検査兼結果待ち入院のの元には、1週間毎日見舞いが絶えなかった。3年生の元バスケット部員、藤真に興味がない女友達、先生、そして牧。牧も部活を休んでまでは来ないけれど、ちょうど中間前に突入したので、放課後は入り浸るようになった。そのせいで翔陽の生徒は長居できずに帰っていく。
逆に、の意識が戻ったと聞いてすっ飛んできて以来、藤真は来なくなった。花形は3年生の元バスケット部員と一緒に顔を出したが、フォロー目的だったらしく、特に話すこともなく帰って行った。
「翔陽は大丈夫なのか。誰も何も言わないけど」
「3日くらい大変だったみたい。犯人は誰だとか、私の自演なんじゃないかとか」
「驚いたんだろうが、勝手なものだな。バスケ部の事情なんて知らなかっただろうに」
の見舞いに来たがる生徒が多いので、担任の先生は「の見舞いは18時まで」というルールを作った。なので、夕食も終わった現在19時、面会終了時間が20時なので、とりあえず誰も来ない病室では牧に添い寝をしてもらっていた。見舞いも嬉しいが、これが何より気持ちを緩めてくれる。
牧はギプスで固まっている腕を静かに撫でながら、の額に唇を寄せている。腕の内側にクラスメイトやバスケット部員たちの落書きがあるのだが、1番上の手首に近いところには牧の字で「オレの嫁」と書かれている。
「退院して、学校行くの怖くないか? この間は藤真たちがいたし、言いづらかったとかないか」
「不安がゼロってわけではないけど……平気だよ」
「疑うつもりはないけど、オレには嘘をつくなよ」
「わかってるよ。つきたいとも思ってない。それにね――」
顔を上げ、牧と目を合わせたは緩く微笑む。
「部内のトラブルとか、嫌がらせされたりとか、そういう時はいつも紳一の名前、呼んでる。紳一が私の名前呼んでる声を思い出して、こうやってくっついてる時のこと思い出して、だから私は戦って来れたんだよ。近くにいなくても、紳一が側にいてくれるって、心の中にいるって思うだけで、何も怖くないから」
折れた腕を庇いつつ、牧はの体を引き寄せて唇を近づける。そして今まさに触れようとしたその時、
「ー! 入っていいか」
藤真の声だった。がくりと牧の頭が落ち、は思わず吹き出した。牧に背中を支えてもらって起き上がったは、カーディガンを羽織るとドアの向こうに返事をした。引き戸が静かに開けられて、藤真がひょっこり顔を出す。彼がここに来るのはほぼ1週間ぶりだった。
「おお、やっぱりいたな」
「あれ、ひとり?」
「そう。ひとりでお前らふたりだけの時に来たくてさ」
言いながら、藤真は足元に寄せられているベッドテーブルの上に何やら色々置き出した。
「なにそれ」
「見舞いでも土産でもなんでも。食おうぜ」
「えっ、オレも?」
「そう。甘いもの苦手だったか?」
の方はすでに夕食を終えてしまっているのだが、まあそこは彼女も女の子なので、別腹というものがある。藤真が荷を解くと、中からケーキだのお菓子だのが続々と出てきた。藤真はそれらをテーブルとベッドの上に全部広げると、椅子を持ってきてどかりと座った。
「正直に言おう、これ全部差し入れ。今までは実家に持って帰って食べきれない分は捨ててたんだけど、なんかもう、そういうのやめようと思ってさ。正直に友達と一緒に食べるって言ってきた」
そういえば本日は土曜日、市内の高校が集まって練習試合があったはずだ。
「差し入れって、お前ひとりでこの量なのか」
「いや、実際はこの倍以上。部員にも分けるし、実家にも置いてきてるから」
「倍!?」
牧は驚いているが、バレンタインはもっとすごい。それを知るは苦笑いだ。
「まあ、こういう目にも遭うってものだよね」
は真顔でギプスの腕を掲げるけれど、そんなことは理由にならない。牧は改めて翔陽の置かれている状況の異常さを目の当たりにしたので、少し背筋が寒い。こんな状況の後始末をがひとりでやっていたのかと思うと、より寒くなる。
「にも牧にも悪いことしたとは思ってるけど、あの子たちは別にオレのことなんて好きじゃないんだよ」
「どういう意味?」
「友達と一緒になってキャーキャー騒げる対象が欲しいだけだ。好きというか、要するに恋じゃない」
差し入れをモサモサ食べながら言う藤真の言葉に、と牧はちらりと目を見合わせた。
「そうなのかなあ」
「みんなで足並み揃えて同じように同じことする不文律が出来上がってるんだよ」
「だからが面白くないのか」
「だろうと思う。自分たちは自治してるのにだけ自由にやってるように見えたんだろ」
藤真は冷めた目で差し入れを突っ込んであった紙袋を漁り、紙切れを掴んで取り出した。
「差し入れにくっついて来るメッセージ、こういうの、いつも入ってる。当り障りのない応援メッセージで、誰も彼も同じような文章、同じような色のペン、絵文字、シール、スタンプ……だけど見ろよ、名前くらいしか書いてないんだ。この名前が誰なのか、翔陽の生徒でもオレは覚えられない」
恐る恐ると牧が覗き込むと、確かに彼に言うように似たり寄ったりなメッセージと小さなフルネームが添えてあるだけ。中には苗字がなく名前しか書かれていないものもある。
「メアドとか、SNSのIDとか、いくらだって書きようがあるだろ。だけどそんなものくっつけて来た子はいないんだよ。全員手渡しでこういうの持ってきて、メッセージカードにはこれだけ、それでワーッと集まってきて、覚えてますかとか言うんだ。個人が個人にならない」
特定しようのない個人が集まってきては藤真を取り囲み、個として話をしたがる。
「それがな、ものすごく怖いんだよ」
「本当に、バスケだけに集中していられたらそれでよかったのにな」
「そういうことを、なんでもっと早く言わなかったの」
「それも含めて悪いと思ってるんだよ。オレたちは助けの求め方を間違えた」
牧はそっとため息をつく。藤真もバスケットだけを見ていられたらそれでよかっただろうに。
「間違えたというか、よくわからなくなっちゃったんだな」
藤真は牧とに向かってにっこりと笑いかけた。
「夏休みに牧と話した時、言ったろ。のこと、好きだったって」
「な、あんたまだそんなこと――」
「あれ、本当だったんだよ」
一瞬で険しい顔をした牧と呆れただったが、藤真は笑顔のままだ。
「何しろ紅一点だし、ずっと一緒にいるし、1年の予選の頃からは何かって言うとオレに八つ当りしたり文句言ったりで、構われてるんだと思ったんだよな。女子マネと付き合うとか、まあ悪くないななんて思ったりして。そんな怖い顔するなよ、その後ひどい目に遭ったんだから」
怖い顔をしていたらしいと牧は揃って首を傾げた。
「1年の合宿で肝試しやらされたんだ」
「ちょ、それは!」
「うるさい言わせろ。牧、オレな、こいつとペア組まされて肝試しってことになってさ、そんなシチュエーションちょっとドキドキするだろ。だけど夜の森が想像以上に怖くてオレもビビってたんだよな。そしたらこいつどうしたと思う。オレを置いてひとりでさっさと行っちゃったんだぜ。オレ、真っ暗な森にひとり放置」
ベッドに突っ伏すの隣で牧は吹き出し、俯いて肩を震わせている。
「そんでそのままチェックポイントで折り返して最速タイムでゴールだよ」
「、おま……」
「そんな昔の話ほじくり返さないでよ!」
「いやー、淡い恋心は恐怖で吹き飛ぶわ、そんなさんにどう助けを求めたらいいかわからなくなるわ、年々さんは厳しく怖くなるわ、寄ってくる女の子はみんな判別つかなくて怖いわ、オレ、よく女性不信にならなかったと思うよ」
は顔を赤くしてベッドを叩いているが、藤真はにこにこと楽しそうだ。牧もまた不穏な話が蒸し返されるのかと思って警戒していた心が緩む。アイアンハートのは基本的に牧の前でなければ可愛い素振りを見せたりはしない。それが少し嬉しい。
「……お前、それを言いに来たのか?」
「そう。オレも勘がいい方だけど、お前もアンテナ感度いいな」
「藤真、だけど――」
「いや別にだからどうってことじゃない。もう冬の予選を残すだけだから、すっきりしようと思って」
言いつつ、また藤真は差し入れの中から何やら掴んで口に放り込む。
「その後オレだって彼女いたんだし、お前のことは大事な翔陽のマネージャーだと思ってるよ」
「……なんかやっと元の藤真に戻ったね」
「だろ。だから牧、予選、覚悟しとけよ」
「おう、オレも予選で引退する気はないからな」
藤真が拳を突き出すので、牧も返してやる。それを見ていたはそんなふたりの姿が嬉しい反面、遠い夏の日に捨てたはずの感情が蘇ってきて胸が軋む。だが、もう退部していたとしても、すっきりして冬の予選を迎えたいというのはも同じ。
「ほんとに……ふたりとも羨ましいよ。私もそこに混ざりたかった」
「え?」
「藤真には話してなかったね。私も男に生まれてバスケ上手くなって、紳一やあんたと戦いたかった」
藤真がぽかんとしているので、はつい笑いながらお菓子に手を伸ばしてかじりついた。
「女子だしドヘタクソだし、そりゃあもう嫉妬したよ。目の前でふたりが競ってる時なんかたぶんどっちも応援してなかった。羨ましくて羨ましくて、どうして私は女子でドヘタクソなんだろうってそんな思いを振り払うので精一杯」
それをよく知る牧はしかし、腕組みで首を傾げながらくすりと笑う。
「なんだよ」
「いや、それぞれ思いの向く方向は様々だなと思ってな」
「どういう意味?」
「変な話だけど、オレたちはそれぞれに対して強い思いがあったんだなと。これも三角関係っていうのか?」
も藤真も牧の言葉ににやりと笑った。おかしな三角関係もあったものだ。
「だけど丸く収まったんだからいいじゃないか」
「もちろんそれでいいさ。お、もう時間ギリギリだ、藤真、帰るぞ」
「うわ、ほんとだ。悪かったな、邪魔して」
「平気、もうすぐ退院なんだから」
牧が差し入れのゴミを片付けているので、藤真は改めてに手を差し出した。
「色々ごめん。虫のいい話だけど、友達に戻れないか。まあ、そこの彼氏がいいって言えばだけど」
「翔陽にいる間を任せたつもりだったんだけどなオレは」
「だからわかったよそれは。退院したらまた考えるよ」
「いいって、余計なこと考えてないで練習しなよ。私は大丈夫だから」
そう言いながらは腕の内側を藤真に向けた。コチコチのギプスに「オレの嫁」。
「そうだったな。オレはオレに出来ることをやるよ」
がっちりと握手を交わした藤真はじゃあなと言ってさっさと病室を出て行った。それを確かめると牧はベッドサイドに戻り、を引き寄せキスをして、慌ただしく出て行った。
「ちゃんとチューして来たか?」
「お前なあ」
追いかけてきた牧に藤真はにたりと笑ってそう言った。牧は呆れつつ、病院を出たところで藤真の横顔にまた静かなとどめを刺した。
「藤真、まだ好きだったのか」
「どこかにあの頃の気持ちが残ってた、それだけだよ」
「……渡さないぞ」
「わかってるから、そんな怖い顔するなよ。ちゃんと気持ちの整理はついたし、そのために来たんだから」
まだ警戒心が取れない牧だったが、藤真はきれいな笑顔だ。
「心配しなくてもお前がいないところでに近寄ったりしないから安心しろよ」
「そういう意味じゃ――」
「あいつのためを思うなら、関わらないことだ。いい加減オレたちはそれを実践しなきゃならない」
「出来るのか?」
「出来るか、じゃないだろ。やるんだ。オレたちはいつもそうしてきただろうが」
そして藤真は牧の肩をポンと叩いて、バス停の方向へと去って行った。秋の風が牧の伸びた前髪を揺らし、藤真の背中のシャツをはためかせた。その背中を見つめていた牧は深く深呼吸をして、藤真に背を向け歩き出した。そう、自分たちはずっとそうしてきた。それでいい。それが自分たちのあり方だ。
無事に退院したは少々大袈裟な同情をもって暖かく迎えられ、元の静かな生活に戻るのには少し時間がかかった。だが、さすがに以前のような嫌がらせはぴたりと止まり、怪我の完治には時間がかかるものの、は推薦入試対策に追われたりして牧が心配するような目に遭うこともなく過ごしていた。
一方のバスケット部はの怪我を境に豹変、先生たちの協力も得て少なくとも部活中やその前後に部外者の相手をしなければならないようなことはなくなったし、とにかくそれまで愛想の良かった藤真は淡々と食べ物の差し入れその他を断るようになった。元々ひとりで食べきれる量ではないし、手作りは迂闊に口にできない。
しかも練習見学には制限が設けられて、身近なアイドルにも等しかった男子バスケット部は近寄りがたくなってしまった。そのせいでまたに危害が及ぶのではと花形は心配したが、ファンが豹変に戸惑っている間のはギプス姿であり同情も引いていてひとりにならず、手の出しようがなかった。
そうして冬の一次予選が始まった、その当日のことだった。
「登校拒否、ですか」
「B組、E組、F組、それぞれひとりと、2年生にふたりの計5人、心当たりあるか?」
「いえその、誰が誰やら」
生徒指導室に呼び出された現在D組のは担任に名前のリストを見せられて首を傾げた。担任いわく、こんな時期に登校拒否を起こしたこの5人が全員藤真のファンだったのだという。だが、2年生はもちろん3年生の名前にも心当たりはなかった。というか知らない女子だった。
「まあでもそうだよな、お前はずっと部活だったんだし」
「3年生の方は同じクラスになったこともないはずです」
「うん、そうだった。藤真を除けばお前との接点はゼロ」
「本当にこの件で登校拒否起こしたんでしょうか」
ギプスの腕を掲げるに、担任は苦笑いで応えた。
「どうだろうな。ただ、2年生はともかく3年生の方は登校拒否なんか起こしてる場合じゃないからな」
「困りましたね」
「いや、お前は困らなくていいだろ。関係ない。もしこの中に犯人がいたとしたらそれは自業自得だ」
「はあ、そういうものですか」
「被害者が何言ってんだ」
担任はそれこそ困った顔をして笑ったが、の推薦入試が終わった頃になって事態は急変する。
登校拒否を起こした2年生ふたりは、3年生の誰だかにお前たちがやったんだろう、名乗り出ろと脅迫されたと言い出した。そしてそれを名指しされた3年生の女子ふたりがまた学校に来なくなった。放課後にまた生徒指導室にを呼び出した担任は生気のない目で笑っていた。笑うしかないんだろう。
「すまんな、一応確認取らせてくれ」
「片方は1年の時同じクラスでした。けど、それだけというか」
「だろうな。それだけなんだけど聞かないわけにもいかなくてな」
そんなわけで、元から登校拒否を起こしていた3人と新たに増えたふたりが現在容疑者状態なのだそうだが、何しろ高3の11月である。中には親が藤真の件を全く知らない子もいて、ただでさえ忙しい時期の3年生の担任たちは頭を抱えているという。
「一応放置というわけにもいかないから、話を聞いたりもしてるんだけど、、もし犯人がわかったらどうする」
「うーん、2年生ならバスケ部のマネージャーをやらせて下さいと頼むところですが」
担任は思わず吹き出した。もうすぐ藤真がいなくなるバスケット部に放り込んで働かせろというのか。
「本当に足をひっかけた本人なのであれば治療費を頂きたいです。他には何も」
「そうか。ま、そうだよな。泣き喚いて謝罪されても困るだけだな」
「いやほんとそういうのは……」
が顔をしかめたので担任はまた笑った。
「男子100人をひとりでまとめてただけのことはあるな。牧くんはどうしてるんだ」
「どうって、一次予選真っ最中ですよ」
「あっ、そうか! てかよくそんな落ち着いていられるなあお前、ハラハラしないか?」
「いえ別に。藤真たちがみっともない試合しないかどうかは気になりますけど」
真顔でがそんなことを言うので、担任は今度こそ声を上げて笑った。
「まったく、とんだ勝利の女神だよお前さんは」
「勝利の、って翔陽は海南に勝ったことないんですよ」
「だけど海南はずっと勝ってるじゃないか。牧くんにとっては勝利の女神だ」
は複雑な気持ちだった。牧は確かに好きだけれど、勝って欲しいのは翔陽だ。自分が勝利の女神なら、どうして翔陽は勝てないんだ。そんなの感情を読み取ったのか、担任は楽しそうに目を細めて言った。
「、勝利の女神は微笑まないと効果がないんだぞ、スマイルスマイル!」
担任の言葉には頭を鈍器で殴られたような錯覚を覚えた。私は翔陽に微笑んだことがあっただろうか。勝って欲しいと思いながら、彼らに笑いかけて微笑んだことはあっただろうか。
思い出せる限り、一度もなかった。