ニケに捧ぐ恋の歌

10

「藤真、嘘をつくなよ」
「嘘じゃない」

牧はため息をつきつつ、空を見上げた。そんなことはあり得ない。

が急にいなくなってしまったから、そう感じてるだけだ。がいなくて寂しい、それだけだ」
「もちろん寂しいよ。監督をやるようになってから、いつも隣にはがいた。何でも相談して協力し合ってきた。頼れるパートナーで、翔陽には欠くべかざるメンバーだったんだ」

だから執着が生まれたのか――。牧は心の中で大きく頷いた。が隣にいることが自然になってしまって、突然それを失ったことで、あるのが当たり前だと思っていた体の一部をもがれた気分なのだろう。もがれる直前まではその存在を特別に感じたことなどなかったくせに。

「だったらどうして守ってやらなかった? のこと、なんだと思ってたんだ?」

と同じ台詞を言われた藤真は、額をフェンスに強く押し付ける。

「藤真、っていうのはな、シュートが届かないドヘタクソでもバスケットが大好きなひとりのプレイヤーで、疲れた時には寒くてもアイス食べると上機嫌になって、バスケット以外のスポーツにも興味があって、辛くても苦しくても人のせいにしたくない、自分の目標を裏切りたくない、そういう、女の子なんだよ。
そりゃあいちいちマネージャーを女の子として意識してたら女子マネなんて成立しないかもしれないけどな。だけどの前で平気で下ネタ話したりしてただろう? それはどうなんだよ。
ついでに言えばお前たちにとっては女の子ではなくても、お前のファンにとっては『藤真に1番近い女』でしかないだろ。にそんなつもりがなくても、周りはそうは思わない」

藤真が口を挟まないので牧は一気に言い切った。だが、結局のところ、言いたいのはただ一言だ。

「お前、そんなこととっくにわかってたくせに、何言ってるんだ」

藤真がそんな簡単なことも気付いていなかったとは考えにくい。の怪我の原因を知らなかったのは本当かもしれない。が必死に隠したんだろう。けれど、牧がいちいち説明してやったことの殆どは、ふたりの関係を知った後でも容易に推察できたはずだ。それだけの判断力を兼ね備えている男なのだから。

を、返してくれ。翔陽に返してくれ」
「藤真、疲れてるんじゃないのか。自分たちで追い出したんだろうが」
にいて欲しいんだよ。お前の影なんかないに、最後まで」

結局全てそこに収束される。よりにもよって相手は自分のライバルだ。牧と付き合っていたなんていう事実は全て消えてなくなればいい。そうしたら今度こそを大事にして共に最後の冬まで戦っていける。そして牧を破り、翔陽がナンバーワンになる。

「そりゃあ無理だな。お前が本当にのことを好きだったとしても、無理だ」

藤真は疲れてまともな判断力を失っているのだろうが、牧は遠慮はしない。自分と藤真のバスケットのことならともかく、のことで譲ってやれるものは何もない。もうは翔陽のマネージャーではない。

――今年の春、の生理が遅れたんだ。結局疲れとストレスで、もちろん妊娠とかはなかった。だけど、びっくりして血の気が引いてショックだったけど、ここだけの話、ちょっと嬉しいと思っちゃったんだよな。自分でも驚いたけど、つまり、オレにとってはそういう存在なんだよ」

ちょっと喜んでしまったことはには言っていない。困惑させるだけだし、それ以前にもっとリスクを考えて付き合うべきだという天からの警告だと思った。嬉しいと思っても今の自分は責任を取れるだけの状態にはない。好きなだけではどうにもならないことはたくさんある。

「まだ高校生のくせに気が早い、テンション上がってるだけで中身が伴わないと思うか?」
「さあ……どうだろうな。それはオレの知ってるじゃないみたいだ」
「そうだろうな。お前たちが目を背け続けただ。それはオレが貰ったんだよ」

あまりに具体的で生々しい話が飛び出したので、藤真は急に萎れた。牧はうまくとどめを刺した。

「翔陽の片隅で一生懸命お前らのことをサポートしてたひとりの女の子がだ。だけど誰もそんなものに見向きもしないでその辺に放り出しておいた。それをたまたま通りかかったオレが拾った。お前らはそんなことに気付かないまま1年が過ぎた。それが真実だろ。これで満足したか?」

顔は納得していないようだったが、生々しい話で毒気を抜かれた藤真は一気に鎮火した。身近なとライバルと思ってきた牧のそんな話を聞きたかったわけじゃない。だけど、ふたりは実際にそういう関係にあり、今もそれは続いている。それがわかるだけに、藤真の中で急にが遠くなっていった。

だが牧の方は、言うまいと思っていたことがつい口をついて出てきた。

のことはともかく……藤真、冬までに元のお前に戻っておけよ。こんな状態にあるお前なんか、まともに対戦する気にもならんぞ。失望させないでくれよ」

フェンスから手を離した藤真は、体を半分だけ牧の方へ向けて、にやりと笑った。

「ふん、余計なお世話だ。首を洗って待ってろ」
「あっ、冬じゃ間に合わんわ。もうほんとさっさと治せ。今年の国体混成になるぞ」
「は!?」

話の内容はともかく静かにしんみりと話していた藤真の声が裏返る。無理もない。

「どうも今年はあちこちに面白いのがたくさんいるからな。うちと陵南の監督がその気になってるらしい」
「別にうちが呼ばれると決まったわけじゃ」
「翔陽はお前と花形と――まああと長谷川くらいじゃないか」
「なんだよそれ……お前とチームメイトかよ」
「まあそういうこった。私情を挟んでくれるなよ、神奈川代表」

牧はそう言って手にしていたペットボトルを掲げると、ぽかんとしている藤真を置いてその場を後にした。藤真がずっと自分の背中を見ているのはわかっていたが、もう話すことなど何もない。きっとそれは藤真も同じだ。ずっと苦境続きの翔陽に同情する気持ちはあるけれど、それはあくまでもを間に置いての話だ。

に関係した話だったから正常な判断力を失っている藤真の駄々にも付き合ったけれど、そうでなければプレイヤーとしての彼に対する評価を改めなければならないところだ。

神奈川代表が選抜チームになって藤真が呼ばれないはずがない。その時には共闘する。冬は6度目の対決になる。その時は容赦しない。それが自分たちのあり方だ。牧はその考えをしっかりと胸に刻みつけて、の待つアパートへ帰っていった。

「紳一……!」

アパートに帰り着きドアを開けると、入ってすぐのキッチンでがしゃがみこんでいた。

……怖かったろ、もう終わったよ」
「大丈夫だったの?」

牧は靴を脱いで玄関を上がると、纏わり付くの背を押して部屋に入る。エアコンで冷やされた部屋はなんだか空気がきれいな感じがする。ひとりで帰されたは真っ青な顔をしていた。牧はぺたりとラグの上に腰を下ろすと、眉を下げてハーッと息を吐いた。

「ちょっと疲れた」
……ごめん」
「また謝ったな。お前は悪くないだろ。あいつは今ちょっとぐらついてるだけだよ」

牧はゆるりと微笑んでを引き寄せ、膝の間に置いて抱き締めた。の冷たい肌が気持ちいい。

「何か変なこと言われなかった?」
「まあそれはあいつだからな、文句言われたわけじゃない。お前への執着が取れないんだよ」
「まだ、そんなこと言ってたの」
「丸2年以上一緒に頑張ってきた、大事な仲間だと思ってたろうからな」

気力を奪われていた牧だったが、に触れているとそれが修復されていく気がして、またゆっくりと息を吐いた。いつの間にか牧にとってもは崩れたバランスを整えてくれる存在になっていたようだ。

「だけど、嫌がらせがあるということを知っていたのに、わかっていたのに、お前を守るために何かしようとはしなかった。守られるのは自分たちの方で、マネージャーを守ろうなんて思わなかった。翔陽の中ではそれでも構わないんだろうけど、オレは嫌だからな、自分の女がそんな風にされてるの」

も眉を下げて力なく微笑んだ。

――、聞いてもいいか」
「えっ、何?」
「何でオレのこと好きなんだ?」

あまりといえばあまりに唐突な質問には目を剥いた。だが、静かに両腕を伸ばすと、牧の首に巻き付けてぺたりとくっついた。の肌にも徐々に温みが戻ってきている。

「好きなところはたくさんあるよ。だけど、結局、こうしてると、気持ちが穏やかになるから」

牧はぴたりと止まり、そしての背中をぎゅうっと締め上げる。自分と同じだったから。

「私そんなに出来た人間じゃないから、ちょっとしたことでも腹は立つし苛々するし、人の悪口だって言いたくなるし、気に入らないことは投げ出したくなる。だけど、紳一と一緒にいると、そういうの、いつの間にか消えてるの。紳一と一緒にいられて幸せだな、だからそんなにカリカリしなくたっていいじゃん、て思える」

学校選びを間違えたと肩を落としていたが前向きにマネージャー業に邁進する気になったのも、牧がいたからだ。ライバル校だっていうのに、応援すると言ってくれる彼がいたからだ。そこに感謝があって、敬意があって、いつしかそれは好意に変わり、恋になり、今も続いている。

海南の選手と翔陽のマネージャーという肩書きを超えたところでふたりの心は結びついて、以来それを大事に守ってきた。海南の一部の部員は事実としてこのことを知っているけれど、それ以外の者の目に触れることもなく、真綿でくるむようにして守ってきた。

「でもこれって、紳一を好きな理由とはちょっと違うかも。これは、ええと、私が紳一と一緒にいたいと思う理由ってことなわけで、あれっ、それって好きってことでいいんだよね、あれ?」

自分で言いながら混乱してきたを抱き締めたまま、牧は音もなく吹き出した。

「ええと、とにかく、だから、出来るだけ長く一緒にいられたらなって、思ってる」
……、オレも、同じ」
「同じ?」
「今、が言ってくれたこと全部、オレも同じこと思ってる」

身を引いた牧は、の頬に触れて微笑む。藤真と話をしていたことが遠い記憶のように薄らいでいる。

「ありがとう、オレもずっと一緒にいたい」
「えっ、ちょ、なにそれ、プロポーズみたいじゃん」
「それでもいいけど」
「だめだめ、そんなの。ちゃんと指輪用意してからにしてよ!」
「現金なやつだな、それはあと4年は待て」
「長いな。婚約指輪だっていいんですよ、紳一くん」
「それも待ちなさい。お金ないから」

一転、ふたりは抱き合ったまま笑い転げた。どこまで本気でどこまで冗談か、それは曖昧でも構わない。そんな話を気楽に出来る関係でいたい。それがずっと続けばいいと願っている。

こうしては、翔陽男子バスケット部から完全に切り離された。心も体も。

国体の神奈川代表が選抜チームになったのは実に20年振りということだった。海南が神奈川の覇権を握っている間は、これは覆らないとされてきた。自身も神奈川の選手だった海南と陵南の監督ふたりもずっとそう思っていた。だが、今年の神奈川は面白い人材の宝庫だ。彼らを思う様使ってみたい。

「っていうあのふたりの心のうちが読めるようだな」
「使ってみたいのはいいけど、収集つくのかこれ」
「キャプテンが頑張るしかないだろ」
「キャプテンは試合を頑張るのでメンバーの面倒は副キャプテン頑張れ」
「副キャプテンて誰だよ」

海南の体育館でウンコ座りになりながらブツクサ文句を言っているのは、牧、藤真、そして湘北の赤木である。選抜メンバー中、本年度の3年主将はこの3人なので、なんとなくまとめ役にされてしまっている。面白い人材は大変結構だが、同時に少々扱いづらいのが多いので3人共やる気はない。

藤真が立ち直っていなかったらどうするかと思っていた牧だが、杞憂に終わった。藤真は牧の知る限り元通り、読み通り花形と長谷川の3人でやって来たが、そのどちらも顔色を変えたりはしなかった。というかそれ以前に神奈川代表の主将が牧である。それを相手に突っ張って不機嫌になってもしょうがない。

「だいたい面倒くさいのはお前らのとこの1年じゃないか。ちゃんと躾けろよ」
「うちのは普段はそんなにうるさくないんだがな……湘北のがいるとああなる」
「勘弁してくれ。オレはもう本来は引退した身なんだから」

今も海南と湘北の1年生が騒いでいて、それを他の代表たちが遠巻きに見ている。誰も彼も、あれほっといていいのか、という顔をしているが、口も手も出さない。自分は関わりたくない。面倒だ。

だが、今日この場は海南の体育館であり、国体にも十数年出場し続けている海南主導になるのは仕方ないので、新参者気分の赤木は盛大にため息をつくと立ち上がって鉄拳制裁を加えに行った。海南の1年に関しては牧から制裁許可をもらっている。

「ある程度のことは海南の部員で構わないけど……なんか華がないよな」
「必要ないだろそんなもの」
「モチベーションに大きく関わるだろうが。なあ、呼んでくれよ」
「断る。お前まだ引きずってんのか」
「そういうわけじゃないんだけど、あいつがいなくなったら思いの外部内がむさ苦しくて辟易してる」
「ざまあねえな」

普通に突っ込んだ牧に、藤真はくつくつと声を殺して笑った。

「けど、夏休み終わったし、こっちも忙しいし、オレもそんなに会ってないぞ」
「オレもクラス違うからほとんど見かけないよ」
「てか退部したんだから、もう嫌がらせされてないだろうな」
「まあ、たぶん」
「散々世話になったんだろうが。少しくらい助けてやれよ」
「えっ、なんだよそれ」

下を向いてくつくつしていた藤真は、勢いよく顔を上げて目を丸くしている。牧もつられてぎょっとする。

「なんだよってなんだよ」
「だって、近寄られたくないだろ」
「いや別に」
「はあ?」
「てかなんでそんな風に思ってたんだよ」
「オレのものだとか言ってたじゃないか」
「オレのものだけど」
……ちょっと待て、わけわからん」

ウンコ座りのまま藤真は手のひらを突き出し、さらに髪をかき回した。

「お前はのことになると洞察力が鈍るな。近寄る近寄らない以前に、お前の隣でマネージャーやってる間も普通に付き合ってたんだから、今更そんなことでグダグダ言ってどうするよ」
「まあそうなんだけど……なんとなく顔を合わせづらい」
「そこは花形の出番じゃないのか」
「お前うちの事情よくわかってんな」
「国体が選抜になるって知ってから聞いたんだ。前は知らなかったぞ」

退部してからは翔陽のことをよく喋るようになった。もちろん他愛もない話題ばかりだが、今回に限ってはそれが役に立っている。はさすがに藤真たちの選手としての特徴をよくわかっていて、牧にきちんと説明してくれた。

「何も悪く言うようなことはないからな」
「わかってるよ。あいつはそんなやつじゃない。だから嫌がらせされたんだ」
……なるほどな」
「悪かったと思ってるよ。だけど、謝るようなことでもない気がして」
「そりゃそうだ。本人も謝って欲しいなんて思ってないぞ、たぶん」

そんなことしてる暇があったら走って来いと言い出すのがマネージャーとしてのだ。休憩終わりの号令がかかったので、ふたりは立ち上がって体を伸ばした。休憩中もうるさい1年を監視していた赤木はぐったりしている。

「わかったよ、翔陽にいる間のことは任せろ」
「おう、神奈川ナンバーワンガードの方は任せろ」
「いや、そっちもオレがやる」
「荷が重いだろう、休んでろ」
「やなこった」

背番号だけで言えば牧は4番、藤真は9番、間に4人も挟む形になるけれど、それはこの夏の結果が反映されているからだ。県予選の決勝にすら届かなかった藤真だが、国体の試合ではその能力を存分に発揮することができた。これでのことも全て振り切れれば言うことはない。