のちに目が覚めた平八によると、既に伊織の家に泊まると連絡を入れてあるから帰らない、という。確かに「七人の侍」をじっくり鑑賞してしまったあとは緩い疲れがあって、自転車でまた帰るのは億劫だなと思っていた。
なのでそのまま深夜テンションで打ち明け話が始まってしまい、まずは七海兄妹が血縁関係にないことが判明した。確かにまったく似ていない。似ていないというか、共通点すら見当たらない。
「同い年の連れ子持ち同士の再婚で、誕生日がオレの方が先なだけ」
「そっか、どっちかが早生まれの年子なのかと」
「でももう他人て気がしない。普通に双子ってこんな感じなんじゃないかなって思う」
ジャスティス7の、とりわけ伊織と勘兵衛の考えには同意できなくても、妹が心配だから離れる気はないと言っていたし、それは嘘ではなさそうだ。それに千秋いわく「鬼のような格闘家に育ってしまった」のは無関心ではいられないだろう。
そんなことを話していたら突然ムクリと七郎次が起き出し、健司と千秋の間でスヤスヤと寝ているを覗き込み、そっと頭を撫でた。
「になんもしてないよね?」
「志乃、健司くんはそんな人じゃないよ」
「そういうことするつもりなら、ここには来ないよ」
兄と健司に畳み掛けられた七郎次はしかし、床に座り、を守るように両腕で囲い込んだ。
「志乃、今健司くんにオレたちのこと話してたんだ」
「ふーん。聞いても面白くないでしょ、そんな話」
「うん、笑えるとか楽しいとかの面白さはないよ、確かに」
「じゃあなんで聞くの」
「オレが話し出したんだよ」
「まあその、オレは普段狭い世界にいるから、勉強になるけど」
「ふーん」
とは言うものの、七郎次はを守りつつ、兄と健司を交互にチラチラと見ている。それをどう受け取ったのか、千秋はやにわに立ち上がると、シャワーを浴びてくると言ってバスルームに消えてしまった。というかシャワーも入り放題か。たまり場としてのレベルが高すぎないか。
なので健司はありがたくお膳立てを利用することにして、聞いてみた。
「……七郎次は、なんでジャスティス7やってるの」
「ここにいる方が気が休まるから」
「家は休まらない?」
「……普通、家って家族がいて、ホッと出来る場所でしょ」
「……そうだね」
「うちはそうじゃないから。早く出ていきたい」
七郎次の言葉は実にありふれていて、大なり小なりそんな思いを抱えているという10代は多いだろう。だが少なくとも兄の千秋にはそんな思いはないはずなので、健司は黙って次の言葉を待った。
「さっき千秋から聞いたんでしょ。私は父親の連れ子、千秋は母親の連れ子。あいつらが入籍するまでは本当に優しくて楽しい親たちだと思ってた。それに、千秋の母親は私をものすごく可愛がってくれて、こんな人がお母さんになってくれるなんて、自分は幸福だと思ってた」
「……違ったの?」
「そんなの演技だった。私たちが家族になってから、そういう『相手の子を贔屓して見せてるけど、実はバカにしてる』ってことに気付いた。私の父親も同じだった。千秋のことをよく褒めるけど、一緒に暮らしてきた私にはわかる。あれは演技で、嘘で、実は正反対のことを考えてる」
千秋も小学生の間に同様の結論に至ったようで、以来ふたりはお互いだけを家族だと感じるようになった。そして菊千代に誘われてジャスティス7に入った。
「私の家には嘘と侮辱が溢れてる。家なんか気が休まるどころか、吐き気がする。でもここはそういうのがない。誰も『そんなことない、お父さんお母さんは本当は君たちのことを心から心配して大事に思ってる』って言ってこない。悪い奴らを倒せるし、困ってる人に手を貸せる」
健司は言葉に詰まった。昨年から翔陽バスケット部で監督を務めているが、その間に新入生を含め30人ほど退部者が出ている。その中にひとり、家庭環境に問題があって部活を継続するのが難しい部員がいた。下級生で、真面目な人物だった。だが、家庭での悩みをちらりと漏らした彼に、健司はつい返答に迷って七郎次が言われたくない台詞を言ってしまった。退部を悩む部員はそこでキレてしまい、健司に向かって「オレの親に会ったことあるのかよ! ちゃんと事情を知りもしないくせに、勝手なこと言うな!」と叫び、そのまま退部していった。
当然健司と同学年の部員は彼の無礼を非難した。監督は心配してアドバイスしてやっただけなのに失礼だと憤り、彼の退部をむしろ歓迎した。だが、後日退部していった彼は顔に青タンをこさえており、その1ヶ月後には退学した。彼に何があったのかはわからないけれど、あの時彼がキレてしまうような言葉を、何も考えずに言ってしまったことは後悔していた。心から伝えたいことなんかじゃなかった。ただこんな時にはこういえばいいんだろうか、くらいの判断しかなかった。
目の前の七郎次は、それを挽回出来るチャンスなのだろうか。
「……もしジャスティス7がなくなったら?」
「それは別に。伊織が死なない限り、ここにいるからいい」
「でも、千秋は家族だよな?」
七郎次は音もなく顔を上げると、大きく頷いた。真顔になると幼い。
「もちろん。それにジャスティス7も家族だよ。大事な家族」
「そっか。それならよかった」
退部退学していった彼にも、そういう「家族」がともにありますように。健司は心の中でそっと祈った。すると言いたいことを言い終わったのか、七郎次が珍しくニヤリと目を細めた。
「でもあんたはまだ家族じゃないよ。を任せられる男かどうか分からないからね」
すっかり氷の溶けたお茶を吹き出しかけた健司の向こうで、平八がまたフガッと鼻を鳴らした。
「……で? それなんてキャンプファイア効果?」
「それ意味が違うだろ」
一旦林田家に戻ったときに電話をしていたことをすっかり忘れ、本部に降りた健司は定時連絡のつもりで花形にまた電話をかけてしまった。作戦テーブルの椅子は座り心地が良すぎるが、ちょっと居た堪れない。しかも花形は再度お説教モードだ。
「なんか狭い交友関係の中に耽溺して泥沼から出てこられないってのがよく分かるな」
「そういう言い方は……」
「夏休みの深夜にエモい打ち明け話して青春〜って、典型的すぎるだろ」
特に技能に優れていて高校卒業後もバスケットを続けていきたい、なんならプロを目指したいというような選手には、こういう感覚を持つ人物は少なくない。基本的に部員は皆、不和や暴力や貧困とは無縁の安定した家庭に暮らしている。アウトローでアンダーグラウンドな苦悩と青春は理解されづらい。
しかしジャスティス7の本部にいてそんな言葉をぶつけられてしまうと、否定したくなる。
「でも七郎次は――」
「何が七郎次だよ。そんなごっこ遊びにマジになってんじゃねえよ」
「お前な」
「オレはお前が過不足ない状態で帰ってくる義務があると思うから言ってんだよ」
「過不足って……」
そりゃこの街に来た目的は本来の自分を取り戻すためだった。けれど平八と再会し、と出会い、ジャスティス7と関わってしまった。もう元の自分になんか戻れない。彼らを知らなかった頃の自分になんか、戻れるわけがない。
過不足、という言葉は、と平八を含むジャスティス7が「不要なもの」であると聞こえた。
「実際余計なものだろ……お前ほんとに自分の立場忘れてるぞ」
「そんなこと……」
「てかもう4日目終わるぞ。いつ帰るんだよ。練習再開いつだか覚えてるだろうな」
4日目!?
正直そんな感覚がなかった。もっと長くこの街にいるような気もする。そこで初めてちょっと怖くなった。練習再開日は覚えてる。覚えてるけど、それまでの間、いつに別れを告げていつ林田家を出ていつ自宅に戻るのかは、まったく考えていなかった。
えーと、初日は寿司とかステーキの大宴会で、次の日は中華祭り、その次の日は昨日、ここでマック食べた。そして今日が叔従母さんのサバ味噌。確かに4日目だ……
実感はなくても、このところの夕食を思い出すと確かに4日目が終わっていた。花形の言う通り練習再開までには元の自分を取り戻さなきゃいけないのに、何ひとつ取り戻せてないし、やジャスティス7なんてものを背負い込んでしまった。
だけどそれらを捨てていくべき余計な荷物だとは、もう思えない。
そういうジャスティス7への友情に似た感情と同時に、じわりと恐怖が足元から這い上がってきた。そういえばオレ、予選と海南の決勝進出で参ってて、それでここに来たんじゃなかったか……? なんかしばらくそれ忘れてた気がするんだけど、オレ、バスケ部に戻れるんだよな……?
この街にやって来て以来、なんでもかんでも自分とバスケ部に照らし合わせて考えてしまって、そういう意味ではバスケ部のことが頭を離れたことはなかった。けれど、自分がドロドロの暗闇に飲まれそうになっていたことは遠い記憶のような気がした。
あの真っ黒な、底の知れない暗闇みたいな感情、もう完全に取れたのか? もう出てこない?
てかそれってやっぱりが取ってくれたんだろうか。ジャスティス7? まさか平八じゃないだろうな。伯父さんと叔従母さんも優しくしてくれるけど違うし、この何もない街が癒やしてくれたとも思えない。だけどあの心の底に溜まったドロドロ、今は感じない気がする。
じゃあオレ、元の自分に戻れたってこと? 戻ってんの、これ?
そんなことない気がする。落書き暴行事件から戻って来た時のあの頭が溶けそうな感じはまだ覚えている。逃走する犯人の前に立ちふさがった時、「あれ、なんだよノロいなこいつ」と一瞬で恐怖が消えた瞬間は覚えてる。そして、溶けそうな頭でを強く抱き締めたあの感触は、はっきり覚えてる。
その時のオレは「翔陽の藤真健司」ではなかった。
「……オレは別にお前が突然バスケやめるって言い出しても、『オレたち仲間なのに!』みたいな怒り方はしないと思う。だけど、今年はこんな敗北の中にいるけど、それでもお前は翔陽っていうチームを預かったんだ。その責任を放棄することは許さないぞ」
花形の気持ちはわかる。オレたちは仲良しお友達じゃない。ただひとつ、チームの勝利という目標のもとに集った同志だ。そこには信頼もあれば感謝もあるけれど、花形の言うように、自分たちを結びつけている糸の上にはいつも「責任」がある。
「お前がちゃんと自分自身を取り戻して帰らなかったら、後輩はどうなる?」
それも、「責任」。健司は今更ながらに自分の背に乗せてしまったものの重さを感じていた。おそらく、伯父さんや叔従母さんのような部外者から見ると健司の背負っているものは「高校の部活の中の話」で片付く程度のものに見えるだろう。実情はそれほど簡単な話でもない。
だが、そんな感情を花形には知られたくなかった。
自分ととジャスティス7について、勝手なことを言われたくなかった。
「……戻るに決まってるだろ、オレ以外の誰が翔陽を引っ張っていけると思ってるんだ」
「海南が、牧が決勝進出したって聞くまでのお前ならな」
「それはもうどうでもいいって……」
「どうでもいい? 海南が決勝進出でオレたちが予選敗退だったことがどうでもいい?」
「そういう意味じゃない。揚げ足取りをするな」
「お前は今、そっちの仲間と遊んでるのが楽しくて、自分の責任を忘れてる」
「そんなことない」
「今のお前は信用できないって言っただろ」
「しつこいな! 今は夏休みなんだろ! プライベートにまで口を出すなよ!」
あまり考えずに言ってしまった。花形の言いたいこともわかるのに、どうしても彼の言葉の中にはやジャスティス7を見下しているような色を感じてしまって……
「……そりゃそうだ、悪かったな。オレたちは友達じゃないからな」
「だからそういう……」
「いや、それはお前が正しいよ。夏休みなんだから、部活は忘れてもいいはずだ」
花形の声は嫌味を言っているようには聞こえなかった。普段の、いつも通りの彼の声。
「そこに部長と副部長って関係性を持ち込んだのはオレの方だ。それはすまん」
「……いや、心配してくれたんだろ」
「心配ってわけじゃない。ただお前が責任を放棄して堕落したらキレる自信があったから」
「そんなこと、したくないよ」
「それは知ってる。だけどオレはお前のプライベートに偏見を持ってるんだ」
特にこの花形はアンモラルなことを嫌う性格で、それはよく知っているので、ジャスティス7どころか、この街にすら偏見を持ってしまうのは分かる。それを隠さずに正直に言えるのも付き合いが長いからだ。そしてそんな副部長に何度も助けられてきた。それは忘れていない。
「……花形、ちゃんと帰るよ。ここには転地療養で来ただけだ」
それは本音だった。ずっとこの街にいたいなんて思ってない。けれど、花形の声は変わらなかった。
「そう願うよ。それに、もう定時連絡はしなくていいからな。じゃ、休み明けに」
スマホを押し付けていた耳が汗をかいているような気がした。健司は座り心地のいい椅子の背もたれにぐったりと身を沈めると、大きく深呼吸をした。健司の中では、ふたつの感情が絡まりあって喧嘩していた。呼吸と一緒に吐き出さなければ中から爆発しそうだ。
ひとつ、健司の精神状態を誰よりもよく知っているはずなのに、なぜこんな追い詰めるような真似をするのかという憤り。もうひとつは、翔陽バスケット部とジャスティス7を天秤にかけて上下を決めたくない、決められたくないという悲しみに似た感情。
それを正直に話そうものなら、バスケ部の方が重要に決まってると怒られるはずだ。花形でなくてもそう言うだろう。片や全国大会出場レベルの名門チーム、片や夜に河原で飲酒と自警団。比べるまでもないと誰もが思うはずだ。
チームを引っ張っていく立場である健司にそんな感情が生まれてしまうこと自体、逃げだとか、自暴自棄だとか、「今すぐに引き止めるべき事態」とみなされるだろう。だだでさえ将来有望な選手なのに、程度の低い友達と青春してる場合じゃないだろ!
理屈では理解出来ても、どうしても受け入れられなかった。ジャスティス7に愛着や親愛の情なんかない。も心から惚れてるというほどでもない。平八なんか親戚だけど何年も会ってなかった。だけど彼らをバカにされたくないのは、どうしてなんだろう。
カサリと物音がしたので顔を上げると、本部の巨大なモニターの前に伊織が立っていた。
「揉めるくらいなら、帰った方がいいぞ」
「……揉めてたわけでは」
「こっちも長居されるのは困る」
「えっ?」
薄気味悪い挙動不審の奇っ怪な人物だと思っていた伊織だが、本部のぼんやりとした明かりに普段前髪に隠れた顔を晒していて、それはこれまでの陶酔気味な言動のおぼっちゃん……のものではなかった。濃い目の眉にくっきりしたアーモンド型の目、それが健司を見下ろしていた。
「ここに来たばかりのお前は光が強すぎて、長居されると影が強くなると思った。だけど今、お前の中には真っ赤に燃えている真っ黒な炭みたいな暗闇がある。世の中知らない方がいいこともある。取り返しがつかなくなる前に自分の世界に戻った方がいい」
やっぱり言ってることは陶酔ポエムだ。けれど、健司もいつもの自分ではなかった。
「…………なんで自警団を始めたんだ」
今もし自分の中にそんな燻る炎があるなら、それをどうにかしないことには帰れない。
「実力が釣り合わない絶対に勝てる相手を攻撃して、自分は強いと思い込んでる低能が腹立つからだよ」
伊織の目にギラリと不穏な光がきらめく。
大丈夫、オレはオレ以外の何者にもならないし、なれない。