ニケに捧ぐ恋の歌

05

夏休みに突入し、合宿に出た牧とは、夜になって少しメッセージのやり取りをする程度で、真面目に練習に取り組んでいた。また、の報告によれば、再度細切りにされたジャージとTシャツに関しては部費から援助が出ることになったそうで、結果的に家族の方も丸く収まったということだった。

自身も、牧に会ったことで気持ちがリセット出来たらしく、自分でも驚くほどすっきりとした気分で合宿に取り組んでいられるという。の境遇に関して憐れむ気持ちがあるのは否定しないけれど、牧はそれについてはもうあまり深刻に心配していなかった。

は強い。何があっても動じないというわけではなくて、どんなに傷付けられても腹が立っても、翔陽のバスケット部でマネージャーを全うするという自身の目標に対して妥協をしない強さがある。あまりにひどく傷付けられれば牧にすがりつきたくもなるけれど、マネージャーを途中で投げ出そうなどとは思わない。

だから、合宿にインターハイにと、に危害を加える人間のいない今は、心配がない。思うまま出来る限りの努力でマネージャーとしての務めを果たせばいい。それでもし心が疲れて傷ついてしまったら、それを癒やすことこそ自分の役割だと牧は考えている。

学校を離れ部活を離れ、バスケットからも少しだけ離れた場所にいるのはただの牧紳一で、で、そこにはふたりを苦しめ悲しませるものはなにもないのだから。

頑張れ、お互い行けるところまで行こう。そして、終わったら海に行こう――

だが、インターハイ3日目に事件は起こる。

午前中に試合を終えた海南バスケット部は、午後から行われる翔陽の試合を観戦するため、客席で一塊になっていた。初戦を勝ち抜いた翔陽の2戦目、大阪の高校との試合だった。3年生ばかりのスタメンの中に、2年生の藤真がひとり。だが、その中心は藤真だった。

明らかに翔陽が優勢のゲームだった。というか、それをひとりで押し込んでいるのが藤真だった。翔陽ベンチは大盛り上がり、客席の部員も沸いていた。その中でだけが真剣な眼差しで観戦していたのを目の端に止めた牧は、俯いてこっそり頬を緩めた。その時だった。

顔を上げてコートを見下ろした牧の視界で、藤真が吹っ飛び、派手な音を立てて倒れた。場内が騒然とする中、倒れた藤真の頭から血が流れ出し、悲鳴が上がった。のものではない。どうやらここまで追いかけてきたファンがいたらしいが、それどころじゃない。試合は一時中断、救急車が呼ばれ、に付き添われた藤真は担架で運び出されていった。

2年生ながら既にチームの中心であり、エースであった藤真を欠いた上に、それが試合中の接触による怪我というショックが重なり、動揺した翔陽はリードしていた点差もあっという間に逆転され、あれよあれよという間に試合は終了、敗北した。勝利に沸く対戦校に対し、翔陽は監督も含め全員が呆然としていた。

インターハイ中とはいえ、夜寝る前には少しだけメッセージのやり取りをしていたふたりだったが、この日、からは何も届かなかった。牧も余計なことはせず、「おやすみ、好きだよ」とだけ送信して眠りについた。

その後の翔陽と藤真がどうなったのか、それはトーナメント戦を勝ち進んでいた牧たちには何もわからなかった。だが、翌日の夜、から「ただいま。待ってる。大好き」とだけメッセージが届いた。翔陽はもう神奈川に帰ったらしい。牧はまた簡単に返信すると、そこでスイッチを切り替えた。もう翔陽は消えたのだ。

8月の真ん中で燃え盛る炎のような暑さの中、海南も翔陽もしばしの休暇に突入した。翔陽は例外的に1週間、海南は例年通り5日間、練習がない。その間も個人的に練習しているようなのが少なくともひとりはいるのが海南だけれど、牧は休暇中はきちんと休む主義だ。と付き合いだす前からそうしている。

その休みの初日、夏でもまだ薄暗い早朝のバス停で牧はを待っていた。約束通り、海に行くのだ。がいつも使っているバスは幹線道路を走って大きな駅と駅を繋いでいる系統だ。距離も長い。そのため始発も早い。遠回りして駅まで来るより早い、とはバス停待ち合わせを選んだ。

歩いてすぐに海、というわけではないけれど、牧の場合、最寄り駅から2駅で海南、3駅で海である。

「おはよー!」

バスから転がり落ちるようにして出てきたは、早朝なので少し声を潜めつつ、小走りで牧に飛びついた。トップスがホルターネックなので、受け止めた牧の手にの肌が触れる。早朝でもなんとなく暑い空の下、しかしの背中は少し冷たかった。牧はの手を取って歩き出す。

「大変だったな、大丈夫だったか?」
「私は意外と平気だった。病院とかその後の処理とか、やることありすぎてぼんやりしてる暇なかった」
「まあそうだろうな。マネージャーなんだし」
「参ったよ、親が間に合わないって言うんで、私と監督、病院の待合室で泊まり」

はがっくりと頭を落として、牧にぺたりと寄り添った。藤真の両親も急いだのだが、8月に突入していて長距離移動は簡単に席が確保できない状態にあった。

「実は監督もかなり前から体調があんまり良くなくて、こっちに帰ってきてからとうとう倒れちゃって」
「倒れた? 大丈夫なのか」
……無理みたい。エースも怪我で検査結果が出るまで運動禁止、監督も辞任、笑っちゃうね」

もちろん笑い事じゃない。藤真は頭を強打して出血までしたのだ。問題ないと判断されるまではこの措置は当然だし、監督の方も体調不良とあればそれも致し方ない。だが、残されたたちは悲劇が重なりすぎて感覚が麻痺している。笑い事じゃないけれど、笑うしかないんだろう。

「今年は越境組がほぼ全員帰省したからなあ。みんなやっぱり疲れてるんだろうね」
も疲れたか?」
「気持ちがちょっとね。だけど1週間も休みだと思うと、それも少しつまらない気がして」

部活があるのが当たり前になっていて、丸々1週間も休みでは違和感を感じるまでになってしまったか。牧はつい笑った。ランナーズ・ハイみたいだな、と思ったがそれは言わないでおく。

「だけどもういいんだ。時間は戻らないんだし、マネージャーがひとりで練習してもどうにもならないんだし」
「オレの方が少し先に休み終わるけど、練習はいつも通りだからな。夜は時間あるよ」
「会えるの?」
「夜でいいなら」

はまた牧の腕にぺたりとくっつき、嬉しそうに鼻を鳴らした。

「中学入ってからずっと部活中心の生活で、今もそうだけど、なんだかすごく夏休み、って感じ」
「そういやそうだな。オレもこんなの小学生以来かもしれない」
……たまにはいいよね、1日くらい」
「当たり前だろ」

まだ人の少ない駅から電車に乗り込み、ふたりは海に向かった。

……ちょっと、そんなに見ないでくれる」
「見るくらいいいだろ」
「恥ずかしいってば」

水着姿のを眺めつつ、牧は腕組みである。彼女の水着姿を楽しんで何が悪い。

当初の目的はにサーフィンを教えるということだったのだが、インターハイの件も含め、は疲れているだろうし、サーフィンなら何も今日でなくてはならない理由もないし、1日遊ぼうと牧は提案した。海水浴場ではなくて、普段牧がよく波乗りに来る浜だが、少し場所をずらすと波の穏やかなところがある。

「でもちょっと地味だな」
「地味? 派手なのが好きなの?」
「派手っていうか、布が多くないか」
「多くないよ! ちょうどいいよ!!」

一応セパレートなのだが、トップもボトムも確かに牧の言うように布の面積が広い。色もブルーベースなので、まあ地味といえば地味かもしれない。頬を染めてふくれるの手を引き、牧は波打ち際まで歩いて行く。まだ時間が早いので、日差しが斜めに差し込んでくる。

「私、海に入るのなんて何年ぶりだろ」
「泳ぎは?」
「それは大丈夫。ちっちゃい頃プール教室通ってたし」

打ち寄せる波につま先を浸しながら、は見る間に笑顔になっていく。泡立つ波の白に夏の日が反射してを照らす。試合の時の厳しい表情とはまるで別人のようにも見える。いや、別人なのだろう。厳しい顔をして藤真たちを見ているのはここにいるではない。

歓声を上げると一緒に海に入っていく。久しぶりすぎる海に少し緊張気味なようなので、牧はの腕を引いて抱きかかえると、波に飛び込んだ。驚いたの腕が絡みつく。

「ちょ、急にやめて! 鼻に入るじゃん!」
「油断したな」
「もう、バカ!」

に頭を押さえつけられた牧がまた波に沈む。波間から顔を上げると、牧の髪はすっかり水分を含んでぺたりと垂れ下がっていた。普段はリーゼント風にまとめあげているので、ずいぶん長く感じる前髪がこめかみに張り付いている。その首を振って髪を振り払う牧の頬にの指が触れる。

「髪下ろしたところ、初めて見た」
「えっ、そうだったか?」
「前髪、長いんだね」
「ははは、ちょっとウザいよな」
……ううん、そんなことない、かっこいいよ」

かき上げられてしまった前髪を一筋、解いて指に絡める。の指に絡まった牧の髪がくるんと跳ねて雫が飛び散る。波に揺られながら、ふたりは額を合わせた。

「じゃあ、ずっと、下ろしていようか?」
「ううん、やだ」

触れそうで触れない唇が少し塩辛い。

「私だけにして。そういう紳一は、私以外に、見せないで――

きらきらと朝日が反射する波間でふたりの影はひとつになって揺れていた。

さすがにお盆休み時期の海である。昼前には混み出し、途端に気恥ずかしくなってきたふたりはそそくさと海を後にした。元々昼は帰ってきてからにしようと決めていたので、それが少し早くなっても問題はない。牧の最寄り駅まで戻ると、駅前の古い喫茶店に入る。

あまりに昭和な佇まいながら、昼時ともなれば人がひっきりなしに出入りしているのをよく見かけるので、牧が気になって仕方なかった店だ。しかし店構えに迫力がありすぎてひとりで入る勇気がなかった。それをに話すと行ってみたいというので、恐る恐るやって来たというわけだ。

はたして喫茶店は外観とメニューがとてつもなく昭和である以外に何も珍しいこともなく、ふたりは少し拍子抜けした。家族でやっているのか、キッチンで黙々とフライパンを振る男性に対して、フロアにいる女性はずっと喋りまくっている。牧とにもガンガン声をかけ、返事を待たずにまた別の客に声をかけている。

騒がしい店内でふたりはお互いにしか聞こえないような声で話す。

「じゃあ、しばらく監督不在なのか。つらいな」
「まあでも、今までも来られないことが多かったし、慣れてるよ」
「でも試合の時は必ずいただろ」
「心配なのはそれだけ。普段の練習はいなくても全然平気」

基本的に部活の話はしない習慣になっていたが、こんなに長い時間を一緒に過ごすのは初めてで、話題が尽きてしまっていた。まあ、監督の話なので特に問題もあるまい。

「そうか? お前の負担が増すんじゃないか?」
「うーん、もうそこは正直に言おうと思ってる。ひとりで出来ることにも限界があるし」

それに、マネージャーは管理が仕事である。その範囲を大きく逸脱したことを求められても責任を追い切れない。

「監督か。OBとかでいい人がいればいいのにな」
「一応監督があたってくれてるみたいなんだけど、望み薄みたいで」

既に全国区であり、神奈川では最強の名をほしいままにしている海南と比べ、翔陽は関東ではよく知られた強豪校ではあっても、少々実績に乏しい。ここ数年インターハイを逃したことはないけれど、それは現在の監督の就任期間と重なるので、その監督がいなくなってしまうと少し不安が残る。

そのため、藤真のような優秀な選手をたくさん排出してきた割に、今でもバスケットに関わる仕事をしているというようなOBがほとんどいない。大学に進学してバスケットを続ける部員は多いが、その先は途端に少なくなる。だいたいが大学までを区切りに、バスケットとは直接関係ない職に就く。

「むしろ私はもうふたりくらいマネージャーが欲しいな。女の子。ド素人の」
「なんでド素人なんだ?」
「余計などうでもいいこと全部やってくれればそれでいいから。バスケのことには関わらなくておっけー」

が真面目な顔で言うので、牧は吹き出した。がもう少し選手としても活躍できる状態であれば、いずれ指導的立場の職に就けたかもしれないな。のんびりした女子校のバスケ部の顧問の先生なんかいいんじゃないか? 牧はひとりで想像して少し楽しくなってきた。

「どっちみち国体は関係ないんだし、冬の予選までに状況が整うといいんだけどねー」

だが、牧と一緒にいる以上はどこか他人事のようであった。やはりにとっても、こうして学校も部活も離れた牧との時間は、翔陽のマネージャーとは別の自分になっているんだろう。

食事を終え、古めかしい喫茶店を出たふたりは炎天下の中を歩いて牧のアパートまでやって来た。部屋の中は外より暑いくらいに熱されていて、窓を開け放して熱気を逃がしつつ、エアコンをつける。あまり物がない部屋で、そのくせ壁にはユニフォームが堂々と下げられていて、はそれを見上げて目を細めた。

何度戦っても勝てない小憎らしい海南のユニフォームなのに、今はまったくそんな気にならない。

「本当に大丈夫なのか?」
「うん。ほら、去年までもうひとり女子マネいたでしょ。彼女のところに行くって言ってあるから」

牧に並んで座ったはにやりと笑った。去年まで在籍していた2年先輩の女子マネージャーは現在千葉の大学に通っていて親元を離れている。同じ女バス経験者同士、とはいい関係にあった。

「それなら、いいけど」

小声になった牧はつい顔を逸らした。今日、は牧の部屋に泊まるのである。

だが、早朝から海に出かけて遊んできたふたりは、涼しい部屋の中にいるせいか、徐々にうとうとし始めた。普段の練習の方がよっぽど動き回っていて疲れるはずなのに、リラックスした体は今にも眠りに引きずり込まれそうだった。大あくびをしているをからかいながら、牧も瞼が重くなってくる。

「少し寝るか?」
「一緒に寝よー」
「床の上で寝たら腹壊すぞ」

そう言いつつも、ラグの上に転がったの隣に牧は身を横たえた。ベッドの上から引きずり下ろしたタオルケットを一緒にかける。は既に半目になっていて、まばたきすら億劫そうだ。牧は小学生の時のプールの授業の後を思い出す。あの強烈な眠気は一体何だったんだろう。

「んふふ、紳一とお昼寝〜」
「昼寝……それこそ子供の頃以来だな」
「ほんとに? うちは合宿の時昼寝必須なんだよ」
「へえ、面白いな」

牧は小学生の頃の夏休みを、は合宿の時の昼寝タイムを。それぞれ思い出している間に、ころりと寝てしまった。適度に冷やされた部屋の真ん中で、ふたりは手足を絡ませたまま眠りに落ちた。程よい疲れと緩んだ心が深い眠りを誘い、静かな夏の午後は音もなく過ぎていった。