チェンジ・ザ・ワールド

06

おっさんに促された私は事務所に入り、狭い応接スペースに腰を下ろす。表から三男も入ってきて、なぜか私の隣にぴったりくっついて座った。可愛いけど鼻水だらけなので顔はくっつけないで下さい。

「日中は基本的にひとりだからな。姉ちゃんが嬉しいんだろ」
「ねーちゃんおっぱいはー」
……すまん、乳離れ遅かったもんだから」

三男は私の膝によじ登って胸を鷲掴みにしてくる。ちくしょう、私の膨らんだ胸を触った男はお前が初めてだ。徳男のおっさんは表に出て、自販機でお茶を買ってきてくれた。というか、時計を見上げたらもうすぐ昼だったけど、ちっともお腹が減らない。食べたら全部戻してしまいそうで怖い。

「それで――
「私、今朝学校行く途中で転んだの。そしたら私の知ってる世界じゃなくなってて、何も覚えてないの」
「何も?」
「私の家族は、親は、と寿で、あの家で3人で暮らしてる記憶しかないの」

徳男のおっさんは怖い顔をしている。けれどそれは私を怒っているのではなさそうだ。

「お父さんはどうなったの。うちにいたあの気持ち悪い人何? お母さん、あんな人じゃなかった」
「病院、行ったのか」
「これから。早退してきたばっかりだから」

こんなの、ふざけた話だろう。だけど、徳男のおっさんの記憶だけが頼りなんだ。お願い!

「その……お前が中学入った頃、離婚したろ」
「ごめん、それも覚えてないの」
「そうか。お前が中学入ってすぐだったよな。三っちゃんがあの家を出て、お前たちが残った」
「お父さん今どこにいるの」
「大分」
「大分!? 何でそんな遠いところ……
……本当に何も覚えてないんだな」

おっさんはまだ怖い顔してるけど、口元が少し緩んだ。ていうか大分って、遠すぎるでしょ。

「大分は今年からだよ。去年までは三重にいた。高校でバスケの監督やってる」
「ああ、そういう……
「前から話はずっとあったんだ。だけど、遠いところばっかりだったから断ってた。でも、ちゃんがな」
「お母さん?」

怖い。怖いけど、この世界をどうにかしたかったら聞かなきゃならない。

「あの時のことはオレも確信がないし、ショック受けるかもしれないけどいいんだな」
「うん。覚悟してるから」
……ちゃん、浮気しちゃったんだよ」
「はあ?」

私は間の抜けた声を上げた。あり得なさすぎて冗談に聞こえるくらいだ。

「だから確信がないって言っただろ。だけど実際ちゃんは二晩行方不明で、帰ってくるなり離婚してくれって言い出した。三っちゃんだって何かあったのかってそりゃ心配したし、何があっても見限ったりしないって言ったんだけど、ちゃんは聞かなかった」

この話だけ聞くと、何か事件に巻き込まれたお母さんは、お父さんに後ろめたいことをする羽目になってしまい、それで離婚してくれって言ってるように聞こえる。

「それで、しばらくして、離婚したんだよ」
……おじさん、正直に言って。隠さなくていいから」
「そんなこと知ってどうするんだよ」
「わからないまま生きていかなゃいけない方がつらいよ!」

もう覚悟はできていた。どんな話が出てこようと、これは「間違って作られた世界」なんだ。そして、私が目を逸らさずに立ち向かうことで元に戻せるかもしれない世界だ。そのためには正しい情報が欲しいし、この世界のと寿は、私にとっては虚像なんだから、どんなひどい話でもいい。嘘の世界なんだから。

……妊娠してたんだ」
「誰の子?」
「わからない。堕ろしたしな。だけど、その辺で三っちゃんも限界だったんだよ」
「だろうね。じゃあ今の彼氏って、その時の人ってこと?」
「それがわからないんだ。あいつ、実はオレらが高校生の頃からの知り合いで――

おっさんは「ボク」の説明を始めた。

「ボク」は「ウドの大木」から来てる、ホワイトの持ち主の弟で、あんなんでも実家はとても裕福な家で、ボクとその兄は親の金でホワイトを開き、そこを溜まり場にしていた。兄の方はバカではなかったけれど、とにかく凶悪な人物で、弟の方はいつでも発情しているような兄弟だったという。

「当時のことはあんまりはっきりわからないんだけど、ボクは気に入った女を延々追いかけ回す癖があったからな。もしかしたら高校生の頃からちゃんに目をつけてたのかもしれない。三っちゃんは途中で足洗ってバスケ部に戻ったし、その辺りはボクよりも兄貴の方が気に入らねえって怒ってて」

おっさんは淡々と喋ってるけど、私にはその言葉が妙に引っかかった。理由はわからない。ただなんとなく違和感を覚えて、先端の丸い針で刺されたような居心地の悪さを感じてた。

「お父さん、その人たちとモメてたの?」
「いいや。髪を切ってバスケ部に戻るって決めてから、一切顔出してない」
「だけど怒ってたんでしょ?」
…………オレが話付けに行ったんだ」

おっさんはごっつい手で頬を撫でている。そして、少し躊躇ってから、薄汚れたシャツをまくり上げた。

「何、それ」
「制裁ってやつだ。三っちゃんには何も手を出さない代わりに、これで手を打ってもらった」

おっさんの脇腹にはきっかり3本、深い傷跡があった。何かで引っ掻いて切り裂いたような傷跡だ。

そのホワイト兄弟、頭おかしいんじゃないの……? いや、おかしいんだろう。ただ不運なことに裕福で、そして悪事が公にならない運の強さを持っていただけ。寿もこの徳男のおっさんも、グレてはいたけど犯罪を犯すようなタイプじゃない。ただ不貞腐れてただけだ。だけどあいつらは違う。

まだ17歳のJKである私に生々しい話を聞かせたくない気持ちはわかる。だけど、私の本物の世界を取り戻すためには情報がいるんだよ。ていうか既にひどい情報ばっかりだから、気にしないでバンバン情報出してよ。

私は寿がグレてバスケから遠ざかったきっかけも、ぼんやりとしか知らなかった。そこから急に更生してバスケの世界に戻っていったきっかけも知らない。ただその辺はお母さん――と寿にとっても機が熟して付き合い出す直前に当たるから、その辺のことをちょろっと聞いたことがあるだけ。

まだ目だけは私を訝しがってるおっさんだけど、私の求めに応じて話をしてくれた。

「てかお前、昼飯は」
「頭おかしくなっちゃってるからかな、減らないんだよね」
「無理して食うことはないけど、ちゃんと食べろよ」
「ありがと、私に気にせず食べてよ」

おっさんの嫁は近くの家電量販店でパートをしていて、おっさんとオチビは毎日お弁当だ。お食事中申し訳ないけど私はガンガン話を振り、寿がグレたところから更生するまで、それからホワイト周辺の話も聞き出した。

だけど、寿の代わりに制裁を受けたおっさんもほとんど足を洗ったらしく、その後の話は断片的にしか出てこなかった。むしろ、バスケで大学に入った寿の話や、との結婚、そして私が産まれるまでのことをおっさんは楽しそうに話していた。やめろよ、泣きそうになるだろ!

あらかた話を聞き終わった私は、さっさと席を立つ。感謝の意を表して長居すればいいってものじゃない。おっさんは仕事があるんだし、ぼんやりしてたら上のふたりも帰ってきてしまうかもしれない。

「ありがとう、お仕事の邪魔してごめんね」
「そんなこと気にすんな」

事務所を出た私が投げ出してあった自転車を引っ張って来ると、三男がグズグズ泣き出した。せっかく遊んでくれる人が来たと思ったら帰っちゃうのかっていう顔だ。私は自転車を止めると、抱っこしてほっぺにチューチューしてやった。機嫌は直らないけど、泣くのを我慢する気にはなったらしい。

すると、それを黙って見ていたおっさんがぼそりと呟いた。

……記憶喪失なんて、嘘だろ」

私が生まれた時から知ってるんだもん、わかっちゃうよねえ。だけど私は苦笑いするしかない。

「何があったか知らんけど、また困ったらいつでも来いよ」
「あ、ありがとう。お腹減ったら来ちゃおうかなあ!」
「お前がちゃんの腹ン中で育ってくところから知ってるんだ、遠慮するなよ。いいな」

どうしてそういうこと言うかなあ。あーほら、泣いちゃったじゃん。てかせっかく泣き止んだのに、オチビまでつられて泣き出した。だけど、私はよたよたとおっさんに近付いて、そのごっつい体にしがみついた。大きな手が私の頭を撫でて、そしてポンポンと背中を叩いてくれる。

――――――ミライ」

何だって!?

「三っちゃんとちゃんは、お前に『ミライ』って名前を付けたがってた」
「え……?」

また全身の血がつめたーくなったような感じがした。

「オレは少ししか会ったことないんだけど、三っちゃんとちゃんの大事な友達の名前でな。その名の通り、自分たち夫婦に未来をくれたんだって。だけど、何しろ苗字が三井だし、そのミライちゃんと娘は同じ人間じゃないんだし、ミライちゃんにはミライちゃんの、お前にはお前の人生がある、ってな」

顔を上げた私は、ぼたぼたと涙を零していた。おっさん、同じ人間なんだよ、私がミライなんだよ。

「つまり、お前は三っちゃんとちゃんにとって、未来そのものなんだよ」

おっさんのでっかい手がまた私の頭を撫でる。

「またな。無理するなよ。いつでもおいで」
「ありがとうおじさん、また来る。また来るからね」

私は鼻をグズグズ言わせながら自転車に跨った。もし、私が過去に戻り、間違えた場所を直すことができたら、もうこの世界のおっさんには会えない。そして、私が過去に戻った瞬間に、男遊びの激しい私が戻ってくるんだろう。だけどおっさん、もしよかったら今の私を覚えててね。これが本当の私だから。

世界が元に戻ったら、また遊びに来るからね!

で、お前メモも取らずにおっさんの話全部頭に入ったのかよ、っていうところでしょ。まあまあ、そこはミライちゃん、用意周到なたちだからして、ちゃんとレコーダー回してたわけですよ。携帯と、家にあった家庭用のレコーダーの両方で録ってた。

私はおっさんの家を出ると、駅の方まで出てまたファストフード店に入った。そこでレコーダー再生しながら、一体と寿に何があったのかをまとめ始めた。開始地点は寿がグレたきっかけだっていう、怪我。

怪我でバスケできなくなって臍曲げてしまった寿とおっさんが仲良くなり始めたのもこの頃。ふたりはまだこの時高1で、校内でやさぐれてるくらいだったらしい。だけど、バスケのない生活に寿が慣れてきた冬頃になって、地元の街をうろうろするようになった。寿は髪を切らなくなり、いつでもその髪で顔を隠すようになった。

他校のヤンキーとつるみ出したのは、2年になってから。学校ごとの派閥なんていうものに興味のなかった寿は、同じように「ただ荒れてるだけ」の高校生同士で集まっては、グダグダと過ごしていた。その辺で知り合ったのが、例のバイカーの鉄男。あれは2つ年上で、高校は退学していて、ガソリンスタンドで働いていたらしい。

で、問題のホワイト兄弟だけど、おっさんも最初にあの店を紹介してくれたのが誰だったかは思い出せないらしい。とにかく、知り合いの知り合いみたいな繋がりで一時面識のあった誰かに紹介された――そんな記憶しかないそうだ。まあそれはいいだろう。そこはちょっと私一人じゃ止められそうにない。

そう、寿はグレていてもバイカーとつるんでてもホワイトに入り浸ってても、私には何かを感じて、には淡い恋心を抱き、ほんの僅かな間でも「本物の寿」に戻ってた。寿の中の寿は死ぬことなんかなかった。だから寿は大丈夫。つまり、問題は外敵、ってことになる。

ぶっちゃけただの勘なんだけど、私はどうしてもあのトロルの兄貴って人物がひっかかってどうしようもない。この間違って作られた世界でボクがの彼氏におさまっているように、どうしてもこの捻じ曲がってしまった世界の根底にはそいつがいるような気がしてならない。

――というか、私SFは詳しくないんだけど、つまりこの間違って作られた世界は「私が過去に行ったことで作られた世界」なわけでしょ。だから、例えばここから26年前に戻ったら、私がいることになるんだよね。私が一度あの時代に降り立って介入してしまったことは覆らない。

いや待てよ? いやいやいやいや、もっと簡単な解決法があるじゃん!

私がこの腕時計を手に入れる前に、腕時計を買ってくればいいんじゃないの!?

そしたら私はタイムスリップ自体ができなくなる。そうしたら過去が変わることもない。未来も間違うことがない。それだ! こんな余計なことしなくたってよかったんじゃん! やだなあもう、バカだな私。

必死の形相でレコーダーからと寿の歴史書き起こしをしていた私は、荷物をバッグの中に詰め込むと、さっさとファストフード店を出た。

私はいそいそとカラオケ店の外階段の下へ潜り込むと、私がタイムスリップした日の前日に日付を合わせる。薔薇の花びらもたっぷり残ってるし、あの日に帰ってこのタイムマシンを回収しちゃえば、26年前の私の介入もこの間違った世界もなかったことに――

ならないじゃん!!!

私はその場でしゃがみこんで呻いた。いや、私が早とちりしただけなんだけど、こうも「ちょっと考えればわかること」をあとで気づいた時の絶望感はないよね。

そう、この間違った世界は「26年前にタイムスリップしたミライのせい」で誕生したものだ。今私はその世界にいる。だから、ここで数日前に戻ったとしても、既に世界は間違って作られた後ってことになる。と寿は離婚してるし、私はとっくにビッチになってる。

やっぱり26年前に戻るしかないんだ。そして、私が間違えたせいで生まれてしまった世界を元に戻さなきゃ。と寿はちゃんと出会ったんだから、きっと他にも世界を歪めた原因があるはず。それを突き止めて排除しない限り、私に「未来」は来ない。

というか相当慌ててたな私。まだ午後だから、過去には戻れない。もう少し待たなきゃ。しゃがんだまま、私はリューズを巻いて、日付を直す。少し間を置こうと思ってたから、次に向かうのはたちが高2の秋だ。

カラオケ店の外階段の下からのろのろと出ると、のろのろ歩いて、私はあのアンティークショップへと向かった。私の世界が捻じ曲がっただけで、街は変化が見られないし、きっとあそこには三つ編みをぐるりと頭に巻きつけたお姉さんがいるに違いない。

店のある街まで移動した私は、数日前と同じようにアンティークショップの店の前でぼんやりとそのドアを見ていた。ラベンダーのドライフラワーがぶら下がるアンティークショップはやっぱりしんと静まり返っていて、店内は薄暗く、人の気配がしない。

ここへ来たのがもう何年も前のような気がする。あの時この腕時計を手に取ってしまってから、色んなことがありすぎて、私もあんまり余裕がない。26年前、あの数日の間をちゃんと眠って食べて元気に過ごせたのはお母さん、がいたからだ。

「いらっしゃいませ〜、ご自由にご覧下さいね」
「え、あ、はい」

あのお姉さんだ。というか「私」がここで腕時計を買ったのは「昨日」のはずだ。だけどお姉さんはまるで私に反応しない。やっぱりここで腕時計を買ったことも、もう別の世界の話なんだ。店内は優しいラベンダーの香りが漂っていて、気持ちが少しだけ緩む。

ちゃんと世界を戻して、お母さんとここに来たいなあ。なんて思ってたら、私が買った腕時計の乗っていたテーブルがなくなっていて、臙脂のベルベットの椅子が置いてあった。まあその、超現実が続いたせいで、私はあんまり正常な状態になかったかもしれない。なもので、私は迷わずその椅子に腰掛けた。

表の街の喧騒が入ってこない、ラベンダーの香り漂う店内。私は椅子に深々と体を沈めると、目を閉じて静かに息を吐いた。動揺していた割に、荷物は一人旅が出来そうなくらいちゃんとまとまってる。お母さんの隠し金もパクって来たから、なんなら向こうで携帯買ってもいい。だから、このまま26年前に戻ろう。

「お気に召しましたか?」
「えっ? あ、すみません、商品なのに勝手に」
「あら、商品じゃないから大丈夫ですよ」
……ディスプレイ用ですか」

お姉さんは「昨日」と同じだ。年齢不詳、なんだか掴みどころがなくてふわふわしてるのに、存在感がものすごい。慌てて立ち上がろうとした私を制して、お姉さんはにっこりと微笑む。

「先代の店主のお気に入りでね、ちょっと変な名前がついてるのよ」
「変な名前?」
「女の子が生える椅子」
「なんですかそれ」

きのこじゃあるまいし。ふたりで笑っていると、電話が鳴り出した。これまたアンティークな黒電話の音だ。お姉さんが行ってしまい、またラベンダーの香りに包まれた私は、なんとそこでかくりと意識を失って眠ってしまった。気付いた時は店の外が薄暗くなっていて、また私は血の気が引いた。店先でなんてことを!

「あら、目が覚めた? よく寝てたわね」
「あああ、すみません申し訳ありません、こんなお店の中で私」
「お客さんも来なかったし、いいわよ」

いいのか? いやよくないだろ。その上お姉さんはお茶を出してくれて、私はお尻から根っこが生えたみたいに、椅子に腰掛けたままお茶をもらった。ハーブティーだった。余計にリラックスしちゃってまた寝そう。

「素敵な時計してるのね。古いものでしょう」
「えっ、あ、たぶん、はい。そうだと思います」
「とても似合ってるわよ、あなたにぴったり」
「そ、そんなこと」
「謙遜することないわよ。もう何年もずっと一緒にいるみたいに見える」

お姉さんは私のティーカップを受け取ると、バックヤードに行ってしまった。そうかなあ、似合ってなんかいないと思うけど、なんてしつこく思いながら腕を上げたら、18時25分だった。

だからその、慌てちゃったんだよね。おろおろしながらバックを引き寄せて、落とし物がないかを確認した私がもう一度時計を見ると、18時26分5秒だった。ここがアンティークショップの店内だということも忘れて、私は左側のボタンを押した。

しゅぽん! 気付くと私は同じ椅子に座っていて、おじいさんを見上げていた。

「お、女の子が生えた!!!」

また私のせいかよ。