プラクティス・デイズ

05

奇妙な関係ではあるものの、家族でもなければ一応恋人でもないに抱きついて泣いたこと、それを不思議と恥ずかしいと思わなかった。恥ずかしいよりも、泣いている間中黙って頭と背中を撫で続けてくれていたに感謝しているくらいだった。泣くだけ泣いたらだいぶ気が済んだ。

ただでさえ試合で水分を失っている上に泣いたから、とが出してくれたスポーツドリンクを流し込む。

「ねえ花形、今日は外で食べようか。近くにふっるいラーメン屋さんあったよね」

映画を見ている時のように、壁にもたれて並んでいるがぽつりと漏らした。

「こういう時ってさ、ひとりでいるとなんか変なものに飲み込まれる感じ、しない?」

まさにそんな状態だった。だからひとりになりたくなかった。

「けど、こっちは繊細な心の傷って感じなのにさ、ああいうゴチャゴチャしたところにいると落ち着くんだよね」
「体験談か」
「そう」

それはそうだろうと花形も思う。だが、の作ってくれた料理も食べたかった。の作ってくれた食事を飲み込めば、体の中が温かいもので満ちるような気がしていた。それなら、両方食べればいいかと適当に考える。今日は細かいことを考える気力がない。

「そうだな、行こうか」
「おっし、行きますか」
「でも、帰ってからお前の飯も食う」
「無理しない無理しない」

へらへらと笑うの手を掴んで引っ張る。がくりと肩を落としたは無表情だ。

「無理してない。最初っからそのつもりだったから」
「わかった。じゃあ帰ってきたらまた食べよう」

どれだけ花形がいつもと違う様子を見せてもは動じない。反応を見せない。それがわざとそうしているのか無意識なのかはわからない。だが、おかげで安心して甘えられる気がした。明日からまたバスケットの世界に戻っていくから、今はに甘えて無気力な世界にいさせて欲しかった。

店の入り口に覆い被さるテント看板はとんでもなく汚れていて、店名すらよくわからないその店はそれでもなかなか混雑しているようだった。ふたりが暖簾をくぐって入店した時、はともかく花形の身長のせいで店内の客の視線を一気に集めたが、さすがに場末の中華料理屋、すぐに何事もなかったように戻った。

入り口に一番近いテーブル席につき、注文を済ませると、花形は小さな声で話し始めた。

……変なチームだったんだ」
「私バスケのことよくわからないし、無理しなくていいよ」
「いや、無理してない。美化も卑下もしたくないから」

記憶をなぞり、感情に任せて都合よく改ざんしないように留めておきたい。

「慢心とか驕りとか、ずっとそんなものないと思ってたし、今でもそんなつもりはないんだけど、オレたちにとって今日の試合で負けるなんてことはまったく考えてなかったのは確かだ」

厨房で激しく鍋を打ち付ける音が聞こえてくる。チューナーを乗せた分厚いブラウン管テレビは夕方のニュースを流している。表の通りを猛スピードで走り去るトラックが立てる振動で入り口の引き戸がガタガタと揺れる。

「たぶん、オレたちが見ていたのは今日の試合を勝った後の、決勝リーグだけだったんだ。1年の時から決勝リーグは当たり前で、そこで1位になることだけを考えてた。大事なのはそれだけで、まさかと思い始めるのにも時間がかかった。湘北が予選で100点ゲームをしても、それは相手が弱いからだと思ってた」

眼鏡をかけていない花形は、テーブルに肘をついた手で目元に触れて頭を支えている。

「変なのがいたんだ。赤い髪でやることなすこと素人くさくて……
「赤い髪!?」

目はどんよりしているが、花形は鼻で笑った。

「真っ赤なリーゼントだぜ。おかしいだろ。でも、人間じゃないみたいな動きをするやつで」
「人間じゃないって?」
「おそらくだが、1メートルくらい飛ぶ」
「1メートル……それは普通じゃないの」
「距離じゃないぞ、高さだ」

今度こそは口をポカンとあけて言葉を失った。そのの横から注文した料理が運ばれてきた。

「でっかいねお兄さん、これじゃ奥さんも大変だ」
「ははは、姉ですよ」
「図体ばっかり大きくて困っちゃうわ」

事前に打ち合わせていたわけでもないのに、すらすらとそんな言葉が出てきた。優しそうな店主はにこにこしながら料理を配膳すると、黙って戻っていった。箸を取り、いただきますと呟いて食べ始める。

「実際あんたはこんだけ大きいんだし、わからないわけじゃないけど、どういう世界なのよ一体」
「いや、そいつの身体能力はちょっと異常。技術とか経験じゃなくて、たぶん生まれつきの……

湯気が舞い上がり、ふたりの間にある空気が暖められていく。

「努力を上回る才能なんてないと思ってたんだけど、まあ何事にも絶対はないってことだな」
「絶対はない、か。なんか便利な言葉って感じもするけどねー」

湯気で暖められて、の頬はほんのりピンク色に染まっている。花形もまた洟が緩んできて、何度も啜り上げた。花形のマンションより古くて汚くて、楽しそうな声も笑顔もない店内だったが、なぜだか全身が解けていくような感覚があった。

食べ終わると、は先に立ち上がり、「ここは姉ちゃん払っとくから」と言って店主に声をかけた。姉ちゃん、と言った時にはにんまりと口元を歪めていた。姉弟のふりが楽しいのだろう。

外に出ると、さわやかな風がすうっと肌を撫でた。すっかり暗くなって、歩く人もない。

「やっぱり帰ってからまた食べるの?」
「いただきます」

は笑いながらも、自分の腹をさすり、首を傾げた。

「うわ、それどうなんだ。気にはなってたんだけど」
「ホラー度は低め。バトルアクションというか、プレデターがすっごいかっこいいよ」
「クイーンは?」
「もちろん!」

の作った料理をパクパクと食べながら、花形は少しずつ普段のような振る舞いに戻っていった。胃の中にの手料理が入れば入るだけ、元の世界に戻ってきた気がしている。が手にしたDVDを覗き込むように首を伸ばす。

「オレもこの間借りたのがあって、2度目なんだけど」
「なになに……出たーサイレントヒル! 好き好き!」

目を見開いて喜ぶにつられて花形も笑顔になる。に縋って泣いたのはついさっきのことなのに、まるで何年も前のことのように感じる。湘北に負けたのも、泣いたのも、何もかも遠い遠い夢のような出来事であればよかったのに――

「今日はどっち見るよ。オレ風呂も入りたいし」
「両方見ればいいじゃん。今日早いんだし。さっさと食べちゃいなよ」
「いや、オレはお前が一生懸命作った料理をだな」
「いいからいいから食べる食べる」

それでもが否応なく素の自分に引き戻してくれるから、ぐちゃぐちゃに交じり合う負の感情から浮き出て、ゆらゆらとたゆたっていられる。記憶はなくならないけれど、痛みはもうほとんどない。

に急かされて食べ終えた花形は、今度はバスルームに追い立てられた。さっさと見るのだから、のんびり入るんじゃないと釘まで刺されて。だが、バスルームに入ったところで、はそうやって「余白」を作らないようにしてくれているのだと気付いた。余計なことを考えないように、詰め込めばいい。

仰せの通り烏の行水で出てきた花形は、またタオルを頭に引っ掛けたまま戻ってきた。リビングはすっかり片付いていて、灯りも落とし、DVDを見る準備が整っていた。は2枚のDVDを手に、まだ悩んでいる。

「まだ決まらないのか」
「だってさ〜」

キッチンで水を飲み、壁に背中を押し当ててずるずると座る。無意識だったのだが、ふと見れば随分と距離を詰めて座ってしまった。だからといって、距離を取り直すのも違う気がした。そして自分の膝に置いた手に目をやり、ひと月ほど前のことを思い出す。すくい上げられたのは、オレの方だったな――

「よし、サイレントヒルから行こう。いい?」
「いいよどっちでも」

がテーブルの上に残しておいてくれた料理の残りをつまみ、特製の蜂蜜レモンジュースを飲む。これが大人なら酒だっただろう。DVDをセットしたもまた迷いなく、いつもより近い距離の元いた場所に戻った。花形と同じように膝を立てて座る。

その膝頭に視線を落とした花形は、あまりはっきりしない思考の中で少しだけ躊躇したが、右隣に座るに向かって手を差し出した。その手に気付いたも、ほんの少し止まって考えていたが、黙って自分の手を重ねた。その手を花形は優しく包み込み、ふたりの間に落とした。

画面が暗転し、ロゴマークが続く画面の間に、繋いだ手は静かに形を変え、指が絡まりあった。

真剣に見ているのはスプラッター表現も多い映画だったが、花形とは繋いだ手を真ん中に置いて穏やかで丸くて柔らかい時間を共有していた。暗い部屋の中では見ようと思わなければ時計も見えにくく、時間経過を感じない。異形の世界を描く物語と繋いだ手があるだけだった。

「解釈が割れるけどいいよねえ、このラスト、はっきりしなくて」
「議論ネタに困らないな」
「それにしてもナースが可愛い」
「可愛いかアレ」

は満足そうだ。繋いでいた手を放り出して、DVDを交換しに行く。

「次行ってみよーう」

自分の場所に戻ってきたは、お茶を一口飲むと、さも当然のように指を絡ませた。だけでなく、ふうとため息をついて花形の肩に頭をもたれかけさせた。疲れたので乗せてしまおうというくらいのさりげなさに、花形も感情がざわつく暇がない。寄りかかられるだけでは座りが悪い自分の頭も、に預けた。

「花形、重い」
「お互い様だ」

なんて色気のない会話だろうと思うが、それでよかった。手を繋ぎ体を寄せ合っても、今のふたりはそれ以上の関係など欲しない。欠けて足りないものを補い合い埋め合いながら、今は戦いの日々を離れて憩う。花形は敗北という痛みを、は母親という呪縛を。どちらも苦しいだけだから、寄りかかりあって少しでも軽くなるなら。

「あとアレだ、オレも名前でいいから」
「了解、透」

だが、この日を境に、ふたりは変わった。触れ合うようになった。

何もイチャイチャするとか抱き合うということではないが、映画を見ている時は手を繋いだし、寄りかかったし、が帰る時にも手を繋ぎ、頭を撫でたり、背中を擦ってやったり、言葉だけでなく手のひらで触れ合うことで、緩やかな癒しを与え合っていた。

このまま引退など出来ない花形がまたバスケットの世界に舞い戻って行っても、との時間だけは変わらず静かに続いていた。ライバルチームたちが決勝リーグを戦っている間も、インターハイ出場校が決まっても、その渦中に混ざれない翔陽が置き去りにされても。

入梅を経て、インターハイの予定もないバスケット部は雨が降るとグラウンド競技に体育館を譲る回数が増えてきた。時期も時期なので、そういう時は大人しくお勉強するのが望ましい。元々成績に問題のない花形のような部員はともかく、翔陽バスケット部の場合、主将兼監督が少々危ない。

成績が悪かったところで今年は何も影響するものがないのだが、それでは示しがつかないという見栄もある。

藤真は帰り道で花形を捕まえると、バチンと音を立てて手を合わせた。

「苦手な教科だけでいいんだ、頼む」
「まだかなり時間あるだろうが」
「生憎、時間がありゃ出来るっていう作りの頭してないんだな」

以前とは違う花形の躊躇いを感じた藤真は、だがしかし何も突っ込まずに黙っていた。

……まあいいか」
「悪いな、助かる」

これは何かありそうだと思ったが、とりあえず黙っておく。何か面白そうなことが潜んでいそうな雰囲気に、藤真の頭の中からはまだ遠い期末のことなど吹き飛んでいたのは言うまでもない。