ニケに捧ぐ恋の歌

04

幼稚園と寺と神社と公園が横並びになっていて、その公園の端っこに高いフェンスで囲まれたスペースがくっついている。固い地面にゴールポストが1基刺さっていて、公園に面した入り口には「バスケットコート」と書かれたぼろぼろの木のプレートが下がっていた。

「近所に親戚がいるから寮じゃなくて部屋を借りることにしたんだけど、これを見つけてさ」
「コートじゃないというツッコミはしないでおくね」
「滅多に人がいなくて便利なんだよ」
「確かに……これ、夜はちょっと怖いね」

公園が小さいので、隣の神社の敷地がよく見える。その上、神社の背後に広がる墓地までよく見える。

「ほら、久しぶりのボール」
「うわー、どうしよう、なんかちょっと怖いな」
「ヘイ、パス」
「きゃー! やばい、牧くん相手にパスとか意味わかんない!」

控えめに声を上げながらははしゃぐ。ふたりとも制服のままで靴はローファーだったけれど、遊びなのだから構わない。から飛んできたボールを受け取った牧は軽くドリブルをして誘導し、ゴールポストの近くでまたパスした。受け取ったは、にやにやしながらボールを持ち上げ、シュートフォームに入る。

「おっ」

牧はつい声を上げた。意外にものフォームは整っていて、基礎がきちんと出来ている体の形だった。だが、そのきれいなフォームから放たれたボールはゴールポストに届かず、ボテッと落ちた。

「フォーム、ずいぶんきれいじゃないか」
「えへへ、ありがと」
「それでドヘタクソとかずいぶん自分に厳しいんだな」
「いやいや、シュート、届かなかったでしょ」
「まあそれはほら、2年も離れてたわけだし」
「んーん。ずっとああなの」
「はい?」

は楽しそうに笑顔になりながら腰に手を当てている。

「いくらやっても届かないの。レイアップしか出来ない」
「そ、そうか、でもフォームはすごくいいじゃないか」
「どうも筋肉がつかない体質らしくてさ。脂肪はつくくせに、ふざけてるよね」
「筋トレか。やり方が間違ってたとか?」

ボールを投げ合いながら、はまた首を振った。

「ちゃんと先生たちに指導してもらいながら筋トレしてササミ生活してたんだよ」
「ササミ……効果なかったのか」
「うん、逆に代謝が上がって痩せた」

からのパスを受けた牧は盛大に吹き出した。筋力を付けたくて運動してタンパク質も摂っていたのにそれが裏目に出たのか。牧はツボに入ってしまい、自分でも珍しいなと思うほどに大笑いした。

「ウケて頂けて光栄です」
「ご、ごめん、ほんとごめん」
「だけど結局、そんな体質かもしれない、そしたら怪我をしやすいかもとは暗に言われてたんだよね」

つまり、向いていないと宣告を受けたわけだ。は手の中で転がしていたボールをドリブルさせてゴールポストの近くで飛び上がり、今度はちゃんとネットの中に押し込んだ。2年間プレイから離れていても、レイアップくらいなら体が覚えていたらしい。スカートが翻り、牧は慌てて目を逸らす。

「ねえ、スリーポイントとか、ダンクってどんな感じ?」
「どんな、って――
「決まった時って、同じ気持ち?」
「うーん、フリースローで決まった時の方が、よしっ、て感じはするけど」

フリースローなんて一度も決まったことないと言っては笑った。牧は改めての全身をちらりと見る。ガリガリに痩せているわけではないし、かと言って運動に困るほど太ってもいない。筋力がないと言われれば確かに肩や背中が華奢なような気はするが、小柄というほど小さくもない。中途半端だったのか。

身長が高ければ得だけれどそれが全てではない。しかし、筋力がないのは致命的だ。さっき打ったシュートだってそんなに遠くなかった。あれで届かなかったら、ヘタするとロングパスすら打てない。余程フットワークが機敏でなければ補えないだろうし、そんなものを身につけたければ、結局足にも筋力がいる。

本人が言うように、試合に勝つことなど考えていないような高校でなければ使い物にならなかっただろう。

「遊びとは言え、私牧くんと1on1してることになるわけだよね。いやー自慢したいー!」
「自慢にならないだろこんなこと」
「それは無自覚なの天然なの」

1on1だというので、牧はボールを奪いに行く。は懸命にかわしているが、いつでも好きな時にボールを取れそうだ。それよりは体格差があるので、吹っ飛ばしてしまわないように気をつける方が難しい。その上うっかりするとべたりとくっついてしまいそうで、距離感が掴みづらい。

「ああもう、藤真が羨ましい。あんなに上手で、こうやって何度も牧くんと戦って、誰からも好かれてる」

少し息の上がったは届かないジャンプシュートを放ち、落ちていくボールとともにそんなことを言い出した。笑顔はもうない。の心からの本音だったに違いない。

「私、藤真に嫉妬してるんだね。だから余計にファンの子たちに苛々するんだ」
「嫉妬?」
「男に生まれてあんなプレイヤーになりたかった。それで試合で牧くんと対戦したかった」

牧がパスしたボールを受け取ったは、また届かないシュートを打つと、着地と同時に涙をこぼした。それに気付いたは、へらへらと笑いながら慌てて後ろを向き、涙を拭う。

「ごめん、つい。ちょっと待ってて、なんか出てきた」

だが、牧はすたすたとの背後まで歩いて行くと、断りも入れずに後ろから抱き締めた。

「ふぁっ!? ま、牧くん」
「見ないから、我慢しなくていいよ」
「は、い……?」
「オレしかいないから、誰も見てないから」

両腕に抱き締めたの体は、確かに柔らかかった。本当に筋肉がつかない体質なんだろう。肩と背中はくにゃりと曲がってしまいそうだ。牧はが黙っているので、少し熱い後頭部に頬を寄せた。その瞬間は嗚咽を漏らして泣き出した。抱き締めてくれる牧の腕にしがみついて泣いた。

「ほんとに、ごめん、こんなこと、だけど、ありがとう」

ひとしきり泣いたはそう言って身を捩り、緩んだ牧の腕の中で振り返った。そして、黙って見下ろしていた牧にするりと抱きついた。ほんの1秒ほど遅れて、牧もまた抱き締めた。今度はぴったりと体を寄せて、両腕の中にを抱え込んだ。も牧の胸に頬をすり寄せている。

……牧くん、彼女いないの?」
「そっちこそ、彼氏いないのか」
「そんな暇、ないよね」
「それもそうだな」

それきり黙ってしまったふたりは、しばらく抱き合ったまま佇んでいた。牧は今度こそ目を閉じてもの顔がはっきりと思い出せることに気付いて、こっそりと微笑んだ。無自覚か天然か、言葉で意識したことはなかった。だけど今、言葉にしてみたら簡単なことだった。

「ごめん、好きなんだけど」
「ごめん、私も」
「関係、ないよな」
「ないよ、何も関係ない」

海南と翔陽でも、同じバスケット部でも、何度も戦ってきたライバル関係にあっても。

「夏休みになったら、海に連れてって」
「ああ、インターハイ帰ってきたら行こう」
「ずっと一緒にいて」
「そうだな、そうしよう」

いつの間にか薄曇りの空は暮れて、灰色になり始めていた。湿気を含んだ生暖かい風が吹き抜け、の髪を揺らす。その髪を撫でた牧の脳裏に一瞬だけ藤真や花形たち翔陽の選手たちの顔がよぎった。だが、いつしかそれも消えて、忘れてしまった。

そんなものが自分との間に入り込む隙間はない。翔陽のマネージャーだったから好きになったわけじゃない、翔陽でひとり戦っていたから好きになったわけでもない。学校や部活など関係ない、ただひとりの人として好きだと思えたから。それはきっとも同じだ。

数分後、雲行きが怪しくなってきたので、ふたりはやっと離れた。はまた牧を見上げて口を開く。

「メアドとか、交換しないままだったね」
「そういうつもりなかったもんな」
「声が聞きたかったり会いたかったりしたら、連絡してもいい?」

牧はその言葉がやけにくすぐったくて、つい笑顔になりながら頷いた。そうは言うけれど、きっとは滅多なことでは会いたいなどとは言ってこないだろう。藤真に嫉妬していても牧と付き合っていても、彼女にとって今バスケットと関わるということは、翔陽のマネージャーである以外には何もない。それを捨てるようなことは決してしないだろう。

「オレも声が聞きたくなったら電話する」
「待ってる」

連絡先を交換し合ったところで、ひやりとした風が吹いてきた。未だ明けきらぬ梅雨の雨が戻ってくるらしい。牧はボールをしまい、の手を取って繋ぐと、バス停に向かって歩き出す。いつか並んで歩いた道をふたりは寄り添い手を繋いで歩いて行く。突然の出会いから1年が過ぎていた。

期末を無事に終え、インターハイに向かってハードな練習に明け暮れていた牧とは、電話で話したりメッセージのやり取りをしたりして少しずつ距離を縮めていた。その間に名前で呼び合うようにもなり、電話はともかく、メールやメッセージ等であれば毎日毎晩送り合っていた。

部活の話は一切しなかった。厳しい練習を続けていることなど聞かなくてもわかっていることだし、神奈川代表同士、1日や2日目で当たるということもないだろうし、また少なくとも海南にとって翔陽の動向は今のところそれほど重要ではなかった。対策を練るべき相手は他にたくさんいる。

梅雨が開けると、じわじわと気温が上昇して、すっかり夏めいてきていた。

「夏休み、やっぱりどこもお盆の頃になるんだね」
「少しずらせばいいのにな。家は平気なのか」
「平気ー。それこそずらして取ってるみたいで、田舎行くみたいだけど、その頃私は部活」

ふたりは部活から帰ってきてリラックスした状態でこんな風にのんびりと話すことが増えていた。もうすぐ夏休み、しかしどちらもすぐに合宿に行き、そこから帰ったらまたすぐにインターハイである。それが終わると、ハードな練習で知られる強豪校にも束の間の休みが来る。ふたりは海に行く約束をしていた。

「紳一は帰省しなくていいの?」
「わざわざ帰省しなきゃならないほど遠くないし、休みもそんなに長くないしなあ」

牧の場合、親戚の家が近いので、両親は好きな時に息子の顔を見にやって来ては、親戚宅に泊まって帰る。もしくはそのまま帰る。試合を観戦したい時などはまさにこのパターンだ。なのでわずか5日の夏休みの間に帰って来いとは言われていない。去年も帰らなかった。

「帰ったのは年末年始くらいか。それも用がなかったから帰っただけだし」
「じゃあ今年は一緒にカウントダウン行かれたりする?」
「いいよ。クリスマスも24日なら空いてる」
「ほんとに!?」

まだ7月だが、は歓声を上げた。アパートの窓を開け、ベランダで蚊取り線香を焚きながらちょっと遅目の夕涼みをしつつ、牧もゆるりと微笑む。練習で疲れていても、こうしてと話しながら体を休めておくと、眠りの質がいいような気がしている。

の声で緩んだ体に眠気が襲いかかってくる。本人がすぐ隣にいたら逆に目が覚めるだろうが、電話越しの静かな声は深い眠りを誘う優しい魔法のようだ。牧は今日はもう何も用がないことを確認すると、正直に眠くなったと言う。生活環境がほぼ同じなので、こういうところは遠慮がなくていい。

「海南て終業式いつ?」
「ええと、20。合宿は22から」
「あ、同じだ。了解」

私立同士だが、どちらも割と平均的な高校である。長期休暇などもあまり差がない。

「じゃあな。、好きだよ」
「私も好きだよー! おやすみ、紳一」

そしていつもこうして電話を切る。疲れもストレスも解けて緩んで、好きな人の声とともに眠りにつく。期末の結果も問題がなかったし、インターハイは迫っているし、牧とは何もかもが順調で幸せだった。

だが、それから数日後の終業式の日のこと。牧が部室で忘れ物がないかを確認していると、からメッセージが届いた。そこには何の前置きもなく、一言だけ「会いたい」とあった。嫌な予感がした。

普段ならはあまり内容のないメッセージは送ってこない。意味の分からないメッセージが来ることも稀。それなのに、ただ一言だけだなんて、一体何があったんだろう。牧はロッカーの確認を終えると、足早に部室を出た。だが、そこで監督と主将につかまってしまった。

家族に連絡を取らなきゃいけないので、と言い添え、牧は慌ててメッセージを返す。まだ学校だけど、会えるから待っててくれとだけ送信して、ポケットに携帯を突っ込んだ。のことは心配だが、何も死にかけているわけではない。暗黙の了解として互いの部活の邪魔はしないことになっているから、は後回しだ。

当然もそれはわかっているので、また「待ってる」とだけ届いたメッセージを最後に沈黙した。

監督と主将との話自体は30分ほどで終わった。だが、それを終えて学校から出ようとしたら今度は本当に母親につかまった。合宿の準備は大丈夫なのか、インターハイの方も大丈夫なのか、親戚に迷惑をかけないようにしなさいと言う。そして極めつけが本日着で親戚宅に荷物を送ってあるから取りに行けと言う。

明日は一応1日休みなのだし、明日じゃダメなのかと言い返したいところだが、逆に、なんで今日はダメなのか部活はないはずだろうと言われてしまうと困る。特に監視が厳しいわけではないのだが、高校生のひとり暮らし、牧の両親は息子が悪い遊びを覚えやしないかと心配している。

悪い遊びを覚える暇がないというのが実情だが、後ろめたいことがないのに疑われるのも面倒くさい。牧は電話を切り、時間を確認すると走りだした。早いところ親戚の家に行って用を済ませないと、を待たせるばかりだ。しかも時間が遅くなると夕飯を食べていけと引き止められる。それは困る。

牧は出来るだけ急いで帰り、親戚の家に行って荷物を受け取り、これから後輩と合宿準備の買い出しがあるのだと言って帰ろうとした。だが、おやつくらい食べていけだの、買い出しが終わったらまた戻って来いだのと引き止められ、結局1時間も足止めを食った。しかも荷物が思った以上に重い。

なんとか荷物を抱えてアパートに戻ると、もう16時を過ぎていた。気分的に疲れていたが、もう体が空いたことをに連絡した。だが今度はの方が何かで足止めを食っているらしい。15分かかって届いた返信には「少し遅くなりそう、だけど会いたい」とあった。

ミッションはなんとかクリアしたし、牧はいつでもいいからと返してベッドにごろりと横になった。少し体を横たえるだけのつもりだったのだが、気付くと牧はぐっすり寝ていて、からのメッセージで目が覚めた。時間は19時近くなっていて、窓の外は暗くなり始めていた。

自宅方面からバスに乗ったというので、牧はだるい体を起こしてアパートを出た。もう乗車しているのであれば、20分とかからずについてしまう。のんびり歩けばバス停で少し待つぐらいに到着できるはずだ。

夏の日に焼かれたアスファルトがまだ熱を放射していて、風も熱い。行き過ぎる車が熱気をまき散らし、それだけで肌に汗がにじむ。のんびり歩いた牧がバス停に到着してからものの数分で、の乗ったバスがやって来た。信号に引っかかったので、バス停より少し手前で停車したバスからが転がり出てくる。

牧が手を上げると、は走りだした。途中でバスに追い抜かれたは牧に飛びついてぎゅっと締め上げる。初めて見るの私服姿だった。牧は自分も私服だということも忘れての体を抱き締める。

「どうした、また何かあったのか」
「うん。だけどその話したいわけじゃない。なんかもう、頭おかしくなりそうだったから」
「話しても話さなくてもどっちでもいいよ。でも体は無事なんだよな?」

牧の腕の中で、は何度も頷いた。牧の胸に顔を埋めながら、は喘ぐように言う。

「去年と同じ。まったく同じだった。またジャージが切られて、とうとう親にバレた」

それで遅かったのか――牧は納得しての髪を撫でる。

「ロッカー、鍵かけてたのに、それも壊されて、またいじめかって騒がれて、だけど今更藤真のせいだなんて言いたくないし、もしかしたらもう藤真だけのせいじゃないかもしれないし、腹立つけど藤真を悪者にして済ませたくなかった。だって今年は去年よりずっとずっと強くて、みんな頑張ってる、すごい頑張ってる」

だからは学校や親に必死に弁解し頭を下げ、部員たちに言わないでくれと懇願してきたのだろう。牧にはそれが手に取るようにわかった。そう、の言うように部員たちに非はない。不幸なことに女子人気があるというだけで、彼らは何もしていない。

だが、はまた傷付けられたのだ。それも、手ひどく。

「頭来て苛々して、誰かにぶつけたいとかじゃなくて、だけどそのままにしておけなくて、だから、ごめん」

牧は頭を撫でていた手を下ろし、また両腕でぎゅっと抱き締めた。の髪の甘い香りが漂う。

、好きだよ。、誰よりも好きだからな」

その言葉にが顔を上げる。何か言おうとして、だけど言葉にならなくて震えていた唇に、牧は静かに唇を重ねた。夏の夜風は生ぬるいまま足元から立ち上り、の髪を翻弄する。牧は唇を離すと、その髪に指を滑り込ませてまた強く抱き締めた。