ニケに捧ぐ恋の歌

09

がどん底まで落ち込んで牧を頼ったのは、退部になった当日だけだった。もちろん藤真のことは言わなかったし、それを忘れたくて牧にすがった。牧の方も翌日が休みだったので、少々無理をして何度も抱いた。そうすることでの中から翔陽バスケット部が薄らいでいくなら、それでいいと思ったからだ。

はもう翔陽バスケット部の女子マネージャーではない。退部したのだから。

まるでロミオとジュリエット、誰にも反対されてなんかいないけれど、海南と翔陽という立場がを傷付けた。牧はその傷をひとつひとつ、親猫が子猫を丁寧に舐めてやるように癒してきた。

寝たり起きたりを繰り返しながら一晩中愛し合ったふたりだが、翌日土曜の昼ごろにはかなり落ち着きを取り戻していた。何しろ牧は今年もちゃんとインターハイがあるし、たまたまこの日はテスト明けで休みであり、翌日も牧は愛知の予選最終日を観戦しに行くことになっていた。

「そう簡単に切り替わらないだろうけど――
「それが、そんなこともないみたい」
「無理するなよ」
「ううん、本当に。進路のこと考えなきゃだし、部活がないなら、私は紳一がいればそれでいいから」

強がっているのではと心配した牧だったが、は嘘を付いているようには見えなかった。少しとろりとした目をしているが、これはイチャイチャしすぎたせい。今もまた牧を抱きまくらにしている。

「進路なあ。希望とかないのか」
「うん、最近はね、またバスケしたいなって少し思ってる。本気なところじゃなくていいから」
「それもいいんじゃないか。裏方はもうやり尽くしただろ」
「えへへ、そうじゃなかったら紳一のお嫁さんになりたい」
「それでもいいけど」
「いやー! ボケに真顔で返さないで!」

ボケだったのかと牧は少しがっかりした。何も今すぐの話じゃないのだし、そういう気持ちでいてくれるのだと思えば嬉しいのだが。どちらにせよ進路は同じでないのだから、あまり距離が離れなければいいなと思うだけだ。後はの望むままでいい。自分も自分の望むままに進んでいくから。

「でもバイトもしたいんだよね」
「高校の間、出来なかったもんな」
「ちゃんと貯めておかないと、紳一が日本代表になった時困るもん」
「決まったわけでもないのに、気が早いな」

はとろりとした目でへらへらと笑った。牧もつられて笑う。日本代表か。まだ日本一にもなっていないのだから、あまり現実感のない言葉ではある。それでも牧は例え日本代表になっても、こうしてと一緒にいられたらと願わずにはいられなかった。

……インターハイ、頑張ってね」
!」

親しくなって以来、初めての言葉だった。あくまでも牧は海南の選手、は翔陽のマネージャー。親しくても付き合っていても、は牧を応援するようなことはただの1度たりとも言ったことがなかった。むしろ牧の方がを応援していたと言える。はあくまでも海南に勝ちたいと願い続けてきた。

「もう、言ってもいいかなって。今でも翔陽に勝って欲しいけど、それとは別の意味で、紳一に頑張って欲しいなって。日本一になるならないじゃなくて、高校最後の夏、紳一が後悔しないようなバスケを出来るといいなって」

自分にはもう、バスケットと共に過ごす高校生の夏は訪れないから――

「インターハイ、帰ってきたら、また海に行こう」
「今年はもう部活ないし、私は全部夏休みだからね。覚悟しておいてね」
「ふん、後で後悔するなよ」

抱きまくら状態でぎゅうぎゅう締め上げてくるに覆い被さると、牧はそっと唇を寄せた。

テスト休みの最中、突然退部したことでは学校から呼び出しを食らった。そもそもが男子100人超の部内に女子がひとり、何か深刻な間違いがあったんじゃないかと疑われたのだ。それでなくともいじめや暴力など、昨今の運動部は油断ならない。

だが、はこの際なので藤真を利用することにした。もう彼のファンの嫌がらせに耐えられません、インターハイにも出られないことだし、個人的なわがままなので引退では気が引けます。もちろん藤真のせいではありません。嫌がらせしてくるのも翔陽の生徒ではありません。ほら、こんなに傷跡が。

万が一にもと男女両方の教師がと面談をしたが、ふたりとも苦笑いの上に揃ってため息をついた。藤真か、そりゃしょうがないな、、お前はよくやったよ、だけど藤真と同じ世代だったのは運が悪かった。

の体には数ヶ所傷跡が残っていて、それが幸いした。しかもバスケット部キャプテンの藤真の女子人気が高いことは今に始まったことじゃない。の咄嗟の言い訳は実によく効いた。ふたりはを労い、そのまま進路相談にも応じてくれた。部活動実績があるし、推薦やってみるかとも言ってくれた。

が1年の時に在籍していたもうひとりの女子マネージャーも結局推薦で大学進学をしたという。もう競技は出来ない体だった彼女だが、競技自体から離れる気がなく、現在は千葉の大学でスポーツ関係の分野を専門に学んでいるとか。もそれには大いに興味をそそられた。

一応もう一度バスケットしたいという気持ちがあることを伝えて、その日は学校を後にした。昇降口を出て正門に向かう途中、遠くに見える体育館からボールの弾む音が聞こえてきた。未練が全てなくなったと言えば嘘になる。だが、もう戻りたいとは思わなかった。

翔陽のマネージャーになることを選んだのも、牧を好きになったのも自分だ。どちらの選択も、にとっては正しい。最良の選択だった。どちらも丸く収まって上手くいくならそれが一番よかったけれど、翔陽との間には飛び越えられないほどの広くて深い溝ができてしまった。もうひとりでは埋められない。

幸いもうひとつの牧という選択は平穏な状態を維持出来ている。それだけでもよかったと思わないと。

は真夏の風にスカートをはためかせながら、正門を出た。

この年のインターハイ、海南は決勝まで上り詰めたものの、敗退。牧は日本2位という成績を残して帰ってきた。その余韻もあって、夏休み1日目はめずらしくぼけーっとして過ごしていた。に会いたかったので呼び出したが、ろくに会話もせずにぼけーっとしていた。

本当は海に行く約束だったが、もそのぼけーに付き合い、初日は何もせずに終えた。なのでその日は帰宅しただったが、牧は最近視力が落ちたので眼鏡を作りたいという。最寄り駅には眼鏡店がないので、ふたりは翌日少し離れた大きな駅まで出て、牧の眼鏡を作りに行った。

案の定夫婦と間違われたふたりだったが、牧の眼鏡選びにはテンションアップ。最初は暗い色の太いフレームの眼鏡がいいと考えていた牧だったが、そんな花形みたいなの嫌だと却下。細めのスクエアは余計老けて見えるからとこれも却下。散々ダメ出しをした挙句、フレームなしに落ち着いた。

「てか視力、本当にちょっと落ちただけな感じだね」
「どうも最近黒板が見えづらくて」
「試合中は平気なの?」
「それは今のところ問題なし」

眼鏡のオーダーを終えたふたりはまた手を繋いで歩いていた。10日ほどで届くというが、10日後はもう普通に練習である牧の代わりにが取りに行くことになった。夏休みだし部活ないし推薦という方向になりそうだし、彼女にはたっぷり時間がある。

「出来上がり楽しみだな〜眼鏡の紳一楽しみだな〜」
「普段はかけないぞ」
「ええー!」
「かける必要ないだろ。てかお前そんなに眼鏡好きだったか?」

あくまで授業用ということで作った眼鏡だったのだが、は面白くなさそうな顔をして繋いだ手をぶんぶん振り回した。は想像以上に牧の眼鏡が気に入ったらしい。

「そういうわけじゃないけど……眼鏡かけてスーツ着てもらおうと思ってたのになあ」
「スーツなんか持ってないよ。てかコスプレかよ!」

ふたりはけたけた笑いながら牧の最寄り駅まで戻ってきた。だいぶ牧のぼんやりが抜けてきたし、今日はも泊まるつもりでいた。海も行きたいが、夏休みに入ってからは一度も会っていなかった。少しふたりきりで過ごしたい。

「もうアイスはいいのか。しばらく食べてないだろ」
「部活ないからさあ……あんまり好き放題食べてるとさ……
「体重気にしてるのか? オレは気にしないけど」
「私が気にします」
「むしろもう少しむちむちしててもそれはそれで」
「マジか!」

そんなことを話しながら改札を出て、アパートの方面に歩き出した時のことだ。ふたりは前方に突っ立っている人物に気付くと、ぴたりと止まった。真夏の風が吹き上がり、の髪とスカートを揺らす。は繋いだ手に力を込めて、少し震える声で呟いた。

「藤真……

「用があるのは、どっちだ?」

の手を引き少し背中に庇うと、牧は静かにそう言った。

「申し訳ないけど、に用ならオレも付いてくるぞ」
……いや、じゃない。お前だよ」
「それならはいなくてもいいな?」

藤真は黙って頷く。のことは見ていないようだった。

、先に帰ってて」
「でも――
「大丈夫。心配ないから。部屋、涼しくして待っててくれ」

夏だというのに真っ青な顔をしたの手に鍵を預けると、牧は背中を押して送り出した。そんなことを言われても気になって仕方ないは、振り返り振り返り、しかし牧の方は一度も振り返ってくれないので、やがて背を向けて小走りで去って行った。

「どこか入るか?」
「その辺でいいよ」

牧のアパート方面とは反対側、線路沿いに背の高いフェンスが続いている。駅前の低い雑居ビルのおかげで日陰だが、電車の熱気が吹き付ける。牧は藤真に構わず、対岸にある自販機で水を買った。あの日、が整形外科から出てきて牧と衝突した場所だ。

フェンスに指をかけて線路を眺めている藤真に並ぶと、牧はフェンスに背を預けてペットボトルのキャップを捻った。冷たい水を流し込み、前髪をかき上げる。がもういいというので、ずっと髪を下ろしたままだ。

「仲、いいんだな」
「そうだな。ひどい喧嘩をしたことはないよ」
「もう1年になるって言ってたけど」
「過ぎたよ。付き合いだしたのは去年の期末前だから」

呼吸がしづらく感じるほどの熱風がふたりを撫でていく。そう、牧とは付き合いだしてからというもの、一緒にいる時間が短いせいもあって、特に喧嘩らしい喧嘩をしたこともなく、むしろ一緒にいられる間は目一杯イチャついていたくらいだ。

「どうしてこんなことになったのか、わからない。は答えてくれなかった」
……1年の5月だ」
「何が?」
「高校最初の中間の前だった。そこの階段の下で、とぶつかったんだ」

線路を見ていた藤真は、振り返って牧の指す方を見る。エレベーターに沿うように階段があり、その出口は自販機に取り囲まれていて薄暗い。だから牧は飛び出してきたに気付かず、ぶつかってしまった。

「顔や手や足に、傷をいっぱい作ってた。手首は捻挫してた。地元の病院に行くのが嫌でここまで来てたんだ」
「あいつ、よく怪我するからな」
「藤真、お前それは本当に無自覚なのか?」
……どういう意味だ」

力を入れて掴んだか、フェンスがカシャンと乾いた音を立てる。無表情ながらどこか怒りを感じる表情の藤真に、牧はふっと吹き出す。まさかここまで何も知らなかったとは。

はなんで怪我をしたのか、お前たちに言わなかったのか」
「なんで、って、転んだりしたからだろ」
「お前たちに知られまいとしたんだな。藤真、の怪我はほとんどお前のファンにやられたものだ」

またフェンスがカシャンと音を立てる。

「もちろんオレはその現場に居合わせたことはないから、全てから聞いただけの話だ。だけどオレはを信じる。翔陽の生徒だけじゃない、どこの誰かもわからないようなのにも突き飛ばされたり、物を壊されたり、はしょっちゅうそうやって嫌がらせをされてた」

それがの嘘でなかったとは言い切れない。だが、の傷は本物だったし、あの日薄曇りの古びたバスケットコートでが流した涙も嘘ではなかったと思っている。

「確かに嫌がらせっていうか、ジャージにいたずらされたりしたことはあったけど――
「いたずら? 2年連続で上下細切りに切り刻まれたのがいたずらか?」
「2年……細切り……
「本当に何も聞かされてなかったんだな」

牧は改めての強さを尊敬した。と同時にそんな状態のと一緒にいられて、少しでも彼女を笑わせてやれて、よかったと思った。もしこんな状態でがひとりきりだったら。考えるだけで胸が苦しい。

「ファンて、そういうことがあったのは知ってるけど、いくらなんでもそこまでは」
「だけどお前、自分が女の子にキャーキャー言われる立場にあることはわかってただろう」

わからないとは言わせない。牧は初めて藤真の方に顔を向けて少し睨んだ。

「お前や、校内では花形も人気だっただろ。そのせいでゴタついてもに丸投げしたじゃないか」
「そ、それは――
「女の子は面倒臭いって、そりゃバスケに集中したいのに騒がれれば邪魔だけど、お前らは逃げた」

練習中はやめて下さいの一言が言えなかった。学校まで来られるのは困りますと言えなかった。なんだか女の子の集団は怖いので。面倒くさいので。それはそれで嫌われるようなことはしたくなかったので。だからになんとかしてくれと押し付けた。マネージャーなんだから、そこんところ頼むよ。

――まあだけど、オレたちのこととそれは関係ない。オレたちはそうやって知り合って、1年かかって付き合いだした、それだけの関係だよ。付き合いだしてから、ふたりでいる時に部活の話はほとんどしないし、オレは個人的にを応援していたけど、オレはこの間が退部して初めて頑張ってって言ってもらったくらいだ」

また水を流し込むと、牧は前髪をくしゃくしゃとかき回した。退部なんかさせやがって、と言いたいのを堪える。本当はもちろん藤真のせいじゃない。だけど、があれだけ傷ついていたことも知らずに、自分だけ傷ついたような顔をしている藤真を見ていると、少し苛ついてきた。

「全部、手の中からこぼれ落ちていくんだ」
「全部?」
「何もかもだ。勝利も、インターハイも、――
「バカ言うな、どれもこれもお前の手の中になんか最初っからなかったものだ」

その中にが含まれていなければ、そこまで言うつもりはなかった。だが、牧はがまるで翔陽の所有物だというような言い方につい口が滑る。あいつはもうオレの女だ。お前たちのマネージャーじゃない。

「指で触っただけで掴んだ気になってたんじゃないのか。それに、はもうずっとオレのものだ」
「仮にも上位を争う対戦校のマネージャーを部屋に連れ込んでたのか」
「藤真、お前らしくないぞ。こんなこと、言いがかりだって、わかってるだろう」

どうしてこんなことになったのかわからないだけじゃない。藤真は燻る気持ちが抜けきらなくて、今度はそれを牧にぶつけに来た。牧はすぐにそれを見抜いたけれど、そんな藤真の駄々に付き合ってやる義理はない。ただの名誉のために反論のチャンスは欲しかった。それだけだ。

「意味もなくが部活サボったことがあったか? 続けて何日も休んだのは今年の2月末、風邪を引いた時だけだろ。インフルを疑われて学校から病院行って、結局陰性だったけどひどい風邪で。お前らその時になんて言ったか覚えてるだろうな?」

伝染されたら困るから、完全に治るまで出てこないでくれ。

藤真はまた指に力を入れてフェンスを掴んだ。実のところそう言ったのは藤真じゃないし、部の中心的存在である3年のスタメンでもないけれど、それを窘めたりはしなかった。がそんな言葉を投げかけられていても、監督兼主将は気にしなかった。

「その時はオレも会ってないぞ。ていうか毎日遅くまで部活で、がどれだけお前らと一緒の時間を過ごしてきたと思ってるんだ。付き合ってるのはオレだけど、一緒に過ごしてきた時間はお前たちの方が長いだろうが。しかも連れ込むとか嫌な言い方するなよ。同意の上だし、付き合ってるんだから普通のことだろ」

目撃者である後輩のご注進は仔細に報告がされていたので、牧とが深い関係であることは翔陽バスケット部中に知られている。なので藤真の頭にもそんなイメージがこびりついている。それも失礼な話だが、何しろ相手が海南の牧であったことは本当に不運だったとしか言いようがない。

「お前だって彼女くらいいただろ。それはお手々繋いで下校と交換日記なんていうものだったか?」
「生憎、オレは寮でね。お前みたいに、女と過ごせる場所は、なかったよ」
「女がいたことは否定しないな。どうしてそんなにに執着するんだよ」

藤真を責め立てたいという気持ちは少しずつ落ち着いていたけれど、疑問は残る。掴んだつもりになっていたものが実際は虚像で、その上仲間が敵と通じていたと思ってしまう気持ちはわかる。が、藤真はこんなことを1ヶ月以上も引きずるような男ではないはずだ。

牧の言葉に藤真は初めて頬を緩め、方々の女の子を虜にしてきたきれいな顔をフェンスに押し付けた。

「好きだからだよ」