プラクティス・デイズ

10

「ねえ、透って、キスしたことある?」
「は?」

場面はラブシーンというよりベッドシーンだ。サルマ・ハエックの完璧なまでの肢体が美しくうごめいている。それを眺めながら、はそんなことを言い出した。花形は寄り添っている体を起こして覗き込んでみるが、なんだかぼんやりとした目で画面を見つめている。

……あるよ」
「どんな感じ?」
「と言われても……

嘘はつきたくなかったし、の質問の意図が読めない以上は様子を見ていた方がいい。

「あるって言っても2回だけだからな。感じもなにも、てところだ」
「2回しかしなかったの?」
「付き合う真似事みたいなことをしてただけだったし、中3の夏からだったから時間もなかった」

ふうん、と言ったは少し首を傾げている。納得しなかったのか。

「今だからなのかはわからないけど……本当に好きだったのかどうかも怪しい」
「ただ彼女が欲しかった?」
「ていうより、引退したら突然付き合ってくれって言われて、断る理由がなくて押し切られた」

鼻で笑っているの唇が目に入る。

「キスもまあ、なんでしないんだって怒られてしたんだ確か。なんだか怖かったよ」
「せっかくのファーストキスなのに」
「だから感慨もクソもなかったな。今でもないよ。てか、どうしたよ」
「映画見てるとキスシーンなんてお約束で気にもならないけど、どんな感じなのかなあって」

ということは、はまだキスの経験がないということになる。花形は繋いだ手を少しだけ持ち上げて引き寄せ、まだ画面を見つめているの横顔に向かって言う。

「試してみるか?」

冗談と取ってもらっても、本気にしてもらっても、どちらでもよかった。その言葉にが顔を上げる。暗い部屋に乱反射する画面の光が顔に当たって、白々と照らしている。夜の街で出会った頃のような、少しだけ陰のある、不思議そうな表情をしていた。あるいは、迷っているようでもあった。

「うーん、どうしようかな」
「迷うくらいならやめとけよ」
「まあ、そうなんだけど」

やはり少し迷っているようだ。だが、くいっと顔を上げなおすと、真っ直ぐに花形を見詰めなおした。

「いいの?」
「いいよ」

繋いでいた手を解き、の背中に腕を回す。少し引き寄せたところで、花形は眼鏡を外した。

「やっぱり邪魔なんだ」
「そりゃな。でもちゃんと見えてるから」

テーブルに置いた眼鏡の方を見ているの頬に指を添えると、視線が戻ってくる。さすがに緊張するのだろう、黒目がちらちらと揺れている。どこに置いたものかとさまよっていたの片手が花形の背中に伸びてきたので、もう一方の手を取ってやる。少し冷えていた。

「いいんだな」
……うん」

掠れた声だった。その言葉で目を閉じたの唇に、花形は触れるだけのキスをした。3つ数えて、離れる。

それで充分だと、そういうキスでいいだろうと思っていた。だが、目を開き、目の前で俯いているを見た途端、じわりと背中を駆け上がる痺れが首を通り頭が一杯になる。もう一度、いや二度でも三度でもキスしたい。花形は、俯くに顔を寄せると、それに気付いて少し開いている唇に襲い掛かった。

今度は触れるだけではなかった。乱暴にするのは信条に反するので、出来るだけ気を遣いながら、けれど珍しく体を満たす本能に従い、の唇を捏ね回した。突然のことには急に息が荒くなる。その唇の端から漏れ出る吐息にもまた誘われて、花形は何度も何度もにキスした。

「ごめん」

気が済むと、花形はそう言っての肩を撫で下ろした。は何も言わずに膝立ちになると、両腕を花形の首に回してくっついた。その体を花形はゆるりと、そしてやがてしっかりと抱き締めた。まだ少し息が上がっていて、動悸が治まらない様子のの髪に、耳元に、またキスしてゆく。

「私が、頼んだから」
「でもこんなにしろとは、言ってないだろ」
「1回だけとも言わなかったよ」

息苦しそうなの背中をさすってやりつつ、服越しに肩にもキス。

……おかしな関係だってことはわかってる」
……うん」
「でも、型に嵌めてルール作って、それに従うのもおかしいと思う」
「うん」
「オレたち毎日戦ってるのは同じで、疲れて変なものに飲み込まれそうになるから――

腕を緩めたが額を合わせる。感じていることは同じ、心の奥底にある想いもきっと同じ。

「一緒にいればなんとかバランス取れるような気がして、ただそれだけなんだ」
「うん、私もそう思ってる」
「藤真は急かすけど、そんな風にしたくない」

の頬を両手ですっぽりと包み込む。大きな花形の手に覆われたの頬は熱かった。

「お前が何も……あれをしろとかこれをしろとか言わないから甘えてるのもある」
「だって、何も望んでないから」
「藤真がよく言うんだ。付き合ってないのか、好きなんだろう、彼氏になれ――

書類を提出して夫婦になるならともかく、そんなものはただ関係を縛る言葉でしかないから。と花形のドライな部分が凝縮された価値観は、他人の目には奇異に映るだろう。花形の手にの手が重なる。

「私も今日、言われたんだ」
「藤真に?」
「寂しかっただろう、って。子供じゃないんだからって言ったら、もっと感じたことを言えって」
「だからキスのことなんか聞いたのか」
「ごめん」
「怒ってるんじゃない、納得しただけだ」

開くに任せていた扉を藤真にこじ開けられてしまったようだ。

「感じたことをそのまま言葉にしてもいいなんて思ったことなくて、だけど、何も言わないのって嘘みたいなものなんじゃないかって思って、透にも藤真にも嘘はつきたくなくて、だから――

言葉を切ったに、もう一度キスする。ゆっくりと、静かに。

「そんなこと、急がなくていいんだからな」

小さく頷くと、今度はの方から唇を寄せてきた。そうしてふたりは何度も唇を重ね合わせた。

翌日、花形もも、昨夜のことなどきれいさっぱり忘れでもしたかのように過ごしていた。藤真がいるせいもあるが、急激な変化はまだいらないという気持ちの方が強かった。部活だってある、進路のことも考えなければいけない、戦いに疲れた体を癒すのにこうして遊びもしたい。その方が大事だった。

結局お盆休みも遠出することなく、1度だけあの古い中華料理屋に出かけたが、それ以外では何も変わらずに夏休みを過ごした。8月も後半になると宿題を抱えた藤真が入り浸るようになり、つい甘やかしてしまうと頑として手伝わない花形の攻防戦になったりもした。

そんな中、夏休みも終わりに近付いた8月下旬のことだった。普段どおり部活を終えて帰宅した花形は、ドアを閉めるなり小走りでやってきたに飛びつかれた。ふいをつかれてよろけたが、そこは神奈川でも3本の指に数えられるセンター、を抱き上げてバランスを取った。

「どうした、何かあったのか」
「あのね、家、出られることになった」

声が弾んでいる。こんなに嬉しそうな声を聞いたのは初めてだった。

「出られる?」
「大学、行かれると思う。あの家も出てひとり暮らし、出来るの」

らしくもなく、話が纏まっていない。それだけ興奮している。大学といっても推薦入試の時期すらまだだが、何か進学の目処でも立ったのだろうか。喜ぶを心から祝福してやりたいと思う花形の心のどこかで、あまりにも遠く離れてしまったらどうしようかという不安が頭をもたげる。

、落ち着け。何があったんだよ」
「ごめん、早く話したくてつい」

を床に下ろし、肩や腕をさすってやる。はしきりと頬や口元を触っている。あのマンションを出られるかもしれないというだけで、この喜びようである。花形は肩を抱いたままをいざない、壁際に座らせて冷蔵庫からお茶を取って来る。

「ゆっくりでいいから、ほらお茶」
「ありがとう、昨日ね、母親の昔の上司だって言う人が来たの」

この時花形はの母親が小学生でも知っているような大企業勤めだということを初めて聞いた。現在は本社勤めではないけれど、神奈川支社ではだいぶ上の方に所属しているとのこと。その元上司は本社勤めであり本社でも上の方であり、さすがのの母親でも頭が上がらないような人物だそうだ。

「どうもあの彼氏が社内のお偉いさんの親族だとかで、釘を刺しに来たみたいなの」

は嬉しそうだ。

「頭も服も化粧も地味にしてさ、母子ふたりで地道に生きています、とか言うんだよ。バカみたい」

しかし大企業の最前線で戦っている人物にそんなこけおどしが通じるわけもなく、は挨拶を済ませると部屋に返された。母親の方はそれから延々2時間絞られたそうだ。2時間ほど経って、を呼びに来た母親は、青筋立った額に頬を引きつらせていて、もう一度挨拶をするように言われた。

「すごいよね。仮にも人んちで、あなたは下がりなさい、娘を呼びなさいって命令したんだよ」

そこでは現在自分が置かれている状況を看破されたのだという。

の母親は離婚当初、シングルマザーになったことを利用して印象操作をしていた。女手ひとつで子育てをしキャリアも手に入れるというレッテルを武器に、同情と正の印象を手に入れた。このため、の母親が母子家庭であることは周囲にはよく知られていた。当時は小学校高学年である。

しかしそれから2年と経たないうちに、彼女は子育てを放棄し始める。折りしもは中学生に差し掛かり、ある程度はひとりで生活出来るようになっていたのも災いして、母親は娘のいる家に寄り付かなくなった。理由はもちろん、男が出来たことによる。言い訳としては、中学生はもう子供ではないから構わないというものだった。

「今のは私が知ってるだけで3人目なのね」

ひとり目は社外の人物で、その相手と交際している時はまだよかったのだが、ふたり目からは社内の年下と付き合うようになった。彼女にシングルマザーだとよく聞かされていた周囲の人間は、いくら大きくても子供がいるにも関わらず放埓な生活をしているのを見て不審に思っていたそうだ。

がちょっと問題だって上司さんの耳にも入ってて、それで昨日私に会ったらピンと来たっていうの」
「それはそれで怖いな」
「なんかね、猛禽類みたいな目をした人だったよ」

猛禽類に母親がやり込められたのが嬉しくて仕方ない様子だ。

「どうも、母親だけじゃなくて父親のこともよく知ってるらしくて」

母親も昔はこんな人物ではなかったというし、父親の方も離婚を機に海外赴任先で家庭を持ってしまい、ほとんど帰国しない。それをよく知っているという上司は、を見て「胸が痛む」と言ってくれたそうだ。それはひとえにが不貞腐れることもなく真面目に過ごしているのが見えたからだろうと花形は思った。

「それで、進学するための色んなことの面倒を見たいって言ってくれたの」
「面倒って、費用とかか?」
「それは基本的には母親に出させるらしいけど、ひとり暮らしの準備とか保証人とか、そういうのを」

花形はまた不安の波に襲われている。そのひとり暮らしは一体、どこで?

「しかもね、志望校は決まってるのかって聞かれて、いくつか考えてたのを挙げたらびっくりして」

うち1校が自分の出身校だったそうだ。ぜひともそこに入れるように頑張りなさいと激励されたという。それがどこなのかと聞きたくてうずうずしていた花形だったが、じっと耐えている。どんなに遠くとも、せめて関東であればと思ってみるが――

「それがね、どこだと思う?」

は東京にある大学の名を挙げた。

「え!?」
「びっくりしたでしょ?」

推薦で翔陽に入学した花形の実家は、東京。の言う大学は同じ沿線で、すぐ近くだった。