ニケに捧ぐ恋の歌

03

年をまたぎ、新体制になった海南において、牧は一新されたスタメンの中でもさらに中心的存在になっていた。まだ1年だけれど、おそらく牧が1番上手い。だがそれに臍を曲げるような選手は海南にはいないので、新体制でのチーム作りもまずまずいい仕上がりになってきていた。

3年生が卒業していき、スポーツ特待などで入ってくる予定の新入生のことも考えつつ、また新年度の夏に向けて練習に励んでいた時のことだ。春休みの牧は翌日に練習試合を控えて早めに帰宅しようとしていた。駅の改札を出た牧は、パスケースをポケットに突っ込んだところで見たくなかったものを見て顔を歪めた。

「あ、あはは、また会っちゃったね、ほんとに、タイミング悪いね……
「物理攻撃、なくなったんじゃなかったのかよ」

は松葉杖をついていた。足首は包帯がきつく巻かれている。

「それはほら、翔陽の中ではなくなったけど。外では関係ないから」
「マジかよ。それもう、嫌がらせとかいうレベルじゃないだろ」
「だけどさあ、私が騒ぎにしたところでおさまらないし、結局私が辞めるしかないじゃん」

それはそうなのだ。もしが辞めてしまっても練習が滞るということはない。翔陽は部員数が3桁なのだし、雑務も手分けしてやれば出来ないこともない。けれどそれではが納得しない。

「ごめん、オレが怒ったって仕方ないのにな」
「そんなことないよ、ありがとう。ライバルなのにそんな風に言ってくれて嬉しいよ」
「ライバルって言ったって、戦争してるわけじゃないんだから」

牧はまたの肩からバッグを取り上げて担ぐと、腕を貸してやった。松葉杖は慣れるまで歩きづらい。

「また突き飛ばされたのか?」
「うん、市営体育館の階段の途中だったもんで、そのまま転がり落ちた」
「この程度で済んでよかったな。まったく、傷害だぞこれ。被害届出せるんじゃないか」
「ところが突き飛ばしてきた相手が誰だかまったくわからないんだよね」

は自嘲しているが、牧は一緒に笑ってやれなくて、腹立ち紛れにを引っ張ってまたジェラートショップに入った。遠慮するに命令口調でフレーバーを選ばせ、今日はトッピング付きのトリプルをおごってやった。情けない顔で眉を下げただったが、それでも嬉しそうに微笑んだ。

「困ったな、どうしよう、嬉しい」
「ストレス溜まった時は甘いものも効くだろ」
「今日は牧くんも食べるんだね」
「たまにはいいかと思って。明日試合だし景気付けに」

そびえ立つトリプルのに対して、牧はシングルのスモールを手にしている。はトリプルの乗ったコーンを牧のコーンにぶつけて乾杯すると、ニコニコしながら食べ始めた。今日はの足のことがあるので、歩きながらというわけにはいかず、ふたりはジェラートショップのイートインスペースに並んで食べていた。

「へえ、サーフィン! だからそんなに焼けてるんだ」
「マネージャーも忙しいだろうけど、高校入ってからは何もやってないのか?」
「うん。でもいいなあサーフィン。やってみたい」
「やってみたらいいじゃないか。教えようか?」
「ほんと!?」

牧には信じがたいスピードでジェラートを食べていたは、顔を上げて目を輝かせた。

「まあ、夏休みまで待てればだけど」
「もちろん! インターハイ終わったらちょっとだけ休みになるもんね」
「それまでの間、また怪我したりするなよ」
「頑張る。超頑張る。柔道の受身とか習おうかな」

それも悪くないような気がした牧はコーンをかじりながら吹き出した。は本当に前向きで積極的で、少し心配になるくらい元気だ。弱音を吐きたい時だってあるだろうに。翔陽とは無関係なんだから、つらかったら愚痴ってくれてもいいのに、そういうこと、しないんだな。

ジェラートを食べ終え店を出ると、牧はまた松葉杖のに腕を貸しながらバス停へと向かう。支えてやりづらかったせいもあるが、途中からの手を取って繋いだ。の手は冷たくて柔らかくて、そして少しカサカサしていた。も黙ってその手を握り返す。

バスに乗る時も手を貸してやりつつ、牧は小声で声をかけた。

「何も出来ないけど、ちゃんがひとりで頑張ってるの、オレわかってるからな」

松葉杖を抱えて手すりに寄りかかったは一瞬泣き出しそうな顔をして、けれどすぐに顔を戻して微笑むと、ありがとうと呟いて手を振った。少し遅れて手を振り返した牧もまた、少し泣きたいような気分になっていた。走りだしたバスが見えなくなるまで見送った牧は、大きくため息をついてその場を後にした。

その年のインターハイ予選は前年とまったく同じ結果に終わり、海南はともかく、翔陽はまたしばし腐る羽目になっていた。インターハイに行かれるのはいいとしても、まったく海南に勝てない。世代はこれで海南とは練習試合を含めて4戦目になるが、最小点差でも15点差。

さらに後輩世代が増えたことで藤真人気が加速、本人もだいぶあしらいがうまくなってきているが、気に入らないことがあれば後で不貞腐れるのでは面倒臭い。しかも、の予想通りに花形人気がじわじわと進行してきていて、しかも彼の場合は男女の別なく「出来のいい人間」としての人気が高い。

それなら外側で騒いでないで一緒にマネージャーやったらどうだ、これでも結構忙しいから、バスケットのことなんか詳しくなくてもいい、雑用だけして色目使っててくれても構わないから手伝ってくれとは思うが、そんなこととんでもないと部員たちは言う。

目立つ部員たちにキャーキャー騒ぐ手合もマネージャーになりたいなどとは欠片ほども考えていない。例えばそんな子たちといい感じになりたいと思っている部員も、マネージャーになってほしいわけじゃない。部は部として今のままがいい。今更ド素人のマネージャーが増えても面倒くさいだけだ。

「だったらちゃんと自分たちで責任持って処理しなよね」
「やだよそんなの。女の子の集団て怖いじゃん」
「あのねえ、藤真。自分だけいい顔しておいて他のことは丸投げとかナメてんの?」
「頼むよマネージャー」
「取り巻きの片付けなんてマネージャーのやることじゃないんだけど。芸能人じゃあるまいし」

も藤真もげんなりしつつ、そんなことを部室のベンチに座ってぶつぶつ言っていた。今日から期末のテスト期間に突入するため、練習が休みになる。また勉強は適当に済ませてどこか別の場所で練習するんだろう。藤真は部室に置いてあるバッシュを持ち帰る支度をしている。

「100人以上も部員がいて、しかも全員男のくせに情けない」
「あっ、セクハラだ」
「30センチ近くも小さい女の子に練習中は入らないで下さいの一言も言えないくせに何がセクハラだ」
「荒れてんな、
「花形。あんたもあんたよ、人望あるんだから何か言うとかできるでしょうが」
「そーいう偉そうなのやりたくないんだって」

応援してもらえるのは有難いが、藤真にしろ花形にしろ、それがなんであれ「やめてほしい」が言えない。感謝の言葉とともに全て受け入れなければいけないような気がして、そのせいで生じた面倒事は何もかも結果的にが片付けることになる。それは部活中の雑務よりはるかに厄介で面倒でどうでもいいことだ。

「なんでそれが偉そうなの? お願いしますって言えばいいじゃん」
「何でこっちが悪いわけじゃないのに頭下げなきゃいけないんだよ」
「プライド高いなー」
「そういう問題かよ」

しかしとりあえずはテストが終わるまでこの煩わしさから解放される。バスケットから切り離されてしまうのは退屈だけれど、最近では部活を離れる日があるとホッとするようになっていたは、私物を引き上げると、どこで練習しようかと相談している藤真たちを置いて先に部室を出た。

まだ梅雨が明け切らない空は白っぽく曇っていて、見上げれば眩しいような、それでいてなんだか薄暗い。ただでさえ面倒くさい日々が続いていたので、は花形の言うように少々荒れていた。自分が黙って耐えていればバスケットの世界にいられるのだから、と殊勝なことを考えていたのはもう遠い日のことだ。

マネージャーとしてやるべきことは全てこなしているし、そのためにはずっと努力もしているし、花形ほどではないけれど成績もまあまあいいところをずっとキープしている。体を壊せば自己管理がなってないと言われてしまうかもしれないから、体調管理にも気を付けているし、例によって暗い夜道の警戒も怠っていない。

それなのに、どうでもいい外野のせいでストレスが溜まる。最近ではに攻撃的になるだけではなく、親しげに近付いて来て部員との仲介をして欲しいといったようなのも増えてきた。嫌がらせとかされてるんでしょ、私たちと一緒にいなよ、ねえねえ藤真とかと遊んだりするの?

遊んでる暇なんかないんですけど。てかあいつと遊んだって楽しくないって。

はイライラを自覚していたので、電車を乗り継いで例のジェラートショップのある駅に降り立った。牧の「ストレスが溜まった時は甘いものも効くだろ」という言葉を思い出したからだ。翔陽生の寄り道エリアではないので、誰とも遭遇しないのも有難い。は奮発してダブルトッピングのトリプルをオーダーした。

この町とこのジェラートは無条件で心が休まる気がする。誰にも見られたくなくて、この駅前の整形外科を選んだ。だけどそこで牧に出会い、彼と一緒にいる時は学校での苛つくことなど忘れていた。甘くて冷たくて美味しいジェラートともに、牧の「頑張れ」という言葉は緊張を解いてささくれだった心を宥めてくれた。

病院帰りに衝突したあの日から、もう1年以上が過ぎていた。未だに連絡先も交換していない。牧との時間は全て偶然の出会いによるものだった。だからジェラートの甘さとともに彼を思い出し、会いたいなと考えたところで、会えるわけがなかった。むしろ、会わない方がいいのかもしれなかった。けれど、偶然は起こる。

ジェラートショップのイートインスペースでコーンをかじっていたの視界に、黒々と日焼けした制服姿が飛び込んできた。駅の方から姿勢よく歩いてくるが、携帯を覗きこんでいてには気付いていない。は思わず店を飛び出して牧の前に躍り出た。

「久しぶり!」
「うわ! びっくりした、おお、久しぶり! あ、そうか、テストか」

本気で驚いたらしい牧は体を逸らしていたが、携帯をポケットに押し込むと柔らかく微笑んで頷いた。は瞬間的に抱きつきたい衝動に駆られたけれど、それを押しとどめて笑い返す。ジェラートの甘さ、そして牧。体に纏わりついていたイライラが、風に吹かれて剥がれ落ちていく。

「うちも昨日から部活休み。――暑くなったな、どこか入るか」

は嬉しさで胸が締め付けられながら、頷いた。

「なんだか翔陽はどんどん強くなるな」
「牧くんに言われたくないなあ」
「この間だって結局点差15だったじゃないか。後で監督に怒られたよ」
「海南の監督って切羽詰まると急に怒るよね」
「それが玉に瑕」

ふたりは駅の改札のすぐとなりにあるカフェに入り、カウンター席に並んでいる。はジェラートを食べたばかりだが、はちみつアップルティーにチョコバナナワッフルを食べている。牧はまた腹が減ったと言ってホットサンドをかじっている。

「そうか、まだ部活に集中できないんだな」
「まさにそれ。部活に集中したいのに、本当に関係ないところから邪魔が入る」
「それって、もしかすると藤真たちもそうなんじゃないのか」

牧はふと思いついて言ってみた。はふっと鼻で笑って小さく頷く。

「まあね。目立つ子は確かにそうかもしれない。だけどその後始末をしてるのは私だしさ」
「あんなに部員がいるんだから、対策を取れないわけでもないだろうにな」
「あはは、牧くんスバラシー! 私もよくそう言うんだけどね、どうもうちは練習以外のことを面倒臭がって」

どうやらと牧は「部活のあり方」ということにおいては価値観がとても近いらしい。嬉しくなったのか、はパチパチと手を叩いてうんうんと頷いている。牧に言わせれば3桁も部員がいてそんなことも出来ないようじゃ、と呆れるところだが、そこはの手前、言わないでおく。翔陽には翔陽の事情もあろう。

……こーいうのよくないってわかってるんだけどさ、最近思うんだよね。いくらドヘタクソだからって、怪我で出来なくなったわけじゃないのに、マネージャーやろうなんて思わなきゃよかった。試合に勝つとか考えてないようなところでいいから、女バスがあるところに行けばよかったって」

は頬杖をついてぼそぼそと喋る。

「よく考えたら、私、高校入ってから片付けとか手入れ以外ではボールに触ってもいなくて。何故か授業でもやらないもんだから、気付いたら中3で女バス引退して以来、一度もバスケしてないの。笑っちゃうよね、それでバスケ大好き、離れたくないとか言ってたんだよ」

強豪校のマネージャーになろうと志して受験に挑み、翔陽に入ってからはプレイする暇などなかった。一緒にバスケットしてくれる相手もいなかった。翔陽には女子バスケット部がない。男子が強すぎて蔑ろにされ続けたせいで、弱体化の末に入部希望者がいなくなり、廃部になった。

「つまり私は自分がヘッタクソだからって、うまい人たちの近くで一緒に勝ったつもりになりたかっただけなんだろうなーって。選手たちが勝利するためならどんなことも引き受けてサポートしてやろうなんて……たぶん今でも思ってない。バスケ以外のことまで面倒見たくないよ」

途中から牧はの言葉があまりきちんと耳に入ってこなかった。は色々理由をつけているが、つまりそれは、バスケットが好きということではないんだろうか。

……バスケ、するか?」
「はい?」
「オレ、ひとり暮らしなんだけど、アパートの近くにゴールポストあるんだ」

しかも牧は今日、ボールを持っている。男子用だけれど、この際問題あるまい。

「いや、何言ってんの、テスト前でしょ……うちじゃあるまいし」
「何も夜中までやるわけじゃないんだし、1時間や2時間くらい平気だよ」
「あはは、神奈川で1番上手い人相手に何が出来るっていうの」
「勝負しようなんて思ってないけど」

笑って済ませようとしただったが、牧が大真面目な顔で言うので、思い切り情けない顔で眉を下げ、そのままへにゃりと笑った。いつかキズテープがべったりと貼られていた頬が緩む。

「どうしよう、嬉しいけど、ちゃんと出来るかな」
「ちゃんと出来なくたっていいじゃないか。言い方は悪いけど、遊びなんだから」
「遊び……そっか、遊びか。遊びならいいよね!」

少し目を伏せて困った顔をしていただったが、遊びと聞いて目が開いた。相手が牧でも、が2年近くプレイしていないドヘタクソでも、遊びなら構わない。の目が輝きだしたので、牧は黙って立ち上がり、食器を返却して店を出た。もすぐに追いかけてくる。

アパートの近くの公園までは、歩いて10分もかからない。薄曇りの空の下、ふたりは足早に歩き出した。