ビー・ア・ヒーロー

12

「お待ちしてました。来てくれて本当にありがとう」

黙って玄関から入った健司たちを出迎えてくれた土屋さんは、見たところ20代前半くらい。いかにも会社勤めでもしていそうな雰囲気で、そしてかなり小柄だった。ジャスティス7で1番小柄なみちるよりも華奢で、これでは救出したくても何も出来なかっただろう。

そして彼女の母親もまた小柄。このふたりではそもそも救出は不可能だと思われるが、それがさらに揃ってお裾分けに訪れていたら、土屋家の人間が直接手を貸したと言いがかりをつけるのは難しそうだ。

時間がないので、早速土屋母は千秋にどこの家を訪ねて来たが迷ったと言えばいいのかをレクチャーし、土屋娘は健司たちを連れて2階に上がった。

「本部の方にも説明しましたが、うちのベランダの端と、隣の家の窓の間が100センチしかないんです。あなたなら女の子を受け止められるんじゃないかな」

言いながら土屋娘さんは健司を見上げた。確かに健司の身長なら100センチは限界まで広げなくても足が届く距離ではある。しかしその100センチの下は空中であり、受け止めなければならないのは人間。

「それが……おそらく若い女性だと思うんだけど、かなり痩せこけてて」
「食事を与えてもらってないんでしょうか」
「そうかもしれない。年齢が読めないほど痩せてるの」
「いつ頃気付いたんですか?」
「今年の春」
「春!?」

みちるがつい甲高い声を上げ、全員にシーッと指を立てられた。とかくみちるは女性と子供と動物への暴力を嫌悪しているので、余計に頭にくるのだろう。

「隣には60代くらいの女性と30代くらいの男性しかいないはずなのに、若い女性の声が聞こえたの」

その声がとても楽しそうには聞こえなかったので、以来彼女はその声が聞こえるたびに不審感が募り、つい覗き見を繰り返していた。だがそう簡単に姿を見られるわけもなく、掲示板に書き込む1週間前、7月の半ばになってやっと住人ではありえない状態の女性が閉じ込められていると確信を持った。

土屋家の2階、家の背面側にあるベランダは確かに隣の信瀬家と密接しており、曇りガラスの向こうには豆電球程度の明かりが灯っていて、その中に幽霊のように蠢く影があった。

「実際に測ったんです。それで100センチ」
「いけるかな……
「健司の足なら余裕で届くね」

土屋娘さんが測った100センチを室内で跨いでみると、確かに足は届く。健司は少し考えると、ベルトはないかと土屋さんに問いかけた。

「僕の方に飛んできてくれるならともかく、そんな体力ありますかね」
「ないと思う」
「だとしたら、僕にベルトを繋いで、引っ張るしかないかと」

つまり、ベランダの柵を越えて健司は身を乗り出し、被害者をなんとか捕まえたら、それをとみちるが引っ張るという方法だ。安全に差し渡せる梯子のようなものがあるわけでなし、現状それしか方法はないと思われた。

健司がペロリとTシャツをめくると、6センチほどの幅広のベルトが出てきた。例のショッピングモールで買った服に付いてきたもので、ちょっといかついデザイン。バックルもしっかりした金属で大きい。

「ここの背中側に2本ベルトをかけて、合図したら引いてほしい」
……それしかないね」
「かなり痩せてるとは言え、おそらく成人女性だけど、大丈夫?」

土屋さんの問いに、健司は迷うことなく頷いた。

「はい。絶対に落としません。ベルトが切れたりしない限り」

というわけで土屋娘さんと彼女の父親のベルト、計3本が犠牲になった。2本はとみちるが引っ張る用、もう一本はせめてもの命綱にベランダの柵に固定する用。

「ここから隣の家の玄関は見えないんだけど、なるべく大きな声を出すので、それを合図に」
「もし救出出来たら、すぐにここから連れ出します」
「私たちのことは他言無用でお願いします」

その場を立ち去りかけた土屋娘さんは足を止め、深く頷いた。

「彼女が助かればそれでいいんです。あとは全て忘れます」

とにかく時間が惜しい救出班は早速お裾分けに出た。土屋家が自宅用にスーパーで買っておいたキュウリとトマトをビニール袋に詰め、信瀬家のチャイムを鳴らす。インターホンで応対した信瀬の母親は、最初はお裾分けなんかいらないと言いたげに遠慮を繰り返していた。だが土屋母子は近所に配り終わってもまだ残ってるし、ぜひぜひ、と食い下がった。

母子は大きな声を出すとは言っていたが、それを土屋家の風呂場から覗いていたみちるは、信瀬の母親が玄関を出てきたのを確認すると、ダイニングで待機していた千秋に報せて2階に駆け上がってきた。

「土屋さんたち、敷地に入らないで待ってる。賢い!」
「そっか、そしたら玄関ドア閉めて門のところまで出ないとならないからね」

足を伸ばしてストレッチをしている健司のベルトにがさらにベルトを固定していく。それを確認したみちるはまた別の部屋に飛び込んで外の様子を確認する。そろそろお裾分けの話が終わりそうなので、千秋が街に迷ったと声をかけるはずだ。すると伊達メガネにヘアターバンの千秋の声が聞こえてきた。土屋母子はすかさず信瀬の母親も巻き込んでそれに応じた。

みちるが飛んで戻ると、ベランダでは既に健司が信瀬家の壁に片足を突っ張り、窓を指で叩いていた。すると窓が少し開き、骨ばった指と影が現れた。目の前にいるのは健司だが、身を乗り出したが声をかける。

「助けに来ました。家に帰りましょう」

だが、窓はそれ以上開かない。はベルトを握り締めながらまた語りかける。

「大丈夫です。あなたのご家族も、この隣の家も、報復されません。あなたはここを出て家に帰るだけです。あなたは二度とここには戻らないし、この家の住人とは一生会わなくていい」

まだ窓は開かない。焦るみちるの喉が鳴った。

「お願いです、勇気を出して。明日の朝は、自分のベッドで目覚められます」

窓に指がかかる。それを見たは体を戻してベルトを手に巻き付ける。今度は健司が首を突き出し、窓に指をかけた。

「家に帰りませんか。オレに触られるのも嫌だと思いますが、オレはあなたをこっちに移す以外のことを、何もしません。どうか今だけ頑張ってみませんか。あとはもう頑張らなくていいです。必ずあなたをご家族のところに届けます。明日はもう、自由です」

そして伊織に言われたとおりに、にっこりと笑顔を作った。

この時の健司は自分が神奈川のバスケット強豪校のキャプテン兼監督であることも、妙な縁で参加する羽目になっているジャスティス7のメンバーであることも、または自分の背後にいるに恋心を抱いていることも、全て忘れていた。

ただ窓の隙間から見えた骨ばった指に、自由に生きることを諦めてほしくなかった。それだけが自分を突き動かしていた。怒りではなく、悲しみでもなく、ただ自分もそうであれるように、この恐ろしい現実から抜け出して、いるべき場所へ戻れるようにと。

窓が開く。みちるが思わずウッと喉を詰まらせる。窓の向こうにいた女性は汚れて破れかけたTシャツを着ていて、骸骨のように痩せていて、顔や髪にはゴミが付着していて、100センチ離れていても異臭がした。だが、健司はまたにっこりと笑いかけた。

「窓を開けてくれてありがとう。よかったら手を伸ばしてください」
「かえる……
「そう、帰りましょう。抱き上げていいですか? もう少し、そう、体を外に出して」

両腕がだらりと伸び、女性がぐらりと窓の外に体を投げ出した瞬間、健司は彼女の両脇に腕を差し込んで引きずり出した。おそらく窓の桟で腹を擦ってしまっただろうが、もうそんな痛みに声を上げる気力も残っていないのだろう。健司は彼女を引きずり出しながら囁く。

「もう大丈夫、帰りましょう、手を伸ばしてくれてありがとう、絶対離さないから……引いて!」

完全に体を引きずり出し、しっかりと担がれたことを確かめると、とみちるはベルトを一気に引いた。それに合わせて健司は壁についていた足を蹴った。そうして健司がベランダの柵にしがみつくと、とみちるがふたりを抱きかかえ、まずは被害者の女性を引っ張り上げた。

健司はベランダの柵を越え、急いでベルトを外す。そして家の中に飛び込んだ瞬間、土屋母子が戻ってきた。バレてはいないようだが、ギリギリ間に合っていなかったらしい。

急いで窓を閉め、被害者の女性を健司が抱えて1階に下ろした途端、女性はその場で失禁。だが受け答えはかろうじて出来る状態だったので、が慎重に尋ねると、自分の名前を口にした。それを伊織に伝えると、この街の外れで今年の3月から行方不明になっていた19歳の学生らしいことが判明した。

「よし、じゃあ住所をなんとか聞き出して、そこに運ぼう」
「病院行ったほうがよさそうなんだけど」
「それは家に帰ってから家族がやった方がいい」
「自転車乗れるかな、括り付けていった方がいいかも」

土屋家は大わらわ、女性の着替えを探したり、床を拭いたり、自宅の住所を何とか聞き出そうとしたり。だがひとまず女性を救い出すことが出来た。なので全員安堵で笑顔になっており、また緊張から解放されてちょっとハイになっていた。ジャスティス7、大勝利!

だが、そこに伊織の焦った声が聞こえてきた。

「おい、大変だ。信瀬たちが戻るらしい」
「え!?」
「追跡班が今なんとか足止めしようとしてるけど、数人原付で」
「原付!? 時間ないじゃん!」

みちるの悲鳴に土屋家は一転、全員が顔面蒼白で静まり返った。信瀬たちが祭会場にいたとして、それが全員原付で戻るとしたら、おそらく20分とかかるまい。土屋家からの脱出ルートは一部その祭会場からの最短ルートと被っており、それを抜けるためには一刻も早く被害者を連れ出さねばならない。

すると、被害者の傍らに座り込んでいたが立ち上がり、健司の手を取った。

「健司、今すぐここを出て、本部に戻って」
「えっ、本部? 彼女を――
「健司はここにいちゃダメ」
……、いや待って」
「今すぐ出て行って。絶対に戻ったり追跡班と合流したりしないで」
! 待て!」

背中をグイグイ押すの腕を掴んで止めた健司だったが、はまったく怯んでおらず、その腕を押し返した。ふたりとも救出の緊張と真夏の夜の暑さで汗だくだ。土屋家の玄関の昼光色の明かりが粘ついた夏の空気を重くさせる。

「健司の心のリハビリになればいいと思ってた。でももうここまで」
「だけどこんな状況で」
「だからでしょ? そのくらい分からないの」
……そんな言い方……
「自分が何者なのか思い出して。健司には健司の生きる世界があるし、待ってる人がいる」
「そんな言い方するなよ」
「早く、本部が嫌なら林田の家でもいいから」
、待って、一緒にいたい」

おそらくそれが健司の1番の本音だった。だが、は健司を玄関から放り出すと言った。

「ここは、ジャスティス7は健司の居場所じゃない。出てって」

そして返事も聞かずにドアを閉めてしまった。

土屋家の玄関先に放り出された健司は斜めに傾いたまま唇を噛んだ。

分かってる、の言うことは全て理解出来る。

頭の中に「普段の自分」の感覚が流れ込んでくる。

自宅のベッド、通学路、翔陽高校の正門、クラブ棟、無機質なコンクリート壁、軋む部室のドア、歪んだロッカー、壁にかかった巨大なホワイトボード、コールドスプレーの匂い、バッシュがキュッと音を立てる床、部員たちの顔、あいつらの声、体育館の明かり、ボールの感触――

それらはと自分を隔てる世界の全て。

ここは自分の居場所じゃない。いてはいけない。帰らなくてはならない。

健司は自転車を掴み、土屋家から飛び出した。真夏の夜、何もない街の住宅街はひっそりと静まり返り、まさかそこに恐ろしい犯罪が身を潜めていたなど信じられない静寂の中。風に熱気がかき乱されて、健司の前髪を翻らせた。汗が滴り、息が漏れる。

一年前の試合中に負った怪我の傷跡がズキズキと疼いた。

一番大事な3年生のインターハイを棒に振り、ライバルと称された相手は決勝戦に手をかけ、その時自分は学校の中で走っていることしか出来なかった。今もまた、何も出来ないまま走っている。何も出来ないのに特別扱いをされて、守られて、一緒にいたい人を残して、そんな価値もないかもしれないのに。

走り込みなら普段から嫌というほどやっているのに、自転車で街を駆け抜ける健司は息が上がり、心臓が早鐘を打ち、苦しさに喘いだ。そして走れば走るほど感覚が研ぎ澄まされ、重苦しい暗闇に落ち込みそうになっていた自分が剥がれ落ちていくのを感じていた。

苦しさに喘げば喘ぐほど、汗が吹き出して飛び散るほどに、二度と取り戻せないような気がしていた自分を鮮明に感じた。幾重にも重なった冷たくて真っ黒な感情は夏の夜に溶け、あるべき姿の健司を風に晒した。それはヒーローではなくて、バスケットを愛する高校生だった。

それなのに、への気持ちは振り切れなかった。どうしても心の中に彼女がいる。

ひとしずく、汗と一緒になってへの気持ちが目からこぼれた。

自転車を投げ出し、軋む鉄のドアを開ける。

……が戻したんだな? まったく、人手が足りないっていうのに」

肩で息をしながら、健司はその後姿を睨みつけた。

真っ暗な本部、いくつものモニタの明かりに浮かぶ伊織の輪郭。

「健司、もう満足しただろ。そろそろ自分の世界に帰れ」

息が上がったまま健司は本部を突っ切り、伊織の肩を掴んだ。こんなに息が切れるほど走ったわけじゃない。普段の練習の方がよっぽど苦しいはずだ。意識的に整えなければ乱れてしまう呼吸に喘ぎながら、健司は伊織の胸ぐらを掴んだ。

「なんでお前はここにいるんだよ……!」
「全体を見て指示を出す役割だからだろ」
も、千秋も、みちるですらも頑張ってるのに、お前は」
「前にも言っただろ、嫌なら帰れ」
「あんなに苦しんでる人がいるのに、帰れるわけないだろ!!!」

ほとんど悲鳴だった。普段の落ち着いた、優しげな健司の声ではなかった。伊織はまったく怯むことなく健司の手を払い除けると、そのくっきりしたアーモンド型の目をまっすぐに向けて指をさした。

「自分自身に言いたいことをオレにぶつけるな。お前がここにいるのは自分の重さに耐えきれなくなって落ち込み、周りの人間に気を遣わせたからだ。そして今、お前が現場に出る力がないと決めつけたと千秋とみちるは、将来有望なバスケット選手を守る意志を持ったヒーローだ。見くびるな」

伊織の声はどこか楽しそうな色を帯びていて、健司は呻く。

「お前とオレは同じなんだよ、監督。お前は使えそうな部員を仲間と呼んで勝負の駒にする。オレは使えそうな人間を仲間と呼んで正義の駒にする。何が違う? お前とオレの違いはなんだ? お前は試合に出るからまだマシか? 部員を危険に晒してないからレベルが違うか?」

オレの影め!!! 健司は呻き声を飲み込んで、作戦テーブルに拳を打ち付けた。

「こんな何もない街の地元民が粋がって自警団ごっこ、そりゃお前が普段やってるスポーツとやらに比べたらガキの遊びだよ。暴力でカタを付け、警察には嘘をつき、そういう事件のタネを自分から探して虚栄心を満たしてる。大丈夫、オレたちはそんなことはとっくに承知してる。そしてお前の愛しのを含め、全員が自分の意志でここにいるんだ」

だが、その「ガキの遊び」にしか縋ることが出来なかった人々は確かに存在する。誰も助けてくれない、誰も見ようとしない、声もあげられない、ジャスティス7はそんな人々の最後の希望だった。それを知ってしまった以上、伊織の言葉を全否定できなかった。

自分のホームグラウンドでも、ジャスティス7でも、どこにいても自分は何も出来ない。そんな無力感に襲われた健司は、壁に背を預けてずるずると崩れ落ちた。やっと自分を取り戻せたのに、やっとあの正体不明のドロドロしたものを振り払ったのに、そこにいたのは何も出来ない自分だった。

もしかすると、そんな正体不明のドロドロした感情は何も出来ない自分に気付かないよう、自分自身を守っていた鎧だったのかもしれない。陽の光の下にその無力な自分を曝け出し、そんな自分を直視してしまったら壊れてしまうかもしれないから、健司は健司を守っていたのかもしれない。

花形の声が耳に蘇る。

たぶん1ヶ月くらい。

今すぐここを出て自宅に戻ることは出来る。終電を気にすることなく余裕で間に合う。そんな距離の夏休み、明日の朝に自分のベッドで目覚めれば、そこから1ヶ月でジャスティス7をフィクションの世界か何かと同じくらい希薄に感じるようになるだろう。

それでいいのか? そんな自分で本当にいいのか? それは取り戻すべき自分だったのか?

また迷う気持ちがむくむくと湧いて出てきた健司の耳に、やけに流暢な英語の言葉が聞こえてきた。

「Promising young Basketball player, Be a hero in your world.」

見上げると、伊織が人差し指と中指をクロスさせてニヤリと笑っていた。