プラクティス・デイズ

11

が自分の地元に進学するかもしれない――あまり現実感の湧かない展開に、花形はうまい言葉を見つけられなくて口元を歪めた。もうしばらく帰っていない地元、その近くにが引っ越してくるかもしれない。

「まあまだ確定じゃないけどさ、なんだか母親もビビっちゃってさ、素っ気ないの」
「大丈夫なのか? 逆ギレしたりとか……
「なかったねえ。私が出て行くのはむしろウェルカムみたいだったし」

もういい加減慣れるべきなのかもしれないが、花形はがっくりと頭を落とした。

「たぶん私、推薦でいけると思うんだ」

それはそうだろう。花形より順位は劣るが、1、2年の成績が今年並みなのであれば、評定平均4.5くらい行ってしまうかもしれない。上昇志向の強い人間に言わせれば、もっと上を狙えと言われてしまいかねない。それに、社会的地位のあるOBの勧めといういい口実もある。の進学はスムーズに決まるかもしれない。

未だ前時代的な「受験」という信仰を持つ向きも少なくないが、の場合は家庭環境がそもそも受験生に向かないし、受験の目処が立っただけ奇跡的だと言ってもいい。は志望校を考えていたというが、実際に推薦でも一般でも受験出来るかすらわからなかったのだから、決まるならそれでいい。

は推薦入試までの間、小論文の過去問を10年分くらいはクリアするのだと息巻いている。

花形は藤真の言葉を思い出す。

「お前頭いいんだから、バスケできる中でも一番いい大学行けよ」

さて、自分はどうしたものか。バスケットで推薦をもらうのか、スカウトが来ないかと待ってみるのか、冬の選抜を終えてから一般入試などという無謀策に出るのか。正直、冬の選抜が片付かないことには心を決められない気もしていた。おそらく他校のトッププレイヤーには山のように誘いが来ているだろう。少し羨ましい気もした。

その数日後のことだ。花形は慌てる藤真に引きずられて、夏休みで人の少ない職員室にいた。藤真が何かやったのだろうかと思っていた花形は、そこで形ばかりの顧問から意外なことを聞かされた。

今年の国体は選抜チームにするため、藤真と花形と長谷川を召集したいという連絡があったと言うのだ。

これに大喜びしたのは藤真である。他の3年生には悪いが、またとないチャンスでもある。選抜チームの指揮を執っているのは海南の監督だとか陵南の監督だとか、顧問もはっきりしないようだったが、とにかく次の週末、海南の体育館に来いという連絡だった。

「混成か。まあ、お祭りっぽくていいよな、こういうのも」

笑顔の藤真を見ていると、この図太さと割り切りの早さが良い選手の条件かもしれない、と花形は思う。

今年県予選を戦った上位校の有力な選手の顔がぽんぽんと浮かんでくる。それだけでもう選抜チームはいっぱいになってしまいそうだった。海南は当然ながら、陵南、湘北、そして翔陽の自分たち。翔陽からは3人しか行かれないが、今年の神奈川は特にバケモノ揃いだ。妥当な人数だろう。

「あれ? 今年の国体って――
「運がいいよな、東京。実家近いんじゃないのか?」
「近所で国体なんて、そんな話してたかな……

国体は概ね9月末から10月頭の開催なので、あまり時間はない。だが、東京なら近いので負担も少ない。数日かけてのトーナメント戦だが、帰ろうと思えば帰れる距離なのも安心だ。と、そんな保護者めいたことを考えていた花形の背中を、藤真がバチンとひっぱたいた。

見に来ればいいのにな!」
「いや来ねえだろ」
「えっ、なんでだよ」

神奈川代表が選抜チームになるのは珍しい。だいたい海南だけで参加するのが恒例だったからだ。地元の高校バスケットファンにとっても貴重な試合になる。しかも、気軽に行けるご近所東京。翔陽にだって、観戦したい生徒がいるかもしれない。そんなところにを連れ出したくはなかった。

「土日にかからなかったら、どっちみち無理だろうがよ」
「つまんねえなあ、客席にがいたら面白いことになっただろうに」

ケタケタと笑う藤真は悪魔のようだ。これで、例えトーナメントが週末を挟んだとしてもを呼ぶという選択肢は永遠になくなった。だいたいどのあたりの面子が集まるかは想像に難くないが、それだけになど絶対に連れて行きたくない。

それから1ヶ月ヶ月後、神奈川選抜代表チームは意気揚々と東京に出かけて行った。電車で気軽に行かれる距離だが、人数が多いのと180センチ以下の人間がごく稀という集団のため、海南が所有するバスでの移動になった。

「藤真、これ」

バスの中で隣に並んだ藤真に、花形は小さな紙袋を手渡した。

「なんだこれ」
……差し入れだってよ。たぶん今日はパン」

口をパックリと開いて、おそらくは「!」とでも言おうとした藤真の顔に、バチンと手を叩きつける。

「いてえなもう……けど、ほんとあいついいやつだな、お前まだ踏ん切りつかないのかよ」
「何度も言ってるだろ、そういう問題じゃないって」

さっそく差し入れのチョコチップロールをぱくつきながら、藤真は鼻で笑った。

「まあいいけどさ、お前が行動起こしてやらなかったら何も変わらないんじゃないのか」

そんなことは重々承知の花形だったが、今がその時ではないと言っても藤真には理解してもらえないだろうと考えていた。バスケット以外のことで、彼に「時機を見る」という概念はほぼない。

藤真にはパン、花形にはおにぎりを作って出発前に届けてくれたの顔を思い出す。

「あんまり放置してると、オレ、もらっちゃうからな〜」

そんな藤真の言葉ももう、響かなかった。

西東京で連日行われていた国体秋季大会での戦績は、普段通りに通学しているの元へは届いて来なかった。翔陽から代表出場しているのは3人のみだし、今回は引率の必要もないので本当に生徒だけで参戦している。本人たちから連絡がなければ、その動向は知りようがなかった。

応援はしてやれないし、しゃしゃり出たい気持ちもない。せめてもの激励になればと出発当日におにぎりとパンを届けたが、それもすぐに消えてなくなってしまうだろう。

実際のところ、は料理や掃除が大好きというわけではなかった。ただ自分の生活のために細々と続けてきたことであって、花形や藤真が喜んでくれるから奮起しているだけだった。彼らがあんな風に喜んでくれないのなら、料理も掃除も洗濯もどうでもよかった。

それは依存というのだろうか。なるべく考えないようにしているのだが、花形とふたり、藤真を入れて3人、そんな日々が楽しくて、いつまでもいつまでも続いてくれればいいのにと思いもする。進学して家を出られるのは嬉しいが、飛び出した先に花形はいるのだろうか。藤真は。

確かに花形の実家との目指す大学は近くにある。けれど、花形が実家に帰りそこからどこかへ通学すると決まったわけでもない。藤真ならなおさらだ。バスケットの腕を買われてどんなところへ行ってしまうか知れたものではない。

花形たちが大会を終えて帰ってくるその日、は早めに花形の部屋にやって来ていた。藤真が来てもいいように、おやつの用意もしてきたし、藤真が来ないという場合のために、DVDも1本借りてきた。まだまだ暑さが抜けない10月初旬の陽はまだ高く、は黙々とキッチンで作業していた。

ようやく窓の外の色が橙に染まり始めた頃、唐突に鍵が開く音がして、ドアが開いた。いつもなら駅などから確認のメールが届いたりするのだが――

「おかえり、どうだったの国た――

いつかのように、今度は花形がに飛びついた。荷物を投げ出し、キッチンからひょっこり顔を出したの体をすくい上げ、抱きすくめた。じりじりと焼け付く太陽に炙られてきた花形の体は熱かった。

「どうしたの、負けちゃった?」

そっと髪を撫でて、問いかけてみる。

、オレ、オレも東京帰る」
「え? 帰るって……
「来たんだ、スカウト、東京の大学、実家から通える所だった!」

を解放した花形は、そう言うと大きく息を吐いた。これを言いたくて、急いで帰ってきたのだろう。珍しく手が少し震えている。はその手に手を重ねる。

「ほんとに……? そしたら、もしふたりともちゃんと決まったら」
「大丈夫、決まるよ。、一緒に東京帰ろう。オレは今度実家だけど、会いに行くから」
「一緒に、東京、そっか、そうだよね、透、会いに行くじゃなくて、部屋に行くって言ってよ……!」

の右目から、一筋涙が伝い落ちた。

「泣いてるところ、初めて見た」
「嬉し涙だからいいよね」

花形は、はらはらと涙を零しながら笑うと一緒に床の上に崩れ落ちた。膝の上にを抱き寄せ、隙間がないほどに抱き締め、そして眼鏡も外さないまま唇を重ねる。すぐにが眼鏡を取り払い、また唇を寄せる。日暮れの薄暗い部屋で、ふたりはしばらくそうしていた。

「3位かあ、素人としては健闘を称えたいところだけど」
「まあ、これはお祭りみたいなものという意識もあったから」

実は今日は神奈川代表の打ち上げなのだという。それぞれ一度帰宅してから海南OBの経営する店で食事が振舞われるらしい。優勝こそ逃したが、の言うように3位なら素人目には大健闘である。花形は行きたくないと言ったのだが、はそれを許さなかった。

「ダメだよそんなの、ちゃんと行かなきゃ」
「藤真も行きたくないって言ってたんだぞ。お前の飯の方がいいって」
「そんなのまた明日にでも作ってあげるから」

着替えを済ませ、すぐに出発しなければならない花形と一緒に帰り支度をしているは、呆れたように肩を落とした。スカウトの話も、もっとちゃんと聞きたいが、話が逃げるわけでなし。時間はまだあるのだ。それこそ明日にでも藤真込みでのんびり話せばいい。

そういうの気持ちを汲んで、花形は打ち上げに出かけていった。打ち上げと言っても高校生なので関係者各位と食事をし、帰ってくるだけ。早く終わるならまたに連絡を取ればいいかと考えていた。

だが、打ち上げが終わったのはなんと21時。3位という順位は不本意だが、同好の士が一堂に会しているのでそれはそれは盛り上がってしまい、の料理の方がいいとぶすくれていた藤真もおおはしゃぎだった。代表の中でも静かな部類の花形は、同じく静かな部類の長谷川や他校の生徒とじっくり話が出来た。

つい楽しんでしまったが、4校の中では翔陽組が一番遠方に当たる。21時に終わっても、それぞれが地元の駅に到着するのは22時半をゆうに回った頃だ。3人は帰宅ラッシュの電車に揺られながら地元に戻ってきた。

「うえー、疲れた」
「お前は、はしゃぎ過ぎだろ。桜木と清田に乗せられやがって」
「あいつら乗せるの上手いな。宮城と三井も一緒に乗せられてたし」
「翔陽の4番が4バカに煽られてどうするんだ。神がショック受けてたぞ」

はしゃぎ過ぎてがっくりと疲れた藤真は長谷川の背中にだらりと寄りかかっている。

「もー無理、チャリ漕いで帰る自信ない。花形今日泊めてくれ」
「いいけど……
「んじゃ、あと頼むわ。オレ次だから」

先に下車した長谷川を見送り、荷物と藤真を抱えた花形がやっとのことで部屋に帰りついた頃には、23時もとっくに過ぎていた。部屋に着くなり床にごろりと転がり、藤真は自宅に連絡を入れている。花形は飲み物だのが置いていってくれたおやつだのを運ぶ。

「むっ、のおやつの匂い」
「そんなに食べたきゃまた明日来いって言ってたぞ」
「ああ来るともさ」

むくりと上半身だけ起こした藤真は、焼きドーナツを掴むとまたごろりと転がった。

「けど、よかったなお前、スカウト」
……地元に帰ることになりそうだ」
「もういいのか、決めちゃって」
「断る理由がないからな。選り好みして待つのもなんか違うだろ」

ドーナツをもぐもぐやっている藤真もスカウトは来ている。だが、花形と違って一気に4校からだ。内、東京の大学が3校、関西が1校である。花形は言いはしなかったが、その東京の大学の中の1校がの志望校である。世の中は狭い。その上、藤真の場合はこれからまた来ないとも限らない。

「だけど、東京に帰っちゃって、お前はどうするつもりだよ」
「本人からも話があると思うから、オレは今は何も言えん」
「3人とも東京だったらまた遊べるのにな」
「お前は新しい環境に慣れたら連絡が途絶えそうだな」
「オレはそんなに薄情じゃない」
「どうだか」

藤真さえ東京を選べば、それも叶わぬ未来ではない。藤真は薄情じゃないというが、そういう感情に関わらず、環境が変われば生活が変わり、周囲の人間が変われば人付き合いもまた変わる。それが世の習いだ。しかし、進路としても申し分ないところからスカウトが来たことで、ある程度花形は心が決まってきていた。

「藤真」
「あん?」
「お前が聞きたがってたことを言ってやろうか」
「なんだよ」

アイスコーヒーを一口飲んだ花形は、ぼんやりと天井を見つめながらぼそりと言う。

「オレ、が好きだ」

仰向けに転がったままドーナツを齧っていた藤真は、鯨の潮吹きのようにドーナツを吹き出し、激しくむせた。

「これで少しは満足したろ」
「遅えよ、バカ」