ニケに捧ぐ恋の歌

15

……あれ?」
「いいからいいから、気にしない気にしない」

部員たちと途中まで一緒に帰るけれど、はそもそも牧のところへ行くつもりだったのだ。だが、藤真を始め15人ほどの部員たちはずっとの後を付いてくる。このまま行くと牧のアパートの最寄り駅までご一緒してしまうではないか。

藤真たちが何をしたいのかわからないはまた少し怖くなっていたが、みんな晴れ晴れとした笑顔で下らないことを言っては楽しそうにはしゃいでいる。そうしてとうとう駅に到着してしまった。わけがわからないの後からぞろぞろと全員改札を出る。が、はそこで足を止めた。

「紳一……
「遅かったな」

改札を出て少し横に逸れた場所に牧が待っていた。この年のバレンタインにに貰ったマフラーをきっちりと巻いて、制服のポケットに手を突っ込んでいる。ちょっと疲れた顔をしているし、目が眠そうだ。

「すまん、ちょっと楽しくなっちゃってな」
「ちょ、なにこれ」
「疲れたからさっさと帰ろうと思ってたら藤真から駅で待ってろって連絡が来たんだ」

本当に眠いらしく、牧は目を擦りながらのんびり歩いてくる。

「ほんとに今日は疲れたよ。負けるかと思ったからな」
「何言ってんだ、負けてたんだよ、実際」

ふらふらしている牧に藤真が裏拳で突っ込む。これは直伝の裏拳ツッコミだ。

「ま、そんなわけでオレたち全員これで引退だからな。届けに来たんだ」
「そんなこったろうと思ったよ。でなきゃ帰ってた」

力なく笑う牧に向かって、藤真は肩を押してを差し出した。よろけて牧に捕まるは驚いて藤真たちを振り返った。全員まだにこにこしている。

「オレたちの勝利の女神だからな、有難く受け取れ」
「ちょ、藤真!?」
「んなことはわかってるよ。てかお前らのじゃない、オレのだ」
「いや紳一も何言って――

焦ったを抱き寄せた牧は、眠そうな目で不敵に笑った。それを見た藤真たちもどこか楽しそうにふん、と鼻で笑う。その間でまたは嫉妬が出そうになったけれど、体を包む牧の片腕の暖かさを感じてすぐに忘れた。そんなものにしがみついていたら、嫌がらせをして来た女子たちと同じになってしまうだけだから――

……みんな、ありがとう。3年間、お疲れ様でした。何も出来なくて、ごめん」
「何言ってんだ、らしくないな。てか牧、監督がだいぶ体調良くなったらしくて、自由登校になったらみんなで挨拶しに行くことになってるんだ。その時は貸せよ」
「ああ。お前じゃ不安だから、花形頼むわ」
「どういう意味だよ!」
「了解、任された」
「花形この裏切り者!」

やっと全員で笑い合って、そして藤真たちはまた改札を抜けて帰って行った。それをずっと見送っていたと牧は、彼らが乗った電車が走り去ると、揃ってため息をついた。

「ごめん、疲れてたのに」
「いや、平気。けど、今日はちょっと一緒にいてくれないか」
「うん、帰ろ。泊まれないけど、一緒にいるから」

牧と付き合っていることが母親にバレて以来、は外泊しづらくなってしまった。泊まるといえば牧のところじゃないのかと真っ先に疑われるし、そもそもまだ腕はギプスのままだ。牧の方が予選で忙しかったからそれでもよかったけれど、それが終わっても以前のようには過ごせないかもしれない。

だが、それでもいいのだ。の中には牧が、牧の中にはがいる。それは変わらない。

牧は抱き寄せていたにもたれかかるようにして、歩き出した。はその牧の体を支えて着いて行く。偶然ぶつかってしまったビルの前を、ジェラートショップを通り過ぎて行く。この町に牧がいるのもあとほんの少し。は牧の暖かさを感じながらそれを思い、少しだけ胸を痛めた。

アパートに帰るなり牧は制服を緩めてベッドの上にころりと横になった。は暖かい紅茶を入れて戻り、ベッドに腰掛けると、目を閉じている牧の腕を撫でた。

「話、聞いたか?」
「うん、聞いた」
「届いただろ」
「うん、ありがとう」

マグカップをテーブルに載せたは、ギプスの腕を庇いながらベッド横たわって牧の頭を撫で始めた。牧も身を捩っての体を抱き寄せ、ゆっくりと深呼吸する。試合当日には滅多に会わなかったふたりだが、それでも牧はいつになく疲れていて、は額にキスを落とす。

「変な試合だったんだ。うちは今年の海南とは思えないくらい調子が悪くて、逆に翔陽はなんで夏の予選で負けたんだっていうくらい調子が良くて、しかもあいつらずっと楽しそうだったんだよな。こっちは監督に怒られてたけど向こうは監督もいなきゃ、顧問の先生ですらにこにこしてんだぜ」

そのテンションのまま生徒指導室に来たのかとはこっそりにやつく。

「これまで試合の時にお前のこと考えたことなんてないのに、リード取られたまんま最後のタイム入った時にポンと出てきたんだよな。あーこれ、本気でがオレを倒しに来てんだなって」

つまりそれはが心から翔陽の勝利を願ったということだ。

「藤真たちも含めてオレたちはそんなこと関係なくやって来たし、だけどどれだけ点入れてもどうしても1点2点のリードがひっくり返らなくて。もう時間がなくなってきて、マズい、負けると思いかけた時に、なぜかお前と1on1した時のことを思い出してさ」

一基しかないゴールポストの前で、こんな風に試合をしてみたかったと言ってが泣いた、あの日のことを思い出した。その一瞬、牧の心は敗北の恐怖や勝利への渇望から解き放たれて、あの梅雨空の下へと戻っていった。どんより曇った空の下で、届かないボールを放り投げたと一緒になって、そしてそのまま帰ってきた。

「翔陽の連中、なんだか改心して関係修復しましたってな顔してるけど、傷付けられてばっかりのを一番近くで見てきたのはオレだ、のことなんか見て見ぬ振りしてきたお前らに勝たせてやるもんかと思ってさ。最後のシュートは3年間つらい思いしてきたお前の分と思って打ったんだ」

牧はの胸に頬ずりしながら、鼻で笑う。

「それで逆転、残り1秒。、本当にお前は勝利の女神だよ」
「そんな……私、海南に勝って欲しいなんて一度も」
「だけどオレには笑いかけてくれたじゃないか」

顔を上げた牧は眠そうに細めた目でを見上げると、手を伸ばして頬に触れる。

「自分たちのバスケットにお前は関係ないと思ってた。ちゃんとオンオフの切り替えはできてる、混同したりしてないって。だけどオレの中にはいつでもがいるから。だから、届いたんだよ」

は私も、と言いたかったのだが、声を出したら泣いてしまいそうな気がして言葉を飲み込む。

「オレもあいつらも、残り1秒で逆転になって、試合が終わった瞬間床の上にひっくり返ったんだ。最後の数分はもう無我夢中で一気に気が抜けてさ。……気付いたら笑ってた。藤真も花形も笑ってた。それも後で監督に怒られたけどな。なんだか楽しかったんだよ。あいつらとバスケしてて、すごく楽しかった」

懸命に堪えていたの目からぽたりと涙が零れ落ちる。牧は頬に添えていた手を滑らせての額から頬をするりと撫で、そして首に手をかけて引き寄せた。

「オレの中にいたが一緒にプレイしてたんだよ。、楽しかったよ」
「紳一、ありがとう、ほんとに、ありがとう」
「それはオレの方だよ。、ありがとう」

唇が重なり、の涙が牧の頬を伝っていく。筋肉の付かない華奢なの背中に両腕を回した牧は、長く息を吐きながらぎゅっと抱き締める。こうしていると、どんな負の感情でもすぐに消えていく。嫉妬もない、憎悪もない、まるで天国に迷い込んだような気分になる。

が笑ってくれたら、オレはもう何にも負けない気がする」

勝利の女神が微笑みかけてくれている限り、自分には絶望的な敗北など訪れないと、確信を持って言える。

涙をポタポタと零しながらが微笑むので、牧も同じように微笑み返す。額と額が触れ合って、キスして、抱き締め合う。この静かなアパートで誰の目に触れることもなく続いてきたふたりの恋は、これからも続いていくだろう。の心に牧が、牧の心にがいる限り、それはきっと永遠に。

その後、冬の選抜でも日本一には届かずに終わった牧だが、後悔はないようで、が心配していたほどには落ち込んだ様子もなかった。そこで牧も引退したので、冬休みは思う存分ふたりで過ごし、周囲が受験で慌ただしくなっている間もは牧のアパートに入り浸っていた。

「って、どーいうことよ、これ」
「オレが呼んだんだよ。まあまさか二つ返事で来るとは思ってなかったけど」
「暇なんだよな」

ギプスの取れた腕を組んでしかめっ面をしているの両側には、牧と藤真がいる。ここはいつかのバスケットコート。1月の寒空で人っ子ひとりいない公園である。3人共私服だが、はひとり着膨れしている。寒い。

牧は翔陽が自由登校に入ったので、藤真をバスケしようぜと言って誘った。そしてを連れてこの公園まで来たというわけだ。藤真の方も誘われるままホイホイとやって来た。一応女子であるは男子ふたりのこのザックリ感が理解できない。湿っぽく引きずるようなことでもないが、それにしても。

「藤真、退寮いつなんだ?」
「もうすぐ出るよ。卒業式まで何もないんだし、その日だけ来ればいいからな」
「ほらな、、こういうチャンスもなくなるんだぞ」
「だからって――
「そういうお前はどうすんだ。春からはさすがに寮だろ」
「オレも来月引っ越すよ」

牧と藤真は当然といえば当然の、バスケットの強い大学へ進む。藤真は今もそうだが、ふたりとも春から寮暮らしだ。の方は自宅から1時間ほどで通える私大に進む。少し牧とは距離が出来てしまうが、今のところ距離に負ける気はしない。

「遠恋するやつっていうのはみんな最初そう言うんだよ」
「そーいう藤真の嫌味にも負ける気がしないし、片道1時間くらいだもん、言うほど遠恋でもない」
「ほんとに何なんだよお前のそのアイアンハートは」

藤真は手にしたボールをバシバシ地面に打ち付けている。

「てかバスケしたいならふたりでやればいいじゃん、私寒いんだけど」
「何言ってんだよ、お前もやるんだよ。ほら、ちゃんと女子用のボール借りてきたろ」
「はあ!?」

言われてみれば藤真が持っているボールは少し小さい。は着膨れした体で飛び上がった。

「ちょっと紳一、何言ってんの、私――
「骨もちゃんとくっついたし、そもそも利き手じゃないんだし、リハビリと思えば」
「リハビリって!」
「オレたちと試合、したかったんだろ?」

狼狽えて両腕をバタバタと振り回しているを見下ろした牧と藤真は、揃ってにやりと笑う。

「そ、それは例えの話で――
「アイアンハートのくせに素直じゃねえなあ」
「遊びなんだからいいじゃないか。こんな機会、もう二度とないぞ」

素直とかいう問題か、とは思うが、牧の言うように、こんなチャンスは本当に二度と巡ってこないだろう。そして、つい遠慮してしまっているが、何しろ目の前に神奈川の双璧とまで称されたふたりがいるのだ。は体の内側が弾んでいるような気がして身震いした。これは寒さのせいじゃない。

シュートも届かないドヘタクソなのに、超高校級のプレイヤーふたりが遊んでくれるという。は興奮を抑えきれなくて地団駄を踏んだ。さっきまでの寒さが嘘のように頬が熱い。

「てかオレたちもとこうやって遊んでるとご利益ありそうだしな」
「ご利益ってお前な。彼女なんだからバスケじゃなくたって効果あるだろうが」
「遠恋に負ける気はしないけど、どうにも勝負運の方は心許ないんだよなあ」
「んなもん実力で勝ち取れよ!」

女子用のボールを投げ合ってそんなことを言い合っているふたりがなんだか愛しくなったは、にっこりと微笑むと、勢いよくマフラーを引き抜き、ダウンジャケットとフリースパーカーを脱ぎ、ベンチに叩き付けた。

「おっ、やる気になったな、ドヘタクソ」
「うっさい! リハビリなんだからちゃんと手加減しなさいよ!」

寒い寒い言うくせにショーパンにボアブーツのは藤真の腕をバチンとひっぱたくと、牧からボールを奪ってふたりの間に立ち、ニカッと笑った。1月の風が吹き付け、のピンクに染まった頬を撫でていく。

「やばい、どうしよう、超楽しい!」
「まだ何もしてないだろ」
「だけど楽しい! やっぱり私大学行ったらもう一回バスケやる!」

ボールを両手で挟んだままその場で足踏みをして喜ぶに、牧と藤真は顔を見合わせて笑った。

「よーし、そんなら今からちゃんと勘を取り戻しておかないとな」
「シュート届かなくても困らないくらいに練習もしないとな」

の歓喜の声が公園に響き渡る。その声を合図に牧と藤真は走り出した。また悲鳴を上げてドリブルで逃げていくを追いかける。3人共、声を上げて笑っていた。もう何のしがらみもないけれど、奇妙な関係の3人はボールひとつを間に置いて、くるくると走り回る。

は牧にとっても藤真にとっても、勝利の女神だった。それはもう揺るがない。そのがこうして声を上げて笑っていてくれる。それだけで、未来の勝利が約束されたような気がしてしまう。それならば――

「大学でも負けないからな、藤真!」
「ふざけんな、今度こそ倒してやる!」
「どっちも勝ってどっちも負けろ!」

その勝利は、、君に捧げよう。

END