日本一であって、神奈川一ではない。

なので、試合を控えた部員たちがピリピリしている控室を出たはひとりでスタンドに向かう。観客席の片隅で三井を見届けて、答えを出さなければならない。答えなんか出しても意味がないんじゃないかという思いでいっぱいになっていただが、あれはそう、約束だったのだ。反故にしたくはない。

夏に比べたらずいぶんと落ち着いて見られるようになってきたな、とは観客席の椅子にもたれる。緊張はあるけれど、IH予選や山王戦の時のような異常な高揚はなかったし、勝っても負けてもどっちでもいいと思っていた。確かめたいのは勝敗ではない、戦い方だから。

が見たい三井の本気、それは3年前の県大会を超えること。

県大会を超える、それはつまり3年前の三井を自身が乗り越えること。技量の話で言えばとっくに超えているのかもしれない。けれどは観客席にいてもわかるくらいに「本気」の彼を望んでいた。あの時諦めた自分を見抜いた監督に心を奪われてしまわなければと共にあったかもしれない、強豪校の主将の器を見たい。

予選、そしてIHではそれを確信していた。彼の中にはそういう三井寿が静かに眠っていて、湘北における揺ぎない大黒柱の影に隠れているだけだと。それを解放してみろ。主将というポジションにいなくたって、できるはずだ。もっともっと、やれるはずだ。

は、一方的に約束を破られた自分にはそれを望む権利があると思った。別の道を選んだけれど、はひとりでその約束を叶えるために3年間頑張ってきた。三井には怪我という不運はあったのかもしれないが、で、あの約束を守り通したのだ。

だから見せて。私が好きだと言うなら、3年前のあなたを超えてみせて。

そうしてあなたの中に眠る3年前のあなたと一緒に、もう一度好きだと言って――

結果、湘北は翔陽に敗北、続く第2試合でも海南が勝利、下馬評通りの展開となった。さらに翌日、この3年間の神奈川の縮図となる海南対翔陽の試合が行われ、無事に海南が勝利、夏に引き続き海南は神奈川を制して本戦への切符を手に入れた。

一方の湘北は陵南戦でも敗北。2年生が中心の新しいチームという点では似た境遇同士だったが、それこそ陵南における仙道のカリスマ性に三井や宮城が及ぶことはなく、湘北の方が個の能力が高い選手は多いが、陵南に比べて協調性に欠ける――そんな風にには見えた。

そういう局面で三井が以前のような求心力を発揮するかと思っただったが、彼は違う道を選んだ。

いつものようにギャンギャン言い合いをしてやかましい湘北の中で、現在の主将である宮城を少し後ろから支えて、制御しづらい1年生ふたりに気を配り、夏に活躍の場がなかったというのにその中に入らなければならない2年生にもずっと声をかけていた。

そもそもがコートの中では司令塔の役割であった宮城が、主将という立場が加わってなおその役割をしっかりこなせるように常に目を光らせている――にはそんな風に見えた。

それはかつてが愛していた15歳の三井ではなかった。

しかしどうだろう、その15歳の彼と比べたとして、今の18歳の彼は過去を超えたのだろうか、超えられていないのだろうか? 比較すること自体に少々無理があるのではないだろうかと思えてきたは、思わず腕を組んで首を傾げた。

その時はようやく自分の中に残る「もしあの時の約束が果たされていたら」という足枷に気付いた。

あの時の約束が果たされず、勝手に反故にされたことへの恨みがどうしても消えなくて、それを贖うくらいの三井寿を見せてもらえなければまっさらな気持ちで向き合えないと思ったのだ。だから「本気」を見せてみろなどと言ってしまった。

三井はそれに応えた。これが彼の「本気」だったのだ。

夏の成績を考えると惨敗状態の湘北、3年生は三井だけなので、全員翌年以降もチャンスがある。だから悲しむ選手はいないようだったが、その代わりにスタンドからでもわかるほどに機嫌を損ねていた。そりゃあ4位では面白くないだろう。湘北のアグレッシブなスタイルでは余計にそう感じるはずだ。

それを、締めくくりとなる高校最後のトーナメントを負け続けて終わった三井が宥めていた。

笑顔はなかった。それはそれで厳しい顔をしていた。何を話しているのかもわからない。けれど、さりげなく試合に出た選手ひとりひとりに声をかけ手をかけ、健闘を讃えているようにも見えた。

はまた肌に潮風を感じ、彼と守られなかった約束に抱いていた恨みを忘れた。

これが、あんたの答えだったんだね。これが、私と離れたところで手に入れた「本気」だったんだね。

本戦への出場を控えて練習時間が増え、しかし期末も現状維持で構わないは少しずつ心の距離が離れていく部員たちとともに毎日遅くまで体育館で大声を張り上げ、時には監督の指示で走り回っていた。にとっても、この海南バスケット部での3年間が終わろうとしている。

自身の答え、それはまだ靄がかかっていて遠くに揺らめいていた。