中間テストを3日後に控えたある日、牧紳一は寄り道もせずにまっすぐに下校していた。親元を離れ、学校から2駅の場所でひとり暮らしをしている牧だが、基本的には部活漬けで家にはあまりいない。朝は早くから練習に出かけ、平時であればどんなに早くても19時くらいにならないと帰宅しない。
なので、越してきて1ヶ月以上経つこの町にもあまり馴染みがない。彼の通う海南大附属にはスポーツ特待生用の寮があるのだが、たまたまこの町に親戚が住んでいるので、それを頼ってアパートを借りた。あまり家にいないとはいえ、まだ15歳の彼の生活を親戚一家はサポートしてくれている。
テスト前で部活がないので、一度アパートに帰ってから親戚宅へ顔を出してもいいなと考えながら、牧は駅の改札を出る。こじんまりとした駅で、駅ビルもロータリーもなく、線路は少し低いだけの平地、駅舎も平地、改札を出れば商店街とは言えない程度の店が並ぶ通りが左右に伸びているだけ。
こんな時間に駅前に降り立つことがほとんどない牧は、知らない町に来てしまったような錯覚を覚えた。
配送トラックを避けつつ、牧は改札の対岸へと移動する。高さのない雑居ビルの前を通り過ぎ、少し腹が減ったから、何か食べて帰ってもいいなと考えていた。その時、雑居ビルの階段から降りてきた人物とぶつかってしまった。身長は今のところ175センチだが、牧の場合15歳にしては大変筋肉質なので、相手が吹き飛ぶ。
吹き飛んだ相手の手から紙が投げ出されて、地面にバラバラと散らばる。それが見えた牧は慌ててしゃがみこむと、落ちているカードやら紙やらを拾った。表面が反射して、カードも紙も、何が書いてあるのかはすぐにはわからなかった。
「すみません、お怪我はありませんか」
「こちらこそすみません、確かめもせず飛び出してしまって」
若い女性の声だった。それなら簡単に吹き飛んでしまっただろう。牧は申し訳なく思いながら、手に拾い集めた紙を持って立ち上がり、相手の女性に謝ろうとして止まった。
「あれっ、ええと確か――」
「ああっ! 海南の牧! あ、いや、牧くん!」
相手も牧の顔を見て甲高い声を上げた。
「間違ってたらごめん、翔陽のマネージャーさんだよな?」
「そ、そう。この間はどうも」
彼女は海南大附属バスケットボール部とはライバル関係にある翔陽高校の制服を着ていた。その顔に見覚えがある。つい先月に練習試合をした時に見た顔だった。海南には女子マネージャーはいないし、翔陽にもこの子ともうひとり女子マネージャーがいるだけなので、目立つ。だから覚えていたのだ。
「この辺り、地元なのか?」
「ええと、まあそんなところ」
「……どうしたんだ、それ」
もごもごと言葉を濁している翔陽の女子マネージャーが背けていた頬には大きなキズテープがべったりと貼られていた。もしやと思い、牧は雑居ビルと手元の紙を素早く確認した。散らばっていたカードは雑居ビルの2階に入っている整形外科の診察券だった。
見れば彼女は足にも大きなキズテープが張り付いており、ブレザーの袖から覗く手首にはサポーターが巻かれていた。選手でも中々こんな怪我はしないだろうに、部活とは関係ないのか?
「翔陽ってマネージャーがそんな満身創痍になるほど激しい練習するのか?」
「まさか。練習は関係ないよ」
「そうか。あ、これ、診察券。てか、怪我してたのに、痛くなかったか」
「ありがとう。平気。顔と足は擦りむいただけだし、手首の捻挫を診てもらっただけだから」
「そっち、利き手だろ。大変だな。テストも近いのに」
牧が差し出した診察券や処方箋を彼女は怪我した方の手で受け取ろうとした。掴めないわけではないようだったが、怪我を見られたくなかったのか、反対の手を差し出してきた。反対の手の指にもキズテープがいくつか巻かれていた。つい目で追うと、キズテープのある頬の上には青タンが出来ている。
「怪我だらけじゃないか。本当に痛くないか? 家、近いなら送っていくよ」
何があったか知らないが、こんなにボロボロに怪我をしている女の子は見たことがなかったので、牧はついそう言った。肩に引っ掛けているバッグを支えるのも大変そうだし、今日は時間があるからお詫びと言っては何だけれど、力になれるならと思った。
「えっ、いいよそんなの。てか練習ないの?」
「いくらうちでもテスト前はな。翔陽もそうだろ」
「まあ、建前はね。みんな適当に外でやってるみたい」
「おいおい、テストはいいのか。余裕だな」
横断幕に「闘魂」などと勇ましい言葉を掲げている割に翔陽の選手は荒っぽい人物が少ないし、強豪校の選手には自己管理が得意なのも多いはずだが、今年の翔陽は中間くらいなら捨てるつもりでいるんだろうか。牧はそんなことを考えて、つい笑った。
「……なんか、試合の時とはずいぶん変わるね」
「えっ、何が?」
「牧くんの印象。別の人みたい」
「そうかな。特に意識してないんだけど」
怪我のせいなのか、ずっと不貞腐れたような顔をしていた翔陽のマネージャーだったが、初めて笑った。しかし頬のキズテープが邪魔をしてひきつれた微笑みになってしまっている。痛々しい。なんだか可哀想だなと牧が思っていると、彼女の肩にかかっていたバッグが滑り落ちかけた。牧はとっさに手を伸ばしてバッグを押さえる。
「痛った!」
「ご、ごめん、つい」
「いや、違うの、ごめんありがとう」
「やっぱり送ってくよ。荷物、貸しなよ」
「平気だって。薬局で湿布と塗り薬もらわなきゃいけないし」
手にした処方箋をひらひらと振る彼女の肩から、バッグを取り上げると、牧は自分の肩にかけてしまった。
「じゃあ薬局行こうか」
「な、なんなの牧くん」
「そういや名前、知らないんだけど。マネージャーさん」
「……。あ、いや、。」
「じゃ、行こうかちゃん」
牧に背中を押されたは、狐につままれたような顔でよろよろと歩き出した。
薬局と言っても、ドラッグストアの中にある処方箋受付の薬局だった。パーテーションで仕切られた薬局の待合のソファに座ったふたりは、小声でぼそぼそ喋っている。
「座るのも痛むのか」
「足の傷がね。深くないんだけど、擦り傷って動くと痛いでしょ」
「てかそんなにあちこち怪我して、一体何やったんだ」
ちょっと転んじゃいまして、という程度の傷ではない。素朴な疑問を投げかけた牧だったが、は苦笑いをして背もたれに寄りかかった。苦笑いにひきつれたキズテープにシワが寄る。
「んー、オフレコでお願いしたいんだけど、ちょっと学校選びを間違えてね」
「……翔陽がか?」
「私中学の時これでも女バスにいてさ。下手くそだったけどバスケは大好きで」
高校の運動部の女子マネージャーには中学時代にその競技をやっていた経験のある子も少なくない。もそのくちだったらしい。
「通える範囲でバスケの強いとこ、と思って翔陽受験したんだけど、間違えちゃった」
「あんまり環境がよくなかったのか」
「どこ中の誰が入ってくるかなんて、わからないもんねえ」
の言っている意味がわからなくて、牧は首を傾げた。それに気付いたはまた苦笑い。
「あー、恥ずかしい。情けない話なんだけど、これ、藤真のファンにね」
「…………は?」
牧と同じく今年の神奈川の新人である藤真は、いずれ翔陽を背負って立つことが決まっているような選手で、なおかつアイドルのような可愛らしい顔をしていて、既に校内外にファンがいる選手でもある。これから始まる予選でさらにファンが増えていくに違いない。
「ファンに、って?」
「嫉妬。部員は藤真だけじゃないのに、藤真の近くにいることが気に入らないみたいで」
「それで殴られたのか?」
「ううん、突き飛ばされて倒れた。その時に手をついちゃって、それで捻挫」
倒れた先が学校の植え込みだったので、顔や足の傷はその時にできたものだとはまた苦笑いで答えた。だが、牧は返す言葉がなくて俯いてしまった。なんなんだそれ。おかしいだろ。
「あんな顔したのがいるって知ってたら受験しなかったんだけどねえ」
「でもそんな、マネージャーがいちいちそんな目に遭ってたら3年間困るだろう。監督は?」
「今うちの監督具合悪くて、来ないことも多いんだよね。てか、そんなことチクれないでしょ」
「チクるとかそういう問題かよ」
「だって、そしたら私がマネージャー辞めさせられておしまいだもん」
は少し厳しい顔つきをしている。牧はそんな理不尽な処遇があるかと思うが、こればかりは学校が違うので何とも言えない。海南のようにマネージャーの必要がないほどスタッフがいる高校の方が珍しいんだろう。
「別に藤真目当てでマネージャーになったわけじゃないし、そういうのは不本意だから」
「そりゃあそうだろうけど、その、つらくないか?」
「そりゃつらいよ。だけどこんなことに屈して辞めるのも嫌だもん」
牧の方を見ないまま、はへらへらと笑った。調剤カウンターから呼ばれたはまたよろよろと歩いて行く。その後姿をぼんやりと見つめながら、牧は翔陽の選手たちを思い出していた。才能や素質に頼らず、しっかりと練習を積み、決して妥協を許さないようなタイプの選手が多かったように思う。も同じらしい。
牧は中学の時に付き合っていた女バスの同級生も思い出した。あの子もこんな風に初志貫徹にこだわる子だった。付き合い始めたのは2年の秋、別れたのは3年の夏。二次性徴に邪魔され体調不良に悩まされ伸び悩んだ彼女は、バスケット選手の端くれとして牧への嫉妬が消えないと言って別れを切り出してきた。
バスケットの強い高校に行きたいと思っていたけど、そうしたらもっと色んなことに嫉妬するとわかっているから、中3で引退したらバスケットはやめると言い残して彼女は去っていった。その後はどうしたか知らない。
がまたよろよろと戻ってきたので、バッグを差し出して湿布やらをしまわせると、また自分の肩に担いだ。まだ1年の1学期だというのに、今からこんなことでは先が思いやられる。しかし自分に何ができるというんだろう。同学年とはいえ、ライバル校の選手で、さっき知り合ったようなもので、友達というほどでもないのに。
「あっ、そうだ。だから、実はこの辺り地元じゃないんだ。家はもう少し先。誰かに見られたくなかったから」
翔陽の生徒はいなかったけれど、その代わりライバル校の牧に遭遇してしまったというわけだ。薬局を出たの袖を引いた牧は、駅から見て右の方向を無言で指差した。
「なに?」
「アイス、食べるか?」
「は?」
なんだか傷だらけのが可哀想になって、けれどそれでも戦うと覚悟を決めているを尊敬もし、頑張ってほしいと思った。バスケットと関係のないことに煩わされて傷ついたを、バスケットと関係のないことで緩ませてあげたかった。ちょうどジェラートショップが目に入ったので、ついそんなことを言ってしまった。
しかしその割にはすごくいい思いつきのような気がした。そんなに高いものじゃないし、さっきぶつかってしまったお詫びも兼ねて、にアイスを奢ってやろうと思った。牧はぽかんとしているの袖を引いて歩いて行く。そして自分ひとりでは絶対に入らないであろうジェラートショップに突撃する。
「好きなの選びなよ」
「え、ちょっと待って意味わかんないんだけど」
「さっき吹っ飛ばしちゃったし、君のこと応援したいし」
「私、これでも翔陽のバスケ部員なんだけど」
「それって何か関係あるの?」
はライバルで、とか、練習試合のリベンジが、などとぼそぼそと理由を並べ立ててみているが、どれも特に牧と険悪にならなくてはいけない理由にはなりそうもなくて、肩をすくめた。
「いいのかなあ、こんなこと」
「たまに学校の外でもいがみ合うのが好きみたいなやつもいるけど、そんなの疲れるだけなのにな」
「まあ、そうだね。じゃあお言葉に甘えて。牧くんは食べないの」
「実はちょっと腹減ってて、甘いモノより普通にメシ食いたいんだよね」
は初めて声を立てて笑った。小さな子供のような、可愛い笑い声だった。
「じゃあ私があれおごったげる」
「いやそれじゃオレがこれをおごる意味が」
「送ってってもらうお駄賃。ここから少し離れたところにあるバス停まで行くから、そこまでお願い」
はジェラートショップの外に見えるたい焼きやたこ焼きを扱う店を指さし、目を細めてにっこりと笑った。正直、牧もあの店から漂ってくる香ばしいソースの香りに胃を刺激されていたところだった。なんだか変な展開だけれど、まあいいだろう。牧もにっこりと笑って頷いた。
「へえ、そんなに辞めちゃうの。せっかく入ったのにもったいないね」
「実はちょっと問題になってるんだよな。別の部に入ったりすればいいけど、学校来なくなるのもいたりして」
はマッターホルンのようにそびえ立つダブルのジェラート、牧はお好みたい焼きを食べながらのんびり歩いていた。駅前を出てしばらく歩くと、別の路線の駅へと繋がる系統のバスがあるらしい。牧のアパートからも遠くない。バス停に寄り道したところで、駅から真っ直ぐ帰るのと5分と変わらない程度の距離だった。
海南大附属バスケット部では、毎年大量の新入部員が5月までにほとんどいなくなる。中学時代にはバスケット部の部長をやっていましたというのばかりが集まってくるが、それだけにぽきりと折れてしまうと修復が効かず、退部してしまうのも多いと牧が言うと、は大きく何度も頷く。
「確かに。言われてみるとうちなんかは4番経験者は数えるほどしかいないからなあ」
「そうなのか? 翔陽だって前から強豪校として有名だろ」
「そうなんだけど、それよりは海南に勝ちたいみたいなハングリーな人の方が多いかも」
牧も大きく頷く。確かに海南に入ってすぐに辞めていくようなのは能力云々以前に、中学時代にエースだった過去をそのままひきずってやって来るタイプが多い。トップにいた自分が下から数えた方が早いような立ち位置にまで転落したことに耐えられないで辞めていく場合もある。
「今年で言うと、4番やってたのは藤真でしょ、花形、一志、えっと後は〜」
「花形ってあのメガネのデカいのか?」
「そー。おっきいでしょ。今確か189だったかな」
「もうすぐ190か。うちも今先輩には190台がいるけど、オレの世代はあんまりいないんだよな、高そうなの」
特にの場合、選手ではなくマネージャーだというせいもあるだろうが、やはり海南と翔陽であることは何も関係がなかった。話している内容はそれぞれの部のことばかりだったけれど、牧にもにも相手を面憎く思う理由がないので、険悪になりようがなかった。
それよりは、ふたりとも中高と続けてバスケット部なので、あるある話だの変わった習慣だの、話のネタは尽きない。話は同学年から先輩、全国区の選手にまで及び、歩いて15分ほどの道のりはあっという間に過ぎた。交通量の多い幹線道路を走るバスは平日の昼間でも本数が多く、時刻表上ではあと10分もすれば到着のようだ。
「予選、今年はどうなんだろね。ブロック最終、どことあたりそう?」
「うーん、先輩の間でも意見が合わないみたいなんだよな。三浦台って言う人が多いんだけど」
「三浦台ってちょっとガラ悪い……よね?」
「ははは、リーゼント率高いよな」
「リーゼントがリーゼント笑ってるし」
厳密にはリーゼント風、なのだが、牧は少し恥ずかしくなって生え際を指で掻いた。翔陽でもここ数年、海南に至ってはもう10年以上、予選はシードである。毎年4戦勝ち抜いてきた中堅どころとの試合が初戦になる。しかもどちらもそれに負けることはほぼ100パーセントないと言っていい。
つまり、とんだ番狂わせが起きない限り、海南と同じブロックになってしまったら、そこから先には勝ち進めない。それでも4戦勝ち抜いてきたチームは果敢に挑んでくるけれど、勝てた高校があった試しがない。
「海南て3年生は夏で引退?」
「いや、冬まで残る人も多いらしい。推薦で大学決まるのも多いからな」
「ああそうかあ。マネージャーはそういうわけいかないからなあ。先輩夏で引退なんだよね」
もうひとりの女子マネージャーは3年生で、夏には引退してしまうらしい。とすると、2学期からはあまりよろしくない環境の翔陽バスケット部ではひとりということになる。少し心配になった牧は、声を潜めた。
「ひとりで平気か?」
「平気じゃないかもしれないけど、しょうがないよ」
「友達誘ってみるとかそういうのはダメなのか」
「そこはほら、マネージャーと言えど中々にハードな部活なもので、運動部経験のない素人にはキツいよ」
牧を見上げたはにんまりと笑ってみせる。その向こうにバスが見えた。
「アイスとバッグ、ありがと。決勝リーグで会おう!」
「おう。大変だろうけど、頑張れよ。困ったら藤真に八つ当たりしとけ」
「そうする。またね!」
バスが到着すると、はそう言って拳を突き出した。牧も拳で突き返してやる。よろよろしているがバスに乗り込み、空席を確保して座ると、手を振ってくるので、牧も軽く振り返し、バスが走り出すのと同時にその場を離れた。排気ガスの臭いが舞い上がり、暖かい風に制服の裾がはためく。
なんだか不思議な1時間ばかりの出来事で、牧は急に現実感を失って目が眩んだ。春の白っぽい空は薄曇りで、頭がぼんやりしてくる。今別れたばかりのの顔もぼんやりと歪んで、はっきりとは思い出せない。
けれど、の頬でひきつれていたキズテープだけが鮮明な記憶となって残った。女の子のつるりとした頬を覆い尽くすキズテープ、その無機質なベージュ色がちらついて、牧はそっと自分の頬に触れた。も大変だろうが、藤真もいい迷惑だな。も藤真も自分も、ただバスケットが好きなだけなのに――