ニケに捧ぐ恋の歌

06

先に目が覚めたのは牧だった。ボールカゴの中に埋まってしまって出られない夢を見ていた。外に出たくてもがいていたら夢から覚め、目を開けたらに半身をがっちりホールドされていた。は牧を抱きまくらにしてすやすやと寝ている。

可愛いのでそのままにしておいてやりたいが、腕が痺れているし、喉も乾いた。牧は慎重に時間をかけてをどかし、なんとか起き上がる。時計を見上げると、既に18時を過ぎていた。確かうとうとし始めたのは14時くらいだったはずだ。ずいぶんよく寝てしまった。

自分ももそれだけリラックスしているのだとプラスに考えることにして、牧はキッチンに立つ。冷蔵庫から水を出してコップに注ぎ、一気に飲み干す。疲れているならずっと寝ていても構わないけれど、はまたジェラートが食べたいと言っていたし、起こしてやらねば。牧はの分の水を注ぐと、部屋に戻る。

ラグの上で丸まって眠っているのすぐ近くに胡座をかき、手を握ってみる。反応なし。頬に髪がかかっているので、それを指で払い除けてみる。反応なし。頭をそっと撫でてみる。反応なし。

少し可笑しくなってきた牧は、足を崩しての上に屈み込み、頬に唇を寄せる。顔を近付けるとゆっくりとした細い寝息が聞こえてくる。いくらなんでも爆睡し過ぎじゃないか。牧はにやにや笑いのまま、頬や額にキスを繰り返す。ほんの少しだけ汗の匂いがして、胸が疼く。

やっとのことで気が付いたは、うまく瞼が開かなくて眩しそうな顔をしている。なにか言いたいようだが、唇も動かしづらいらしい。本気でぐっすりと眠ってしまっていたのだろう。牧はまた可笑しくなってきて、くすぐったがるお構いなしに、あちこちにキスしていく。

「待って〜……今起きるから」
「ジェラート食べに行くんだろ。オレも腹減ったよ」
「寝てただけなのに〜」

掠れた声でが笑う。牧は背中を支えてやって抱き起こすと、冷たい水を差し出した。

「今更という気もするけど、誰かに見られたりしたら困らないか?」
「この辺りには一応うちの部員は住んでないから、大丈夫じゃないかと思ってるんだけど」
「今年は帰省組が多いって言ってたしな」
「寮生はともかく、地元実家組も電車で時間かけて通ってる人は少ないからね」

ふたりが一応付き合い出したのは、この年の6月も末のことで、どちらもちょうど忙しい時期だったので今日までの間に1度しか会っていなかった。それが終業式の日の夜だ。あれは夜にバス停で30分ばかり一緒にいただけなので、目撃される恐れは殆どなかった。

の言うように、この辺りに住む翔陽バスケット部の部員はいないはずだが、地元組がまったく寄り付かないという保証はない。それでなくとも夏休みなのだし、誰がどんな理由でどんなところに行くかなど予想もつかない。越境組は帰省中だが、何せ翔陽バスケット部員は未だ3桁。3年生が全員引退しても60人以上いる。

「もし翔陽の人間にバレたら、どうする?」
「どうもしない。悪いことしてないし、何か弁解する必要はないもん。紳一は?」
……実は既に何人かにバレてる」
「えっ、海南の部員?」

牧は申し訳なさそうに眉を下げながら、の手を握る。

「大丈夫なの……?」
「驚かれたけど、何も気にしてないみたいだったな。海南てそういうところ結構ドライなんだよ」

しかも知られたとは言っても、同学年の特に親しい数人だけだ。監督や先輩たちには知られていない。普段あまり携帯に構わないタイプの牧が、合宿中、毎晩型に嵌めたように何やら送信しているので勘繰られた。彼女がいることはさっさと白状したが、相手が翔陽のマネージャーだなんて言うつもりはなかった。

だが、うちの部は女っ気がないという話から他校の女子マネージャーの話になっていき、どこの女子マネが可愛いだのなんだのと言うので、もし対戦校の女子マネと付き合えることになったらどうすると聞くと、全員ウェルカムである由。牧は大笑いした末に、のことをカミングアウトしたわけだ。

「羨ましがられたよ。みんなお前のこと可愛いって言ってたぞ」
「ちょ、やめて、なにそれ意味分かんないから」
「照れてるな。素直に嬉しいって言え」
「いやーヤメテー!」

本人はやたらと照れているが、牧が考えていた以上にの印象はいいようだった。一瞬で心を奪われるような美少女ではないけれど、可愛らしいし、元気で明るそうだし、あんなマネージャーがいたら毎日楽しいだろうな。概ねそんな意見であった。海南には伝統的に女子マネージャーがいないからこその感想でもある。

また、わざわざに言いはしないけれど、海南にとって翔陽はライバルというには少し弱いのだ。海南のライバルというのは全国各地のインターハイ上位争い常連校であって、県内の強豪校ごときに手こずってはならない。ましてや、いくら神奈川のトップ2とは言っても、翔陽は海南に勝利したことはない。

つまり、恐らく翔陽が考えるほど海南はライバルとして意識などしていないし、対等とも思っていない。むしろ格下と考えているだろう。だから牧がと付き合っていても気にならないということでもある。

その上、嫉妬心などに振り回されているようでは使いものにならない。オンとオフの切り替えがスムーズに出来るのも能力のうちだ。それに、牧が言うようにこれは戦争ではないのだ。プライベートでどんな付き合いがあっても、こだわるべきはそこではないのだから。

「そっちはバレたらマズそうなのか」
「んー、なんとも言えないなあ。そういう話、あんまりしないし」
「女の子ひとりだしな。したくても出来ないんじゃないか」
「そうかな。けっこう生々しい下ネタとかはしょっちゅうだけど」

はにやりと笑っているが、牧の心にビシッと音を立ててヒビが入った。つまりそれはを女の子だと考えていないということだ。男ばかり100人近くもの部員を管理し支えているは、繊細で何も出来ませんでは通らない立場にある。勢い可愛らしさがなくなってしまうのもわかる。だが、だからといって――

……そういう時、どうしてるんだ」
「ふーん、て感じにしてる。過剰反応が1番いじられるからね」
「嫌じゃないのか」
「まあ、聞きたくはないよ。だけど最近、女子マネってこういうことかなって思えてきて」

怪訝そうな顔をする牧に、はまたにやりと笑ってみせる。

「それだけ私は自然な存在になってて、だから仲間でいられるのかもって」

それもひとつの側面ではあるだろう。だが、牧にとってはあくまでも彼女であり、ひとりの女の子であり、そのような扱いは気分が悪い。牧が文句を言わないのは、自分が部外者であるということと、自身がその環境に甘んじても3年間頑張りたいと考えているからだ。に免じて余計な口出しはしない。

展望を見誤ったのだとしても、それを言い訳にしたくない。これが強豪校のマネージャーだというなら受けて立つ。そういうの意志の強さを牧は尊敬していた。そして、ずっと応援している。彼氏として腹に据えかねることはあっても、のバスケットに対する熱意には敬意を払っていたい。

だから、ふたりでいる時くらいはを存分に甘やかしたいと思う。

「まだ外暑いけど、アイス、食いに行くか」
「あっ、そうだった! 行こ行こ、早く行こ!」

パアッと花が咲いたように笑うが可愛い、愛しい。大好きだ。

ジェラートを食べたり地味なゲーセンを冷やかしたりしながらふたりは駅前を遊び歩き、21時近くなってようやく帰ってきた。普段部活ばかりで遊びに出かける機会の少ないふたりは少々興奮気味で、おかしくもないのにずっと笑っていた。ふたりでこうして過ごしていることが楽しくて仕方ない。

だが部屋に戻ると、どちらも別の緊張が出てきてしまい、少し口数が減ってしまった。

「明日、何時頃帰るんだ?」
「特に決めてないよ。何時でも」
「そうか、親いないんだったよな」

の両親は同じ職場の違う部署で働いている。どちらも夏休みは8月の後半に取っているため、普段通り夜にならないと帰らない。なので、一泊したからといって早々に帰宅しても家の中には誰もいない。

「連泊は無理だけど、そうだな、21時位までに帰れば平気」
「なんだ、けっこう遅くまで平気なんじゃないか」
「うん。――だから、夜更かししても、平気」

ラグの上に座ってベッドに寄りかかっていたは、隣に座る牧の腕に手をかけ、か細い声でそう言った。に気を使わせてしまったみたいで少々気まずい牧は、その手に手を重ね、顔を近付ける。

「無理、しなくていいんだぞ」
「だめだって、こういうのは少しくらい無理しないと、何も始まらないんだから」
「シャワー、オレが先に入ろうか」

が小さく頷くので、軽く額にキスすると、牧はさっさとバスルームに消える。緊張しているのは同じだけれど、それを表に出したくなかった。出来るだけ普段通りに振る舞って、を怖がらせないようにしたかった。気持ちは焦るけれど、シャワーも少しゆっくり入る。

バスルームから出てくると、はまったく同じ状態で座っていた。笑ってはいけない。

「空いたよ。タオル、置いてあるから」
……うん」
、本当に――
「は、恥ずかしいから、少し暗くしておいて!」

無理強いはしたくなかった牧だったけれど、はそう言うとバッグを引っ掴み、下を向いたままバスルームに飛び込んだ。慌ただしい音と共にシャワーの音が聞こえてくる。牧はまた水を用意しておいてやると、首にタオルを引っ掛けたままベッドに寄りかかって天井を見上げていた。

今更ながら、なぜが好きなんだろうという疑問が湧いてきた。を好きだと思う心は、応援したいとか尊敬しているという気持ちとは別のところにある。混同しているんじゃないかとしつこく考えていたけれどどうも違った。牧が応援したいのは翔陽のマネージャーであるであって、好きなのは何者でもないだ。

可愛いとか一緒にいて楽しいとか、そういうありきたりな理由はもちろんある。ただ、それ以外にはないんだろうかと少し不安になってしまったのだ。一体、のことは本当に好きだけれど、薄っぺらい気持ちなんじゃないかという気もしてくる。よもや藤真に対抗心があるわけではあるまいな――

1番考えたくないことだ。それに、は翔陽のマネージャーであって、藤真のマネージャーなんかではない。むしろ藤真がいるせいで理不尽に傷付けられてきたのだ。こんなことを考えるとつい藤真の顔が浮かぶのは、そのせいだ。藤真が悪いわけじゃないけれど、藤真のせいでは傷つく。

いやいや、その通り藤真は悪くないのだから、あいつに怒りをぶつけるのはおかしい。それはオレの方向が間違ってる。牧は前髪をかき回してその考えを振り払う。そこにがバスルームから忍び足で出てきた。ひらひらした薄手のワンピースを着ている。灯りを落とした部屋にの白い肌が光って見える。

「遅くなってごめん」
「そんなに時間かかってないって。ほら、水」
「わ、ありがと。冷たーい、おいしー」

は水を一気に飲み干すと、ハーッとため息を付く。牧はそのの体を引き寄せて、緩く抱き締める。夏の夜にシャワーで暖められた肌は熱いくらい。少しエアコンを強くしてあるのに、体の中に小さな火が燃えているような感じがする。首にの腕が絡みつき、薄暗い部屋の中で牧は目を閉じた。

、好きだよ」
「私も、私も紳一が大好き」

そして牧は先程まで頭のなかで渦巻いていた疑問に、ひとつ答えを見つけた。付き合った経緯とは前後するけれど、も自分のことを好いてくれているからだ。が好きだと言ってくれるから、それが嬉しいから、だからきっとのことがこんなにも愛しいんだろう。

ほんのりした灯りの中で見下ろすの瞳は少し潤んでいて、キスをする度にぎくりと強張る体が可愛い。肌は柔らかくて、手のひらに吸い付くようだ。既に水着姿を見ているし触れているというのに、あれとは全く別の体という気がしてしまう。布も多かったし。

、キツかったら、ちゃんと言って」
「うん。だけど、キツいかもしれないけど、最後まで、やめないで――

唇の先端だけ触れながらそう囁くを、牧は静かに押し倒した。

無音の部屋の中、牧とはベッドの上で横になっていた。どこかの家が窓を開け放しているのか、騒がしいテレビの音声が聞こえてくる。風のない熱帯夜、エアコンで冷やされた空気に汗をかいた肌が乾いていく。

昼寝した時と同じ、が牧を抱きまくらにしているような状態だ。疲れてうとうとしているは、積極的になることで緊張を振り払おうとしているようだった。牧が少し心配するほど彼を求め、そして今力尽きてぐったりしている。少し休んだらシャワーを浴びたいと言っていたので、牧はたまに時計を見ながらぼんやりしていた。

現実が期待を上回ることはなかった。それでも、でよかったと思う。がいいと思う。

ごくごく一般的な木造アパートの2階なので、あまり深夜になってからのシャワーはマナー違反になる。しかも牧の部屋の階下は高齢の女性のひとり暮らしだ。牧はの額に唇をすり寄せて、小さく吸い上げる。体には跡を残してしまったけれど、額はそうはいかない。跡が残らないくらいにあくまでも弱く。

「ん……
「シャワー、入れそうか?」
「うん、行ってくる」
「ひとりで入れるか?」
「一緒に入りたいけど、狭いよ」

くすくすと笑いながらはワンピースを取り上げ、タオルを巻き付けてバスルームに消えた。音を立てないように気を付けてシャワーを使っているらしい。水の音がしてなお、部屋の中は静かだった。まだどこかのテレビの音が聞こえてきている。牧は枕に頭を落として大きく息を吐いた。

海に行ったり、駅前で遊んでいた時は、気の合う彼女だと思っていた。しかし今はを「自分の女」だと感じるようになっていた。言葉の違いだけかもしれない、深い関係になったばかりなので陶酔しているのかもしれない、だけど、これで名実ともには自分だけの女になったのだと思った。

翔陽ではなんだかあまり大切にされていないだけど、バカだな、はこんなに可愛いのに、の体はこんなに気持ちいいのに。体中に残るの感触に頬が緩む。一部海南の部員にはバレているけれど、それを除けば誰も知らない、誰も見たことがないふたりの関係。それはこんなに甘いものなのに。

シャワーで汗を流してきたは、まだ雫の滴る髪をタオルにくるみながら牧の横にころりと横になった。

「びっくりした」
「えっ、何が」
「私の体。キスマークいっぱいついてた」

鼻を鳴らして笑いながら、は牧に覆い被さる。髪から雫が滴り、牧の頬に落ちる。

「ごめん、目立つところにはしなかったつもりだったんだけど」
「見えるところにはなかったよ、大丈夫」

言いつつ、はワンピースの胸元を少し引き下げた。いっぱいついてたキスマークの半分くらいは胸だ。

「恥ずかしいんだけど、ちょっと嬉しかったな。あー、私、紳一のものなんだなーって」
「オレも同じこと考えてた」
……ねえ、私も印、つけていい?」

牧の胸をの指が滑る。牧が頷くので、は指を追うようにして唇を寄せる。体の中心を少しずれて、左に。牧の逞しい胸の下で脈打つ心臓めがけて、は強くキスを落とす。

「これで、紳一も私のもの、だね」