チェンジ・ザ・ワールド

エピローグ

「女の子の好きそうな店だな〜」
「それほど少女趣味でもなくない?」
「おっ、いい匂い。何の花だろう」
「ラベンダーだよ、ほらそこの」
「枯れてるじゃん」
「ドライフラワーだから、枯れてるんじゃなくて、乾いてんの」

ユヒトも小学3年生からずーっとバスケ生活なので、雑は雑だ。一応真面目にはやるけど、勉強も得意ではない。なのにお父さんはユヒトに勉強もちゃんとしなかったら娘は嫁にやらんとか言ってるらしい。あんたね、どの口が言うのよと思ったけど、後でお母さんに聞いたところによると、大学では勉強もちゃんとしてたらしい。

今日は久しぶりにユヒトを連れて帰って、一緒に夕飯食べようと思ってる。ついでにテスト勉強もすればいいじゃんと思ったんだけど、この調子だと私の部屋でふたりきりは難しいだろうな。まあまだいいよ、リビングでもダイニングでも。ユヒトはまだお父さんの言いつけを無視する勇気が出ないらしいし。

「不良品じゃないのに、もったいない気がするけどなあ」
「いいんだって。これは時計って言うより、お守りみたいなものだから」

今朝、学校行く前に私は腕時計を元通り箱にしまった。薔薇の花びらが欠けてるのを突っ込まれたらすっとぼけるしかないし、ユヒトの言うようにもったいない気もするけど、この腕時計型タイムマシンを返すことで、私の冒険は完結するのだ。どうしてもそんな気がする。

店内に入ると、やっぱりあのお姉さんはいなくて、しんと静まり返っていた。柔らかくラベンダーの香りが漂っていて、薄れかけている記憶が鮮やかになったり遠ざかったり、この冒険が終わることを知って舞い上がっているみたいだった。私は思わず繋いでいたユヒトの手をギュッと握りしめた。

「どうした? やっぱり帰る?」
「えっ、ああごめん、平気。ちょっと色んなこと思い出しちゃって」

ユヒトがきょとんとした顔をしているので、つい笑っちゃった。私が笑うとユヒトも笑う。漂うラベンダーの香りに薔薇の仄かな香りも混ざって、なんだっけ、この匂いに私、とてつもなく下品な形容詞を付けた気がするんだけど、覚えてないや。――ってホンワカしてたら、後ろから声がした。

「あら、いらっしゃい! まあ、本当にお友達を連れてきてくれたの? やだ、ごめんなさい、彼氏ね?」
「あ、こんにちは! はい、あの、そうです、彼氏です」
「ち、ちわっす」

お姉さんは相変わらず年齢不詳で三つ編みをぐるりと頭に巻いている。優しい佇まいと異様に強いオーラもそのままで、照れる私の横でユヒトが緊張したのがわかる。彼も母親がいないので、大人の女性には免疫がない。

私は繋いでいたユヒトの手をそっと撫でてから解き、バッグから腕時計の入った小箱を取り出した。

「あの、やっぱり私にも『いいこと』ありました」
…………やっぱりそうなのね」
「はい。それで、やっぱり私もこれをお返ししようと思って、来ました」

お姉さんは少し驚いたような目をしていたけど、また静かに微笑んで、私の差し出した小箱を受け取ってくれた。

「これで3度目ね。おかえりなさいって言うべきかしら」
「本当に、『いいこと』でした。いいことっていうか、『ものすごくいいこと』でした」
……お話、聞かせてもらえる? お茶はいかが? 彼はこういうお店、退屈かしら」
「えっ、ぜ、全然平気っす! かっこいいっす」

お姉さんはくすくす笑って私たちに椅子を勧め、ハーブティーではユヒトがおいしく飲めないと思ったのか、甘いミルクティーを振る舞ってくれた。ユヒトはやっぱりちょっと緊張しつつ、店内をきょろきょろ見てる。というか私は進められた椅子に見覚えがあった。見間違いでなければこれ、「女の子が生える椅子」だ。

「話せることだけでいいから、聞かせてくれる?」
「私、家族とか友達とか、あんまりうまく行ってなくて、ずっと毎日面白くなかったんです」

この世界のユヒトにも私はそう見えていたはずだ。きょろきょろしていたのに、ぴたりと止まって私を見ている。

「彼、この間誕生日だったんですけど、そのプレゼントを買いに行く前にここに寄り道をして、あの腕時計を買いました。『いいこと』があるっていうし、それはお姉さんの嘘のセールストークってわけでもなさそうだったし、その、安かったし、ものすごく気に入っちゃったから」

レジカウンターの上に箱を開けた状態で腕時計が置いてある。私は話しながら心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。薔薇の花びらが元に戻っている――

「こんな渋いアンティークなんて似合わないと思ったけど、どうしても、欲しくて」

だけど、不思議なことに、今はもうこの腕時計にそれほどの魅力を感じなかった。もう、私には必要ないんだ――

「上手く言えないんですけど、腕時計を手に入れた次の日、私にとってはものすごく衝撃的なことがありました。誰にも信じてもらえないような、だけど私の全てをひっくり返すような事件でした。でも、誰かの力を借りて解決することは出来ない、私が自分で挑んで解決するしかない、過酷な試練でした」

そう、もうあんなことは二度とごめんだ。金輪際タイムスリップなんて出来なくていい。

「怖かったし、辛かったし、ずっと不安と隣り合わせで、生きた心地もしなかった。だけど、今はこうして普通にしていられるし、結果的に私にはたくさんの『いいこと』がありました。おかげで彼氏も出来ました。ずっと言えなかったけど、ちゃんと伝えようって思ったのは、その腕時計があったからです」

なんだか、もう恥ずかしくなかった。ユヒトは照れてるみたいで、むず痒そうな顔をしてたけど、こんなこと話すのもこれきりだろうから、構わない。お姉さんも優しく微笑んでる。

「とても不思議で、上手く言葉にならないし、信じてはもらえないと思うんですが、……世界が、変わっちゃったんです。もしかしたら自分で変えちゃったのかもしれないんですけど、とにかく、私の知ってる世界じゃなくなっちゃった。だけど、なのに、変わらなかったんです、家族とか、彼とか、子供の頃の記憶とか」

タイムスリップのことを言わずに、私の冒険を説明するのは難しい。自分でも言いながらわけがわからなくなってきた。私の世界は変わったけど変わらなかった、それが真実なんだけど、それをどんな風に言えばお姉さんに伝わるんだろうか。

「私もあんまり変わってないような気がします」
「彼氏くんから見てどう? 彼女は変わったかしら?」
「えっ!? ええと、その、確かにこの前はちょっと変だなと、思ったんですけど……

ユヒトは首を傾げ腕を組み、ぼそぼそ言っている。

「だけど、そういう小さい変化なんて、みんなたくさん起こるじゃないですか。オレだって子供の頃と今じゃ全然変わっちゃったと思います。でも、変だなと思ったけど、別に何かちょっと変わってたんだとしても、オレが彼女を好きなことには、変わりないし――

お姉さんはにっこり。私は無言で悶絶。お前そういうことさらっと言うなよー!

「それじゃ、この腕時計は、あなたと一緒に素敵な時間を過ごしたのね」
「はい。私の面白くない世界を変えてくれました」
「あら、それはどうかしら」
「えっ?」

お姉さんは腕時計を取り上げて眺めながら、くすりと笑った。どういう意味?

「あなたの心が移ろうたびに、世界なんて何度でもその『姿』を変えるわ。だから、世界が変わったように感じるなら、あなたもまた一緒に変わっていたのよ。あなたが面白くないから、面白い世界じゃなかった。だからとてもつらい試練だったんじゃないのかしら。腕時計のせいじゃないと思うわ」

急に饒舌になったお姉さんの言葉を、私とユヒトは身じろぎもせずに聞いていた。

「あなたとあなたの世界は表裏一体で、あなたを取り巻く世界はあなたを映す鏡、あなたが曇れば世界はずっと曇ってるけど、あなたが笑顔でいれば、鏡だもの、必ず笑い返してくれるわ。だけど、姿を変えても変わらない本来のあなた、そういうあなたとあなたの世界を好きだって思ってくれてる、それが彼、違うかしら」

お姉さんの言葉は抽象的過ぎて私にはよくわからなかった。たぶんユヒトもわかってない。お姉さんはそんな私たちの顔を見て、今度は声を立てて笑った。よっぽどわけわからんて顔してたに違いない。

「人の数だけ世界があるのよ。心と同じね」

私とユヒトはよくわからないまま、だけどその言葉だけはよくわかったので、素直に頷いた。

「あ、あと、その、ポプリ、すごくよく効きました」
「本当? 彼に告白した時に持ってたの?」
「いえ、効いたのは私じゃないんです。私の大事な人で、幸せになって欲しい人で――

一応報告しておかなきゃと思ったから言ってみたんだけど、またお姉さんのくすり笑いに遮られた。

「それもあなたがそう願ったからじゃないのかしら」
「えっ!? だけど願えば何でも叶うってものじゃ――
「まあそうね、だけど私はあなたの願いがその人を動かしたんじゃないかなって気がするの」

またポカンとしていた私の手を、ユヒトが取って繋いだ。

「いいじゃんそれで。オレもお前が言ってくれたから、世界が変わったし」
「ほらやっぱり。ポプリはきっかけに過ぎないと思うなあ」

お姉さんだけじゃなくてユヒトまでニコニコし始めた。なんだよふたりしてわかっちゃったような顔して。タイムスリップのこととか間違った世界のこととか、私にしかわからないあれやこれやもあるんだけど、なんかそういうの、もう、いいか。それでも私の世界は確かに変わったのだから。

お茶のお礼をして、私たちは店を出た。お姉さんはまたポプリをくれて、今度は薔薇とラベンダーのハンドクリームを作るから、また遊びに来てねと言って送り出してくれた。

「いい匂い」
「こういう匂い好き?」
「うん。なんか懐かしい感じがする」

……もしかしたら、ユヒトのお母さんがこういう匂い、好きだったのかもしれないね。今から店に戻って腕時計を取り返してきて、タイムスリップしたらユヒトとお母さんを会わせてあげられるかもしれない。だけど、ユヒトはあの腕時計に選ばれなかった。惹かれなかった。だから、このままでいいんだ。

私がユヒトを幸せにしてあげればいいじゃん。なんかそんな風に思えてきた、その時だった。

「なあ、オレ、信じるよ」
「えっ、何が?」
「あの腕時計を買ってから起こったこと、オレは信じるから、いつか、全部話してよ」

私が体験した不思議な不思議な冒険のこと、誰に言っても信じてなんてもらえないタイムスリップの話、と寿の恋物語、私の全てを変えたあの日々のこと――

……長い、話だよ」
「じゃあずっと一緒にいればいいじゃん」

薔薇とラベンダーの香りが混ざった風が吹き、私の髪を跳ね上げて去っていく。そうだね、ずっと一緒にいればいいんだよね。世界がどれだけ変わっても、ずっと一緒にいればいい。つまり、そういうことだ。

「それじゃ、少しずつ話さないとね!」

さて、これでどこにでもいるちょっと可愛い女子高生の冒険の話はおしまい! 荒唐無稽で突飛でおかしな話だけど、一応ハッピーエンドになったし、忘れ物もないし、彼氏もできたし!

あの腕時計、欲しくなっちゃった? 私はあんまりお薦めしないけど、どうしても欲しかったらラベンダーのドライフラワーがドアにぶら下がってるアンティークショップを探してね! もしそこで落ち着いた赤茶の皮のベルトに、金具には薔薇がついてる腕時計が気になったら、それがタイムマシンだよ。

「右は進む、左は戻る、1から60まで、花びらの数だけ旅をどうぞ。 よい旅を!」

あなたにたくさんの「いいこと」がありますように。あなたの世界が素敵なものになりますように。

えっ、そうじゃなくて、私の本当の名前? やだなあ。

知りたければ教えてもいいけど命の保証はしないぞ! じゃあまたね!

END