プラクティス・デイズ

07

「近くで見るとすっげーなあれ」
「でも階は半分より下らしい。夜景が見えるってほどでもないって言ってたな」

をマンションまで送り届けたあと、ふたりは駅から大きく迂回して花形のマンションに戻るコースを走り始めた。雨上がりの湿気た空気で息がしづらい。しづらいが、藤真は花形を質問攻めにするチャンスである。

「お前は行ったことあるのか」
「まさか。オレらが女だったら藤真つれておいでって言うのに、とは言われたけど」
「つれておいで、ってオレはお子様か」

藤真はむっとしているが、その程度に思われているのは確実だろう。今日も、桜海老の炒飯を藤真に差し出しながら、は「半熟目玉焼き乗っけてあげようか?」と言っていた。ただし藤真もそれには大喜びで「乗っける!」と言ったのだから、ほぼ自業自得、仕方のないことではあるが。

「でも……一度だけだけど、あいつの母親を見たことがある」
「どこで?」
「あのだだっ広いアプローチで。送って行った時にたまたま。まあいわゆる美魔女とかいうやつだな」

淡々と話しているが、花形は不味いものでも噛み締めているような顔をしている。

「赤い高級車に20代の彼氏待たせて、スーツにヒールでマンションから出てきた」
「なんかドラマみたいだな」
「その子供がだぞ。最初にうち来た時なんか彼氏が来てるからって外に出されてたんだ」
……可哀想だな」

勉強は苦手な方だが、一応100人近い部員を束ねている藤真は花形が静かに怒っているのを感じ取って、無難な相槌を打つ。花形は藤真を「感情だけで突っ走る」というが、藤真からすれば花形は「こうと決めたら絶対曲げない」になる。どちらも行き着く先は同じなのではないかと藤真は思う。

がうちに来るようになって、もう2ヶ月近く経つけど、気付かないらしいからな」
「気付いてない振りをしてるんじゃなくて?」
は違うと言ってる。でもまあバレてもいいんじゃないか、無関心らしいから」

相当怒ってんなこいつ、と思う反面、藤真は花形がの家庭内事情に首を突っ込みすぎなのではないかとも思う。首を突っ込むと言っても実際に何か行動を起こすわけではないから、の不遇に対して憤りが過ぎるといったところか。何もしてやれない一介の高校生が、深入りしている気がする。

それでも藤真の感覚で言えば、彼氏彼女の関係であればまだいい。そうでもないのにと花形は妙な絆で心が繋がっているように見えて、それがなんだか気持ち悪かった。嫌悪感ではなくて、安定しない不安感の気持ち悪さだ。座りが悪い、しっくりこない、そういう種類の。

それでもだいぶ事情が見えてきた藤真は、別の方向から突っつく。

「それはともかく、お前2ヶ月も一緒にいてよく何もしないでいられるよな」
「お前と一緒にしないでくれ」
「いいや、この場合正常なのはオレの方だ」

は飛びぬけて美人というわけではないが、少し影があるにも関わらず目尻が甘くて、笑うとより柔和な印象になって可愛いらしい。またこのあたりは母親がああだからなのかもしれないが、髪や肌がきちんと手入れされているし、何をしていてもだらしなさを感じさせない。それは花形の部屋にいて寝起きでも変わらない。

「女の子がご飯作ってくれて、夜遅くまで一緒にいてくれて、それで何も感じない方が変だろ」
「そういう目的のために部屋に入れてるわけじゃないからな」
「その建前に阻まれて行動起こせないだけじゃなくてか」

チームメイト、そして監督としても花形という人物を知りぬく藤真にはそう思える。

「もしくは、今の関係を壊すくらいなら、ってやつとか」

花形は返事をしない。花形とのことなのだから、藤真こそ首を突っ込みすぎではあるのだが、もう3年生なのだし、彼女くらいいたっていいだろうと言うのが藤真の原理である。未だ遠い冬の選抜へ向けて邁進するのみだが、同じ所ばかりを見ていては足をすくわれる。変化があった方がいい。

おせっかい、とも言えるが、そこは友達想いというくらいにしておいてやりたい。

は確かに可哀想だけど、同情だけなのか? じゃ、一緒にいるだけならオレでもいいってことだよな」

藤真はにっこりと笑顔を作る。この生まれつききれいな形に仕上がる笑顔は、作り笑顔でもそう簡単には見破られない仕様である。見分けがつくのは母親くらいなものだ。おそらく花形も今藤真の顔に浮かんでいる笑顔を疑いはしないはずだ。

が彼女になってくれたら、オレすっごい幸せにしてやるんだけどな」

さらに、昨年末から主将と監督に就任して早半年、人心を動かせないようでは務まらない役目を藤真はそつなくこなしてきた。人を乗せたり落としたりするのは造作もない。花形にとって一番響くであろうキーワードはの「幸せ」。案の定花形は足を止めてしまった。

「手を出せば幸せになるわけじゃないだろ」
「何言ってんだよ、好きな人と触れ合うのは幸せに決まってるだろ」
「オレもお前もの『好きな人』じゃないだろ」
「聞いてみたのか? 言わないだけでお前のこと好きかもしれないじゃないか」

もちろん聞いていない。それに、藤真には言っていないだけで、花形とは触れ合ってはいる。

「あいつは、早くあのマンションから出て行きたいんだよ。親に頼らず進学したい、自力でどうにかしたい、だから奨学金とか推薦とか色々考えてる。そのためにもわざわざ安易な関係に陥ることはないだろ」

藤真はちょっと首を傾げた。

「推薦て、そんなことまで調べるのか?」
「い、いや知らないけど」
「ってか素行が関係あるなら今の状況でも充分NGだろ」

ははは、と藤真は笑ってやる。花形とは不純な要素などひとつもない、友情の果てにあるピュアな関係だと思っているだろうし、誰に聞かれてもそう言うだろう。だが、それで通るわけがない。

「ひとり暮らしの男の家に毎日のように入り浸ってんだぜ? 言い訳なんかきくかよ」

またへらへらと笑いながら、藤真はパタパタと手を振る。

の進路はがどうにかするもんだろ、お前は何も出来ない。それより他にしてやれることがあるだろ」

花形が泣きそうな顔をしている。何も出来ないと正面きって突きつけられると無力感で一杯になるだろう。しかも、藤真が言ったことは概ね正論。いくら学力に差があっても、花形は反論できなかった。しかしなにも藤真は花形をいじめたいわけではない。の家庭環境への憤りが過ぎるあまり、正常な判断が出来ていないように見えたのだ。だからもう、話を変えてやろう。藤真はにやりと唇を歪める。

「しかしオレたちも大学どうなるんだろうな。インターハイでスカウトとか来ないかと思ってたのにな」

そんな藤真の声に、また花形も走り出す。梅雨の湿気た空気が纏わりついて、不快極まりなかった。

いくら藤真にくどくど言われたからとて、翌日からもう来るなというわけにもいかない。花形は少し面倒くさくもなっている。しかも、から「ケーキ焼くんだけど、藤真いつ来れる?」とメールが来た。これはもうどうしようもないので、藤真にそのまま伝えた。

「なに!? 行く行く、いつでも行きます」

あれだけ言いたい放題だったわりに即答である。藤真は現金だ。

によればケーキは時間がかかるので、土日のどちらかになるとのこと。そういえば最初にケーキを持ってきてくれたのも日曜の午後だった。ちょうど直近の土曜が文化部が使うとかで昼に体育館を追い出される予定になっている。そう返信した。

「花形、たくさん作っておいてってメールしといてくれ」
「そんなに食うのか? またメシも食っていけばいいじゃん」
「バカにすんな! そっちも食うよ!」

どっちも食べるという気持ちはわからなくもないが、バカにした覚えはない。藤真の理屈がよくわからない。

「そういえば、藤真が来るならドラえもん借りてくるって言ってたけど」
「ピー助か?」
「いやそれは知らんが……

花形は内心、藤真がこうして遊びに来てくれるならそれもいいと思っていた。わざわざ藤真の言うような関係に発展させるつもりがない花形は、が楽しく過ごせればそれでいい。自分は難しい顔をして議論めいたことはしてやれるが、ピー助だのリルルだので長い時間笑ってはやれない。

そうして土曜日、ケーキが食べられるとあって上機嫌の藤真を連れて花形は下校した。外は雨で重苦しい灰色の空だったが、ドアを開ければ明るい部屋と甘い匂いと笑顔のが待っている。

「おかえりー」
「ただいま!」
「子供か」

と喧嘩したわけでもないのに、藤真がひとり間に入るだけで花形は気が楽になる。もにこにこしているし、仲の良い同級生が遊んでいるとしか形容できないこの様子が何より安心できる。

「ほーら藤真ケーキだよー」
「えええこんなに!? なんだここは天国か」

本当にと藤真は大人と子供のようだ。楽しそうで何より。

は花形が代理で返信した「たくさん」を文字通り受け取ったらしく、パウンドケーキを3本、プリンを5つ、レアチーズケーキを1ホール作ってきた。甘いものもおいしく食べられるが、さすがに花形にはウッと喉を詰まらせる量だった。

「もしかしてこれ、全部違う?」
「そうそう、チョコとオレンジとこの間のドライフルーツとナッツ」

いつもよりさらに目がキラキラしている藤真は待ちきれない様子で、花形に首根っこを掴まれて座らされてもまだきょろきょろとケーキの方を振り返っていた。ケーキを切り分けたが皿を手に戻ってくる。

「藤真は全部盛り。透は少しずつね」
「え、お前そんだけしか食わないの!?」
「お前と同じ量はひっくり返っても無理だ」

藤真はパウンドケーキ2切れを3種、プリン、チーズケーキは6分の1カット、である。ですらこんなには食べない。さっそくパクパクとケーキを食べだす藤真をよそに、と花形はとりあえず紅茶である。いっそ気持ちいいくらいにケーキを平らげていく藤真を見つつ、はDVDを取り出し、花形は食べる前から口の中が甘くなっていた。

「お、ピー助か?」
「残念でした。魔界大冒険です」
「大丈夫か、メデューサで藤真チビるんじゃないか」
「てめえスタメンから外すぞコラァ!」

ケーキをもりもり食べながらそんなことを言ってもあまり迫力がない。

「あ、スタメンで思い出した。花形に、お前ら合宿中どうするんだ」
「合宿……わざわざ泊まりに行かなくても今だって部活漬けなのに」
「寝食を共にするってのもトレーニングのうちなんだよ」

その感覚が運動部に所属したことのないはよくわからない。朝から晩まで体育館を開けてやればいいだけじゃないのかと思ってしまう。自宅で休んだ方が体調管理もできるだろうに。

「どうするって別にその間は自宅にいるけど」
「やっぱそうか。じゃあさ、、7月中バイトしないか?」

鼻息荒く藤真はフォークをに突きつけた。

「親父の知り合いが夏だけ喫茶店やってるんだけど、バイト探しててさ。泊まるところもあるって――
「あ、ごめん無理」
「早!」

藤真が言い終わらないうちに、両腕をバッテンにクロスしては首を振った。

「泊りがけは無理か」
「一晩くらいならともかく、長い間は……ごめん、せっかく教えてくれたのに」
「いやいいけど、そんなに厳しいのか」
「厳しいっていうか、家を空けられないから」

これには藤真だけでなく花形も首を傾げた。春からずっと空けまくりじゃないか。

「みっともない話なんだけど、掃除とか洗濯私がやってて、出来てないと、ね」
「怒られるっていうのか?」
「一応自活できるようになるまでお金出してもらわないとだし、あと少しの我慢だから」

一言で説明しづらいは、やけになったのか、垂らしていた前髪をするりと上げた。前髪の生え際に、真横に渡る数センチの傷跡があった。額の傷といえば苦い記憶のある花形に藤真は、思わず身を乗り出した。

、それ虐待じゃないか」
「っていう年でもなくない? これもたまたまだし」

によれば、1年生の2学期末の準備で洗濯をサボってしまった時の傷だという。翌日に着て行きたかった服が洗濯されていないことに腹を立てたの母親はまた運悪く酒に酔っていて、と大喧嘩になった。言い合いの果てに母親が振り回したバッグの金具が直撃したのだと言う。

誰のおかげでのうのうと学校に通ってるんだと言われ、それを出されると反論できないはひとりで外科を受診し、3針縫ったという。さすがに高校1年生では医者も疑いを持つことはなく、テスト勉強で寝不足だったから自宅で転んで自分のバッグにひっかけたというに「偉いねー」と笑顔で褒めてくれた。

花形を諌めなければと藤真は思うのだが、出来なかった。怒りで腹が締め付けられる。言葉にしないように飲み込んでいる衝動が吐き気になって渦巻く。目の前にあるケーキを見ていると、余計に腹立たしくなって、花形が首を突っ込みすぎていると偉そうに考えていたことを後悔した。

藤真ですら怒りで何も言えないのだから、花形の怒りはどれだけのものだっただろう。

「そんなわけで泊りがけのバイトはちょっと。大丈夫、ちゃんとやってればこんなことにならないから」

本人はにこにこしているが、聞いて知っているつもりになっていた以上にの状況はよろしくない。喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、服の裾を掴んで耐えながら花形は言う。

「オレがいなくても、ここ、使っていいよ」
「えーいいよ、誰もいないんだったら自宅でも同じじゃない」
「家にいられなくなったら、ってことだろ花形」

藤真の援護に花形は大きく頷く。はへらへらと力なく、しかし嬉しそうに目を細めた。

「そしたら帰ってくる日はおいしいものいっぱい作っておかないとね〜」