ハート・オブ・ゴールド

16

が創立記念パーティーに行くという話は本人から聞いたことだ。けれど続報はないに等しく、落ち着かない健司に稲田さんから連絡が来たのは当日の昼過ぎのことだった。稲田さんの返信が遅いので、業を煮やした健司は電話をかけた。

というかこんな状況になっても、健司には同様稲田さんに対してはあまり悪い感情はなかった。彼女はとにかく抜かりなく修吾のサポートを行う人で、その一環で自分たちも世話になってきたからだ。1年前に素敵なカフェでお茶飲んで行ったら、と小遣いをくれたのも彼女だ。

「すっかり正装というか、ドレスアップされて来てます」
「話しました?」
「さきほど、少しだけ。女同士の話をさせてもらいました」
……それずるくないですか」

つまり稲田さんは「女同士の話」なので健司くんには内緒、という声色だった。健司の声に彼女は少し笑い、聞いても面白くない話だから、と付け加えた。

「だけどは何で……
「それについては話しませんでした。だけど、何か目的があるんじゃないかしら」
「目的、ですか」
「決意に満ちた顔、と言えばいいかしら」

よろず幼い頃から怖がりだったが一体……健司は首を傾げる。

……個人的な話でごめんなさい。大学を出る頃、安定した企業の内定を蹴って起業したばかりの社長のところに行く決意をした自分を思い出しました。そういう顔だったと思います」

稲田さんとの通話を終えた健司は、しばし腕組みのまま考えた挙句、藤真屋敷から持ち出してきた私物の入ったトランクを開け、十数万かけて仕立てたのにもうパンツの裾が短くなってしまったスーツを引っ張り出した。

ドレスアップしたはひとりで何か決意を持って戦いを挑みに行ったような気がした。あの怖がりでいつも自分の服をぎゅうぎゅう引っ張っていたが、自分に何の相談もなく武装して戦いに行ったのだと思った。

それを単純に「すごいな」と思った。自分は小さな頃でもほど怖がりではなかった。だから今何かに対峙しなければならないとしても、それは昔のほど恐怖ではないはずだ。だけどはそれを乗り越えて戦おうとしている。それは自分なんかよりよっぽど強いんじゃないかと思った。

だけど、これからもは怖い夢を見ることがあるだろう。嫌な思いをすることはもっとあるだろう。そういう時は、自分がを支えたかった。誰かハイスペックなどこかの男じゃなくて、自分がいい。自分でやりたい。父親たちの「指示」なんかじゃなくて、自分の意志でと一緒にいたい。

バスケットもも、自分が自分である以上は絶対に諦めたくない。

キッチンにいた祖母に事情を話し、スーツを着てコートを羽織り、髪もしっかり整える。ドレスアップしたを迎えに行くのに、翔陽のジャージというわけにはいかない。裾はちょっと足りていないけれど、どうせがホテルから出てくる頃には真っ暗、それほど目立つまい。

もう着る機会もないし裾は足りてないし、だけど自分以外には着られない高価なものなのでつい持ってきてしまっただけだったけれど、これが最後の役目だ。健司はスーツの胸ポケットを手で払うと、家を出てバスに乗り電車に乗り、いつかふたりで「初めてのデート」をした町に降り立つ。

時間調整のために稲田さんが言うような「素敵なカフェ」にも立ち寄り、途中3度ほどナンパされたりスカウトされたりもしたけれど、1年前にと歩いたイルミネーションが輝く通りまでやって来た。

一応稲田さんにはどうしてますかと連絡を入れて、待つ。20分ほど待ってから返信が来て、今大広間を出て帰っていったはずなので、あと10分もすればホテルも出るはずだという。が現在の家に帰るにしても、駅へ向かう道は1本、タクシーに乗ってしまわない限り、ここを通る。

稲田さんの言うとおり、それからまた20分ほどで向こうから早足でやってくる女性が目に入った。シンプルなコートに硬いヒールを鳴らしながら、勢いよく歩いてくる。そして少し離れたところで足を止めると、何やら何度も深呼吸をしているように見える。泣いてるのか?

健司は急いで通りに出て、の前に姿を現す。

健司に気付いたは顔を歪め、しかしそのまま駆け出して飛びついてきた。

、迎えに来たよ」

健司はの体をしっかりと抱き締めて、そして肩をゆっくりと撫でる。

「健司、私、今」
「お疲れ様」
「言ってきた、行ってきた、返してきた、全部、言ってきた」

声が上ずるの背中をゆっくりと撫でながら、健司は深く息を吸い込み、静かに吐き出す。何をしに行ったのかはひとりで何かしでかしてきたようだが、自分の腕の中に取り戻せてよかった。が戻ってきてくれてホッとした。この腕の中にずっと置いておきたい。

「健司、あのね、私小父さんのところに行って、指輪、返してきた。婚約、なくなったよ」
「指輪、受け取ったか?」
「ううん、外して床に落としてきた。なんかすごいかっこつけた恥ずかしいことしてきた!」

興奮でまくし立てるは頬が紅潮している。目もきらきらしている。

「お母さんもいてさ、でもなんか呆れるっていうか、どうでもよくなっちゃって、それで、小父さん何も持ってないよね、全てのものなんか手に入らなくなったね、だけど私たちは小父さんの持ってないもの手に入れられないもの全部持ってるから! は私が継ぐし、健司は私がもらうから! って言っちゃった」

勇気のいることをしてきたを褒めてやりたかったけれど、健司は止まる。いやちょっと待て。

を継ぐってどういうことだよ」
……私、大学出たら今の皆人の会社に入る」
「え!?」

せっかく修吾と皆人の支配下から逃れられる、そういうことじゃなかったのかよ。健司は目をひん剥いた。

「皆人は……修吾と一緒にやるつもりだった海外での新規事業、少しでも早く始めるつもりだと思う。あの人も修吾に勝つことしか、考えてないと思う。だけど、皆人がいない間、しっかり会社を守っていこうなんていう、稲田さんみたいな人、いないと思うんだよね。自分以外みんな役立たずだと思ってるような人だから」

それはわかるけど……健司は楽しそうなの声に微かに頷く。

「皆人に尽くしてきたのに置いていかれる人たちがいっぱいいるの、知ってるんだ。この間そういう人たちによろしくお願いしますって挨拶してきた。言葉にはしなかったけど、通じたと思う。たぶん、皆人が帰ってきたときには乗っ取られてるんじゃないのかな。それまで社長令嬢待遇で働かせてもらおうと思って」

はニヤリと笑って健司を見上げた。

「だからね、健司は自分でもう終わりだなって心から思えるまで、バスケ続けて。そろそろパンケーキの美味しいカフェの方がよさそうだなって思えるまで、余計なこと考えないで、バスケ続けて」
……カフェ、一緒にやってくれるんじゃないのか」
「やるよ。そしたら会社辞める。それまで搾り取るだけ搾り取ってやろうと思ってるだけ」

皆人の会社ならとりあえず就活もいらない。高待遇な腰掛けということだ。

「だから健司、何も心配しないで、健司のことは私が守るから」

興奮気味にそういうを見下ろしながら、健司は吹き出した。嬉しいような、ちょっと情けないような、けれどそういう気持ちでひとり修吾に立ち向かっていったが誇らしい。

健司はから離れると、ポケットの中から小箱を取り出して手のひらに乗せ、差し出した。

「ん? なにこれ」
「婚約解消になったし、指輪もなくなったことだし、また色々新しく、始まるから」

健司が箱を開くと、中には指輪がふたつ、並んでいた。ペアリングだ。

「オレもなんかすごく恥ずかしいことしてる気がする」
「健司……
「まあその、オレは普段指には付けられないけど、首にかけておくし、ふたりのときは――ちょ、おい」

頬だけでなくの目まで真っ赤になっていくので、健司は慌てた。

「これ、お揃いの、ふたりで?」
……そう。親の金じゃなくて、自分でバイトして、買った」

THE KISSのサージカルステンレスペアリングである。内側にふたりのイニシャルも入っている。素人には「ステンレス」という響きが少々気に入らなかったのだが、シルバーは手入れが必要、サージカルステンレスはその点丈夫で汚れにくいと知ってこれに決めた。

「健司、こんなの、よく知ってたね。ひとりで買えたの?」
「3日かかって調べまくった。あと、その、ごめん通販」
「首に下げててつっこまれたらどうするの」
……彼女とお揃いのだって言う」
「いいの?」

涙目のが見上げながら言うので、健司はしっかりと頷いて、指輪を取り出すとの手を持ち上げて左手の薬指に嵌め、自分も同じように嵌める。シンプルなデザインで、の方だけダイヤが入っている。

「この1年くらいで色んなものなくして、増えたものも多いけど、それでも本来ならなくさなくて済んだものもたくさん手放してきたと思うんだ。それを後悔とかはしてない。余計なものを削ぎ落としたんだと思ってる。だけど、とはもう、離れたくないから。いつも一緒にいるのが当たり前、昔みたいに、そうなれるように」

左手同士を重ね合わせ、健司は顔を寄せる。

がいたから今のオレがあると思ってる。がオレを守ってくれるって言うなら、のことはオレが守るよ。怖い夢見た時でも、つらいことがあっても、のことはずっとオレが守りたいから」

重なった左手同志を引き寄せて、健司はそのままにキスをした。のハイヒールが少し爪先立って、イルミネーションの街に影を落とす。いつかのように3月の風がふたりの髪を揺らし、ビルの間を吹き抜けていく。まだ冷たいのにどこか丸い、ほんの少し温かみの混ざる、春を感じさせる風だった。

……健司、私、いつか本当に、健司と家族になりたい」
……
「健司、好き、大好き」
、オレも、のこと大好きだから」

クリスマスの夜に、怖い夢を見た夜に、遠い昔に重なり合った小さな手に、今度は約束を。しっかりと抱き合うふたりの左手、イルミネーションを反射して小さな光がいくつも煌めいていた。それはが投げ捨てたダイヤモンドリングと同じくらいに美しくて、消えることのない輝きだった。

4月、一足早くバスケット部の練習に参加している健司は、トラブルと悲劇まみれだった高校時代とは打って変わって、毎日をこれでもかというほど謳歌していた。苦しいことばかりだった高校時代の埋め合わせをしているのだと本人は言うが、あまりに楽しそうなので花形が舌打ちしたほどだ。

練習に参加し始めてから家にいる時間は減ってしまったけれど、やはり祖母とは一緒にキッチンに立つことが多い。最近では叔母夫婦だけでなくまで食べに来るようになり、祖母は「バスケもいいけど早くカフェやりなさいよ、私も手伝うから」と言い出すようになってしまった。

そのは皆人にあれこれ適当に条件をつけて通学に不便のない場所でひとり暮らしを始めていた。修吾と妻の件で頭に血が上っていた皆人は珍しくの口車に乗せられてしまい、とりあえずは卒業までを干渉なしに過ごせる見通しである。

そんなわけでの部屋には当然のように健司が入り浸り始め、とうとう3連泊してしまった時には健司の祖父が雷を落としていた。いわく、もう子供じゃないから怒ってるんだ、とのこと。

修吾の支配から逃れて開放感のあまり好き放題やっていた健司だったが、おじいちゃんは一応保護者で父親で生活の面倒を見てくれている人である。健司が自分で考えて決断したことは尊重してくれるのだし、それ以来健司の方も節度を守るようになった。

「ま、それもちゃんと帰ればいいだけの話だけど」
「健司、それはどうかと思う」
「お前までそんなこと言うの」
「言います。まだ学校始まったばっかりなんだよ」

夜、祖父母が休む前に帰宅し、朝食をきちんと取れば、祖父はそれほど口うるさく言わない。それが守れていれば、週に1度か多くて2度くらいならの部屋に泊まっても怒られない。だが、時間が空いての都合が良ければ健司はすぐにやって来る。

今もにべったりとくっついてのんびりしていたのに、にペチンと額を叩かれてむくれた。

「そんなこと言うともうパンケーキ作ってやらないぞ」
「そしたらおばあちゃんの食べるからいい」
「ちょっ、えっ、じゃあ新人戦終わったら行こうって言ってたけどディズニーシー」
「叔母さんと行くからいい。てか今度叔母さんと年パス買いに行こうかって話しててさ」
「えっ何だよそれ、聞いてないけど」
「言ってないからね」
さん? なにその仲間はずれ」

淡々とが返してくるので、健司はにわかに焦る。彼にとってはもはや1番大事な恋人であり友人であり家族であり、とにかく蔑ろにされるのは嫌だ。

オレのこと好きなんじゃないの」
「好きだけど、だらしないのは嫌い」
「なんか前にも似たようなことあったな……
「ホブソンズでしょ」
「あー!」

小学生の時の夏休み、親に黙って勝手に出かけて通学路にあるアイスクリームショップまで行ってしまった時の話だ。後でガッチリ叱られた際、健司はバレなきゃ平気だと開き直っていたけれど、は二度とやらんと以後は取り合ってくれなかった。三つ子の魂百まで、人はそんなに変わらない。

「アイスと一緒にするなよな……オレはのこと好きなだけなのに」
「好きなら節度を守ろうね」
、好き、愛してるよ」
……そう言ってチューすれば絆されると思ってるな?」
……絆されてるじゃん」
「今日限りだ」
「無理だろ」

ころりとをひっくり返し、健司はその上に腕を突っ張って覆い被さる。短めのチェーンでぶら下げているペアリングがフラフラと揺れて、きらりと光る。

「これ、部活中邪魔じゃないの」
「危なそうな時は外してる」
「こういうのしてる人、他にもいるの?」
「あー、あんまり」
「何か言われたりしないの。監督さんとか」

やっとのことで健司を手に入れた監督は厳しいながらも熱くて愛情の強い指導者らしく、健司はその意味でも充実している。最近は周囲を見渡せば自分を愛してくれる人だらけで、感謝もするけれど、それに浸りたいという気持ちの方が強い。これまで不足していたものだから余計に。

「えーと、知ってるから」
「何を」
「ペアリングだってこと」
「なんで話したのそんなこと!」

近付いてくる健司の顔をぐいぐい押し返しながら、は文句を言いつつ吹き出した。

「でも、事情とかも話してあるから」
「最初の試合はみんなで見に行くからね」
「お、マジで。なんかそういうの初めてだな」
「もし早めに解散になったら、みんなでご飯食べて帰ろうって叔母さん言ってたよ」

健司はがくりと肘を折り、にぺたりとのしかかる。

……家族みたい」
「家族だもん」
も?」

ふわりと微笑んだは健司の頬を撫でてやる。

「そう。最初から家族だったんだよ」

今日限りらしいけれど、すっかり絆されたはキスを受け入れて目を細めた。ふたりにとっては家族の定義なんかあやふやでしかないけれど、それでもお互いは家族だったし、何度も形は変わったけれど願うことはただひとつだ。は健司の目を見つめながら囁く。

「だからこれからも、ずっと一緒だからね」

END