ビー・ア・ヒーロー

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「へえ、どんな子?」
「可愛かった」
「もうちょっと具体的に」
「うーん、私服だったからだと思うけど、なんかちょっと色っぽいっていうか」
「色っぽい? エロい体してたとか?」
「なんか全体的に……説明しづらい」

根が生真面目な健司は、借りている部屋に戻って布団に寝転ぶと言われた通りに花形に電話をした。花形は着信に出るなり「健司くんの夏休み1日目の報告」と言い、ニヤついていそうな声で笑っていた。それには軽くイラッとくるが、まあ内容はそんなものだ。

自分の家や親戚のことを事細かく報告しても面白くはないし、しても意味はないし、ザッと1日の流れを説明したところで、最後に現れた女の子の話になった。

彼女はほんの近所に住むという同い年の女の子で、林田家とは家族ぐるみで親しく、歩とは幼馴染という関係になる。彼女は健司のもてなしで余ってしまった惣菜をお裾分けに来た叔従母さんを送りつつ、自家製のキュウリの漬物とスイカを届けに来てくれた。

「あとアイスが12個もあったから、それを食べに来たって」
「調理済みの食い物のやり取りって、かなり親しくないとやらないよな」
「といっても、なんかこの辺てそういう下町っぽさがあるのかも。年寄り多いし」

家が古いのは林田家だけでなく、駅周辺の再開発できれいに整えられた地域を離れると、やけに古い町並みが増え、それに伴って高齢者とガラの悪そうな住民が目立つようになる。

「ふぅん、マイルドヤンキーが多い地域なのかもな」
「なにそれ」
「あとで自分で調べろ。合わないなと思ったら深入りするなよ。お前は駅前タイプなんだから」
「どういう意味だよ」

健司の自宅はこれまでに3度変わっている。生まれてすぐの家は確かに駅に近いマンションだった。父親の通勤に都合がよく、実家と距離がある母親が便利な立地を希望したからだ。だが、ほどなくして父親の異動により藤真家は駅から離れた住宅街のド真ん中に転居。しかしそれも数年でまた転居。そもそもはこの林田家育ちである母親が参るほどのご近所付き合いやママ友付き合いに翻弄されたからだ。

「それが今の家なんだろ? 駅から歩いて7分、白亜の豪邸」
「あんな狭い豪邸があってたまるか。高かっただけだ」

地域との関わりにほとほと嫌気が差した母親はストレスのあまり不眠が続き、そういうしがらみのない場所で暮らせないなら離婚すると宣言した。焦った父親と協議の結果、花形の言う駅近の一戸建てを購入したのだが、正直分不相応な価格だったので、以来彼女も結婚前の職に復帰した。というわけで健司はひとりっ子であり、学童保育だけでは退屈だったのでミニバスを始め、今に至る。

そういう自身の過去を振り返ると確かに「駅前タイプ」なのかもしれない。ミニバスには違う小学校の子もいっぱいいたけれど、そういう仲間たちとチームを離れたところで親しくなることもなく、中学からは部活ばかりで地元の友人と遊ぶ時間はほとんどなかった。

……でも、あの子は地元にこだわりが強いタイプには見えなかったんだよな」
「可愛いオフショル女子だからそう見えただけじゃなくて、か?」
「別に可愛いオフショル女子は珍しくもないだろ。そこは関係ないと思う」
「常に女が群がってくるやつは言うことが違うな」

久々に親戚に囲まれて歓待を受け、林田家の佇まいにノスタルジックな気分を感じている……というようなことには大した興味もなさそうな花形だったが、予想外に突然現れた「可愛い女子」の話題は楽しそうだ。文句を言いつつ、声がちょっと高い。

「いや、確かにオレも最初はお前みたいなこと思ったよ。いくら買いすぎたからって食い終わった残り物を届けに行くってのも違和感あったし、幼馴染だからって21時過ぎに親戚でもない近所の家にオフショルで来るっていうのも気になった」

そして彼女はお客様がいるということを認識していながら、すぐに退去することなくキッチンに入り込み、宴会の後片付けを手伝ったり伯父さんを起こそうとしたりしつつ、最終的には健司と歩と一緒に広縁でアイスクリームを食べて帰った。彼女が林田家を出たのは23時を過ぎていた。

「まあ、つまりそういう付き合いが日常な関係ってことなんだろうな」
「まあ、誰とでもそういうことしてるわけじゃないらしいんだけど……
「とまあ、そういうのに違和感感じつつも、可愛いからどうでもよくなってきた、と」
「違えよ」
「じゃなんだよ。女には警戒心強いお前が、そんな可愛いとか珍しいだろ」
「まあそうなんだけど……

女に警戒心が強いのは、何も考えずに女子と親しくなると、自分の知らないところで自分の責任っぽい揉め事が起こるからだ。女子は自分を挟んで勝手に喧嘩を始め、その決着の責任を健司に押し付けてくるので、身近な場所で親しくなるのには慎重にならざるを得ない。

しかしそのはそういう女子たちとは印象からして違っていて、しかも歩が「オレの知る限りで、一番『ちゃんとした人』って感じかな」というので、普段自分の周囲に張り巡らせている警戒モードは冷凍庫でガチガチに凍ってしまったジャモカアーモンドファッジよりも早く溶けた。

「ちゃんとした人?」
「それもちょっと説明しづらいんだけど……

「言われてみるとよく似てるね。身長も同じくらいなんじゃないの?」
「あれ、お前いくつだっけ」
「春の時点では178だったかな」
「マジか、オレ先月測った時178だった」

宴会の片付けを手伝っていただったが、冷凍庫を占拠しているアイスクリームを減らしてほしいという要請により、健司と歩とお喋りをすることになった。初対面だがはにこやかに挨拶をし、アイスクリームだけでなくサイダーも用意してくれた。健司はジャモカアーモンドファッジ、歩はポッピングシャワー、はラブポーションサーティワンとキャラメルリボンとチョコレートミント。というか林田家も健司も食べないチョコレートミントが混ざっていたということは、伯父さんは最初からにも食べさせる計算で12個も買ってきたようだ。

アイスを片手に軽く自己紹介らしきことをしていたのだが、なぜか歩が「珍しく健司がここにいる理由」を話してしまった。可愛いなと思える女の子と知り合った直後に知られたい話ではなかったのだが、は真顔で「それはつらかったね」と言ってきた。

そんな言葉は湘北に敗北して以来何度も聞いてきたけれど、それとはちょっと感触が違う。敗北と敗北感から転地療養になった状態なので話を長引かせたくはなかったのだが、なぜの言葉は他の人と印象が異なるのか、つい興味が湧いてしまった健司は、普段の面倒くさい女子対策で身につけた「女の子によく効く微笑み」で礼を言った。

だが、にはその得意技が効かず、彼女はそのまま健司が抱えているストレスについてを聞いてくれて、最終的には健司本人ですらまだ思い至っていなかった着地点まで連れて行ってくれた。

「えっ、負けたことがストレスなんじゃないの?」
「歩はちょっと黙ってて。負けたことだけでもつらいのに、みんなが追い打ちをかけるから」
「追い打ちって?」
「だからちょっと黙っててよ。健司くんの話してるんだから」

薄っすらいびきをかきながら気持ちよさそうに寝ている伯父さんを背に、ガラス障子に寄りかかったはハート型のチョコレートが乗ったスプーンで歩を指して制し、改めて健司の方を見た。

「だって、健司くんの気持ちが100パーセントわかる人なんかいないでしょ。だけど慰めてくる人は真の理解者って顔をしてくるし、元気出せって言ってくる人は落ち込む気持ちになんか寄り添ってくれないし、健司くんを労って現実を一緒に受け入れて次に進もうって隣を歩いてくれる人なんか、いなかったんじゃない? 負けたことより、そういう人たちの間で『過去は振り返りません、次は絶対勝ちます』って言い続けなきゃならない、それが一番ストレスなんじゃないのかなって、思うけど」

言われるまで気付かなかったが、の言うことはかなり当てはまる気がした。自分でも持て余す正体不明の感情についてじっくり考え、いくつもの感情が混ざり合ってドロドロと蠢く自分の内面と向き合う……なんていう時間を勧めてくれたのは、両親しかいなかった。それがこの「夏休み」。

「それに、ライバルが決勝進出って、それめちゃくちゃつらいよ」
「お前運動部だったことないだろ。わかるの?」
「だってそれって、勝負もしてないのに勝手に負けにされてるってことじゃん」

そこで健司は顔を跳ね上げた。それって……

「健司くんとライバルがちゃんと試合して勝ったり負けたりするならともかく……健司くんがやってもいない勝負でライバルが勝ち続けただけのことなのに、それがずっと自分の敗北みたいに感じちゃうんじゃないかな。ライバルが誰かに勝つことが、いつの間にか健司くんの敗北として積み重なってる」

それが正解かどうかはともかく、今のところ自分の苦痛を説明するのに一番しっくり来る「説」だった。もしこの先も暗闇に落ち込みそうになる精神状態の正体が何なのか自分で掴めなかったなら、このの解釈だと決めてもいいような気がした。

「歩の言うように運動部やってたことないから、想像でしかないけど……
「いや、ありがとう。なんか少し見えてきた気がする」
……でも無理しない方がいいよ。健司くん、すごく疲れた顔してる」
「えっ、そ、そうかな……

気恥ずかしくなって目をそらすと、なぜか歩がニヤニヤしている。確かに外見が似ている同い年のイトコ兼ハトコだが、長い時間を過ごすのは数年ぶりなので、考えていることがわからない。昔から笑顔の多いやつだったけど、これはニコニコじゃなくてニヤニヤに見える……

「いつまでここにいるの?」
「あー、それもあんまり決めてなくて」
「まあそうだよね、期限が決まってると焦るし、余計に追い詰められちゃうよね」
「そ、そうなんだよな……

そしてこれは正解。林田家から帰るということは、翔陽バスケット部に戻り、主将兼選手兼監督兼部長に戻り、冬の大会へ向けて数十人の部員を牽引していかねばならないことを意味する。その重圧自体は負担に感じていないのが正直なところだが、それまでにこの「闇落ち」しそうになる自分を元に戻せるかどうか、海南大附属の決勝進出をどう飲み下せるか、それが見えなくて不安だった。

満腹なせいもあるが、健司は確か昼間にそうめんつゆを入れていた小鉢に溶けていくジャモカアーモンドファッジを意味もなくスプーンで潰していた。なんだろうこの子、普通のお喋りって感じのテンションでオレのことここまで見抜いて、でも「だから頑張れ」とか「逃げてもいいんだよ」とか言わないんだな。どっちもぴったり来ないんだよそういうの。それわかってくれたんだろうか。

すると健司が黙ってしまったからなのか、黙らせていた歩に話を向けた。

「あんたはそういうの、なさそうだよね」
「ないね〜。健司みたいに何かに夢中になる感覚ってよくわからないし」
「歩はその、基本ある程度は何でも出来る、てのが災いしてるよね」
「何でも出来る?」

そう、歩とは幼少期から仲良く遊んだ仲であるが、健司が疎遠だったせいでそのパーソナルな情報は小学校中学年くらいで止まってしまっている。歩ってそーいう人だったっけ……

「えーと、歩はなんでも70点以上出せるんだけど、それでも93点が限界って感じ」
「お前わかりやすく嫌な例え上手いな〜」
「え、93点も出れば十分なんじゃないの?」
「お前のバスケットが98点以上の世界って感じだよ。そこには届かない」
「で、それを98点にまで押し上げようと思うほど夢中になれるものがない、と」
「よくわかってんなお前〜!」

幼馴染ふたりはアッハッハと声を上げて笑っている。

そこにきて健司は奇妙な感覚に襲われた。かすかに意識が遠のくような疲労感、エアコンで冷やされた広縁の床の冷たさ、その古めかしい天井にぶら下がるぼんやりとした暗い電球の明かり、伯父さんの寝息、表の通りを駆け抜けていく原付の音、小型犬の吠え声。それらが全て混ざって、少し気持ち悪い。

だというのに、なぜか視界だけがクリアになって、金色のスプーンを舐め取るの唇がキラリと光って見えた。食べているのはジャモカアーモンドファッジなのに、の口に運ばれるチョコレートミントの味を舌に感じる。

なので何も考えずに口が滑った。

ちゃんは、どーなの、そういうの」
「えっ、私? そうだなあ、頑張らないとすぐに30点になっちゃうから、いつも80点を目指してる感じ」
「30はねえだろー。80だって別に死ぬほど努力して80ってわけじゃないし」
「そんなことないって! これでも努力してるの!」
「いや絶対もっと本気出したらお前も95くらいいけるはずだ」
「無理だってそんなの!」

ちゃん、てなんだよ。

言ってしまってから自分の警戒モードゼロ状態に健司は全身が冷たくなった。別に彼女の情報なんかどうでもいいだろ。知ってどうするんだよ。ていうか人のこと構ってる余裕なんかないじゃないか。自分を立て直しに来たのに、二度と会わない女子と親しくなってる場合か。

ひと夏の恋? その場限りで燃え上がってヤりたい放題? そういうことが出来るならこんな風に闇落ちしそうになんかなってないんだよ!

自信を取り戻せばいいのか、すべてを忘れて癒やされればいいのか、羽目を外して暴走して発散すればいいのか、そんな自分を引きずったまま苦痛とともに歩いていけばいいのか、わからないんだよ。

けれど、そんな「自分の後始末」に迷う藤真は思った。

この「ちゃん」が、大丈夫だよって言いながら添い寝でもしてくれたら。

そして自分で自分に絶望した。お前なんなんだよその甘ったれた願望……

案の定花形は大笑い、正直に話した健司はまた絶望。こいつに話したオレがバカだった。

「1日目からこの面白さ」
「ゲームみたいに言うなバカ」
「だから『色っぽい』わけね」
「だからそれもよくわからんて」
「でもその子が布団に入り込んできたら多分お前はされるがまま」
「そーいう子じゃねえって……てかもう切るぞ」
「おう、また明日な」

花形の妄想がヒートアップしてきたし、歩が風呂から出てくる音がしたので健司は通話を切った。そろそろ日付が変わるし、たっぷり昼寝はしたけれど、林田家の4畳半が不思議と心地よくなってきて、すぐに眠れそうだ。を餌に不埒なことは考えたくない。

古い家なので、林田家の中にいると誰かがどこで何をしているかが音でわかるようになってしまう。携帯に充電ケーブルを差し込んだ健司の右後方から、脱衣場の引き戸がカラカラと開く音がした。そして歩らしき足音がして、またノックもなく襖が開いた。

「どう、寝られそうか?」
「大丈夫、けっこう眠い。てかせめて声かけてくれよ」
「ノックしようにも襖だからな〜」

眠いと言っているのに部屋に入り込んできた歩は、布団の隣に腰を下ろして胡座をかくと、タオルで髪をかき回しながらまたにんまりと笑みを浮かべた。よく似ている親戚同士だけどオレはこんなユルい笑顔は出せないな……

「どうだった、あの子」
「え? あの幼馴染の子のことか? どうって……親切な人だよな」

歩は鼻で吹き出し、口元を手で覆っている。

「あーいう子、嫌じゃなかったか?」
「嫌とかは別に……なんかいっぱい話聞いてもらっちゃって悪かったなと」
「好み的にはどう?」
……そういうの、失礼じゃないか?」
「ここだけの話だよ」
「まあ、うん、可愛い子だなとは、思うけど」

もし可愛いと思っていなくても、それを幼馴染である歩にバカ正直に言うのもなんとなくプライドに触る。実際のことは可愛い子だと思っているが、食い気味で答えるほどでもない。

すると歩は一転、楽しそうな笑顔になって身を乗り出してきた。

「じゃあさ、明日、ちょっと付き合ってくんない?」