ニケに捧ぐ恋の歌

08

牧とが手を繋いで歩いているところを目撃したのは、翔陽の2年生、割と近所から進学してきた部員だった。彼は鍵を忘れて登校してしまい、家に入れないので、電車を乗り継いで両親が飲食店を営む町までやってきた。それが牧の最寄り駅だった。

中間テストの前で部活がない彼は、親から鍵を預かるとすぐに駅へ戻った。たまの休みなので、今日は寝ようと決めていたからだ。だが、駅前でよく知った顔を見つけてビタッと足を止めた。翔陽にとって最大のライバル海南のボス、神奈川の帝王・牧である。

ちょうど海南も中間の時期だったせいか、牧は私服であった。彼は神奈川の高校バスケット界の大物との遭遇に一気に目が覚め、ついドラッグストアに入っていく牧の後を追った。いやマジあの体、どんなプロテイン飲んでるんだ。それがつい尾行した理由だった。だが、牧は彼の目の前で避妊具を買った。

呆気に取られた彼はしかし、まああんな老け顔だし、彼女くらいいてもおかしくないか、と妙な納得をした。一応高校生だというのに、Tシャツにジーンズでコンドーム買ってても違和感ゼロの帝王スゲェパネエと思っていた。

その牧が駅前で彼女らしき女の子と待ち合わせをして、手を繋いで歩いているところを見るまでは。

先輩って双子だったっけ。彼はまずそう思ったという。だが、はゴールデンウィーク中の練習試合でまたもや襲撃を受けて手首を捻挫していた。同じ手首に同じサポーターが巻かれている。で間違いない、翔陽バスケット部のマネージャーであるはずのが、海南の牧と手を繋いで歩いている。

彼は急に気持ち悪くなった。少し厳しいが、余計な私情を挟まず前向きに練習に取り組むへの信頼は厚いつもりだった。何より上手い部員に媚びたりすることなく、バスケット愛が第一であるところがその理由だ。だが、どうだろう。は避妊具を買ったばかりの牧にぴったり寄り添い、手を繋いで歩いて行く。

先輩、帝王とあれ使うんだ。翔陽の人間なのに、海南の男とヤるんだ。

ショックだった。それでも彼は来る予選に向けて、自分が見たものを言いふらしたりはしなかった。だが、予選は敗退、翔陽はインターハイを逃し、主力選手を除いた3年生は一気に引退、それなのに、は残った。インターハイに行くつもりでいたから不完全燃焼で、出来れば夏まで続けたいと言い出した。

頭の片隅でパチンと何かが切れたような気がした。別にあんたがいてもいなくても、何も変わらないんだから、残る必要ないだろ。さっさと引退して牧とヤりまくってればいいじゃないかクソビッチが。彼の中でへの憎悪が膨れ上がった。そして、期末が終わったところで、彼はご注進に及んだというわけだ。

先輩、海南の牧と付き合ってるみたいです。仲間だと思ってたのに、裏切られた気分です。

話を受けたのは、冬まで残ると決めたばかりのスタメン5人。テスト最終日から練習解禁なので、さっそく部室に来ていた藤真を捕まえ、彼は一気にブチ撒けた。サッと藤真の顔色が変わったのを見て、花形もやって来た。そして報告してきた2年生の他、部室にいた部員全員を一旦外に出して、彼らは30分ばかり話し込んだ。

そこへ職員室から新しく届いた備品を運んできたが来た。ざわめく後輩、部室から顔を出す厳しい顔をした花形。はその様子で全てを理解した。全部バレたんだな。備品の入ったダンボールを支えていた手に力を込める。紳一、そばにいて、一緒にいて、私に力を貸して――

さすがに後輩たちは中に入れてもらえなかった。部室のドアにへばりついて聞き耳を立てているが、何しろ部室の壁はコンクリート、ドアは鉄製、部屋の中の会話は聞こえてこない。だが彼らは目撃者からの話で頭に血が上っていて、どんな理由があれにはさっさと出て行ってもらいたいと考えていた。

裏切り者に練習の管理などしてもらいたくない。だったら主将の取り巻きの方がまだマシだ。一体先輩たちは何をのんびり喋っているんだ。さっさと辞めさせればいいのに。

だが、後輩たちの憤りとは裏腹に、部室内のたちはそれほど険悪ではなかった。

「じゃあ、本当のことなんだな」
「うん」
「いつからそんなことになってたんだ」
「もう1年前になるかな」
「長いな」

部室の真ん中に二対置かれたベンチにスタメンがずらりと座っている。藤真以外全員190センチ以上あるので少し威圧感があるが、ベンチに向かって置いたパイプ椅子のは問いかけてくる花形にぼんやりと返事をしていた。花形以外は少し俯いていて、口を開く気はないようだった。

「迂闊だったな。1年も誰にも見られなかったのに」
「まあ、隠そうともしてなかったからね」
「こんな風に騒がれるかもとか思わなかったのか?」
「責められるようなことはしてないから」
「あいつらはそんな風に思っちゃくれないみたいだけど」
「うん、それは仕方ない。そういうことになるかもとは思ってたし」

花形はずっと頷きながら話している。事前にじっくり話をした5人を代表してひとりでの相手をしているのだろう。彼らとももう丸2年以上の付き合いになるはそれがよくわかる。口下手だったりカーッとなってしまいやすかったり、だけどそれでは話が進まないから、花形頼む、というわけだ。

「まあ、だからってうちが不利な状況になったこともないし、今年に関して言えば海南は関係ないし、正直、個人的には学校の外で誰がどんな風に過ごそうと、部に迷惑がかからないんだったら好きにすればいいと思うけど、なんせ今年はこんな状態だしな。これから夏休みいっぱい使って部を立て直していこうって時に、これは困る」

も膝の上で手を組み、何度も頷く。花形の言う通りだ。

「しかもそれがどこかの大して強くもないバスケ部ならまだしも、海南だからな。、中にはきっと別にいいんじゃないのってやつもいるはずだ。オレもまあ、その口だ。だけど、今に限って言えばそれは許せない、裏切りだってやつの方が多い。相手が悪かったよ、あいつでなかったらこんなことにはならなかったはずだ」

それも事実だ。常に1回戦敗退しているような高校のバスケット部の部長、そんな相手だったら、誰も何も文句は言わなかっただろう。海南において牧の彼女が翔陽のマネージャーと知っても気にならなかったように、格下が相手だったらこんな事態にはならなかった。それこそ「ふーん」で済む話だ。

、わかってるよな」
「うん、わかってる」
「散々世話になっておいて申し訳ないけど、これしかないんだ。退部、してくれるな」
……うん、わかった。退部届、提出しておくね」
「急がなくてもいいからな。どうせテスト休みなんだし」

毎年大所帯の男バスだが、年間通して脱落者は出続ける。そのため部室の棚には常に退部届がストックされていて、いつでも好きな時に取れるように、わかり易い場所に置かれている。つい先週その補充をしたのもだった。はそこから退部届を1枚取り出して折り畳み、ポケットに入れる。

「教室でこれ書いて提出して、みんなが練習に行ったら私物取りに来るよ。鍵は先生に預けておくから」

花形が立ち上がり、頷きながら進み出た。残りの4人は顔も上げない。俯いて黙ったままだ。花形はどうやら外にいる後輩たちを騒がせたくないようで、より先に出ようとドアに手をかけた。その時、一番奥に座って足を組んでいた藤真が顔を上げ、の背中に声をかけた。

「まさかこんなことになるとは、思ってなかった。そんな女だなんて思ってなかったよ」

が花形をちらりと見上げてから振り返ると、さきほどまで俯いていたスタメン全員が顔を上げての方を見ていた。藤真と同じ気持でいるらしい。怒っているような悲しんでいるような、そんな顔をしていた。は心の中で牧の名を呼びながら、にっこりと笑顔を作ってみせる。

「私のこと、みんなはなんだと思ってたの?」

そして花形の手ごとドアを開いて外に出た。後輩たちが息を呑むが、花形が一緒に出てきたので黙っている。

、お疲れ」
「ありがと、これからも頑張って」

そう花形と言い交わすと、はすたすたと歩いて行く。後輩たちの群れの横を通り過ぎる時、「裏切り者」だの「クソビッチ」だのと声をかけられたが、既に2年間藤真ファンの嫌がらせに晒されてきたにとっては、今更心に刺さるような言葉でもなかった。

一体彼らにとって私は何だったのだろう。はまっすぐに教室へと帰っていった。

退部届を書き、どうしたんですかを繰り返す顧問に届けを押し付け、は部室が空になるであろう時間を見計らってクラブ棟へ戻った。体育館の方からはボールの音とホイッスルの音が響いてきている。マネージャー用に預かっている部室の鍵を使って中に入ると、少しこみ上げてきた。

バスケットも牧も、どちらも大好きだっただけなのだ。だけど、うまくいかないものだなあ。はじわりと熱くなった目を擦ると、自分のロッカーへ急いだ。何しろたったひとりの女子マネージャーをそろそろ2年だ。私物は結構多い。しかしこんな状況では二度と部室には入れないだろう。今日中に一気に持って帰るしかない。

はあちこちから紙袋やビニールバッグを引っ張り出してきて荷物を詰め込んだ。持って帰る必要のないゴミも多かったので、それはゴミ箱にぎゅうぎゅう押しこむ。今日からこのゴミを片付ける人間がいなくなるが、まあいいだろう。それが彼らの選んだ道だ。

だが、マネージャーとしての悲しい性で、散らかった部室が耐えられない。は自分の性格を呪いながら凄まじいスピードで部室を片付け、ゴミをひとまとめにし、点けっぱなしになっていた電気類を全て落とす。明かりを落とした部室は薄暗くて、少し狭くなったように感じる。

「さて、と」

そう言っては自分に区切りをつけさせると、ロッカーに戻った。私物の山を抱えて帰らねばならないが、仕方あるまい。もう部活もないのだから、肩や腕が傷んだところで支障もない。が荷物を肩にひっかけていると、重い鉄製のドアが開く音がした。驚いたは勢いよく顔を上げる。

そこには藤真が佇んでいた。

……もう終わったよ。今出るから」
、どうしてこんなことになったんだ」
「はい?」

次から次へと一生懸命荷物を担いでいたの背後で、藤真の低い声がした。何の話だと振り返ると、すぐ近くに藤真が立っていて、は思わず身を引いた。薄暗い部室で藤真と差し向かい、これでも彼は180センチ近くあるので、はちょっとだけ怖くなってきた。

「どうしたの藤真――
「1年の時、みんなで一緒に3年間頑張ろうって言ったろ」
「ああうん、言ったね」
「合宿でもなんでも、どれだけつらくても頑張ってきたじゃないか」
「藤真、あの――
「オレたち仲間だったろ。いつでもどんな相手でも勝利することを目標にして、努力してきたじゃないか」

藤真が近付いてくるので、は少しずつ少しずつ後ずさる。薄暗い部室、はとうとうマネージャー用の幅の狭いロッカーを背中に追い詰められた。肩にかけていた荷物がずるりと落ちる。そのの腕を藤真が両手でがっちりと掴んだ。遠慮のない強い力で、は竦み上がる。

「藤真、痛い」
「そりゃあオレたち一度も海南に勝てたことなんかなかった。だけど、だけど、どうして――

の知っている藤真ではなかった。のよく知る、快活で聡明、努力家の藤真の顔ではなかった。

「一番多い時で120人もいただろ。年上年下同い年、男が120人もいたのに、どうしてあいつだったんだ」
「ちょっ、何言ってるの、痛いよ藤真、離して」
「どうしてあいつじゃなきゃだめだったんだよ。なんで牧なんだよ、お前まで、牧の方がいいって言うのかよ!」

がくりと頭を落とした藤真は、そのままを引き寄せて力任せに抱き締めた。

「なっ、藤真、落ち着いて、こんなことやめて」
「嫌だ、、どうして牧なんだよ、あいつでいいならオレだっていいだろ」
「そういうことじゃないでしょ、藤真、冷静になってよ、私のこと好きなわけじゃないでしょ」
「好きだよ、好きだったらいいんだろ、そしたらここにいてくれるんだろ」

藤真の両腕の力が強すぎて振りほどけない。は懸命にもがいたが、抱き締められたままロッカーに押し付けられてしまった。身動きが取れない上に息苦しい。

「藤真、お願いだから落ち着いて。私辞めたくて辞めるわけじゃないよ」
「だけど牧を選んだんだろ、あいつの方がいいんだろ」
「違う。私には退部しかないのはみんなの意見で、私は夏休みまで続けたかった」

は理解を示してごねたりしなかっただけだ。辞めたくなんかなかった。

「それに、選ぶって何? 私、両方を天秤にかけてどっちがいいかな、なんて考えたことない。あんたたちと比べて向こうの方がいいから付き合おうなんて考えてたわけじゃない。だったら付き合った時点で辞めてるよ。彼氏を優先して自主的に辞めてるよ。そうでしょ。藤真、わかってるでしょ」

もちろん藤真はわかっている。全てわかっていてに憤りをぶつけているだけだ。

「白々しく聞こえるかもしれないけど、付き合ってるのはあくまでも学校の外の話で、私は今でも翔陽に勝ってほしいと思ってる。応援してるのは翔陽だけ。冬だって本戦に行ってほしいと思ってる。それで向こうが敗退しても構わないよ。あんたのことも、すごい選手だって思ってるよ、ずっとそう思ってるよ」

そう、嫉妬で泣けてくるくらいに藤真のことはすごいと思ってきた。プレイヤーとして憧れもした。

「だからこんなことやめて。少し引退が早まったくらいなものだよ」
……だけど、牧とは別れないんだろ」
「それは、だって、プライベートは関係ないでしょ」

藤真が怖いので、はずっと牧のことを考えていた。頭の中で繰り返し名を呼んで、彼の笑顔を、声を、抱かれた時のあの暖かさを思い出していた。そのせいで、関係ないでしょなどと不用意なことを言ってしまった。瞬間的にマズいと思ったが、遅かった。腕が少し緩んだ瞬間、は藤真に口を塞がれた。

驚いて飛び上がり、なんとかして逃れようとするが、頭をがっちりと押さえこまれてしまった。自由になった両手で抵抗はできるが、唇だけは引き剥がせなくては暴れた。怖いし悲しいし、何より牧以外の男とキスしているという状況に耐えられない。

いつしかは悲しさでいっぱいになってしまって、膝から崩れ落ちた。がぺたりと床に座ってしまうと、藤真もそれに倣い、を抱き締めてまたキスを繰り返した。の目から涙が一筋流れ落ちる。

「なんで、泣くんだよ」
「悲しいからに、決まってるでしょ、こんなこと、藤真、私、いっつもあんたに苦しめられる」

は子供のように手の甲で目を擦りながら泣いている。

「もう解放して、自由にして、これ以上苦しめないでよ」
、オレのこと、そんな風に思ってたのか」
「そんな風って何? 私、藤真みたいなすごいプレイヤーになりたいって、ずっと思ってたよ。尊敬してたよ」
「だけど――
「だけど紳一のことは別だもん、藤真のことはすごいと思ってる。だけど好きなのは紳一だけだもん」

向こうとか彼氏とか、言葉を濁して牧の名は出すまいとして来ただったが、もう藤真の激情に耐えられなかった。抗う力が残っていない。ひとりのプレイヤーとして尊敬していた。仲間として大切に思ってきた。その結果があまりに悲しくて、は両手で顔を覆って泣いた。

「さっき言ったよね、私のことなんだと思ってたの? マネージャーって何? 私って一体なんだったの」
「そんなの――
「今日私が紳一と付き合ってるって聞かされるまで、私に執着なんかなかったくせに、勝手だよ」

藤真は徐々にの言う「紳一」という名が耳に痛くなってきた。そうか、あいつはお前にとって「牧」ではないんだな、「海南の牧」ではなくて、「彼氏の紳一」なのだな。これがどんな言葉よりも藤真を打ちのめした。目の前で小さくなっているの体を牧が抱いたのかと思うと、余計に胸が痛んだ。

、本当に好きだったよ、大事な仲間だったよ」

藤真はそう言うと、の頭を撫で、今度は優しく抱き寄せた。は頼りになるマネージャーで仲間で、特に監督になってからはが助けてくれなかったら、もっとしんどかったろうと思っている。だからこそ、藤真にはこのの隠された真実が信じられなかった。認めたくなかった。

「どうしてお前を繋ぎ止めておけなかったんだろうな」
「だから、私の心が翔陽から離れたみたいな言い方、しないで、私は今でも辞めたくない」

は腕を突っ張り、藤真を引き剥がす。感情の全てをにぶつけることができたのか、藤真は穏やかな顔をしていた。校内外問わずたくさんの女の子を惑わせてきた、あまりに整った顔、そしてもう2年以上毎日のように見てきて、家族のように慣れ親しんだ顔だ。そういう意味でならだって藤真が好きだ。

は手を伸ばして藤真の頬に触れた。

「キャプテン、監督、藤真、頑張って、出来るよ、絶対に勝てる」
――
「私は一足先に引退して受験に備えるから、冬、絶対に勝って、今度こそナンバーワンになって」

そして呆然としている藤真をそのままに、私物の荷物をかき集めると、無理矢理担いで部室を飛び出した。