プラクティス・デイズ

03

「ひとりになること、多いのか」
「まあ割と。決まってるわけじゃないんだけど、週の半分以上はひとりかなあ」
「ひとり暮らしみたいなもんじゃないか」

の用意してきた食材やら惣菜やらを突付きながら、花形は首を傾げた。ひとり暮らしってどんな感じ、と聞いていたが、それだけ家族が不在なら今もひとり暮らしみたいなものと思える。

「でもさあ、あのマンションの生活と同じだとは思えないよ」
「う、まあ、それはそうか」
「ご飯作るのだって、別にやりくりとか考えてるわけじゃないし」

駅前のタワーマンションでは実践ひとり暮らしとは程遠いに違いない。また本人の言うように経済的にも問題がないなら練習にもならないといったところか。またの場合、親に頼りたくないようだから、目標とするところと現状がかけ離れている。

「寮はダメなのか?」
「調べた限りでは寮もけっこう割高なんだよね……昔のスタイルの寮はプライベートなさそうだし」
「群れたりするの、苦手そうだな」

まあね、と言いながらにやりと笑うだが、ふたりとも「それなら今のこの状況はなんなんだ」とは言い出さない。花形もの料理を食べながら、また不思議な感覚に襲われている。初めて食べる他人の味なのに、すんなり馴染んでいる。付き合いの浅いクラスの女子が横で食べているのにも違和感を感じない。

「映画見ると遅くなるけどいいのか?」
「あ、今ちょっと確認してみるね」
「確認?」

は携帯を取り出していじり始めた。そして、目を伏せて操作しながらぼそりと言う。

「うち母子家庭だからさ〜。母親が何してるのか確認しておかないとね」
「確認……?」

そんなことよりも、あのタワーマンションが母子家庭の家庭環境だということの方が驚く。

「親が外で何してるのか、SNSで全部把握できるから。色々都合がいいし」
「ああ、そういう……それでいつもひとりなのか」

不明瞭だったの家庭環境が見えてきた。タワーマンション、筒抜けのSNS、いつもひとりの、親に頼らず進学したい、終電まで帰れない――

「いつからそんな生活してるんだ」
「中2とかそのくらいかな。離婚したのはもっと前なんだけど……あ、今日泊まりかも」

娘に見られているとも知らずに、の母親は外泊を仄めかす内容の書き込みをSNSにしているというのか。他人の母親ながら、花形は嫌悪感で鳩尾の辺りがざわつくのを感じていた。

「うーん、でもどこに泊まるかはっきりしないな。帰ってきたら面倒だなあ」
「今のうちに帰るか?」
「あっ、そうじゃなくて、彼氏連れて帰ってくるかもってこと。そうすると家にいたくないしね」

今度は不快感が顔に出てしまったかもしれない。花形は眼鏡を直す振りをして下を向いた。となると、金曜の夜はその彼氏が来ていたからは夜の街をうろつく羽目になり、挙句酔っ払いに絡まれていたわけだ。そして彼氏は終電で帰ったのだろう。だからあの時間だった。

「まあちょっと様子見てみる。今日は私服だし追いかけて帰ってもコンビニ行ってた、で済むしさ」
がいいならいいけど。ま、ゆっくりしていけば」

花形は努めて表情を出さないようにしながら、レンタルショップの貸し出しバッグを取り上げた。時間は既に21時30分を回っている。今から映画を見るとなると、確実に日付が変わってから帰ることになる。だが、今の話を聞いてしまっては、追い立てるように帰す方が可哀想だという気がしてならなかった。

一緒にご飯を食べ、雑談をし、並んで映画を見るくらいしか出来ないが、それでも自宅で母親のSNSに目を光らせているよりはマシだろう。記憶が定かではないけれど、新学期が始まった頃のより、今横にいるの方が優しい顔をしているような気がする。それなら、ここにいればいい。

「どっちにする。ジャンヌと十三人の刺客」
「これ、いつまで?」
「昨日借りてきたからまた時間ある」
「じゃ、十三人の刺客。ジャンヌ、また見に来ていい?」

DVDのパッケージに目を落としたまま、はさらりと言った。他意をまるで感じない、特有の淡白な抑揚だった。両親が離婚してしまい、贅沢なマンションに住んではいるが、母親がなんだか少し変。それを黙ってひとりで耐えているは、上目遣いで甘える方法など知らないに違いない。

……もちろん。つか、またメシ作ってくれない?」
「お、いいよいいよ。交換条件ね」
「いや金は出すよ、食べる量が違うだろ」
「あれ、もしかして今日もちょっと足りなかった?」
「実は少しな。でもいいよ、後でなんか食うから」

花形は、今は自分にも、同い年の女の子に対する少しの哀れみ以外の感情はないと思った。

「こんな話藤真にしたらヨダレ垂らして飛んできそうだな」
「花形がいいなら藤真のも作るよ」
「今はいいよ。時期が面倒だ」
「そうでした。じゃあ体力がつくご飯作らないとね」

DVDをセットした花形は、リラックスした笑顔で壁に寄りかかるの隣に座り、リモコンを操作した。

「暗くするか」
「うん、画面見づらいね」

暗い部屋に並んで座り画面を眺めていても、そこには静かな時間があるだけだった。

「十三人の刺客」は、高校3年生の女の子が見るにはだいぶバイオレンスな表現がある作品だったが、は真剣そのもの、一度としてびくついたり怖がったりする様子は感じられなかった。むしろ花形の方が何度か目を瞑りそうになった。血は作り物とわかっているが、音がリアルで痛々しかった。

エンドロールになり、イーグルスの「Desperado」が流れてくると、は感嘆のため息をついた。

「だいぶグロかったけど、大丈夫だったか」
「え? ああ、それは平気。なんか、いい映画だったね」
「そうだな」

文字が流れるだけの画面を追いながら、は膝に頬杖をついてまたため息をついた。

「こういう単純で分厚い表現て、それだけで頭が一杯になって、思考が止まるのがいいよね」
「思考が止まる、か。普段は考えたくないようなことが多いからな」
「花形も考えたくないこと多いの?」

画面から目を離さずに、は問いかけた。

「今はそうでもない。がそうなんだろうなと思っただけ」
「やばい、読まれちゃってるね、私」

は鼻で笑うが、否定はしない。

が嘘をついているとは一度も思わなかった。本当に彼女はあまりよろしくない家庭環境の中にいて、だけどそれに駄々をこねることもなく、冷たい目をしながらも真面目に生きていて、それがどうしても不憫だと思えてしまう。花形は膝の上に乗っているの手を取って軽く握り、ぽんぽんと揺らした。

「こんなところでいいなら、いつでも来ていいからな」
……ありがとう」
「楽しいことなんか何もないけど、ひとりでいるよりはいいだろ」
「こうやって映画見てるの、楽しいよ」
「今度はが借りて来いよ」
「うん、ジャンヌ見終わったら借りてくる」

そして、返事をするかのようにギュッと手を握り返すと、顔を向けて言った。

「あとさ、、でいいよ」

0時頃になって、母親のSNSに動きがないということでは帰宅することになった。今日もマンションのエントランスまで送ることにして、花形は携帯と財布だけをポケットに突っ込んで、と共に部屋を出た。

ひと気のない通りを駅まで向かい、映画や学校のことなどを話しながらマンションまで向かう。さすがにランドマーク・マンションなだけあって、まだまだ距離があってもすぐにその天を突くような佇まいが見えてくる。

もう少し行けばアプローチが見えてくる、という所で、花形はに腕を引かれ、マンションに隣接したオフィスビルの階段に押し込まれた。一瞬襲われるのかと思ったが、は乱暴に花形に体当たりしている。

「ど、どうしたよ」
「シッ!」

は花形をぐいぐいと奥に押し込むと、音を立てないように戻り、マンションとビルを隔てている壁の影からアプローチの様子を伺いだした。の様子にピンと来た花形は、そっとの背後まで近寄ると、肩に手をかけた。

「おふくろさんか」
「本人はいないんだけど、彼氏の車があるの」

確かに広々としたアプローチの正面に、わざとらしいまでの赤い車が停車している。トランク側しか見えず車種はわからないが、安っぽいタウンカーでないことは低い車高でわかる。黙ってそれを見ていると、やがてドアが開き、スーツを着た男性がひょいと出てきた。の母親の彼氏ということか。

……彼氏、ものすごく若く見えるけど」
「若いよ、たぶん20代」

花形はこっそり肩を落とした。ずいぶん奔放なおふくろさんだことで。

「これはたぶん彼氏んちとかホテルとか止まるのに一旦戻っただけぽいな」

そういうの言葉どおり、しばらくするとエントランスから高いヒールをカンカン鳴らしながら、白っぽいスーツを着た女性が小走りで出てきた。遠目には高校生の娘がいる女性には見えない。ハーフアップにした髪は高く盛られ、メリハリのある身体は隙がない。ヴィトンのボストンバッグを持ち、小型のトランクを引いている。

「おお、トランク。こりゃしばらく帰ってこないかも」
「荷物多いもんな」
「あの量は出張かも。海外だといいな〜」

の声は平坦だが、少しだけ嬉しそうでもある。

「キャリアウーマンてやつか」
「まあそんなところ」

赤い車が丸みのあるエンジン音を響かせて走り去ってしまうと、はようやく通りに踏み出した。

「好きに生きてくれて構わないんだけど、面倒くさいんだよねあの人」

そう言うの後姿に寂しさや孤独は感じなかった。それよりは、静かで穏やかな抑圧から解放されたいと、それを欲しているように見えた。美しく奔放な母親は、既に見捨てられているのだ。無関心という最低最悪の人間関係、の母親はもうそんな関係でしかなかった。

「ひとりで大丈夫か」
「そりゃもちろん。もう寝るだけだし、いないってわかってれば気楽だもん」

誰もいないアプローチを並んで歩く。

「これで花形たちが女の子ならねー、藤真連れて遊びにおいでよって言うところだけど」
さんち、娘さんが男連れ込んでるなんて言われかねないってな」
「こんな気取ったマンションのくせに、人の目ってどこも変わらないよね」

へらへらとは笑っているが、そんなことを心配するような年じゃないだろうと花形は憤慨していた。それをに言ったところでどうにもならないから、何も言わずに並んで歩いているが、本当はに代わって彼女の母親を罵りたいような気さえしていた。

「ねえ、ご飯、なに食べたい?」
「え?」
「明日、準備していくから」

花形はの横顔に目を落としながら、心を決めた。

「鍵、ポストの天井に貼り付けておくから、好きな時に来ていいよ」

さすがに驚いた様子で顔を上げただったが、それでもすぐに柔らかい表情になって少しだけ俯いた。

「なんか、花形の良心につけ込んでるみたい、私」
「それが何か問題あるか?」
「一番のプライベート空間だよ」

しかし現実問題花形は部活で忙しいのは変わらないわけだし、ふたりともいい加減でだらしないのは嫌いな性分である。の都合に合わせ、花形の都合に合わせ、ひとりで過ごしている時間を共有しようという試みだ。少なくとも今はそれ以上を望む気もなかった。

「プライベートを侵害されてる気がしないからな。飯、楽しみにしてるよ」
「うん、そっか、それなら。頑張っておいしいの作って待ってるよ」
「あと、学校ではって呼ぶからな」

これまでになくにっこりと笑って頷くの顔に、花形は心底ホッとする。だって、毎日こんな笑顔でいられるはずのに。普通の高校生なら、みんなこんな顔で笑い合うものだろ? そりゃ辛く悲しいことだってあるけど、なんだか色んなものが楽しいのが普通じゃないか?

エントランスに消えたを見届けて、くるりと背を向けて初めて花形は手を固く握り締めていたことに気付いた。爪の跡がくっきりとついている。また夜風がマンションを滑り降りて、背中を切りつけていく。

この手でをすくい上げることができないだろうか。爪跡がじわりと熱を持った気がした。