プラクティス・デイズ

08

また連れ立ってを送り届けた花形と藤真は、雨が降っているので大人しく歩いている。

「花形、よく我慢したな、お前」
「お前もけっこう腹立ってたろ」
「傷の辺りがすげえ熱かったよ。気のせいだろうけどさ」

藤真は前髪の隙間から指を差し込み、古傷のある額を擦っている。

「花形お前さ、バスケは大学までかもって言ってたよな」
「まあ今はな。一生の仕事っていうのは現実的じゃないだろうとは思ってる」

ちょうど有料コートのあたりに差し掛かり、藤真はちらりとコートを見やると、足を止めて花形に向かい合った。

「お前頭いいんだから、バスケできる中でも一番いい大学行けよ」
「なんなんだ急に」
「バスケもだけど、ちゃんと勉強もして、稼げる仕事に就けよ」
「藤真、大丈夫か?」

藤真は眉間に皺を寄せながら厳しい顔をしている。そして、花形に人差し指を突きつけて言い放った。

「それで、を嫁にもらってやれ」

花形は一瞬何を言われたのかわからなかった。だが、一応言葉の意味がわかると、まずはため息をひとつ。

「なんだよそのため息は。オレは真面目にだな――
「本当に気持ちだけで突っ走るなお前は」
「それの何が悪いんだよ。お前、を助けてやりたいんだろ? あんな家に置いておきたくないんだろ?」

それはその通りだが、それと結婚が今からイコールになるのも強引な気がしている。

「お前が救ってやったらいいじゃないか。お前が大事にしてやればいいだろ」
「落ち着けよ。まだ進路すら決まってないのに、そんな話、てか付き合ってもないのに」
「だいたいそれが問題なんだよ。お前、のこと好きじゃないのかよ」

なぜこんな往来でこんな話をしないとならないのか、花形は藤真を置いてひとりで帰りたかった。だが、藤真は今日も泊まることになっていて、帰るのだとしてもバスの最終がとっくに出てしまった時間である。ともかく立ち止まっていられなかった花形は黙って歩き出す。藤真も同じ速度で歩き出す。

「中途半端に同情するくらいならこんなことやめた方がいい」
「中途半端にって、しょうがないだろ!? 付き合ったら何か変わるのかよ」

声を荒げた花形は、まっすぐに見つめ返してくる藤真の目にたじろいだ。

「変わるよ。自分を1番に想ってくれる人がいるって、それがどれだけ幸せか、もうわかってるだろ」

今度は藤真の方が先に歩き出した。花形はとぼとぼと着いて行く。

……お前は要領いいし、も頑張ってうまくやってる。バスケと両立出来ない相手じゃないとオレは思うよ」
「そういう問題かよ……

ぼそぼそと降る雨の中、傘を差したふたりは肩を落とし下を向いて花形の部屋へ帰っていった。

その後、テスト期間に突入した翔陽は全ての放課後の部活動が停止になった。最初の日だけやって来ていた藤真は、と花形が勉強ばかりするので寄り付かなくなった。手作りのおやつは食べたいが、夕食を済ませてからずっと勉強など耐えられなかったらしい。

しかも、例年ならインターハイを直後に控えている状況だったので、テスト期間でもバスケット部には朝と昼の体育館の使用が認められていたのだが、強豪であり名門であるというプライドに触ったのか学校側は全面禁止を言い渡した。その代わり、県予選優勝でインターハイ進出を決めた女子バレー部に朝昼開放されることになった。

「藤真あたりは部活を離れればキーキー言いそうなもんだけど」
「オレは言わない」
「だよねえ」

とりあえずバスケット部の校外活動というと、一番近いのは合宿であり、インターハイが消えた彼らは夏休みの間も通常通り部活漬け。秋の国体はおそらくまた海南だけで出かけていくに違いないと花形は踏んでいる。となると、遠征や練習試合がどう予定されるかだけで、特に目立った予定はない。

しかも今は正規の監督が不在の状態で、ただ引率をしてくれる顧問の先生がいてくれるだけだ。練習試合を組むのも一苦労の翔陽は名門強豪の割には活動内容が地味になりがち。

「冬の選抜も半年ないと言えばそうなんだけど」
「にしても学校ってのはたまに教育者とは思えないことをするよね」
「大小の体育館ふたつで室内競技全部賄うってのも無理があるよな」

友達と一緒だと遊んでしまって、結局勉強できないタイプもいるが、と花形はこうしてぽつぽつ喋りながらでも勉強が出来るタイプだった。勉強しているのもお互い違う教科だったし、喋っていても手は止めないし顔も上げない。むしろひとりで鬱々と勉強するより効率がいい気がしている。

「合宿っていつからなの」
「夏休み入ってすぐ。インターハイが8月の頭だから毎年7月中なんだよ」
「じゃあ、お盆の頃はこっちにいるの」
「いるよ。何かあった?」

は携帯を取り出して何やらいじると、少し顔を上げてニタリと笑った。

「確実じゃないんだけどさ、どうもあの人海外行くっぽいんだよね」
「これから決めるのか?」
「ううん、行こうかどうしようかじゃなくて、単にSNSでまだ公表してないだけって感じ」

お盆時期は年末年始と並んで一切の部活動が出来ない期間でもある。その間1日くらいならと遊ぶのもいいかもしれない、と花形は思った。学校自体が閉鎖されるのだし、市民体育館も休み、近所では有料コートしか手段がない上に、夏休みの有料コートはとにかく混んでいるので練習にならない。

だが、は遊びに行くということを思いつきもしなかったようだ。

「藤真も強制参加でホラーナイトとかやりたくない?」
「ホラーナイト……
「あの人いないから帰らなくてもいいんだし、眠ってはいけないホラー24時みたいな」

起きていれば、藤真を挟めば、とりあえず明確な「泊まり」にはならないということか。確かに3人で起きて映画でも何でもわいわいと過ごしていれば、付き合ってもいない男の部屋に泊まるということにはならないだろう。

「一応お盆休みだからなあ、藤真も空くかどうか」
「あー、そっかあ」
「どこか行きたいところがあるなら付き合うぞ」
「うーん、そういうのは特にないんだけど、せっかくいないかもしれないからさ」

だって一晩中羽を伸ばしたいのだろう。

「近場でもいいじゃないか。ないのか、行きたいところ」
「人の多いところ、好きじゃないからなあ。透だってそうでしょうが」
「まあそうだけど……

最近は半分制服が多い。今日もTシャツに制服のスカート、ジャージだった。両手を頭上で組んで、ぐっと伸ばす。Tシャツの柄が縦に伸びて、しなる。それを目の端に入れた花形は、急に手を伸ばして抱き締めてみたい、と思った。けれど、それがぼうっと頭を熱くするような欲情から来ている感覚がない。

確かに藤真の言うように、自分の方がおかしいのだろうということはわかる。なぜか同級生たちのように、カレシカノジョ・オツキアイということに夢中になれないのだ。名門翔陽バスケット部で1年の壁を乗り越え、2年目も頑張っていた部員が、夏に彼女が出来た途端やる気をなくしてやめて行ったことがある。最悪のバカだと思った。

を抱き締めてみたいと思ったのも、夏にどこかへ遊びに行きたいという10代なら当たり前の選択肢がない彼女が切なかったからだ。同情しかないならこんな関係やめてしまえという藤真の言葉ももっともだと思うが、他人の常識に従う理由はない。

いいじゃないか、オレたちは今のままで満足してるんだから。

期末テストが終わり、時間のあった花形はなんと学年1位をマーク、赤点寸前を1つ出してしまった藤真はつい「勉強してる暇があったら練習しろ」と言ってしまい、さすがに部員たちのひんしゅくを買った。もクラスでは5位、学年で37位に入り、推薦が見えてきた。

ともあれ、これでバスケット部は練習再開となる。合宿は夏休み開始の翌日から1週間。例年通り、翔陽は箱根にある体育館の併設されたホテルでの合宿である。山奥で周囲に何もないという合宿や研修に最適なクローズド環境は、1学期をなんとか耐え抜いた1年生が脱落するポイントでもある。毎年夏休み明けを待たずに退部届けが飛び交う。

夏休み初日は合宿前日のため練習は休み。翌早朝、学校に集合である。花形の部屋が学校に1番近いという理由で藤真が泊まりに来る。昨年は永野と高野も来ていたのだが、テストの前からのおやつ絶ちをしていた藤真のために今年は遠慮してもらった。

「持って行くかなとも思ったんだけど、主将だからそんなこと出来ないよね」
「隠してりゃわかんねえだろそんなの〜なんで思いとどまったんだよバカ、バカ

とうとう藤真もと呼ぶようになった。が思いとどまらなければケーキだのクッキーだのを合宿に持っていけたという事態に、藤真は床にうつ伏せで足をバタバタさせている。だが、とりあえず今日はレモンのパウンドケーキと桃のゼリーが藤真を待っている。

「これで足りるの?」
「毎日洗濯回しっぱなしだから」

花形の支度が終わるまでおやつはお預けの藤真の横で、は積み上げたタオルをバッグに詰めている。

「つーか何、って花形の洗濯までしてんの」
「してるっていうか……梅雨時期は乾燥機貸したりしてて、そのままかなあ」
「なんか花形、やってもらうばっかりだな」
「そういうお前はそろそろケーキ7本くらいタダで食ってんだぞ」

の好意とは言えそろそろ自重した方がいい量になって来ている。

「そういえば部長、なんでうちの運動部ってマネージャーつかないの?」
「うちはバスケに限らずどこもある程度は強いから、プレイ出来るのがまず入学してくるわけだ」
「そうするとマネージャーなんか志願するのはスポーツ得意じゃないのになる」
「男子でも女子でも、体力持たないんだな、これが」

は納得がいったようにうんうんと頷いた。

やってくれてもいいんだぞ。冬の選抜までだけど」
「ルールもよくわからないのに、ひとりで100人近い部員の面倒を見ろと」
「ははは、死ぬな」

もっとのんびりとした部であればそれもひとつの手だっただろうが、生憎翔陽は県内強豪の他校にも遜色ないハードな部活動である。明日からの合宿も基本的に寝ているか食べているか走っているかで1週間というところだ。

「想像しただけで吐きそう」
「実際ゲロは珍しくない」
「私はエアコン効いた部屋で映画見てるわ」

翌日が学校に6時集合の花形と藤真は、本日早々に就寝予定となっており、そのための料理は昼食とおやつのみ。また、午後は1本映画を見ることにして、今日はも早く帰る。

合宿のために今日は静かにしていると決めた3人は、昼食を終えるとカーテンを閉め、DVDをセットする。花形と藤真はごろ寝、は壁際でだらだらする。今日は藤真がいるので1993年版の「三銃士」を借りてきた。製作元がディズニーなので、お子様でも安心の痛快冒険活劇だ。

案の定、終盤のシーンで藤真は涙腺が決壊、それがぐずぐずうるさいので花形は壁際に逃げ、藤真から見えないのを確かめるとの手を取った。明日から1週間離れることになる。春から3日と開けずに顔を合わせてきて以来、1週間も会わないというのは1度もなかった。やはり少し寂しい。

それはも同じだったようで、いつもより握り返す力が強かった。そうでなければ、激励の意味であったかもしれないが、花形はどちらでもよかった。ただ明日からの1週間、に何事も起こらずに過ごして欲しいと思っていた。自分は遠く離れてしまうから、どうか無事で、と。

一週間の合宿を終えると、また1日だけ休みを挟んで練習である。例年ならインターハイへの出発が近いので慌しいが、今年はそれがない。花形は藤真と相談の末、合宿から帰ってきた日と翌日をと過ごすと決めていた。あまり外出したがらないを無理に連れ出すことはないし、一緒にいるだけならいくらでもできる。

それをに話すと、料理を作って待ってるという。花形と藤真にリクエストを募り、全部作っておくからと息巻いた。藤真はケーキをリクエストして上機嫌だったが、花形はそんなをまた抱き締めたいと思った。そんなことをしなくたって、オレも藤真も、お前と一緒にいるの、楽しいのに――

花形は繋いでいた手を持ち上げ、の手の中にピカピカ光る鍵を落とした。合鍵である。

手の中の鍵に気付いたは、さすがに驚いて思わず花形の顔を見上げ、嬉しそうに、恥ずかしそうに、そして少しだけ悲しそうに笑った。映画が終わるまで後少し、は急いで花形の手に手を重ね、キュッと握る。

部屋には、いつかのように洟をすする音だけが響いていた。すすっているのは、藤真だけれど。