ビー・ア・ヒーロー

3

中学に進学してからというもの、朝寝坊とは縁のない生活を送ってきた。というか公立出身の健司が翔陽の1年生エースにまでなったのは、中学のバスケット部が異様に厳しかったからでもある。なのでその頃は親より早く起きて朝練に出かけ、親しかった部員の母親が藤真家の事情を知っておにぎりを余分に用意してくれたので、それが朝食だった。

というわけで、目覚ましもかけずに寝てしまった健司は叔従母さんに起こされるまでぐっすり熟睡、それでもまだ眠かった。見れば時間は8時、こんな時間まで寝ていたのは久しぶりだ。体がだるい。

4畳半の部屋を這いずり出ると、林田家でしか見たことのない年代物のタイル張りの洗面所に向かう。すると後ろから大あくびの伯父さんがやって来た。こっちも寝起きらしい。

「よく寝られたか? 和室なんて慣れないだろ」
「全然大丈夫。まだ寝られそう」
「おじさん、休み今日までなんだよ。ちょっと一緒に出かけないか?」

そんな貴重な休みをもったいないのでは……と思ったが、昨日の歩の話を思い出して素直に頷いておく。伯父さんは健司と遊びに行きたいらしい。

歯を磨いて居間に顔を出すと、やっぱり大あくびの歩が大きな盆を手にしていた。盆の上には味噌汁と白飯。健司はついそれを覗き込んだ。林田家、マジでちょっと時間止まってない?

食卓には既に焼鮭と漬物や常備菜が並べられており、昨日の残りのとうもろこしや串を外した焼鳥らしきものも紛れ込んでいる。起きてすぐにガツガツと食事が出来るタイプではなかったのだが、柔らかな味噌汁の香りの誘惑は強い。

「遊びに行くって言っても、このあたりは何もないからねえ」
「昔っから家しかないんだよな」
「笑い事じゃないわよ。あんまり健司を疲れさせないでよ」

伯父さんにとってはラストチャンスなので遊びに行きたいわけだが、叔従母さんは健司の体調や精神状態の方が気になるようだ。正直どっちもどっちなので、健司は「まだ時間あるから」と叔従母さんを宥めながら味噌汁を啜った。慣れた自分の家の味とはちょっと違う。それは違和感だったけれど、Tシャツに短パンで座卓に胡座をかいて味噌汁と漬物、という状況はむしろ新鮮で面白い。

そういえば、このキュウリの漬物って、ちゃんが持ってきたやつだったよな……

キュウリのサックリした歯ざわりですら非日常感を加速させ、健司はなんだか楽しくなってきた。親戚の家に泊まりに行ってもこの夏の正体不明の苦痛なんか癒えないと思っていたけれど、ここにいる間は忘れられるような気がしてきた。

「で、遊びに行くって、どこに行くの?」

この林田家には何度も来たことがあるが、この街のことは何も知らない。住民たちは口を揃えて「何もない」と言うが、余所者なら楽しく遊べるようなところがあるのかもしれない。と、健司は思ったのだが、呆れ顔の妻と息子の視線の中で伯父さんは苦笑い。

「いや、そこのショッピングモール……

ほんとに何にもないわけね……

とは言うものの、ショッピングモールは開業5年目、まだまだ真新しく、それなりに遊べる場所だった。財布はお小遣いで潤っているし、時間には追われていないし、健司はゆっくり吟味して靴や服を買い、大盤振る舞いの伯父さんにハンバーグをご馳走になり、ペットショップを冷やかしていたら健司と歩のイケメンコンビにスタッフのお姉さんが寄ってきて、フワフワのトイプードルとシーズーを抱っこさせてくれた。悶絶するふたりにお姉さんも悶絶していた。

なので疲れもせず飽きもせず、終いには歩とふたりで自撮りまでして帰ってきた健司は前日とは打って変わって機嫌が良かった。気心の知れた相手と日常を忘れて普通に過ごしているだけで、心はかなり軽くなる。叔従母さんはひとり気を揉んでいたようだが、楽しそうな健司を見て安堵していた。

林田家は健司のことを気遣ってくれるが、幼児ではないのだし、おそらくこれで「おもてなし」は終わりだ。伯父さんは明日から仕事だそうだし、叔従母さんは基本専業主婦だそうだが、知り合いの飲食店の手が足りなくなると手伝うことがあるそうで、ということは以後は歩に丸投げになるのだろう。

健司は部屋で買った服を広げつつ、昨夜の歩の「付き合ってくんない?」を思い出していた。歩は「明日」と言っていたし、それは今日のはずだ。まだまだ外は真夏のギラギラした日差しで明るいが、時刻は夕方に迫ろうとしている。叔従母さんは既に夕食の支度を始めているし、ということは歩の「付き合ってくんない?」は夜になってから、ということだろうか。

とにかくいつでも部活な健司の場合、夜遊びというものはほとんどしたことがない。部活の集まりで遅くなってしまったとか、夏祭りとか、二年参りとか、そのくらいなら経験があるけれど、手近な遊び場がショッピングモールくらいしかないこの街の「夜」は少し緊張が伴う気がした。

それがもし嫌悪感を催すようなものであれば、花形の言うように深入りをせずに手を引き、歩が引き下がらないようならさっさと自宅へ帰らねば。

ということはわかっているのだが、そういう自分の意志とは全く別のところに、ほんの少しだけ引っかかっているものがあった。

うーん、でももう1回くらい、ちゃんと会えないかな。

自分で気恥ずかしいのが如何ともし難いところだが、それが正直なところだった。叔従母さんの「ごはんだよ〜!」というホームドラマのような声に居間へ行き、食卓の中華祭りにまた楽しくなりながらも、今日はちゃん来ないのかなと思ってしまう自分を止められなかった。

伯父さんの夏休み最終日にも引っ掛けているのかもしれない。今日も叔従母さんは全力で中華をぶっ放し、テーブルの上は完全に埋まっている。エビチリ、回鍋肉、青椒肉絲、麻婆豆腐、かに玉、春巻き、レタス炒飯……まあ明らかにレトルト調味料で簡単に作れるもののフルコースといった様子だが、昨夜と言い、庶民的なご馳走は気持ちが緩む。

食べたかったらラーメンもあるよ、袋に入ったやつだけど! と言う叔従母さんの笑顔が嬉しい。昨日からひっきりなしに好きなだけ食べていいんだからな! を連呼しっぱなしの伯父さんの照れくさそうな頬が嬉しい。それだけでも久しぶりに林田家に来た甲斐はあった。

なので夕食後、歩にTシャツの裾を引かれた健司は少しだけ心臓が跳ねた。

「なに、出かけるの?」
「そう、イオリのところ行ってくる」
「あら、昨日のスイカ持っていく?」
「いやあいつスイカなんか食わないと思う……
「まあそうだけど、コウちゃんとかユキトが来てるならと思って」
「うーん、いるかもだけど、今日はいいや」
「そう。遅くなるようなら戸締まりちゃんと確認して」
「わかってるって」
「女の子いるならちゃんと送っていきなさいよ」
「大丈夫だよ、いつもやってるから」

歩と叔従母さんの会話が余計に緊張を強くする。どうやら自分は「イオリ」という人物の元へ連れて行かれるらしい。そしてそこには「コウちゃん」とか「ユキト」という人や、場合によっては女の子もいるようだ。その中にがいるかどうかが気になって仕方ないけれど、ニヤニヤが出やすい歩にそれを聞く気にはなれなかった。

それにしても林田家はギリギリ未成年の歩が夜に外出することを気にしないんだな……と思いながら外に出た。すっかり暗くなって夜だが、まだ充分に暑い。昼間よりは涼やかな風が吹いているけれど、ちょっと息苦しさを感じる。

……イオリって誰?」
「ああ、まあ、友達というか仲間というか、でもイオリの家には行かないよ」
「叔従母さんに嘘ついたのか?」
「というほどでも。イオリの家じゃないけどイオリはいるし」

サプライズ気分なのか、歩ははっきり言おうとしない。しかしそれでは健司が不審がると思ったのだろう、柔和な笑顔でちらりと視線を寄越すと、歩はいたずらっぽい声で言った。

もいるよ」

瞬間、緊張とともに少しビビっていた健司の心は溶けた。それなら問題ない。どこに連れて行かれるのかわからないけれど、きっとあのはショーパンから尻を半分出してノーヘルで原付に乗るとかいうタイプではないはずだ。大丈夫、彼女がいればたぶん楽しい。

「おーい、こっちこっちー!」
「早かったなー!」
「悪ィ、何も持ってきてないんだ」
「いいよ、イオリが出してくれたから。今、ユキトとリンが買いに行ってる」

健司が連れてこられたのは、林田家から歩いて20分ほどの河原だった。既に真っ暗、鉄橋の明かりでぼんやりと川が認識できる程度だったが、そこにチラチラと焚き火が見える。その明かりを囲んでいる数人が声を上げて手を振る。これが「イオリ」とか「コウちゃん」なのだろうか。

すると白っぽい人影が近付いてきて、サッと手を上げた。だ。

「健司くん、来てくれたの」
「こいつ、どこに行くのか何も教えてくれなくて」
「具合とか、気分はどう?」
「全然平気。ありがとう。キュウリの漬物おいしかった」
「えっ、食べてくれたの? 嬉しい〜。うちのばあちゃん漬物名人なんだよね」

本日のはチューブトップにオーバーサイズのタンクトップを重ね、膝丈のパンツにスニーカーサンダルだ。オーバーサイズのタンクトップがまるでバスケットのユニフォームに見える。オーバーサイズだから彼服っぽく見える。やばい、翔陽のユニフォーム着せたい。

「これってどういう集まりなの?」
「それは全員揃ってから説明するね。座るの、歩と私の間でいいよね?」

もちろん歓迎なので頷くと、は腕と背に手を添えていざなってくれた。

「なんだっけ、いとこ、でいいんだっけ?」
「だからそーいうのは全員揃ってからって言っただろ」
「てかほんとに似てるんだね……兄弟でもそんなに似ないよ」
「顔だけ見ると言うほど似てないんだけど、遠くから見るとな」

それにしてもわけがわからない。に連れられて焚き火を囲む平たい石に腰を下ろした健司だったが、歩は健司そっちのけで話しているし、も説明はまだしてくれないらしい。

が気を遣ってか今日は何をしてたの、と聞いてくれたので、歩との自撮りを見せつつ、ショッピングモールで遊んできた話をしていた。そこにきて健司は、は歩から事前に事情を聞いていて、それで気遣ってくれているのでは……と思いはじめた。

昨夜、突然現れた幼馴染の親戚の湿っぽい話を進んで聞き、少しでも気持ちが楽になるようなことを語りかけてくれたのは、そういうことだったのでは。初対面の相手に普通、そこまで寄り添ったりしない気がする。聞いて面白い話でもないし。

しかしやはり隣で色々話しかけてくれるを見ていると、それでもいいや、という気がしていた。昨日知り合ったばかりの同い年の女の子だけれど、もしかしてこの子には寄りかかって甘えてもいいのかもしれない……という期待もあった。

すると後ろから声がしたので、健司は思わず振り返った。相変わらず暗いので足元が見えない幽霊のようだったけれど、いかつい金髪のツーブロックが両手にナイロン製のバッグをぶら下げていて、しかめっ面をしていた。和柄のシャツに数珠ブレス、足元は雪駄。とうとう出たよ……

だがしかめっ面の金髪くんは何も言わずに腰を下ろすと、もうひとりの男子とふたり、バッグの中身を出して皆に配り始めた。河原でパーティみたいな感じなんだろうか。それをぼーっと眺めていると、隣の歩が身を乗り出して手をパチンと打ち合わせた。

「じゃ、全員揃ったので、ちょっといいかな。えーと、彼がオレのイトコでハトコの健司です」
「イトコでハトコってどういう意味?」
「そこはあとで説明してやるから。で、年はオレと同い年で、実はすごいバスケ選手だったりします」

ざっくりとした説明だが、なんだか歩は自慢気だ。それが居心地悪い健司だったが、焚き火を中心に車座の人々は特に訝しがる様子もなく、ペットボトルやお菓子を手に頷いている。なので健司は小声で「どうも」と言って軽く会釈をしてみる。こんな場でふざけたりウケ狙いのパフォーマンスをするのは苦手だ。やりたくもないし、出来もしない。

「で、健司、今から一応ひとりずつ紹介するけど、人数多いし一気に覚えなくていいからな」

歩はそう言うけれど、立場上初対面の相手の顔と名前を記憶するのは得意。ちらりと見回してみると、歩と以外に7人いるようだが、そのくらいなら記憶できる気がした。しかも揃いのユニフォームやジャージで一気に現れる対戦相手や後輩と違って、それぞれ個性的。

「じゃ、まずオレの隣から、同い年の田島昂誠(こうせい)
「よろしくな」
「それから2コ下の七海千秋と、七海志乃。ここは同学年の兄妹」
「こ、こんばんわ」
……ども」
「その隣が岡本みちる。こいつは1コ下」
「初めまして」
「その隣が片山倫太郎。これも1コ下」
「よろしくー! この子、みちるはオレの彼女なんで!」
「余計なこと言うんじゃない、バカ」
「まあそういうカップルで、で、次が菊名如人(ゆきと)、こっちも1コ下」
「しゃっす」
「で、最後がの隣の、久我伊織。1コ下」

これで一周、に戻る。同い年やらいくつ下やら説明が回りくどいが、要するに高校3年生が健司を含めて4人、高校2年生が3人、高校1年生がふたり、ということらしい。さらにその中にカップルが一組と、兄妹が一組。同じ学校やクラブ活動でくくるにはちょっと個性が強すぎないか?

田島昂誠は健司や歩と同じくらいの背丈をしているようで、しかもふたりより筋力が多いがっちりしたタイプ。坊主に近いベリーショートと強めの眼光が大人っぽさを感じさせる。けどまあ、こういうタイプは普段の高校競技の世界では珍しくない。同学年だというし、意外と気楽な相手かもしれない。

兄妹だという七海千秋と七海志乃は、まるで似ていない。男子と女子という目で見ると、兄の千秋は小柄、妹の志乃は背が高く体が大きく見える。そのせいかどうか、千秋の方はつま先を内側に寄せていて内気な雰囲気だが、対する志乃はあぐらに体を反らしていて気が強そうだ。

カップルのひとり、岡本みちるは見るからにゴスパンク女子で、サラサラの黒髪に黒い爪、この熱帯夜に長袖とブーツという剛の者。だというのに、それの彼氏である片山倫太郎は爽やかとしか言いようのない風貌で、まあ言ってみればそこそこのイケメン。歩も系統としては爽やかで清潔感のあるイケメンということになりそうだが、歩より表情があどけなくて可愛らしい。

そしてとうとう出た菊名如人。花形の言う「マイルドヤンキー」の意味は調べてもピンとこなかったけれど、彼はそのマイルドヤンキーとヤンキーの境目にいるような人物に見えた。金髪ツーブロック、耳と眉と鼻にピアスが刺さっていて、ゴツゴツした指輪に数珠ブレスに、胸元にはドクロがぶら下がっている。顔だけ見るとまだ幼さも見えるが、何ぶん装備が典型的なので妙な迫力がある。

――と、そこまではよかった。誰も彼も同世代の多様な人々と考えて記憶することが出来ると思ったけれど、の向こう隣の横顔を改めて見つめた健司は、熱い風に吹かれながらもゾクリと背筋に冷たさを感じてしまった。

久我伊織。これが「イオリ」か、女の子かと思ってた――なんていう意外性はすぐに消え、その隣に腰掛けているの腕を掴んで引き寄せ、伊織から遠ざけたい衝動に駆られた。

バスケットをしている時、目の前にいる対戦相手のプレイヤーとしての技量を見抜くだけでなく、その人柄、性格までを読み取る。健司はそれが得意なプレイヤーだった。プレイには性格が出るし、性格はプレイを先読みするためには重要なヒントとなるし、それが少しでも早く正確に読み取れれば読み取れるだけ有利になる。

久我伊織は、そんな健司が「こいつはやばい」と瞬時に警戒する何かを持っていた。

歩による紹介はひとりひとり挨拶を挟んでいたけれど、伊織はすぐには口を開かず、瞬時に警戒モードになってしまった健司の方をゆっくりと見ると、越しに口元だけでにんまりと笑った。そして、全体的に濃い顔をしている伊織はその長いまつげが影を落とす瞳に炎を揺らめかせながら言った。

……いいね、ヒーローの目をしてる。今は、まだ」

何を言われたのか、一瞬意味がわからなかった。我に返って言葉を反芻してみたけれど、もっと意味がわからなくなった。だが、それを察したのかが「伊織、ちゃんと挨拶しなきゃ」と間に入ってくれたので、また健司の警戒モードは消えた。熱気のこもった夏の風が前髪を揺らし、汗が滲む背中を冷やす。見れば車座は楽しそうに喋ったり飲み食いをしている。

「健司くん、ごめんね。この子ちょっと個性的な子で」
「えっ、ああ、うん、大丈夫。一気に紹介されたから、戸惑っただけ」
「だよね。困ったら私とか歩にすぐ声かけてね」

は優しい笑顔だ。健司は悟られないように静かに長く息を吐く。伊織に感じていたある種の恐怖のような強い警戒心はもうない。が視界に入り込んで声をかけてくれただけで全身がホッとして緩む。それだけを信頼しているのかと思うと照れくさいが、そんな風に気を許せる相手がいるというのはいいな、と思った。

するとまた歩が手を叩き、今度は立ち上がって健司の方に体を向ける。

「さて、じゃあ健司、今日の本題!」
「本題?」
「オレたち、地元のユルい繋がりの友達〜みたいに見えると思うんだけど」

とてもそんな風には見えていなかったけれど、ちゃんと黙っておく。何が始まるんだ。

歩相手なので訝しげな表情を隠そうともしていない健司に、歩は両手を広げてにっこり笑った。

「オレたち、この街を救うヒーローチームなんだよ。ようこそ、ジャスティス・セブンへ!」