ニケに捧ぐ恋の歌

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無事に推薦入試をクリアし、最新の検査では骨の生成のスピードが平均よりも早く進んでいるらしいは、早ければ年内にギプスを外せるかもしれないと言われて一気に肩の荷が下りた気分になっていた。

あれ以来登校拒否を起こしたという女の子たちの続報は入って来なかったが、進路も無事に決まったし怪我の経過もいいので本当にどうでもよくなっていた。それよりは内心、冬の予選の方が気になって仕方なかった。

一次予選が始まってからは牧と会っていない。夜になると連絡を取り合うけれど、それだけで、には翔陽も海南もどんな状態なのか知りようがなかった。藤真も病院で会ったきり顔も見ていない。同じクラスにもバスケット部員はいるが、彼らももちろんには関わろうとしなかった。

担任と話して以来、は翔陽バスケット部に対する後悔が頭から離れなくてそわそわしていた。自分が勝利の女神かどうかはともかく、例えば牧にするように翔陽バスケット部の藤真たちに笑顔で接したことがなかったかもしれないと思うと、どうしても落ち着かない。

もちろんそれは入部してすぐに藤真ファンの襲撃に遭ったせいなのだが、それこそ彼女たちがいないところでなら、無愛想にする必要もなかったはずだ。藤真たちを叱咤激励することはあっても、心から彼らを応援し、心から彼らの勝利を願ったことはなかったんじゃないだろうか。

心から勝利を願ったことがないという意味では牧も同じだ。海南の勝利など望んだことはただの1度たりともない。だがそれでも牧にはいやというほど微笑みかけたし彼を愛したし、何より大事に思ってきた。種類は違ってもそんな風に翔陽を思ったことがあっただろうか。

つまり翔陽に対する「勝利を願う気持ち」というものは、藤真への嫉妬と混ざり合った歪んだものだったのではないかと思えてきた。ドヘタクソがゆえにプレイヤーとしての自分を諦めて飛び込んだ翔陽には藤真がいた。卓越した技術と感性を持ち、努力も怠らず、人柄も悪くない。そこに自分を投影していた。

翔陽が勝つ度にドヘタクソには味わえない達成感を感じていた。そして翔陽が負ける度に自分がドヘタクソであることまで思い出させられたように感じていた。そんなに上手いのになんで負けるのよ、私は勝ちたいのに、あんな風に鮮やかなプレイをして勝利したいのに、どうして負けるのよ。

は、藤真を自分だと思っていたのだ。

だから女の子相手にヘラヘラしていれば腹が立ったし、肝試しでビビっているのもウザかったし、勝てば自分の功績のように感じ、負ければまた腹が立った。そして牧はそんなの歪んだ心を宥めてくれていた。

冬の二次予選最終日、翔陽と海南6度目の対決の当日、は牧のアパートの近くにあるバスケットコートにひとりで佇んでいた。どれだけ練習してもボールが届くことはなかったゴールポストを見上げて、は牧の言葉を思い出していた。

オレたちはそれぞれに対して強い思いがあったんだな――

牧には牧の、藤真には藤真の、にはの強い思いがそれぞれに向かってひた走っていて、奇妙な三角形を描いていた。の場合、それは愛情と嫉妬だった。近いようで遠いその間では3年間を過ごしてきた。牧はどうだったんだろう、藤真はどうだったんだろう。

はギプスで固められた腕も一緒にゆっくりと掲げ、見えないボールを放り投げる。

そしては、初めて心から藤真の、翔陽の勝利を願った。今度こそ自分の投影ではない、一緒に3年間頑張ってきたバスケット部員たちのために、1度でいいから海南を倒すという勝利を祈った。自分のボールは届くことはなかったけれど、もうそんなことで嫉妬したりしないから。だからどうか、翔陽に勝利を。

ギプスの腕を抱き締めたは、冷たい風の中で翔陽を思って微笑んだ。

寒いのでジェラートを食べる気にならなかったは、駅の改札横にあるカフェで牧を待っていた。冬の予選決勝、今年は翔陽と海南の対戦になった。夏にこの図式が崩れたけれど、大方の予想通りの結果であった。どうあがいても今日の結果次第で牧の、そして翔陽の3年生たちの高校バスケットは終わる。

翔陽の勝利を何より望んでいるけれど、やっぱり好きなのは牧だけだ。だからはこうして翔陽の勝利を祈りながら牧を待っている。翔陽はちょうど今日からテスト期間なのでノートを広げてなんとなく内容を反芻しながら静かに過ごしていた。

その時、テーブルの上に出しておいた携帯が小さな音を立てた。なんと担任からのメールだった。

「もう家に戻ってるか? もし近くにいるなら、生徒指導室まで来て下さい」

説明がなさすぎて破廉恥な想像をされてしまいそうな内容にはつい吹き出した。だが、テスト期間なので授業が終わった以上は校内に生徒がいてはいけないことになっている。図書室くらいならともかく校内は基本無人のはずだ。もしかしたら足払いをかけた犯人の話かもしれないと考えたは急いでカフェを出た。

牧のアパートがある駅から翔陽までは40分ほどで到着できる。は担任に向かっている旨を連絡し、またギプスの腕を抱き締めながら電車に乗った。犯人に対しては何も特別な感情はないけれど、事態が全て明るみに出るのは少し怖いような気がした。

は手首の内側にある牧の字を指でなぞりながら、ゆっくり呼吸する。どんな悪意にも憎悪にも私は負けない。怖いけど、ここに紳一がいるから。私の中にはいつも紳一がいるから、大丈夫。

そうして静かな翔陽高校に戻ったは、静まり返る昇降口を通り、まっすぐに生徒指導室に向かった。校長室職員室保健室と来て、その次が生徒指導室だ。最近では深刻な話が飛び出すことも珍しくないので、生徒指導室は作りが他の教室とは違っていて、中の様子は伺えない。

ドアをノックし名乗ったは、担任の声が聞こえたので躊躇せずにドアを開いた。

! おかえり!」
「は!?」

努めて気持ちを冷静に保っていたの目に飛び込んできたのは、試合を終えて来た翔陽男子バスケット部の3年生たちだった。ほとんどが引退してしまったので、15人ほどしかいなかったけれど、その全員がジャージのまま生徒指導室にひしめいている。

入口近くにいた花形に手を引かれたは目をひん剥いたまま部屋の中へ引っ張り込まれた。テーブルと椅子は脇にどけられていて、部屋の真ん中辺りにニヤニヤ顔の担任と藤真がいる。

「せ、先生、あのこれどういう」
「すまんな、騙したみたいで。でも何が待ってるのかはオレ一言も書いてないからなあ」
「いえ、そうですけど一体――

わけが分からなすぎてしかめっ面をしていたの前に、藤真がバシッと何かの紙を広げてみせた。

、オレたち、また負けた!」
「はあ!?」

藤真が広げているのは味気ない印刷の賞状だ。冬の選抜神奈川予選で2位だったことが記されている。だが、藤真を始め全員にこにこしている。負けたというのに何だその緩んだ顔は。懐かしいの怒り顔に藤真たちはいっそう笑顔になって楽しそうに顔を見合わせている。

「だけど、これ見ろよ」
「何これ、スコア――嘘!?」

後ろから花形が差し出した紙を受け取ったは、また素っ頓狂な声を上げ、ギプスの腕を持ち上げて口元に手を当てた。本日の予選最終戦、翔陽対海南の試合は1点差で翔陽の敗北となっている。

「い、1点て、ちょ、す、スコア、見せて早く」
「てか負けたけど、ずっとオレたちがリードしてたんだぜ」
「少し不思議なくらい今日のオレたち絶好調で海南絶不調だったよな」

スコアによる試合展開を目で追っているの周りで藤真たちは楽しそうに笑った。その輪の真ん中ではギプスの腕が震えだした。本当に途中まで翔陽リードで試合が展開されていたのだ。だが、結果的には77-78で海南の勝利。スコアの行方を追っていたは目が熱くなってきて、殊更に唇を固く引き結んだ。

終盤、海南側の全ての得点が4番となっている。牧だ。

……あの野郎、最後、ひとりで13点入れやがった」

ニヤニヤと楽しそうな、けれど少し低い藤真の声と共にの目から涙が一粒零れ落ちる。翔陽リードで進んでいた試合だが、終盤に牧はひとりでそれを覆した。少しずつ点差が縮まり、最後の最後で逆転、1点差で翔陽は負け、海南は勝った。花形がリストの一番下を指さしてくつくつと笑う。

「残り1秒だぜ、ほんとにもう生きた心地しなかったよな」
「しかも、あいつ、最後のシュート打つ時に『届け』とか言い出してさ」

もう涙を止められないが顔を上げると、きょとんとした顔の藤真が首を傾げていた。

「試合が終わった後に、『届け』って何だよ、あの位の距離でお前が届かないわけないだろうがって言ったんだよな。そしたらあの野郎、に聞けとしか言わないもんだから」

それを聞いたは嗚咽を漏らしながら泣き出した。

どれだけ努力しても届かないシュート、どれだけ努力したと思っても何も残らない身に付かない、それを人は「努力が足りない」という。牧のように藤真のようにバスケットがしたかった。夢中になって何もかも忘れるような試合をしたかった。だけどシュートが届かない自分には絶対に叶わない夢だった。

だが、シュートは届いたのだ。の心に牧がいるように、牧の心にはがいて、それが牧の腕を通りボールに伝わり、ボールはちゃんとゴールに届いたのだ。そしてそれがとどめとなって翔陽を下した。

シュートが届かない自分を諦めたは翔陽を選んだ。たまたま翔陽には藤真というかっこいい男の子がいた。そのせいでは嫉妬の果ての憎悪にさらされて怪我をし続けた。そんなをライバルのはずの牧は愛してくれた。それが巡り巡ってとうとう最後にのシュートが届いた。

「届かなかったんだよ」
「何が?」
「私のシュート、どれだけ練習しても届かなかった、レイアップしか出来なかった」

しゃくり上げながら言うの言葉に生徒指導室は水を打ったように静まり返った。

「毎日練習した、先生に教えてもらって筋トレしてササミばっかり食べてたけどボールは重くて、どうしても届かなかった、遠くにも投げられなかった、だけど、だけどバスケットしたかった、みんなみたいに男に生まれてスリーポイントとかダンクとかしたかった、マネージャーじゃなくて選手になりたかった」

これをなんとなく聞いたことがあるのは藤真だけ。他の部員たちは全員初耳で言葉が出ない。

「なるほどな、あのジャンプシュート、あれ、お前のシュートだったんだな」

優しく微笑む藤真がの肩を掴んでグッと力を込めた。

「それじゃあ仕方ない。お前のシュートじゃしょうがないよな。、負けたよ」
「だけどそこまではオレたち勝ってたんだからな。いいんだこれで」
「ほら先生の言った通りだったろ、は勝利の女神だったんだって」
「えっ、だけど勝ったのってですよね、これ」

ひとりグズグズ泣いているを囲んでいる先生と藤真たちは声を上げて笑った。

「っていう報告とその『届け』の話をしたいって言われてな、それで先生が呼び出したわけだよ」
「先生、の退部ってどうにもなりませんかね」
「ふふん、顧問の先生は粋なことをするよな。の退部届、実は受理されてないんだ」
「は!?」

今度は部員たちが素っ頓狂な声を上げた。

「さっきお前らからこの話貰った後に先生が来てな、実はうっかり忘れちゃったんですよねえとか言うんだぜ。笑っちゃったよ。ほら、こんなもの握り潰して捨てろ」

先生はポケットから折り畳まれた紙切れを引っ張りだしてに手渡した。1学期の期末が終わった日にが提出したはずの退部届だった。それを受け取ったはすぐ横にいた藤真の顔を見上げた。

「退部してなかったのか。んじゃ、オレたちと一緒に今ここで引退しようぜ」
「引退――
、3年間ありがとう。お疲れっした!!!」

藤真が声を張り上げると、生徒指導室にいた全員がそれに倣い、勢いよく頭を下げた。そして元に戻ると、また涙がぶり返してきたに一斉に飛びついて歓声を上げた。のギプスで固まった手から退部届がひらりと離れ、生徒指導室の床に落ちる。

こうしては目標通りに3年間翔陽の男子バスケット部でマネージャーを務め上げ、無事に引退した。

藤真たちが帰り支度をしている間に引き止められたは、また担任から登校拒否5人の話を聞かされて少しげんなりしていた。足払いの件はともかく、どうやらその5人というのがこれまでのジャージを切り刻んだりと翔陽内での嫌がらせをしてきた主犯グループだったらしいという。

だがもうジャージを弁償してもらう必要もないし、そんなこと今更告白されたところでどうしようもない。自身もできれば彼女たちとは関わり合いになりたくないし、それぞれの担任の先生は可哀想だが好きにしてくれとしか思えない。

「実はひとり、お前に直接会って許すと言ってもらえないかって言い出した先生がいてな。それはオレが断固拒否しておいたからな。いい所狙ってた子だったらしいんだけど、お前の受けてきた被害を軽視しすぎてるからな」

事情がどうであれ、そんなことはとんでもない話だ。先生は不愉快な顔を隠そうとせずに続ける。

「もう年が明ければ自由登校になるし、お前は進路決まってるからそれでいいんだけど、まだお前の境遇を羨むようなのが、いるんだよ。面倒な話だけど、また女子だ」

むしろは病院で牧とのやり取りを見られた時からそれを覚悟していた。退院してみたらそれを上回る同情が待っていて、その方が意外だった。

「男の中に女ひとり、それだけしか見えてないんだ。お前には牧くんしかいなかったのにな」
「それも面白くないんじゃないでしょうか」
「いやうん、ほんとな、どうしろっていうんだよな」
「藤真が不細工だったらよかったんですよ」

が真顔で言うので、担任は勢いよく吹き出し、大声で笑った。

「だけど先生、私、これでよかったと思ってます。こんな怪我までしたけど、それでも翔陽に入ってバスケ部のマネージャーやって、その中でしん……牧くんと知り合って、それでよかったと思ってます。何も後悔はありません。シュートも届きました」

そしては、翔陽の校内にいる間には滅多に見せたことのない笑顔になった。

……そうか、勝利の女神は自分で勝ちを掴みとったってわけだな」

先生と満面の笑みで笑いあったは、帰り支度を終えて戻ってきた藤真たちに連れられて学校を出た。翔陽の男子バスケット部に入部して3年、部員たちと一緒に帰るのは初めてだった。負け試合の日だというのに、その道のりはなんだかとても楽しかった。