プラクティス・デイズ

09

体調不良による強制帰宅が4名、怪我2名、脱走3名という、ほぼ平年並みの結果を残して翔陽高校バスケットボール部の合宿は恙無く終了した。脱走3名はともかく、1年生の中には半分を過ぎたくらいで既に戦意喪失している者も少なくなかった。お盆前に退部コースである。

「向こう気にならないのか? メールとかすればいいじゃんか」と藤真は夜な夜な花形を精神的に攻撃してきたが、家を出た瞬間を忘れるというスイッチを入れた花形は動じない。

合宿中、ほんの少しの隙間を見つけては、のケーキが食べたいだの、帰ったらジブリナイトをやりたいだのと、藤真の嫌がらせは延々続いていたが、花形は動じない。

初日に宿泊先で荷物を解いていると、見覚えのない小さなポーチが入っていた。それを開いてみると、塩を添加してある飴がいくつか転がり出てきた。が入れてくれたのか、と和む。そして、奥にカードサイズの紙が1枚。白地に黒のペンという色気のないメッセージカードには整った文字で一言。

「熱中症に気をつけてね! ご飯作って待ってるよ」

がこんなに可愛いとは思わなかった。というのがとりあえずの感想である。このくらいなら普段でも口にしているのに、文字になった途端、破壊力が何倍にもなって花形を直撃した。カラーペンでもなければデコレーションもなく、ハートマークすらないという殺風景なカードだが、放射しているオーラがピンク色に見える。

しかしなぜかこのカードのおかげで花形は思考がクリアーになり、体に1本芯が通ったような、凛とした気持ちになった。数えてみると、塩飴は7つ。藤真に見つからないように注意深く隠し、夕食後に毎日1つずつ食べた。そのおかげではあるまいが、熱中症はもちろん、ひどい疲労もなかった。

現地を朝食後に出発した花形たちは、学校で解散した。さすがに直行はまずかろうと、藤真は一度帰宅してから花形の部屋に来ることになっている。炎天下の駅前を通り過ぎ、自宅へ向かって歩いていた花形はタワーマンションの前に差し掛かった辺りで、ぎくりと身を強張らせて足を止めた。

淡いイエローのワンピースに、明るい色の髪を高く盛って、絵のようにキッチリと化粧を施したの母親が目の前を歩いていた。明るい場所で見ると、によく似ている。花形が見てもすぐにわかるブランド物のバッグを2つ重ねて肩に掛け、空いた腕を若い男に絡ませて笑っていた。

男の方は、が言うように20代にしか見えない。ごてごてと指輪を嵌め、分厚いシルバーのウォレットチェーンを腰に差し渡している。整った顔立ちをしているが、藤真に比べればどうということはない。身長だっておそらく藤真の方が高い。そんなことを脳裏に巡らせた花形は、意識して目を逸らし、道の端に寄ってすれ違う。

何やら甲高くはしゃいでいる声が、によく似ていた。その声がすれ違いざまに「横浜飽きたあ、お台場行こお」と言っている。花形は体に火が付いたような気がした。目も熱い。もちろんそれは、怒りだった。

花形が怒ったところでどうにもならないことなのだが、いつも真面目に生きているを思うと、腹が立って仕方なかった。なんであんな風になれるんだろう。はひとりで頑張っているのに、寂しいなんて一言も言わずにじっと耐えているのに、なぜあいつの母親はあんなに幸せそうなんだろう。

じりじりと脳天を焼く暑い日差しの下を、花形は怒りを振り払うように早足で歩いた。

ドアの前に立つと、かすかに水の音が聞こえてくる。がキッチンにでも立っているのか。鍵を差し込むと、水の音が止まる。ドアを開くと、涼しい空気がサアッと流れ出てきた。はひとりでいる時は極力エアコンを使わないが、花形が帰ってくる頃になると少し冷やしておく。

「おかえりー、わ、焼けたねえ!」

猛暑でも、決して肌を出すような格好でやって来ないは、今日もサルエル風のカーキ色のパンツに、キャミソールにはちゃんと七分袖のトップスを重ねている。化粧もアクセサリーも甲高い声もないが、歩み寄ってくる。荷物をどさりと落とした花形は、靴を脱ぐと1歩踏み出し、そのままに抱きついた。

「お、どした。疲れた? 外、暑かったでしょ」
……ああ、疲れた。すごく」
「藤真は後から来るんだよね、それまで少し休んだら?」

背中を擦るの手が、怒りを吸い取ってくれる。言いたいことは山のようにあったのだが、もうどうでもよかった。はこうしてここにいるのだし、駅前ではしゃいでいたに似ている女のことなんか忘れてしまえ。目の前にいるが全てだ。

壁際にすとんと腰を下ろした花形に、はアイスティーを差し出し、自分も隣に座った。

「今年も脱走した子いたの?」
「ああ、今年は3人。具合悪くなったのもいたし、怪我もいたし」
「運動部って、精神的にも体力的にもタフで図太くないと務まらないね」

アイスティーを飲み干した花形は、涼しいのと怒りがおさまったせいで、急に眠くなってきた。

「藤真のやつ、毎朝決まった時間に『ケーキ』とか『プリン』とかだけのメール寄越してたんだよ」
「朝練の後だな。オレにメールしないのかってニヤニヤしながら言いつつ、送っちゃうぞとか言ってた」
「だったらみんなが部活頑張ってる写真でも添えろって話だよね、あのバカ」
「みんな死相が出てるから面白くないぞ」

花形は体勢を崩し、吹き出すの膝に頭を乗せた。は動じない。それどころか、頭を、肩を、背中を静かに撫で始めた。ほどよく冷やされた空気の中で、の手のひらは温かかった。

「今日くらい無理しないでひとりで休んだ方がよかったんじゃないの」
「いや、お前と藤真といるのが当たり前になってて、今はその方が気が楽」
「ひとりになりたい時だってあるでしょ」
「ひとりになってる時もあるから大丈夫。気にするなよ、好きでやってんだから」

肩に止まったの手に手を重ねる。の手のひらの温度がゆっくりと伝わってくる。その温もりに癒された花形は、そのまま眠ってしまった。の手のひら、静かな部屋の涼しい空気、まるで時間が止まったような、そんな眠りの中に落ちていった。

昼前にはやってくる予定だった藤真だが、母親に捕まったから夕方から行くとメールを寄越した。

「昼飯、あいつの分も用意してたのか?」
「してたけど、素麺だから減らせばどうってことは」

ほんの20分程度だったが、ぐっすり眠っていた花形はメールの着信音で目を覚まし、藤真の野郎と罵りながら携帯を放り出した。頭はまだの膝の上である。少し首がかったるい気がしたが、このままでいたかった。それなのに、腹が減る。

「素麺、食べる?」
「食べる」

ぐるぐる言い出している腹には逆らえなかった。花形は渋々起き上がると、大あくびをひとつ。素麺を食べると花形は自分のベッドで昼寝をし、は花形の洗濯物を片付けたり、夕食の準備をしたりして過ごし、時間が余ってからは本など読んでいたが、結局は壁際で寝てしまった。

静かな午後の睡眠を破ったのは、またも藤真のメール。今駅についたメールであった。

「ケーキ!」
「第一声がそれってどうなのよ」

カーゴパンツにTシャツの藤真は部屋に入るなりきょろきょろしている。

「ってアレ、花形は?」
「疲れたみたいで、寝てるよ。あんたはなんでそんなに元気なのよ」
「今日は移動だけで練習なかったんだから、疲れないだろ」

なんか前にもこんなことあったな、と藤真は思いつつ、ケーキの催促をしてテーブルについた。首を伸ばして覗いてみると、確かに花形のデカい図体がベッドに乗っている。藤真ルールで言うと、女の子ひとり残して寝てんじゃねえ、ということになるが、ケーキの方が優先なのでとりあえず不問に処す。

本日のおやつはフルーツロールケーキとチョコレートムース。1週間お預けを食らっていた藤真は、厚めにカットしたケーキとムースをあっという間に平らげて、アイスミルクティーをガブ飲みしている。

、ひとりで寂しくなかったか?」

こういった藤真の無垢で遠慮のないところは大いに好かれもするが、自分の首を締めることも多い。

「子供じゃないんだから、平気平気」
「バカだなお前、寂しいに大人も子供もあるかよ。むしろ大人の方がちゃんと寂しいって思うだろ」
「ちゃんとって?」
「子供の時って自分の感情がなんなのかよくわからない時があるだろ。でも大人は違う」

まあまだオレら言うほど大人じゃないけど、と言いつつ、藤真はチッチッと人差し指を振って見せる。

「それが寂しいのか寂しくないのかの区別くらい、つくだろ」

にんまりと笑う顔を見て、は、こいつ不思議の国のアリスのチェシャ猫みたいだな、と思う。バカのくせにそんなことを言って惑わせてくるなんて。そう言われると、この一週間の間の自分の感情に疑問が湧いてくる。寂しかったんだろうか。花形がいなくて、寂しいと思っていたんだろうか。

「まあ花形もオレもいなきゃ、そりゃ寂しいに決まってるだろうけど」
「藤真がいないと静かで耳が休まるよ」
「お前そういう辛辣なところ花形に似てきたぞ」

ビシッと指を差してくる藤真は口の周りにミルクティーの跡が残っている。は笑わないように努力した。

「寂しいとか嬉しいとか腹立つとか、そういうの全部花形にブチ撒けていいんだからな。遠慮するなよ」
……そうだね」

は、小さく頷いて記憶の中の自分を思い返してみる。そんなこと、許されるとは思っていなかった。

あれやこれやと合宿の話を始めてしまった藤真に返事をしつつ、は考えている。母親はもう手遅れだ、関係を修復したいとも思わない。けれど、花形やこの藤真に対してはもっと自分の感情を出した方がいいのではないかという気がする。そうでなければ、偽りの姿で顔を突き合わせているのと同じだから。

母親に釘を刺されたらしい藤真は、夕食を食べてケーキをまた食べて、早々に帰るという。

「じゃあ藤真が興味なさそうなの、見るか」
「なんかそれはそれで仲間はずれにされてる気分だな」
「血がいっぱい出る映画だけどとっておくか?」
「何でお前らはそういうの平気なんだよ。オレがおかしいのか?」

また明日、と言い残して藤真が帰ってしまうと、本当に部屋の中がしんと静まり返った。花形は今頃になって疲れを感じ始めた。ほどよく昼寝などしてしまったせいで、感じていなかった疲労が出てきてしまったのかもしれない。今日は映画を見てを送ったらさっさと寝ると決めた。

「しかし『デスペラード』ってなあ」
「なによう」
「お前って真面目だししっかりしてるけど、実はすごい破壊衝動とか抱えてるんじゃないのか」

壁に寄りかかった花形はの手を取り、パタンパタンと持ち上げては落としを繰り返している。

「破壊衝動っていうよりは、鬱憤を晴らす方が近いと思う」
「ああ、いつかの思考が止まる、か」

「デスペラード」は軽妙なリズムの歌から始まる。その歌声の中で花形はに寄りかかり、静かに長く息を吐く。疲れてはいるが、体の芯からリラックスしていると感じる。やがて画面では銃弾が飛び交い、血飛沫が舞い踊るが、花形の心は平和そのもの。濃密なラブシーンでも、それは変わらなかった。

だが、それを見ていたがぼそりと呟いた。

「ねえ、透って、キスしたことある?」