ニケに捧ぐ恋の歌

02

牧が海南1年生でのインターハイシーズン、前年同様、神奈川予選では全勝優勝、1位抜け。最も競った試合だった対翔陽戦でも20点近く差が開いていた。しかし今年の決勝リーグにおいてスタメンで出た1年生は牧と藤真しかおらず、ふたりは神奈川の新時代のシンボルとしてその名を知られることになった。

予選の際にはもちろんもいたし、お互い気付いてはいたけれど、やあ久しぶりなんていう言葉をかわす場ではないので、ちらりと目が合っただけで他には何もなく、予選が終わると海南も翔陽もインターハイへ向けてますます練習に熱が入っていた。

一応どちらも普通科しかない高校なので、期末テストの時に練習が休みになると、牧は妙なデジャヴに襲われて、ついお好みたい焼きを買ってしまったりもしたのだが、に遭遇することはなかった。予選の時にはもう頬を覆うキズテープはなかったし、あんなことはあれっきりで終わったというならそれでいい。

負けるつもりはなかったけれど、今年の翔陽は強かった。いい対戦相手だった。藤真という見栄えのするシンボルについて困ることはあろうが、先輩たちに言わせても翔陽は相変わらずいいチームだったらしい。まだ1年生だから同学年同士でも上手く咬み合わない時もあるが、時間が経てば嫌でも結束が生まれる。

ちゃん、頑張れよ。ちょっと上から目線だな、と思いつつ、牧はそう心の中で呟いた。

一方、翔陽でのはまさに孤軍奮闘、たったひとりで戦っていた。今年も無事にインターハイに出場できることになったのはいいが、予選で増えた一部の藤真ファンが学校にまで押しかけてくるようになり、まだ要領よくあしらえない藤真がたびたび不機嫌になっては1年生の間がギスギスしがちになっていた。

また、インターハイ出場を受けて、3年生の女子マネージャーが1学期いっぱいで引退することになった。夏休みに入るとすぐに合宿があり、そこから帰った直後にインターハイである。ただし、合宿もインターハイも、普段の練習ほどマネージャーの仕事がないので、3年生マネージャーは受験のために早々に引退すると決めたらしい。

「平気平気、私もが入ってくるまでひとりだったけど、合宿とインターハイは忙しくないよ」
「なんか合宿って女子マネが働かされるってイメージがありました」
「昔はそういうこともあったと思うけど、翔陽はほら、合宿所いいところだから」

彼女によれば、周囲を山に囲まれた完全なるクローズド環境ではあるものの、きれいで設備もよく、食事はちゃんと用意してもらえるし、さらに女子の場合はバスルームのある個室が与えられるのだという。普段は企業の研修などに使われることが多いそうだから、往年のスポ根合宿とは程遠いという話だ。

「インターハイなんかもっと楽だよ。地元で試合の方がよっぽど忙しいし」
「そういうもんですか」
「だってえ、試合終わったらホテル帰るでしょ。もうほとんどやることないじゃない」

このぼんやりした先輩女子マネージャーは、これでも中学時代に県大会で3位に入ったほどのチームの一員だった。だが、その最後の試合で怪我をし、そこで彼女のプレイヤーとしてのバスケット人生は終わった。翔陽で3年間マネージャーを務めた彼女は、この夏から受験生になる。

確かに先輩マネージャーの言うように、合宿もインターハイも個人としては何ら問題はなかった。しかし、終業式の日には体育館履きが消え、迂闊なことに施錠していなかったロッカーからは細切りにされたジャージとTシャツが出てきた。しかもこれが監督にバレた。

合宿、インターハイと、両方合わせれば最長で2週間近く藤真と寝食を共にすることになる。それが面白くなかったんだろうか。けれどそんなこと馬鹿正直に監督に漏らせない。は高速で頭をフル回転させて監督を説得し、退部だけは勘弁して下さいと頭を下げた。

このところ体調があまりよろしくない監督は探るような目でを気遣いつつ、これが部内にまで持ち込まれることがあってはならないんだと釘を差した上で、ここだけの話にすると約束してくれた。

まったく油断していた。春にキズテープだらけで登校してきたを見て、まだ3年目である担任がいじめを疑ってきた。そんな事実はない、部活で疲れていたから自転車で転んだのだとが答えても中々信用せず、いじめではないのかもしれないけれどと前置きをした上でHRでの怪我を話題にしてしまった。

そんなわけで、わかりやすい場所に怪我をさせたりすると逆にに同情が集まるのだと知らしめる結果になってしまった。その上、が藤真に心ときめかせる女子の恨みを買っていることなど知る由もない他の部員が気を遣っての荷物を持ってやったりしたものだから、一部の藤真ファンの憎しみは募る一方だった。

彼女たちは見えないところでへ嫌がらせをする機会を伺っていた。けれど、5月から6月は予選で忙しく、公欠で不在になることもしばしば、その上校外にまで飛び火した藤真人気のせいでばかり構っていられなかった。それが落ち着いた7月末、とどめに合宿の話を耳にしてハサミが出てきたのだろう。

そんな騒ぎに比べたら、合宿もインターハイも天国だった。合宿など朝から晩までバスケット漬けで、疲れもするけれど、ある意味では幸せだった。最終日には先輩が肝試しをすると言い出し、なぜか藤真とペアを組まされたは、ビビって涙目の藤真を置いて指定の区間を往復、最速タイムを叩き出し、一躍部内で一番強い人間として認識されることになった。

しかもその夜、肝試しを見ていた監督から、何があるのかは追求しないし、が胆力のある人間だとよくわかったから、よくよく気を付けてマネージャーを全うしてもらいたいと言ってきた。藤真のファンさえいなかったら、の翔陽女子マネージャーライフはこんなにも充実したものになるはずだったのだ。

以来、校内外問わず女子の目がないところでは、は藤真に厳しく接するようになった。その内に、が藤真ファンの嫉妬を買ってしまっていることについては花形が勘付き、1年の中でも特に熱心に練習するタイプの部員の間ではよく知られることとなった。

本人が全力で隠しているため、もちろん具体的に何をされているのかは知らないし、春先の怪我がそれによるものだとも彼らは気付いていない。同世代のエースは説得力のある小綺麗な顔をしているし、僻まれるのもまあわからないでもない――といったところだ。

その結果、が藤真に八つ当りしても誰も助けてやらないという暗黙のルールが出来た。ひとりとばっちりで迷惑を被っているのは藤真だが、彼の場合、練習を邪魔されない限りは細かいことを気にしないタイプなので、の八つ当たりには大人しく付き合ってあげていた。というか若干楽しそうでもあった。

この年のインターハイ、海南は4位、翔陽は準々決勝で敗退、ベスト16に終わった。

「なんか新学期始まったら急に大人しくなったな」
「そりゃあ人の目があるからね。またいたずらされても困るしね」
「藤真の小遣いから巻き上げればいいのに」
「藤真も少し出そうかって言ってくれたけど、なんかそれ違くない?」

9月、学校が始まって再度藤真ファンの監視にさらされるようになったは、淡々と部活に勤しんでいる。それに目ざとく気付いたのはまた花形だった。練習が終わり、が後片付けをしていると、探るような目で声をかけてきた。

ジャージが切り刻まれたことに関しては、小物が隠されたり捨てられたりする程度と誤魔化してある。

「それに、そういう心遣いは本当に有難いんだけど、それが一番迷惑なんだ」
……ああ、なるほど」
「そういう気持ちを持ってもらえるなら、出来るだけ私とは関わらないで欲しいんだよね」
「言っておこうか?」
「言ってある」

基本的には明るく快活で男気もあり、バスケットに対しては少々熱くなりやすいところもある藤真は、にそう言われて悲しそうな顔をした。だが、の理屈はよくわかる。の方も、3年間ここで頑張りたいんだと念を押した上で、頭を下げた。藤真はそれを押しとどめて、一緒に3年間頑張ろうと言ってくれた。

「本当にいいやつなんだよね。あれで不細工だったら言うことないのに」
「そんなこと言い出すのお前くらいなもんだろうな」

しかしはこの花形に対してもいつか同じことを言わなければならない日が来るだろうなと考えていた。少々背が高すぎるが、彼は文武両道、藤真ほど愛想は良くないが紳士的、同じ学年の女子の間ではやはり人気があるらしい。本人にまだ自覚はないだろうが、それも時間の問題だ。

「ていうかさ、私知らなかったんだけど、国体って県内からいい選手が集められるんじゃないんだね」
「いや、そういうところもあるよ。だけどほら、例えば秋田なら山王だけで充分だろ」
「神奈川もそれと同じだと」
「という判断なんじゃないか」
「面白くないなー! 県代表なんだから私立1校だけで行くなっての」

てっきり秋の国体は藤真あたりが代表に選ばれて、関係者待遇で観戦できるものだと思っていたはあてが外れて不貞腐れている。何しろインターハイでも敗退した時点で帰ることになっていて、準決勝以降の試合は見られなかった。見たかったのに。山王と愛和が見たかったのに!

「だけど、そう考えると、海南てのは公式試合がものすごく多いんだよな」
「そっか、予選がシードなのは同じだけど、夏秋冬全部出たらうちの倍以上かあ」
「ちゃんと学校生活送れてるのか怪しいもんだな」

そう言って鼻で笑う花形の横で、は牧のことを思い出した。君たちと違って、ちゃんとテスト前には練習が休みになって、勉強してるみたいだよ。はそう言いたいのを我慢して、こっそり頬を緩めた。ただしこの花形の場合は勉強得意、毎日部活漬けでも定期考査ではだいたい上位に入るので、鼻で笑っても許される。

「ていうかいつもひとりで帰ってるだろお前。大丈夫なのか」
「だからさっき言ったでしょ、そういう有難い気遣いが私を苦しめるのだよ花形くん」
「そうだけど……藤真じゃなかったらいいんじゃないのか」
「だめだめ、男に優しくされてたらアウトなの」
「なんなんだ女って」
「まったくだよ」

そうしては部員たちの誰にも気を使わせないように、時には早めに時には遅めに学校を出て、ひとりでコソコソと帰る。遠征などで遅くなってしまった時は監督が送って行ってくれることもあるが、監督自身も自宅が近くないので申し訳ないは、出来るだけ安全なルートをいつも模索している。

特に最近、趣味で女子高生の制服を着ていた男性が襲われて重症を負うという笑うに笑えない事件が地元で発生したは、自分の容姿がどうであれ暗い夜道を制服生足では歩くまいと固く決めている。

自分のバスケット能力に見切りをつけ、翔陽という強豪校でマネージャーをやろうと決めたのは中学3年生の時。正直に言えば、その時のには「かっこいい彼氏も欲しいな」という願望があった。同じバスケット部だったらいいな、素敵な人がいるといいな、そう思っていた。

翔陽に入学し、バスケット部に入部し、最初の1週間はまだそんな気持ちがあった。藤真もかっこいいなと思った。けれど、やはり1番の目的は彼氏ではないし、まずは全部員ときちんとコミュニケートできなければと思っている間に、藤真ファンの襲撃を受けた。

以来、は高校生の間に彼氏を手に入れるという淡い期待を放棄した。例えそれが誰であれ、がバスケット部にいて藤真の近くにいる以上は、いつまででも嫉妬の対象にされるに違いない。彼氏欲しさに高校バスケットを諦めるのは嫌だった。恋なら高校生でなくとも出来る。はそう決めていた。

冬の一次予選をすいすいと突破した海南は日増しに下がっていく気温の中でも汗だくになって練習に励んでいた。閉めきっていると熱気で空気が薄く感じられるので、たまに体育館のドアを開けて換気をする必要があるほどだ。二次予選に進出したラインナップを見る限り、夏に続いて冬も翔陽とトップ争いをすることになりそうだと先輩たちは踏んでいる。

翔陽と聞くと、牧はつい条件反射でも思い出す。やっぱり顔は思い出せない。5月の薄曇りの空の色と、の頬のキズテープだけがくっきりと記憶に刻まれていて、それはどこか気持ちを緩めるような、悪く言えば気力を奪ってだらけさせるような、そんな記憶だった。

インターハイ予選の時も見かけたし、インターハイの試合でもちらりと見かけた。試合の最中のことだし、さすがにインターハイともなれば追いかけてくるファンも少なくて、彼女は真剣に試合に臨んでいるように見えた。怪我もしていないようだし、ちゃんと部活出来てるんだなと安心した。

自分には何もしてやれることはないけれど、対戦校として真剣勝負に応じることがを応援することにもなるだろう。牧はそんな風に考えていた。強い意志を持ち、醜い嫉妬にも屈しない彼女の高校生活が充実したものであるように――そう祈る気持ちを込めて。

そして冬の予選は前年と同じく海南が勝利、本戦への切符を手に入れた。またちらりと見かけたは、負けた悔しさで厳しい顔をしていた。スコアブックを胸に抱いて唇を引き結び、少し俯いていた。頑張れ、また戦おうぜ、待ってるから。牧はまた心の中で語りかけた。

が、冬休みに突入して3日目、牧は部活帰りの駅前でまたに遭遇した。

「うわ、久しぶり!」
「おお、元気だったか。頑張ってるみたいじゃないか」

今日は整形外科ではなかった。春に一緒に入ったジェラートショップからが出てきたところに、牧が通りかかった。は手にジェラートショップのテイクアウトボックスをぶら下げていた。

「アイス買いに来たのか」
「あの後何度か病院に来てさ、その時買って帰ったら家族が気に入っちゃって。たまに買いに来るんだ」
「こんな寒いのにアイスとか、女の子は寒がるくせにアイスだけは平気なんだよな」
「まーね。でもうちの場合、アイス気に入っちゃったのはお父さんだけど」

がテイクアウトボックスを掲げてにやりと笑うので、牧もつい笑った。

「顔、跡が残らなくてよかったな。予選の時にはよくなってたみたいだったから、安心してたんだ」
「ありがとね。あの後担任がいじめを疑って騒いだもんだから、物理攻撃が減ってさ」
……物理攻撃は減っても?」
「ま、色々続いてるよ。だけど、一応辞めさせられることはなくなったし、いいんだこれで」

なんとなく並んで歩き出したは、本当に迷いのない顔をしていた。牧はそれをちらちらと見下ろしつつ、まだ嫉妬による嫌がらせに遭っているのかとがっかりした。どうしてこういう人種はいなくならないのだろう。そんなことをしても何も生みはしないし、例えばこの件で言えば、藤真が喜ぶわけがないのに。

「てかさー、牧くんほんとなんなん。強すぎ。腹立つわー」
「ははは、君のことは応援してるけど、負けてやるわけにはいかないからな」
「くやしー! 絶対いつか負かしてやるから!」
「まあもう練習試合ってことにはならないだろうから、来年の予選だな。待ってるよ」

余裕綽々でそんなことを言うものだから、はニヤニヤ笑いながら牧の腕をグーで突付いた。

……春にここで会った時はさ、翔陽なんか受験しなきゃよかったって思ってたんだよね。牧くんに会って、海南行けばよかったとか思ったりもしたんだけど、でもよく考えたら海南て女子マネいないし、そしたらもっと後悔してただろうし、今は翔陽でよかったかなって思ってるんだ」

は本当に強い。どれだけ理不尽な目に遭っているかわかったものじゃないが、それでも彼女の意欲は本物で、嫉妬に駆られた女の子たちから受ける嫌がらせがあっても、マネージャーとしてでもバスケットに関われる方が大事だ。牧は改めて彼女を尊敬した。

ありきたりな言葉しか浮かんでこない。だけど、それが本心だ。

「強いな、ほんとに。すごいよ。オレももっと強くならないとな」
「それ以上強くならなくたっていいよ」
「まだまだ。結局夏も冬も日本一にはなれなかったんだ。本当にまだまだだよ」
「日本一とか言ってる。くやしー!」

悔しいと言いつつなんだか楽しそうなの笑顔に、牧は少しだけ胸が痛んだ。嫉妬による嫌がらせなんて余計なことさえなかったら、はいつでもこうして笑顔でマネージャーを頑張っていられただろうに。出来ることならずっとこうして笑っていて欲しいのに。

自分にはやっぱり何も出来ないけれど、そう願わずにいられなかった。