ニケに捧ぐ恋の歌

12

一晩意識を失っていただったが、翌朝早朝に目が覚め、ICUを出られることになった。やはり肩周辺に筋肉が少なかったせいだろうか、の怪我は肋骨と鎖骨にヒビ、左のひじ下を骨折、腹から下は打撲でおしりには巨大な青タンという有様であった。

本人の記憶では頭を打った気はしないというが、一応脳の方も検査されることになり、色々込みで入院は1週間程度とのことだった。腕の骨折も単純骨折で手術はなし、本人も両親も一安心というところだ。

ICUから出られたことを学校に連絡すると、教頭がすっ飛んで来た。生徒たちが動揺するので担任は置いてきたと言う。昨夜の時点では怒り心頭に発していたの両親は、娘の処置を待つ間に教頭と話し、いくぶん頭が冷えてきた。犯人を見つけようがないことは落ち着いて考えればわかることだ。

しかも、こちらの都合で捜査に入ってもらうことができない以上、被害者であるの受験にも響く。卑劣な行為に出た生徒を野放しにするのは悔しいけれど、本人のためにはそれが一番いいのではないか、という前夜の担任と同じ結論に至った。

むしろ犯人探しが行われず、やバスケット部が懸命に立ち直ろうと努力しているさまを見る方が、犯人にはつらいかもしれない。その上、いつバレるかと気が気でなくなるだろう。やバスケット部が前向きである限り、犯人はその状況に責め苛まれるに違いない。

いち教育者である教頭はその果てに犯人である女子が名乗りを上げ、深く反省をしてくれればと思うが、それはの両親に言っていいことではない。あくまでもふたりは娘を理不尽な暴力で傷付けられた被害者なのである。それが同世代の女の子でも、情けをかけてやる道理はない。

さておき、腕がギプスでコチコチになっていて不便という点を除けばは元気だった。階段から落下した時の痛みが尋常ではなかったので怖かったけれど、この程度の骨折で済んでよかったとにこにこしていた。そしてお腹が減ったといって両親を喜ばせていた。

見舞いに顔を出した教頭にも、バスケット部は悪くない、彼らのケアをしてやって欲しいと頼み込んでいた。

処置に時間がかかったが、ICUから一般病棟に移り、がようやく食事にありついたのは、13時になろうかという頃だった。何しろ前日は体育祭、空きっ腹を抱えていたところで意識を失ったまま20時間近くが経過していた。は病院の給食と母親が買ってきたパンを2つ、プリンも全て平らげた。

が満腹になって人心地ついているところに、担任とクラス代表ということで仲の良い数人が顔を出した。面会時間は13時から、のクラスはちょうど午後にLHRだったので、居残りは自習ということにして、見舞いに来てくれた。

だが、あまり騒ぎにして欲しくないは平気平気とにこにこやり過ごし、担任には頭まで下げた。

にとって、これは失態だったのだ。藤真とは無関係なのだとアピールしたいあまり、携帯しか見ていなかった。が携帯を見るふりをして藤真を取り囲んでいる女子たちにもぬかりなく気を配っていれば、足払いのひとつやふたつ、かわせたかもしれなかった。

また、の耳には今も藤真の叫び声がこびりついていて、その声を思い出す度に胸が痛む。可哀想な藤真、目の前で自分が落下していくところを黙って見ているしかできなかったなんて、彼には辛かったに違いない。ただでさえ今年は彼にとってつらいことばかりで、気持ちを立て直したと思うと次の受難がやって来る。

こんなことでは冬が思いやられる。インターハイで優勝できなかった牧も本選への切符を譲るつもりはないし、他の高校だってまた翔陽を蹴落とそうと襲い掛かってくるのだ。こんなことにかかずらっている場合ではないのに。

「じゃあ、推薦入試のことはまたちゃんと話そうな。お大事に」
「ありがとうございました」
、またね。退院したらケーキ食べに行こうね」
「うん、行く行く! ありがとね」

推薦の話やら教頭と話したことについてやらで、の母親と担任が出て行った時のことだ。担任の車で来ているの友人たちが廊下の端でぼんやり話が終わるのを待っていたところに、廊下の向こうからなんだか巨大なのが猛ダッシュして来た。よく見るとメガネだ。

「あっ、先生先生」
「ちょっと待ちなさい、先生はのことで――
「そうじゃなくて、花形来たよ」
「何!? 耳が早いなおい」

病室の少し手前で固まっていた先生たちのもとに花形が息を切らして突っ込んできた。

「せ、先生、意識戻ったって」
「落ち着け、あと走るな。デカい上に早いんだから危険だろうが。てかお前ひとりか?」
「いやその、藤真と一緒に出たんですが――
「花形くん、お話は娘から聞いています。お世話になっていたそうですね」
「あ、は、初めまして、いえお世話だなんて、むしろオレいや僕たちの方が」

いつも沈着冷静な花形がおろおろしている。の意識が戻ったと聞いて授業を放り出してきたのだろうが、前夜のことがあるので、の担任はとりあえずお咎めは保留にするらしい。花形の方はの母親に挨拶をされて何故か焦っている。の友人たちはそのさまを不思議そうに眺めていた。

その時、またもや廊下の向こうから猛ダッシュが来た。それもふたり。

「おい花形、あの黒いの」
「藤真が呼び出したらしくて、途中で分かれて……

そして猛ダッシュ2名はぽかんとしているの母親と友人たちの前に滑りこんできた。

「せ、先生、意識戻ったって本当ですか」
「ふたりとも静かにしなさい。は起きてるけど――
!!!」

ちゃんと厳しい声で牽制した先生だったが、牧は構わずにドアを開け放ち、病室に飛び込んだ。諸々の検査が完了するまで個室であるは部屋にひとりきりで、ベッドに腰掛けてテレビを見ていた。

まさか牧がと油断していた先生と花形は慌てての母親に、あの黒いのは怪しい者じゃない、娘さんの彼氏ですがいいやつです、いい選手です、見逃してやって下さいとまくし立てた。だが、の母親の方はあんまり驚いたので話が飲み込めないようだ。カクカクと頷いたけれど、直後に首を傾げていた。

病室でのんびりテレビを見ていたも仰天、まさか牧が来るとは思っていなかったので、飛び上がった。廊下に担任や友人たちがいるとは知らないは、飛び込んできた牧に抱きつくと、声を上げて泣き出した。その様子を入口の引き戸にもたれて見ていた藤真も気が抜けてへなへなとしゃがみ込んだ。

、無事でよかった、痛かったよな、怖かったよな」
「紳一ごめん、私が気を付けてればこんなことには」
「謝るなっていつも言ってるだろ、バカ」
……もう会えないかと思ったよ、紳一」
「オレも昨日は怖くて眠れなかった。無事でよかった、ほんとによかった」

という生徒は、バスケット部のマネージャーをやっていて、そこそこ厳しく、男が100人以上いるというのに、それをひとりでビシバシ管理している元気な女子――のはずだった。そのつもりだったの友人たちは、遠巻きに見ている病室の中の風景が信じられなくて言葉を失っていた。

には他の高校にちゃんと彼氏がいて、この様子を見る限りじゃけっこうラブラブな様子だっていうのに、なのに藤真ファンの嫉妬でこんな大怪我したっていうの? ていうかその藤真が腰抜かしてへたり込んでるじゃん。

呆然とする母親と友人たち、安心したのか立ち上がれない藤真、べったり抱き合って離れないと牧。その間で先生と花形はげんなりしていた。いいけど、別にいいけど、どう片付けるんだよこれ。

「ええと花形くん?」
「は、はい!」
「制服が違うみたいだけど……
「あのその、彼は海南大附属の生徒で」
「海南!?」

ある程度娘のクラブ活動事情を把握しているらしい母親はのように仰天して飛び上がった。そしてそのひっくり返った声は大きく、友人たちにも丸聞こえ。花形はがっくりと肩を落としたがもう手遅れだ。

「海南、て、ライバルじゃん」
「どういうこと?」
「いや別にそういう意味で付き合ってたわけじゃない、たまたまなんだよ」
「学校の外のことなんだし、ちゃんと分別のある付き合いをしてたらしいぞ」

なんで自分たちはと牧を庇ってこんなことを言っているんだろうと疑問に思いつつ、花形と先生は怪訝そうな顔をしている友人たちに弁解し続けた。分別のある付き合いができていたかどうかは疑問が残る花形だったが、とりあえず場を収める方が先だ。

一方、の方も母親の声に事態を察したけれど、もう取り返しがつかない。その瞬間に色々なことを覚悟したは、牧に断った上で、藤真を呼んだ。入り口でしゃがみ込んでいた藤真は顔を上げると、ふらふらとふたりのところへやって来て、そしてが折れていない方の腕を差し出すので、感極まって抱きついた。

ごめん、本当にごめん、オレのせいだ、オレが悪かった」
「違うよ藤真、そんなこと言わないで、藤真も怖かったよね、怖い思いさせてごめん」

がそう言うなり、藤真も鼻をグズグズ言わせ始めた。彼もまた昨夜はほとんど眠れなかったらしい。

フォローを入れようにも、もう為す術がない花形と先生はこっそりその場を離れようとしていたのだが、の母は突然くるりと向き直ると、またちょこんと首を傾げた。目の前にいた先生は肩をすくめて目を泳がせる。

「先生」
「は、はい!」
「娘の着替えなど取りに戻らないとならないので、一度失礼致します」
「あ、そ、そうですね、はい、このたびは本当に――
「先生」
「はっ?」

のことで詰問されたらどう返そうとビクビクしていた先生は気が抜けた上にきょとんとして、の母と同じように首を傾げた。彼女はどこかぼんやりとした、けれどホッと緩んだ顔をしていた。

「あの子があんな風に声を上げて泣くのなんて、この数年記憶にないんです。普段からよく話はしているんですが、きっとそれがあの子のプライドだったのかもしれません。だけど、泣きたいことも、あるわよね――

の母はそう言ってふうと息を吐く。

「子供というものは……親の知らないところで大人になっていくんですね」
……そうですね、はい。私たちも、そうでしたね」
「あら、本当。そうでしたわね」

ふわっと相好を崩しての母親が笑うので、現在小学生の姉妹の父親である先生の顔も緩んだ。の母親は今度は花形の方へ進み出ると、ぺこりと頭を下げた。

「そんなわけだから、少しといてやってくれるかしら」
「は、はい、ええとその――
「こいつらは進路決まってますし、部活に間に合えばいいので、大丈夫ですよ」
「あらそうよね、忘れてました。それでは、失礼致します」

の母親が廊下を去って行くと、花形と先生はドッと疲れてため息をついた。

「お前らな、今日は本当に本当に特別だからな! オレは何も見てない、何も聞いてない! お前らが牧くん連れて来て廊下ダッシュしたことなんか知らんからな! そういうことにしておけよ。あとほんとにのお袋さん戻ったらさっさと帰ること。いいな」

花形は何度も頷いた。元々彼は長居するつもりもなかった。そして、先程からぼけーっと騒ぎを眺めていた女子たちがいることを思い出すと、先生にフォローを頼むと囁いておいた。これを拡散されたらまたややこしいことになる。が、先生は呆れた顔でため息をつく。

「フォローは構わんけど、お前な、そりゃ無理だ。人の口に戸は立てられない」

やっぱりダメかと肩を落とした花形は、仕方なしに女子たちの方へ歩み寄ると、ちょこんと頭を下げた。

「申し訳ないんだけど、このことは――
「言いふらしたりはしないけど……海南てどうなのよ」
「そのせいでをバスケ部から追い出したオレたちが言えたことじゃないんだけど――
「追い出したの!?」
「オレは別にいいんじゃねえのかと思ってたんだけど……後輩たちが、さ」

ついいつものくせで言葉尻を濁した花形だったが、女子たちの表情に既視感を感じて止まった。と牧が一緒にいるところを見たと報告してきた2年生と同じ顔をしていたからだ。海南はバスケット部のライバル、敵、それと仲良くするなんて。それが顔に出ている。

「確かに海南とは何度も勝負してきて、打ち負かしたい相手だけど、この間の国体の時は、藤真もオレも、あいつと一緒に戦ってきたし、あいつなんか国体代表の主将だったし、だけどそんなこと誰も気にしないよ。それに来年になったらどこの誰とまたチームメイトになるかなんてわかったもんじゃないだろ」

部活に友達に彼氏に彼女になんていう狭い世界のこと、こうしてちゃんと説明してもらえれば、憎悪が膨れ上がることもなかったかもしれない。女子たちはうんうんと頷いている。

「オレたちも後で知ったんだけど、嫌がらせされ続けてきたを励まして応援し続けてきたのは、あいつなんだ。オレたちが、100人もいるのにそんなこと全く気にしてやらなかったことを、にしてくれたのはあいつで、オレたちはそのことに1年も気付かないまま、しかも最終的には追い出しちゃったからな」

女子たちの顔からスッと憎悪が消えていく。花形はそれを見ながら、自分たちが怠ってきたのはこういうことだったのかと思う。それを横で見ていた先生も、牧が言ったような対策を講じるべきかもしれないなと考えていた。刷り込みに一時的な感情が加わって爆発的に広がり、いつしか「前に倣え」になってしまう前に。

「犯人探しもしない方向だから、できたらこのことはここだけの話にしてくれないかな」

無意識だったが、そう言いながら花形はやわらかく微笑んだ。先生はこの時「あ、とどめだ」と思ったという。女子たちは揃ってうんうんと頷き、そして急にきょろきょろと視線を外し始めた。その時、病室から牧が顔を出した。

「花形、呼んでる」
「えっ? いやオレは――

自分はあんまり関係ないし遠慮するよの友達もいるし――と思った花形だったが、病室の中からの呼ぶ声が聞こえてきた瞬間、彼もふらふらと病室に入り、藤真とふたり真っ赤な目をしているに飛びついた。そしてまたごめんを連呼し合い、牧と藤真には笑われた。

「じゃあ後はあいつらに任せて帰ろう」
「いいなあ、なんか羨ましい」
「バキバキに骨折したり、ジャージ切り刻まれたりしたいのか?」

男3人に囲まれている様子を見て、ついそう漏らした女子生徒に先生はさらりと返した。気持ちは解らないでもないが、牧のことは別としても、藤真と花形がこうしてを案じるのは彼女が全力でマネージャーを務めてきたからだ。その上、丸2年以上陰湿な嫌がらせに耐えてきたからだ。

今回の骨折の件はともかく、ジャージ損壊については何も知らなかった彼女たちは、また視線を逸らしてきょろきょろしだした。つい羨んでしまったけれど、例えば翔陽にいる間には藤真の彼女なんて絶対になりたくない。

先生は車のキーを取り出して指先でくるくると回しながら、優しく微笑む。

「あれはの高校生活の結果なんだよ。君たちが選んだ高校生活とは種類が違った、ただそれだけだ。が特別ってわけじゃない、君らが劣ってるわけでもない、そういう、めぐり合わせだったんだよ」

「そりゃあ先生が正しいよ。犯人探しなんかするだけ無駄だって」
「けど、の親が被害届を取り下げなかったらどうするんだろうな」
「ううん、被害届は出さないことになったよ。教頭と話してそういう結論になったらしくて」

個室とはいってもそれほど広くない病室、ただでさえデカいのが3人も増えたので、はベッドの上にちょこんと座り、ついでに牧も座り、それでもベッドサイドが狭いので花形も座らされた。藤真は窓辺に寄りかかり、腕組みでため息をついた。

「正直、オレは泣き寝入りは悔しいんだけどな」
「藤真、あの時囲まれてたのって、全員3年?」
「たぶん。だけど全員はちょっと記憶がない。オレの近くにいたのだったら名前もわかるけど」
「それじゃあその場にいたのが誰だったのかてことも、はっきりしないだろうな」

昨夜は犯人探しをする気になっていた藤真は釈然としないようだ。その様子を見てはつい吹き出した。

「なんだよ」
「ごめん、チャラチャラと女の子に纏わりつかれてる割に、藤真って頭固いよね」
「どっちもどういう意味だ」

の言わんとするところがわかったらしい花形もニヤニヤしている。

「最初は軽薄そうなやつだと思ったんだよね、藤真も、紳一も」
「オレもかよ」
「いやあ、見た目がね。だけどどっちもだいぶ固めで、逆に花形の方が軽かった」
「オレは軽くないだろ」
「このふたりに比べれば、よ」

結局3人とも固いだの軽いだのとまとめられてしまって、少し面白くなさそうな顔をした。楽しそうなのはひとり。片腕がギプスでコチコチになっているけれど、なんだかは晴れ晴れとした顔をしていた。

「腕、傷まないのか」
「痛み止め効いてるから平気。それに、なんか今けっこう気持ちが楽でさ」
……怪我、したのにか?」

もう隠すこともないので、牧は藤真と花形が見ている前での手を取り、ゆるく握りしめた。

「逆にここまでやられて、この後どうなるのか少し楽しみになってきちゃった」

少し照れくさそうに微笑むだったが、3人はこののアイアンハートに改めて戦慄した。

「それより入試が心配だよ。みんなは冬の予選、頑張りなよ!」

ニカッと笑うの鮮烈な笑顔に、牧も藤真も花形も、しっかりと頷いた。