プラクティス・デイズ

04

「なんていうか、空き巣の気分だったよ」

花形が部活に勤しんでいる間に隠し鍵を使って部屋に入った、それを空き巣に例えるとはなんて色気のない。

「家は大丈夫だったか」
「ハワイ出張だった! そんなに長くないだろうけど、あと3日くらいは確実にいない」

しかしこんな風に明るい顔をする女だっただろうかと花形は思う。数日前、酔っ払いに絡まれているところを助けた時は、どんよりと生気のない顔をしていた気がする。言葉も覇気がなくて、何もかもどうでもいいような雰囲気に取り巻かれていた。相変わらず静かで落ち着いてはいるが、早くも表情が出てきた。

「量、どうかな。このくらいだと多い?」
「ええと、正直言っていいかな」
「うん」
「全然足りません」
「うそ!?」

が用意した食事は、要はプラス料金で増量してもらう程度の「大盛り」である。何もしていないならともかく、部活から帰ってきてこの程度では身が持たない。に合わせてのんびりと食べているが、全部かき込んでしまいたいくらいだった。

「うーん、なかなか難しい。今までは自分の分だけ適当に作ればよかったけど……
「まあ、これじゃひとり暮らしの練習にはならんだろうが」
「そうでもないよ、普通の台所久し振りですごい大変だったし」

タワーマンションはキッチンもラグジュアリーであろうが、それを使っているのが高校生の女の子というのはいかにも可笑しい。それに比べてこの部屋のキッチンは、時代を感じさせつつも基本的な部分ではスタンダードなサイズのステンレス製だ。男のひとり暮らしであるから、道具もろくなものがない。

「というか包丁とかよく切れたな。ほとんど使ってないのに」
「シャープナー持ってきたもん」

そのくらいの補助道具はあってもいいだろう。まだの料理は調理実習レベルでしかないが、花形はそれでも嬉しかった。温かい食事を作ってもらえる、一緒に食べることが出来る、それは激しい感情を呼ぶものではなかったけれど、疲れが取れていく気がする。

そしてまた壁に並んで寄りかかり、部屋の灯りを落として映画を見る。

「教科書で見た絵画のイメージがあったから、これはインパクトあったよな」
「ほんと。金の長い髪で白くて細くて、もっと可憐な少女なんだと思ってたから」

リュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」である。字幕なので、たまにこうしてぼそぼそと言葉を交わす。画面の中ではロアール川で旗を打ち振るジャンヌが絶叫している。そしてエンドロール、主人公が神の使いでもなんでもなく、ただ人として火炙りにされていくラストシーンの後では後味が悪い。

「だけどさ、あの人、ジル・ド・レ」
「うん?」
「ジャンヌは異端とされたわけでしょ、きっと同じところに行こうと思ったんだろうね」

ジャンヌ・ダルクに心酔していたともされるジル・ド・レ公は、ジャンヌの死後に虐殺や放埓の限りを尽くして処刑されている。はそのことを語りつつ、文字が流れる画面に向かって微笑んでいる。

「なんか、少しロマンチックだよね」

そう言ったの横顔は、また少し影が落ちて曇っている。焦る気持ちはなかったが、こんな風に過ごす日々がをすくい上げることになればいいと花形は思っている。無理に明るい映画など見なくていい。後味の悪い映画にロマンチックだなどと言う捻くれた時間がきっと彼女をすくい上げるだろうから。

以来、は毎日のように花形の部屋に来て過ごすようになった。あくまでも毎日のように、であって必ずしも毎晩一緒に過ごしているわけではなかったが、の母親が不在ないしは彼氏を連れ込んでおり、なおかつ花形の方も帰ればひとりである確率はかなり高い。

学校帰りそのままであったり、一度帰宅して私服に着替えてからであったり、は自分の都合で花形の部屋までやってくる。しょっちゅう場所を変えている隠し鍵で部屋に入り、食事の支度をしたり勉強したりして過ごす。花形が帰るまではどっちみちひとりだが、帰ってくるのは安心して過ごせる相手なので苦にならない。

花形の方もそれは同様で、部活で疲れているのに食事の支度をする必要がないのは有難かったし、何よりとはフラットな精神状態で話が出来る。そのおかげで気持ちのリセットが容易になり、日々近付いてくる県大会へもベストな状態で臨むことが出来る気がしていた。

「翔陽ってシード校なの? 強いとは聞いてたけど、すごいね」
「シードでも優勝にはあんまり関係ないからなあ」
「月末かあ、なんだか私まで緊張してきた」

県大会が近付くにつれて、翔陽バスケット部は練習量が増えた。普段から練習漬けなのに、さらに増量している。そんなわけで花形も1度帰ってきてからまた練習に出たり、を送っていくついでにランニングをしたりと、ゆっくり映画を見る時間は取りにくくなっている。

「当日、見に来るか?」
「あんなに部員がいるのに? そんなアグレッシヴさないよ」

シードである翔陽の初戦はトーナメント5戦目にあたり、日曜に行われる。4戦目までは各校の生徒や保護者が客席にいる程度だが、ブロック最終戦ともなると途端に観客も増える。ましてやここ数年、海南とトップ争いをしている翔陽の試合ともなれば尚更。ついでにここ3年は藤真がいるので女子が3割増しくらいで多い。

「まあそうだろうな。たぶんその日は練習ないから早く帰るよ」
「んじゃご飯いっぱいいるね」
「頼む」

今年こそ翔陽が県ナンバーワンになるのだと、花形や藤真は心に決めていた。そしてインターハイも。合宿やインターハイの間、をひとりで置いていくということが気にならないわけではなかったが、その時はまた考えればいい。まだ5月なのだから。

「そしたらそれまでは疲れが残らず、体をしっかり作るご飯でないとね」
「夢中になるととことんまでやらなきゃ済まないタイプか」
「わりと」
「藤真だな」
「一緒にしないでえ」

こうしてふたりで過ごす時間がどんどん長くなっていき、それがどんな関係であったとしても、いつか藤真を連れてきてやろうと花形は考え始めていた。とは2年間同じクラスだったのだし、いくら幻想を抱いていなくても、こんな風にバカ話が出来ると思うから。

そうしてが沈んでいる淀んだ水の底から、すくい上げることが出来るのであれば。

県予選5回戦目。去年も一昨年も予選2位のシード校に甘んじてきた翔陽は今年もその位置で予選である。対戦相手は、昨年1回戦敗退にも関わらず順調に勝ち上がってきた湘北という県立高校。

は当日の朝にメールを1つだけ送信した。事務的な連絡以外では殆どメールなどしないのだが、なぜか今日は胸騒ぎがしたからだ。

Don't think, Feel!

こんなネタで少しだけ笑ってくれたら、それでいい。は携帯の画面に向かって祈った。

バスケットの試合がどんな風に始まり、どのくらいの試合時間で、その後どうやって帰るのかなどは何もわからない。ただ、今日は早めに買出しをして花形の家へ向かおうと思っている。メールを送った後、は窓の外を眺めながらメニューをああでもないこうでもないと思案していた。

食べてきたからいらない、そんなの。そう母親に言われて以来、は自分の分しか食事を用意しなくなった。確かに上手ではないかもしれない、だけど食べられないほど不味いわけでもない。まだ高校生なのだし、料理を教わったことなど一度としてないのだから、むしろ上手な方だと言うべきだろう。

何も「美味い」を連呼してもらえなくてもいい。花形は一緒に食べてくれる。あれを食べたい、これを作って欲しいと言って、残さず平らげてくれる。それだけでは作ろうと思う。例えば藤真がやって来たって、何でも好きなものを作ってやろうと思う。

私たちは、まだ欠けているところだらけの未完成品だ。それをこうやって補って、埋めて、戦っている。

頭の中でメニューを構築しながら、窓の外の太陽の光には目を細めた。

昼前にスーパーで買出しをしてから花形の部屋にやってきたは、早めに着いたこともあって少々時間を持て余し、夕食の支度だけでなく、掃除を始めた。プライベートな部分に踏み込みたくないのはも同じなので、掃除機をかけたり、バスルームを洗ったりという程度だが、気が紛れる。

のバッグの中には買出しのついでに借りてきたDVDが入っている。

試合で疲れているかもしれないから少し気楽に見られるものがいいと、 「エイリアンvsプレデター」を選んだ。最初にこの部屋に来た時に花形が見ていたのが「プロメテウス」だったのだし、また「ウェイランド社は結局何がしたいんだ」とどうでもいい議論をするのが楽しいような気がして。

昨日までの話では、夕方には帰宅してしまうかもしれないと言っていた。監督も兼ねる藤真は休むといったら休む主義だそうで、そのオンオフの使い分けの上手さが良いプレイに繋がっているのかもしれない。そろそろ支度を始めようか、と膝を立てる。

ポタン、とシンクに水滴の落ちる音が響く。身の丈に合わないタワーマンションより、この古臭いマンションの方が落ち着く。はそう思っていた。方々で遮られて緩くしか届かない日の光、風にも車の通過にもガタガタ揺れる床、何もかも不完全で壊れていて、まるで自分のようだったから。

そんな空間で、何も言わず隣に座っていてくれる花形がいれば、自分の欠けた部分が埋まっていくような、頭がつかえていた天井が外れて空が見えるような、そんな気がしていた。

仲間たちと別れ最寄り駅で下車した花形は、まだ頭からタオルをかけて胸に垂れ下げていた。裸眼で歩くのが久し振りで、妙な違和感がある。駅舎を出ると、の住むタワーマンションの横を通過する。あの夜物陰から覗いたアプローチは人を寄せ付けない空気だ。

このまま帰って、にどんな顔をしたらいいのかわからない。

そう思うと、今すぐメールを入れて帰ってもらうようにすればいいのだとはわかっている。だが、毎日のようにのいるあの部屋で、ひとりで過ごすのが嫌だった。今日ばかりは、そんな気分だった。がいないなら、部員たちでもよかった。誰かと一緒にいたかった。

けれど、そんな風に思うかどうかは人それぞれなのだから、声高にひとりになりたくないなどとは言えない。言いたくない。言葉も感情も要らない、ただ誰かが同じ空間にいてくれさえすればそれでよかった。

とぼとぼと駅前を通り過ぎ、自宅へ向かう。古いくすんだマンションの壁、空室ありの錆びた看板、濁った色の網入りガラスが今日は妙に静かで温かい気がした。もう何歩か歩いてドアを開けばがいるだろう。穏やかな笑顔で迎えてくれるだろう。さて、その時自分はどんな顔になってしまうだろうか――

「あ、おかえり――どうしたのその傷!」

ドアを閉めて振り返った花形の顔を見たはそう言って竦んだ。試合中に追った傷を止血するために使った絆創膏を貼り付けたままだった。その怪我を負った時に眼鏡も割れてしまったので、かけていない。元々軽度の近視なので、試合も外を歩くのにも支障はなかった。

靴を脱いで部屋の中に入り、に並んだところで言う。

……負けた」

それ以上の言葉は見つからなかった。もし気が緩んで、何かが心を突付きでもしたら泣いてしまうかもしれない。それが怖くてタオルをかけたまま帰ってきた。こんなたかが1試合だけで1年かけてきた夏が閉ざされる、そのショックは簡単に飲み下せるものではなかった。特に3年生はつらい。

負けた、と言葉にしただけで目が熱くなる。がいるのはわかっているが、止めようもない。

「決勝リーグも神奈川ナンバーワンもインターハイも、全部なくなったよ」

言いながら、いつも映画を見ている壁際に歩み寄り、背中を預けてずるずると滑り落ちた。タオルがかかったままの頭を壁に預けて、膝を立てる。自分の部屋の慣れ親しんだ匂いが体を緩めてくれる。けれど、体中が痛い。血を流した傷は痛まないのに、四肢が全てギリギリと痛んだ。

あまりに静かなので、がすぐ横で膝立ちになっていることに気付かなかった。少しだけ首を巡らせれば、の膝が目に入る。制服でなければ絶対にスカートを履いてこないジーンズのの膝だ。そして、タオル越しに肩に手を置かれたことに気付いた。そっと、置いただけの軽い感触。

「ひとりになりたいなら、私帰るよ。ご飯もあるし、掃除もしておいたからね」

静かな静かな、押し付けがましい感情は何一つない言葉が鳩尾に響く。

「ひとりじゃない方がよければ、ここにいるし、どっちでも――
「ここに、いてくれ」

横を向いて目の前にあったの体に縋り抱きついて、花形は涙を零した。優しく頭を撫でてくれるが何も言わないので、花形は静かに泣き続けた。日が傾いて薄暗くなっていく部屋の中に、花形が洟を啜り上げる音だけが響いていた。