プラクティス・デイズ

15

がシャワーを使っている間、先に済ませた花形は藤真にメールを送っていた。すっかり忘れていたのだが、翌日の朝から有料コートに行こうと誘われていた。確かに何か作ってくれと言っていたような気もする。藤真には悪いがこれを断るメールを送った。

普段なら適当な言い訳でもコロッと信じるのに、余計な勘が働いたのだろう。なんと着信が来た。

「なんだよこんな時間に急にドタキャンとか!」
「いやだからメールに書いておいただろ」

少し風邪っぽいから午後からなら行くと書いたのだ。何も不審な点はない。

「なんか嘘くせえ。あっ、わかった、今日泊まるんだろ!」

花形はがっくりと頭を落とした。違うと一言言えばいいだけなのに、言い当てられたショックで声が出ない。

「って、おいおいマジかよ、なんとか言えよ」
……お前、最悪」
「す、すまん、かかか勘がよくてごめん」

さすがの藤真もしどろもどろだ。

「大事な夜なんだ。明日、悪いけど……
「薄情薄情ってお前らは言うけどな、そんなことでオレはグズグズ言わないからな。悪かった、本当にすまん」

きっぱりと言う藤真の声に、花形は口元をにやりと歪めた。この割り切りのよさが藤真という男であり、見た目の良し悪し以前に男女の別なく誰にでも好かれる一番の理由だ。きっと藤真のことが嫌いな翔陽生など存在しないはずだ。ただ本人の望む形で彼女が出来ないというだけで。

「午後からとか気を遣わなくていいから、明日は1日中一緒にいてやれよ」
「悪い、そうしたい」
「じゃ、またな。今度は遊びに行きたくなったら事前にちゃんと聞くようにするからなー」

いっそ爽やかなほどの語尾を残して藤真は通話を切った。事前に聞かれても正直に答えたくないとツッコミ忘れたが、それは月曜まで取っておいてやることにする。携帯を放り出し、思いついてまた手に取って電源を落とす。

藤真に言ったように、大事な夜だ。大事なとの夜なのだ。どこからも邪魔は入らないようにしたい。

シャワーの音が止まる。緊張はもちろんあるのだが、それよりも感慨深くて胸が詰まる。夜の繁華街で酔っ払いに絡まれるに出くわしてから8ヶ月近くが過ぎていた。その間に起こったことをつい思い出す。あまりにも自然にという存在が自分の中に流れ込んできたせいで、どこにきっかけがあったのかなど、今となってはわからない。

同情が先立ったということは否定しない。を可哀想だと思った。「プロメテウス」を見つめていた冷たい目を和らげることは出来ないかと思った。それが始まりだったのは間違いない。ただ日常が繰り返される中で、という存在が当たり前になって、それが今に繋がっているだけ。

忙しないドライヤーの音が止まる。あまり構えてしまうと怖がらせてしまうかもしれない。花形は出来るだけリラックスしている風を装って、藤真が置きっぱなしにしている漫画など開いてみた。もちろん読んでいない。

「お、遅くなってごめん……

乾ききっていない様子の髪をしきりに整えながら、はおずおずと戻ってきた。今日は制服のまま来てしまったので、いわゆる彼服である。花形の服が全て大きいので彼服感はたっぷりだが、生憎12月で季節は冬、トップスだけで素足とはいかなかった。しかしそれでも花形はたまらなく可愛いと思った。

「髪、そのくらいでいいのか。寒くないか」
「へ、平気、毛先がしっとりしてるくらいだから、そのうち乾くし」
「少しエアコン強くしたんだけど、寒かったら言えよ」
「今は平気、シャワーで暖めて来たし、ちょっと暑いくらいだから」

壁に寄りかかっている花形の隣に膝をついて座ったの手を取る。びくりと肩を震わせるが愛しくてならない。温かく白い手が弱く握り返される。頬と耳が赤いのは何もシャワーで暖められたからだけではあるまい。平静を装っている自分も、どうなっているかわかったものではない。

……まだ引き返せるけど、オレはもうそんなつもりないよ」

は何も言わず、2度小さく頷いた。

隣の部屋に移動して、ベッドにゆっくりとを押し倒し、もったいをつけているわけでもないのにどこかぎこちなくキスをし、はやる気持ちを落ち着かせたくてぎゅうっと抱き締める。

「私ね、透の彼女になりたいって思ったこと、あったんだよ」
「え、いつ?」
「最初の日。送っていくって、背中をポンってしてくれた時」

今となってみれば、もっと早く言えばよかったのにと花形は思う。ならきっと断らなかった気がする。

「いい人だなって、花形みたいな人が彼氏だったらいいのになって思った」

言いながらは花形の首筋にそっと唇を這わせた。

「だから、嬉しい。今こうしてるのが、透で嬉しい」

その声で花形が保っていた理性は完全に吹き飛んだ。そこからのことは、あまり記憶がない。

時計も見えない、携帯の電源も落としたまま、ただカーテンの隙間から漏れ出る光の具合でまだ夜なのか朝になったのか、それだけが辛うじてわかる。つめたい空気が鼻を冷やしている。がくりと高いところから落ちたような錯覚に目を覚ました花形は、腕に触れるの体温に驚き、記憶が蘇ると思わず顔を手で覆った。

薄暗い部屋でもわかるの青白い頬が正視できない。ほんの数時間前にはしつこいくらいに顔をすり寄せた頬なのに、まともに見られる気がしない。布団の中の温かい空気すら昨夜の名残のような気がして、嬉しいような恥ずかしいような、複雑な気分だった。まだ眠くもある。

はぐっすり眠っているし、他に誰がいるわけでもない。花形は体を捻ってにぴったりとくっつき、起こしてしまわないように腕を絡ませた。の体は温かくて柔らかくてしなやかで、とても自分を受け入れてくれたようには思えなくて、今更ながら心配にもなる。まだ痛むと言ったらどうしたらいいのだろう。

そんな風にを労わりたい一方で、拒まれないのならすぐにでももう一度、と欲する気持ちも体の中に燻っているし、おまけにほどよく眠い。寒い日は暖かい布団から出たくないものだが、腕にを抱いていればなおさら出たくない。正確な時間はわからないけれど、おそらくまだ夜明け前に違いない。

寝息すら微かなの前髪に顔を寄せる。の匂い、それに混じってほんのりと汗の匂いがする。思考が形を失って蕩けていく、安心できる匂いだ。ゆるゆると覚醒と睡眠の間を行き来し、益体もないことを考えているうちに花形はまた眠りに落ちた。

それから数時間後、今度はが目を覚ました。外はすっかり日が昇っていて、カーテンの隙間からはオレンジ色の光が射し込んでいた。だが、寒い。もっと布団に包まろうとして、花形の腕の中だということに気付いた。道理で体が重かったはずだ、と身を捩ると、今度は別の所が痛む。

蘇る記憶に動揺すまいと思うのだが、目を開けるとすぐ近くに花形の顔があるので無理だった。普段はセンター分けになっている長い前髪が枕に散らばっている。その前髪が顔に触れて揺れる度にくすぐったくて、でもどこか気持ちよかった。はそっと指を伸ばして、髪に触れてみる。

この前髪と眼鏡に阻まれて、なかなか全容を見ることがない顔がよく見えるように、前髪を取り払う。額に傷持つや藤真と違って、きれいな額をしていた。ただし、左目の目尻には薄っすらと傷跡がある。昨夜は傷になど目が行かなかった。同じ顔の別人のように見えていて、少し怖かったのだ。

それでも、もちろん後悔はないし、これでよかったと思っている。不埒な母親を見ていたせいで、言動に縛られる男女関係は嫌悪するようになっていたのだが、滓のように溜まっていたそんな感情は全て花形がすくい上げてくれた。花形が全身全霊で愛してくれたおかげで、もう嫌悪感に淀む心はない。

そんな風に考えていたら、目が熱くなって涙が滲んできた。ぐっと喉が鳴る。

……?」
「ごめん、うるさかったよね、まだ寝てていいよ」

ぼんやりと目を覚ました花形に泣いていたことを悟られまいとして、できるだけ普段どおりの声を作った。

「どうした、何、泣いてる、どこか痛いのか」
「ううん、違う違う、大丈夫、気にしないで」

涙声になど聞こえない声を作れたと思っていたのに気付かれた。気付いてくれた。そのせいでまた喉が詰まる。

「余計気になるよ。今何時だろ」
「ごめん携帯向こうなんだ」

鼻で笑いながら花形は首を捻っている。生憎カーテンを引いても見える所に時計はなかった。

、今日何か予定あるのか」
「ううん、何も……家も大丈夫だし」
「明日は?」
「明日もまあ、日曜だからそんなところ。なにかあった?」

きょとんとしているに顔を寄せ、額を擦り付ける。

「そうじゃなくて、明日の夜までずっとここにいて」
「え、ずっと、って、あの」
「嫌?」

少し花形の様子がおかしい。というよりは、にはわざと普段とは違う素振りをしているように見えた。

「い、嫌じゃないけど、どしたの?」
「どうもしない。けど……離れたくなくて」

そういうスイッチが入ってしまったということだ。言いながらついばむ様にキスをして、どう返事をしたものかと考えていたのTシャツをめくりあげた。するすると手を差し入れ、届く限りの場所を撫でさすっている。ぞくりと肩が震えたはつい声を上げてしまった。

……ダメ?」

絶対わざとやってる。は確信した。こんな風に甘ったれた言い方をする人ではないからだ。けれど、それはを求めるあまり、形振り構わずに装っているのだと思うと、どうにも抗えない。体の方に少し不安はあったが、明日も休みなのだからまあいいかと、考えないことにした。

「ううん、ダメじゃな――

言い終わらないうちに、長い前髪が唇と共に落ちてきた。

明けて月曜日、また手を繋いで登校してきたふたりを後ろから藤真がどついた。

「よっす! なあ、今日はいいか?」
……何が」
、ケーキ食べたい」
「そんな急に言われても」
「なんだよお前らそんな汚いものを見るような目ぇしやがって」

仕方あるまい、藤真は三日月のような目をしてニヤニヤしている。

「なんかさ、藤真が本当に好きな子には振られるっていう意味がわかった気がする」
……いくらでも女の子に言われると心に刺さるな」
「別に今日いいもなにも、来たきゃ来ればいいだろ」
「じゃあ帰り藤真も買出し手伝いなよ」
「えっ、いいの?」
「お前が考えてるような状況じゃないからな」

やったーケーキだと喜ぶ藤真を背に、花形とはこっそり笑い合った。藤真が考えているような状況は、昨夜までで終わったのだ。またそんな機会も巡ってくるだろうが、藤真も含めた3人で過ごすのも楽しくて、失いたくない時間だった。