ビー・ア・ヒーロー

5

「そっか、突然大量の人と知り合うの、慣れてるんだね」
「中学の時からだから」
「でもそんな監督なんて、考えただけでもしんどい」
「うーん、それを重荷に感じたことはなかったんだけど」
「その時点で健司もちょっと普通じゃない……

同じベッドでゴロゴロといっても、ふたりは腕が触れるか触れないかという距離で横になり、特に見つめ合うわけでもなく天井を見上げたまま喋っていた。は携帯を片手にちらちらと覗き込みつつ、寛いでいるように見える。

健司も最初は驚いたけれど、言ってみれば「今一番気になる女子」であるが隣にいることに強い興奮は感じなかった。むしろちょっと安らぐ。

「ジャスティス7はなんていうか……未知の世界だから、そういう面白さはある」
……全国大会に出るようなチームのリーダーから見たら、下らないガキの遊びに見えるかと思ってた」
「そんな風に感じる部分もあるよ。ボランティア活動だけでも充分なのにって」

に嘘をついてもしょうがない。ジャスティス7については花形の懸念の方が正しいと思ったし、が気になっていても、そのためにジャスティス7をおだてても無意味だ。どうせ数日間しかここにはいられないのだし、姑息な嘘をつけば余計に自分の中身が黒ずむような気がした。

「最初はね、本当にゴミ拾いとか、子守とか、そういうことしかしてなかったんだよ」
「初期メンバーなんだよな」
「そう。だって勘兵衛がそういう活動だって言ってたし、人助けは悪いこととは思えなかったし」

でなければと平八は参加しなかったはずだ。

「確かに、最初にストーカーに悩まされてたお姉さんを助けた時はすごく達成感あったの。ストーカーってどういうことなのかみんなでいっぱい調べて、どんな事件があるのかちゃんと予習して、お姉さんに逆恨みが行かないように慎重にやって、その時は本当に誰かの役に立てたんだって思えて」

初期メンバーが中心ということを考えると、伊織はともかく勘兵衛はそういう意味での「正義」を望んだであろうことは想像に難くない。そういう活動であればも平八も納得だっただろうし、後から参加してきた後輩たちもそれは正しい人助けと思っただろう。

「だけど最近、特に夏休みに入ってからは、ちょっと活動が過激になってきてる気がして」
……現場班のこと?」
「それに、人助けをすればするほど、人を困らせる人を見なくちゃいけなくて」

ゆっくり息を吐くの声は落ち着いているけれど、どこか沈んでいるようにも聞こえた。

「人の役に立ちたい、困ってる人を助けたい、それが出来るのってすごいことだって思う反面、なんでこんな酷いことが出来るのって思うこともあるし、なんでこんなに困ってる人がいるのに誰も助けてあげないのって思うし、そういうのを両方見てると、人と関わるのが嫌になるときもあって」

の気持ちはわかるような気がした。バスケットをやっていれば、勝利の喜びと敗北の苦しみはかならずついて回る。競技をやめたいと思ったことはないけれど、バスケットから離れたら喜びも失うかもしれないが、苦しむこともなくなるのだろうかと考えることはあった。

逃げ出したいとか離れたいとかそういう感情はなかった。ただ、もしそれを実行したらどうなるんだろうと考えてしまったことはある。仲間たちはどう思うのだろう、家族は、友人は、先輩は。そして自分は一体どうなるのだろう。上手く想像出来なかったが、少しだけ怖かったのは覚えている。それはまるで、自分自身の死を想像するのに似ていたから。

「でもチームの年下の子たちに慕われてるように見えたよ」
「そ、そうかな。ていうかそれもチームを抜けられない理由なんだよね」
「まあ確かに、ちょっと目を離せない感じの子もいるしな」
「そーいうのって、どういう距離感がいいんだろう。監督、アドバイスない?」
「うーん、そもそもオレの下に不安を感じるような部員がいなくて」
「そっか、そうだよねえ。伊織みたいな部員はまずいないよねえ」

笑うの振動が伝わってくすぐったい。後輩たちに目をかける、ある程度はその個人に気を配る、ということは監督としてやっているつもりだが、何しろ意欲にあふれたバスケット少年ばかり。ジャスティス7のような癖の強い個性を持つ後輩たちだったら、もっと気苦労が絶えなかったに違いない。

そう考えると、に少し疑問を抱いた。

……どうしてそんなに『人助け』をしようって思うの?」
「えーとね、うちと林田家が親しいのもそのせいなんだけど」

家が近所なだけで、たちが生まれた時はそれほど親しくなかったのだという。しかしが幼稚園の年長さんの時に彼女の母親が病に倒れ、林田家が度々を預かっていた。のちにの母親は全快したのだが、その一年半後に今度は健司の伯父である平八の父親の職場が倒産、林田家は突然収入が途絶えるという憂き目にあった。なので、あの時の恩返しとばかりに家は平八を預かったり積極的にお裾分けをしたりと、両家はふたつの困難をきっかけに親しくなっていった。

「うちの母親が入院してた時は本当に大変だったし、小父さんがいきなり仕事なくしたときも大変だったし、だから助け合うのが当たり前みたいな感覚もあるし、もしそういう時に誰も助けてくれなかったらって思うとゾッとするんだよね。だから、出来ることはやりたいなって、その程度なんだけど」

「その程度」がどれだけ有り難いかということは、経験するまで理解出来ないに違いない。健司はその有り難さを感じながら、軽く寝返りを打ち、の方へ向いて彼女の横顔を覗き込んだ。

「オレがここに来た初日の夜とか、色々話聞いてくれたのも、そういうこと?」

視線に気付いたも寝返りを打ち、健司を真正面から見つめた。

……平八がね、オレの同い年の親戚がメンタルやられて療養に来るって、言ってて」
「だから助けようって思ってくれたの?」
「ううん、そこまでのつもり、なかった。でも健司が、ものすごく疲れてるように見えて」
「そう言ってくれたよね」
「疲れて、擦り減って、エネルギーが貯められなくて、薄っぺらくなってるように見えた」

確かにそんな感じだったかもしれない。体の中に空洞があるような気がして、苛つかなくてもいいことに苛々して、真っ黒で恐ろしいものを受け入れてしまいそうな気がしていた。そこから完全に逃げ出せたとは思えないでいるのが正直なところだったが、と見つめあっている今はそれを忘れられる。

「同じ10代でそこまで疲れ切ってる人、見たことなかった。それをヘラヘラと茶化してる平八にも腹が立って。だからあんな、初対面なのにペラペラと喋って、家に帰ってからものすごく恥ずかしくなって」

ベッドの上で向き合ったふたりの手は、それぞれの腹の間あたり、指と指が触れそうな距離にあった。指にの体温を感じた健司は、そっと手を重ねてみた。は握り返してはくれなかったけれど、拒絶することもなかった。

「今はどんな風に見える?」
……まだ全然、楽になってないように見える」

健司的には、に甘える気持ちが強くなっていた。だから今はどうなどと聞いてみたのだが、ははっきりとそう言い、もう片方の手で健司の前髪を払った。

「間違ってたらごめん。全部壊したいって、思ってない?」

健司の体の芯は一瞬で冷たくなり、とごろ寝で緩んでいた心が凍る。

健司が否定しないので、は頷いて手を握り返した。

「知り合ったばかりでこんなことおかしいかなって思うんだけど……平八は幼馴染だし家族みたいな関係だけど、あいついつもヘラヘラしてるからイラッと来ることも多くて、でも、健司はどうしてかすごく誠実な人なんじゃないかって思えて仕方なくて。伊織みたいになってほしくないから」

はどうしてかすごく信頼できる人なんじゃないかって思えて仕方なくて。

健司はそう言いたかったけれど、声に出来なかった。繋いだ手が暖かくて、お互いの微かな息遣いを頬に感じ、林田家は静まり返っていて誰もいなかったから。平八の枕はひしゃげて、健司との距離は徐々に近付いていって――

叔従母さんの運転する林田家のバンが帰ってくる音がしなかったら、キスしていたのではないだろうか。車の音に驚いて飛び起きたは平八の学習机の椅子に飛び込み、健司も体を起こして膝を抱えた。そこに「おーい、ふたりとも手伝ってくれー」という平八の声が聞こえてくると、ふたりは何も言わずに部屋を出た。

この日の昼はパスタだった。高校3年生の男子がふたりなのでたくさん作るから手伝いがてら食べていったら、という叔従母さんの勧めでも一緒。食っても食っても食い足りない時期である健司と平八はパスタが大盛りでも心許ないので、叔従母さんの指示でサンドイッチを作る。

パスタといっても、叔従母さんの力技で炒められたナポリタンはソーセージとピーマンにタマネギの昭和スタイル。卵のコンソメスープはが作ってくれたおまけ。健司と平八のサンドイッチは作ったそばから消えてしまい、ナポリタンが出来上がる頃にはなくなっていた。

「あら、昂ちゃんたちに会ったの? そっか、河原で青春してたのね」

平八からざっくり説明を受けた叔従母さんの様子では、ジャスティス7のことは知らなくても、そのメンバーでよく集まっていることは把握済みらしい。河原で青春というか河原で未成年が飲酒だけど……と苦笑いの健司だったが、この叔従母自身がどの程度のギャルだったかによっては、大した問題でもないのかもしれない。平八はそういう遊びをしていても学業不振ではないようだし、夏休みだし。

「まあそうねえ、健司とはちょっと生きる世界が違う子たちばかりだけど、でもたまにはそういう人たちと親しくしてみるっていうのも悪くないと私は思うよ。いずれ健司もそういう人たちがひしめく世の中に出ていくんだし、バスケット関係の人としか話したことありません、じゃ大人になってから大変」

それにどうやら彼女にとっては、あの伊織が大層裕福な家庭の子であることが安心材料になっているらしかった。その上当然は心配ないし、勘兵衛も「間違いを起こさない子」という認識があるようだ。久我家の社会的地位と高3トリオへの信頼から、夜間に息子とが「友達との集まり」に出かけていくことは青春の1ページという感覚でしかなさそうだ。

昼食の後片付けもが手伝っていたので、さすがに無視できなかった健司も手伝い、それが終わってが帰宅したのが14時頃だった。さて今日はもう伯父さんもいないので、基本的に健司はやることがない。なのでついまた平八の部屋に戻ってしまった。

平八の学習机の上にはが持ってきた文庫本。

……お前さ、オレしかいないから、わざとを呼んだのか?」

テレビの前の座椅子に座っている平八はにんまりと目を細めた。

「お前から見るとジャスティス7なんて民度の低い地域のドキュンの集まりに見えると思うけど」
「そんなこと……
「でもはちょっと違うだろ? にとっても、お前はちょっと違うみたいだし」

そう簡潔な言葉にまとめられてしまうと、陳腐で中身の薄いひと夏の恋愛感情のように聞こえてくる。ガチな一目惚れで泥沼コースというわけでもないけれど、健司はなんとなく居心地が悪い。平八たちが帰ってこなかったらキスしていただろうし、だからといって以後も微妙な遠距離恋愛をしましょうねというつもりもなかった。

ただあの時はまるで吸い寄せられているような気がしたし、もそれは同じだったようだし、互いに感じた安心感は繋いだ手の中でそっと体温であたためられていて、唇を重ねればそれは確信に変わる気がした。それを確かめるためにキスしようとしていたのではないか。そんな気がする。

「チームの女子は3人しかいないけどさ、みちるや七郎次にはそんなこと感じないだろ?」

健司は黙って頷いた。みちるはいかにも「美人」というタイプの容姿をしているが、その攻撃的なファッション以前に、全身から厳しい教師のようないかめしいオーラが吹き出していて、とてもじゃないが心惹かれる女子にはなりそうもなかった。七郎次も栗鼠を思わせる可愛い女の子ではあるのだが、何しろ彼女は15歳ながら完全に格闘家の風格を備えていて、どう接すればいいのか悩むタイプの女子だ。

けれどはどうしてか安心出来るし、なぜかやたらと色っぽく見えるし……

……なあ、って色っぽいと思うか?」
「いや、全然。ジャスティス7のセクシー担当はオレ」
「それは聞いてない」
「脱いだら一番すごいのは勘兵衛」

ゲームを始めながら、平八はヘラヘラと笑っている。

ジャスティス7の活動は既に1年を過ぎているらしいし、その中で恋愛関係にあるのはみちるとリンだけ。しかもそのふたりはチームに参加する以前から付き合っていて、チームの中で生まれたカップルではない。ということは基本的にはあのチームはそういう感情抜きの「仲間」なのだろう。

それは少しわかる気がした。常に自分が所属しているチームがまさにそんな感じだ。仲良し親友の集まりではない。共通の目的のもとに集まった同志なのであり、それはきっかり3年間で終わるし、個人的な感情よりもチームとしての意志が重要な集団。

でもは違う。

も健司だけは違うらしい。

しかしどうしてだろう、恋は楽しくて嬉しいものであるはずだが、そんな気分でもなかった。だとしたらに抱いている感情はいわゆる恋愛感情ではないのだろうか。都合のよさそうな女が目の前に現れたから寄りかかって甘えたいだけ……とは思いたくなかったのだが。

健司はぼんやりとゲーム画面を眺めつつ、が持ってきた文庫本を手に取った。平八が読書感想文に使うらしいが、作家名は星新一、タイトルは「ひとにぎりの未来」。古い作品のようだが、聞いたことも見たこともない作家だった。文庫本は少し角が擦り切れていて、古本でないのなら、は何度か繰り返して読んだのだろう。

「七人の侍」と同じだ。これも未知の世界、と平八は知っているのに、健司には何もわからない。表紙をめくってみる。慣れない紙の質感に指が少し強ばる。

「読んでみるか? オレは後で読めばいいから、持ってっていいぞ」
のだろ。勝手に……
「お前ならなんも言わないと思うけど」

伊織の家には18時頃に集合となっている。それまで何もすることがない。平八はゲームをするようだし、叔従母さんは疲れて少し休むと言っていたし。健司はなぜかやたらと気の休まる4畳半の和室に戻って横になり、文庫本を開く。ガラス障子から差し込む夏の午後の日差しに黒のインキが艶めいていた。

「えっ、読んでみたの? 健司って読書好き?」
「いやその……全然。だからどんなものなんだろうって」
「それがいきなり星新一は読みにくくなかったかな……

読みにくいどころか、あんまり面白いのでもう半分ほど読んでしまった。レトロな雰囲気の林田家で読む独特の文体は健司を奇妙な世界へと一気に引きずり込み、居心地の悪い興奮を呼んだ。それを言ってみると、は嬉しそうに目尻を下げた。

「そっかあ。それならよかった。新しい扉が開くって、いいよね〜」

信号が変わり、はペダルを踏み込む。健司はと平八と自転車で伊織の家へ向かっている。ちなみに健司の自転車は地元のサイクルショップのレンタル自転車。このところレンタル需要がさっぱりなので長期レンタルでもいいよ、と貸してくれた。

真夏の17時40分、空はまだ真昼の明るさを残しているし、何なら昼頃より暑い。そんな街の中を3人は自転車で駆け抜けていく。流れるように通り過ぎていく見知らぬ街に、健司は昨夜の「酔い」を少し思い出していた。この街は自分の日常から何もかもかけ離れていて、まるで物語の中に迷い込んでしまったような気になる。そんな時は少しだけ気が遠くなって、目が回るような錯覚を起こす。

……何かに悩んだり迷ってる時とかって、すごく世界が狭くなってるから、ちょっと目を逸らしてくれるものがあると助かるよね。すごく狭い範囲のことしか見えてなかったって、気付けるし」

ふたりを追い越しながら平八が「それはテスト勉強中のお前だろ〜!」と言い捨てていく。「そんなことないから!」と怒鳴るも速度を上げ、彼女のシャンプーの甘い香りが真夏の熱気に焦げて健司の鼻をくすぐる。

確かに今、日常の「リアル」であるはずのバスケットや翔陽の体育館を感覚で思い出せない。ボールの音、感触、部室の匂い、ロッカーの冷たさ……それらをやけに遠く感じた。

そして20分後、健司は「伊織の家」の前で自転車に跨ったまま口を開けていた。

「伊織ん家、デカいよな〜」
「でも伊織がいるのは『離れ』だから、気にしなくて大丈夫だよ」

ふたりは慣れているので気楽なものかもしれないが、久我家の大きさたるや、これほど巨大な邸宅を実際に見るのは初めてである健司はポカンと口を開けたまま、背中に伝う汗に冷たいものを感じた。

何しろ久我家、正門の前に立つと、隣の家が見えなかった。