ニケに捧ぐ恋の歌

07

藤真が怪我をしてインターハイが有耶無耶になってしまっても、それで翔陽のバスケット部がなくなるわけじゃない。例外的に長い休みが開けると、それぞれ気持ちを切り替えてきた部員たちが帰ってくる。気持ちを切り替えたのはも同じで、牧に抱かれたことである意味では吹っ切れていた。

「休み中どこか遊びに行ったりしたか?」
「1日だけ海に行ったけど、あとは宿題片付けてたり、美容院行ったり」
「全く同じだわ」
「女子か。てか短くなってないし」

だいたいいつも前髪が長い花形が腕組みで頷くので、は裏拳で突っ込む。だが、土日でも祝日でも長期休暇でも部活で暇のない彼らにとって、たまの休みとあらば寝たり遊んだりするのと一緒に片付けておかなければならないことも多い。例えば散髪、例えば部屋の片付け。宿題も然り。

「てか藤真の頭はどうなんだ。しつこく聞くのもアレだから連絡してないんだけど」
「詳しいことは私も。監督入院しちゃったみたいだし」
「そっちもなあ、ひどくなる前に手を打てればよかったんだが」

部長によれば、藤真はまだ検査結果が出ないので部活禁止を解いてもらえないらしい。現在監督は体調不良が悪化して入院中、復帰の予定はなし、新しい監督の予定もなし、顧問の先生はいるけれど、形ばかりでバスケットに関しては本当に素人。1年生は顧問の先生の顔を見たこともなかった。

そんなわけで、と花形は淡々と喋っているが、翔陽は完全に途方に暮れている。

「監督いない、エースいない、3年生は5人しか残らない、どーすんだこれ」
「3年、言わないけど相当不貞腐れてるしね」
「色々めんどくせえなあ。バスケだけやってられればそれでいいのに」

国体にも出られないし、インターハイの結果は散々、新監督の目処も立たないのでは冬も怪しい。不動のスタメンであった数人を除き、この休み明けで3年生がほとんど引退してしまった。受験に間に合わないからだ。

翔陽はメンタル的にもあまりいい状況になかった。が言うように3年生は不貞腐れているし、2年生以下はもはや今年は捨てることになるんじゃないかと肩を落としている。どちらにせよ、藤真が戻らない限りは海南に勝てる見込みもない。気持ちを切り替えて帰ってきたはいいが、部内はなんだか活気がない。

……なんだか、翔陽ってこんなチームだったかなっていう気がする」
「あんたが弱音とか珍しいね」
「お前は何でそんなにポジティブなんだよ」
「マネージャーはネガティブにならないことも仕事だと思うけど。選手にはなれないんだから」

恨みがましく聞こえてしまったかと我に返っただったが、花形は小刻みに頷いている。

「そういえば女バスだったんだよな、お前も」
「ドヘタクソだったけどね」
「なんでマネージャーやろうと思ったんだ?」

花形の言葉に含みがあるようには聞こえなかった。今思いついて聞いてみたというくらいで。

……自分の能力ではどう頑張っても届かない世界を見てみたかったんじゃないかな」
「今は違うのか」
「まあね。みんなみたいなプレイヤーになってみたかったよ」

花形はそれ以上何も言わなかった。はマネージャーである以前にひとりのプレイヤーであるなど、頭の片隅にもなかったに違いない。だがしかし、今更そんなことを知ってもかけてやれる言葉なんかない。かけてやるべき言葉も見つからない。

もそれでいい。もうそれに嫉妬して燻る心はない。ただはバスケットが好きだっただけなのだ。その気持ちを満たしたかっただけ。だけどは選手じゃなかった。男ではなかった。男子バスケット部にぽつんと紛れ込んだ異分子、女子マネージャーでしかなかった。

だけどもうそれを持て余したりはしない。翔陽においては女子マネージャーとはそういうものだから。そこを離れれば牧という安らぎと幸福の居場所もある。藤真ファンの嫌がらせはなくならないかもしれない、翔陽の苦難は続くかもしれない、けれど、3年生のインターハイが終わるまでは戦い続けたい。

数日後、藤真の検査結果が出た。頭に異常はなく、運動解禁。翔陽は少しずつ元に戻ろうとし始めていた。の方も、牧と過ごすことでオンとオフを上手く調節していた。両親が夏休みで帰省している間は牧の部屋に寝泊まりして、そこから部活に出かけた。それでも何も問題がなかった。

そんな中、新監督の目処が立たない翔陽バスケット部は、仕方がないので全てを自分たちで管理し始めた。今のところ残留3年生が中心になっているが、徐々に藤真の発言が増えてきている。その上藤真の判断は的確で、2年生以下はふざけて藤真のことを監督と呼び始めた。

翔陽の中心になりつつある藤真、国体でも5位という成績を残してきた牧、はその間で揺れ動くこともなく、翔陽ではポジティブなマネージャーとして、牧の前ではただのとして毎日を過ごしていた。

定期考査で部活が休みになれば牧と一緒に勉強したり、秋には修学旅行に行ったり、修学旅行先でも藤真ファンの嫌がらせにあったりしながら、それでも懸命に毎日を過ごしていた。冬の予選も結局海南に勝てないままだったが、悔しさはいつも学校に置いてくることにしている。

そうしてたちは3年生になった。

3年生になって、どちらも部の方はだいぶ様変わりしたけれど、牧との関係はさほど変化がなかった。はしょっちゅう牧の部屋に出入りしていたし、泊まっていくことも珍しくないし、おかげで部屋の中にはの私物が増えてきていた。

一方翔陽は藤真をトップに置いた状態で完全に元に戻っていた。監督不在のまま冬の予選を戦い抜いたことで逆に説得力が生まれてしまい、現在藤真は選手兼監督、そして主将で部長で、とにかく翔陽バスケット部は藤真の管理下にあった。不思議なことにこれには誰も異議はなく、疑問を呈する者もなかった。

海南の方も牧がトップで中心であることにおいては同じだったけれど、こちらは監督はちゃんといるしスタッフも多い。このことに危機感を抱いていたのはだけだった。だが、そんなの言葉など誰が聞いただろう。弱少女バス出身のドヘタクソの予感など、誰があてにしただろう。

牧もそれに思い至らないでもなかったけれど、口を挟むつもりはなかった。もう3年生なのだし、が後悔のないようにマネージャーを全うできればいいのだ。それと自分のバスケットは関係ない。牧も今年は3年生、どうしてもインターハイの優勝が欲しかった。

牧とはお互い自分の場所で努力を重ねつつ、それを離れればよく出来た作り物のカップルのように仲良く過ごしていた。そして、ふたりにとって最後のインターハイ神奈川県予選である。たちにとって3度目となる神奈川頂上決戦のはずが、翔陽は予選敗退、シード校は初戦で消えた。

それを見ていた牧は、あまり言葉が出てこなかった。藤真と、ついのことを思ったからだ。散々傷付けられ嫉妬と戦いながら、それでも努力していたのに。海南に勝つどころの話じゃない、もうこの予選では対戦すら出来ない。しかも相手は昨年1回戦負けの新興チーム。

しかしそこはなので、取り乱したりはしなかった。予選で負けた日はも泣いたというが、決勝リーグまでの間にはなんとか気持ちを立て直していた。インターハイは消えてしまったけれど、まだ冬が残っている。藤真を始め今年の3年生スタメンは全員残留、監督を見つけてやれなかった学校側はなんとしてでも推薦を取ってやると請け負ってくれた。

そうは言ってもそれはスタメンの5人だけの話で、インターハイが消えた3年生は徐々に引退していき、ほとんどが受験生になっていった。翔陽は部活動も盛んだけれど、進学率は毎年97パーセント以上、進学先も7割方4年制の大学である。本来ならもこのあたりで引退というところだ。

それでも突然ぷつりと切り離されてしまうのが耐えられそうになかったは、とりあえず夏休みの間は残らせてくれと監督に頼み込んだ。藤真監督はそれを快く受け入れてくれた。本当なら冬まで一緒に頑張ろうぜと言いたいところだけど、の気持ちが納得できるところまで頼むと言って握手を交わした。

そんな前向きな翔陽に影が落ちたのは、決勝リーグ直前のことだった。2年生の間で妙な噂が流行っていた。それが3年生の耳に届くまでには少し時間がかかったけれど、とにかく噂の出処は2年生だった。

と海南の牧が手を繋いで歩いているところを見た者がいるというのだ。

牧とが部の外で親しくなって約2年、付き合い始めてからはちょうど1年が経とうとしていた。決勝リーグに向かって変わらずハードな練習に励む牧と、部活をやりながらも進路のことを考えている、ふたりはまだこの事態が迫っていることを知らなかった。

決勝リーグ初日を終えた牧の元にからメッセージが届いたのは、帰宅途中のことだった。海南は翔陽を下した新興校を破り1勝をあげたところだった。長居はしないから部屋に行ってもいいかというものだった。とりあえず試合は終わったし、牧は大丈夫と返信したものの、なんだかちくりと胸に引っかかるものを感じていた。

牧が帰宅して1時間ほどでやってきたは、部屋に入るなりまっすぐに牧の胸に飛び込み、ぎゅっと抱きついた。背中を撫でてやり、しっかり抱き締め返した牧を見上げて、は悲しそうに笑った。

「バレたかもしれない」
……翔陽にか?」
「たぶん、後輩に」

特に秀でたもののある部員ではなかったという。試合経験もなく、大量にいる部員のうちのひとり。そういう後輩だった。だが、予選で負けたあと少しして「先輩って海南に友達とかいるんですか」と言われたという。

「実は同中の子が何人かいるのね。だからその子たちのこと言ったんだけど、ああ、これ、バレたなと思って」
「まあ、もう1年経つしな。言いふらしたりはしてないけど、隠してもいないんだし」
「だから、藤真たちに知られるのも時間の問題だと思う」
、オレは大丈夫なんだから、自分のことちゃんと守れよ」

牧が頬を撫でてくれるので、は目を閉じて頷く。

……引退、したらだめなのか」
「引退にさせてくれるかな」
「3年のインターハイ予選が終わってるんだから、退部じゃないだろ」

夏まで頑張りたいと考えているの気持ちは尊重したい。だが、牧はの身の方が心配だ。自分と付き合っていることが明るみになったからと言って、何も部員たちに袋叩きにされるわけじゃない。けれど「ふーん」で済むとも思えない。の心と体が心配だ。

、お前はちゃんと3年間頑張ってきたんだし、翔陽はそういうお前に支えられてきたんだし、何も責めを負うことなんかないんだからな。そばにいてやれないけど、それはオレが1番わかってるし、、誰よりも好きだからな。怖くなったら、オレを思い出せ。いいな?」

しっかりと頷くにキスをすると、牧は強く抱き締める。近くにいてやりたい、そばにいて守ってやりたい。だけど、それは叶わないから、せめて心は近くにいるという気持ちを込めて。

「ありがとう。紳一がいてくれるってわかってるから、怖くないよ」
「もし辞めることになったら、インターハイ見に来たらどうだ」
「そんなお金ないよ〜」

それもそうだと笑う牧。手を伸ばしたは、試合で崩れた前髪に指を絡ませて笑い返した。

「もう、前髪下ろしてもいいよ」
……そうだな、もう、隠すことは何もないからな」

もう厳重な切り替えをしなくてもいいのだ。牧はが、は牧が好きで、それは覆らないのだから。

それから2週間ほどの間は、牧が決勝リーグ中ということもあってか、からの連絡は一切なかったし、後で伝え聞くところによれば、翔陽のスタメンは普通に観戦に訪れていたという。もちろんはいないけれど、特に荒れている様子もないようだという話だし、牧との関係に気付いたという後輩さえ大人しく黙っていてくれれば、のマネージャー生活は夏に満了することができる。

決勝リーグが終わり、海南は全勝優勝、例年通りインターハイへの切符を手に入れた。牧はMVPも獲得し、名実ともに神奈川ナンバーワンとなった。これで牧は神奈川の夏を3度制したことになる。さて、決勝リーグが終わったということは期末である。

海南バスケット部は慌ただしく期末に突入したけれど、普段からと一緒に予習復習をちまちまやってきた牧はあまり焦らなくても大丈夫。その上彼の場合、大学への推薦は決まったも同然なので、県内最強の主将として恥ずかしくない程度にできていればそれでいい。

の方も期末を無事に乗り越え、お互い週明けからテスト休みに入るという金曜のことだった。

、どうしたんだ急に」
「紳一……ごめん、連絡もなしに」
「そんなことはいいけど、大丈夫か、顔色悪いぞ」

テストが終わったので、土曜の練習は休み、日曜は敵情視察に行くことになっていた牧だが、それを控えて最寄り駅に帰り着くと、改札を出たところにがぽつんと佇んでいた。夏服のは通学用のバッグの他にも荷物をたくさん抱えていて、青白い顔をしていた。

「ごめん、ごめんね、こんなことしたくなかったんだけど、どうしても紳一に会いたくて」
「だからどうしたんだ」

牧はの腕を引いて改札を離れ、駅舎の柱のところまで来ると、の大荷物を少し取り上げて肩に担いだ。やけに重い。テスト休みには入るが、終業式はまだ先だ。なんだこの荷物。

「全部バレた。ふたりでいるところを後輩に見られてたみたい」
「それはこの間も――
「退部した」
――は?」

は俯いて牧の腕に手を添えると、意識的に呼吸をしている。

「引退にさせてもらえなかったっていうのか」
「退部届書いちゃった。顧問の先生、首傾げてた」
「誰がそんなこと――
「ううん、そういうのはいい。みんなの気持ちもわかるから。だけど、やっぱりちょっとキツい」

キツいのは当然だ。と牧が付き合っていたことの是非はともかく、みんなと言うからには、おそらく殆どの部員がそれをよしとしなかったのだろう。がどんな誹りを受けたのかと思うと冷静ではいられなかったけれど、牧はなんとかそれを飲み込んだ。わかっていたことだ。覚悟していたはずだ。

「テスト終わったよね、予定とかどうなってる?」
「予定? 明後日は愛知の予選を見に行くことになってるけど、明日は休み。それが――
「い、一緒にいてもらえないかな、部屋に、いさせてもらえないかな」

牧は思わずを抱き寄せて頭を撫でた。可哀想に、どうしてこんな目に。

「いいに決まってるだろ。そんなに萎縮するなよ、ずっと一緒にいるから」
「ごめん、ほんとにごめん」
「謝るのやめろ。お前は何ひとつ悪いことなんかしてない」

以前ならトッピングプラスのトリプルジェラートを奢ってやるところだ。だがもう、冷たくて甘いジェラートなんかでは誤魔化しきれない。の3年間は最後の最後で最大級に傷付けられて終わった。それはひとりで飲み下せるものではない。ひとりの女の子には荷が重すぎる。

荷物を殆ど取り上げた牧は、の手を引いてアパートにまっすぐ帰った。テスト明けで眠かったから少し昼寝しようと考えていたけれど、それどころじゃない。

「テストで疲れてるのにごめんね」
「謝るのやめろって言わなかったか? そんなことで怒るくらいなら付き合ってないだろ」
……今日、帰らなくてもいい?」
「オレは問題ないよ。の家が平気なら」
「平気。今ちょっとどこにも行きたくない、何も考えたくない、紳一、お願い――

腕を伸ばしてきたを受け止め、しっかりと抱き締める。梅雨明けが近付いてきていて蒸し暑い7月の午後は、いつかのように薄暗くて静かだった。働いている単身者が多い牧のアパートは静まり返っている。を抱き締めたまま、牧はベッドに腰を下ろし、背中を撫でる。

「全部忘れろ。今は何も考えるな」
「お願い、何も考えられないようにして――――

乱暴に交わされるキスと共に、牧はの夏服に手をかけた。