ハート・オブ・ゴールド

11

まず最初に口を開いたのは叔母だった。とりあえず健司の母親は何をしてたの、という憤りの声だった。

それについては、祖母の方からまず健司は計画的な妊娠の子ではなかったこと、だけど産みたいと言ったのは母親の方だったこと、祖母が知る限り、2歳くらいまでは地元でひとりで育児をしていたことが明らかにされた。しかしと健司の記憶では幼稚園の年中さんの時は既に家が当たり前だった。

の家の近くに古いカトリック系の私立の幼稚園があって、そこに」
「修吾はそういうの好きだったからなあ……
ちゃんのお母さんがお家にいたんなら、まあ、預けて働けると思ったんだろうけど」
「お兄ちゃんと仕事してたらそりゃ17時に帰りますとはいかなくなったでしょうね」

家族による補完だが、まあ遠からずだろう。健司の母親は元々修吾と仕事上の付き合いから結婚に至ったので、預かってくれる気心の知れた家があれば復職を望んだはずだ。それを息子を顧みないまでにしたのはどう考えても父親のせいだ。

「それじゃずいぶんさんのお宅にはご迷惑かけたでしょう……

そう言って申し訳なさそうな顔をした祖母だったが、は苦笑い。

「あの、私の父も修吾小父さんと全く同じ状態で……
……くんて確かにお兄ちゃんと紙一重って感じだったもんねえ」

叔母さんは遠い目をしてへらへらと笑った。年代が近いので、兄とその親友の記憶は祖父母ふたりよりは鮮明なはずだ。だが、ここまで来て皆人の娘だということに嫌悪感を示す様子はない。健司はまたを見てから向き直って居住まいを正し、咳払いをした。

「それで……こんな席でこんな話、申し訳ないんだけど、ちょっと聞いてほしいことが」
「まだ何かあるの」
「ごめん、だから相談に乗ってほしくて、それでと一緒に来たんだ」

人気の店らしく店内は既に満席、注文した料理は出て来る気配がない。テーブルの上は飲み物だけだ。叔母たちはちらちらと目を見交わしていたが、やがて祖父が頷いて身を乗り出した。修吾も健司も背が高いが、この祖父も年代を考えると相当高い。丸めていた背が伸びて前に傾いてきた。

「どうでもいい話は後でいつでも出来るからな。言ってごらん」
「久し振りなのにほんとにごめん」
「ご、ごめんなさい」

までペコペコと謝るので、祖父はそれを宥めて健司を促した。

「実は、高校に入学する直前、父親たちの独断で、オレたち婚約させられたんだ」

また4人はそれぞれ目をひん剥いて固まった。

なんだその時代遅れの少女漫画みたいな話。てか婚約? だけどあんたたち付き合ってるんでしょ? その前に婚約ってただの口約束じゃない? いくら親でも拘束力なくない? ――というのが全員顔に出ている。

だが、がスッと左手を掲げると叔母さんがガタリと傾いた。200万のアレだ。

「本物、よね?」
「本物だと思います。これをまだ高校入学前の春休みに」
「お兄ちゃん――――バッカじゃないの!?」

叔母さんがさも嫌そうな顔でそう吐き出したので、と健司はつい吹き出した。叔父さんも笑っている。そのバカな修吾の親である祖父母ふたりは苦笑いだが、少しだけ場が緩む。

「てか婚約っていうけど、その指輪だけのことよね?」
「そう。具体的なことはまだ何も。だけどどうも政略結婚みたいなこと考えてるみたいで」
「嫌だって言わなかったの」
「言ったよ。でも聞いてくれなかった」
「いつ結婚させるつもりなの」
「そういうのはまだ何も。だけど、たぶん大学出たらと考えてるような気はする」

大学4年間でふたりをしっかり学ばせ、そしてまずはそれぞれの親の会社に入れ、修行を積ませたところで合併か何かするつもりでいるのでは――今のところと健司が予測しているのはそんなところだ。一応納得したらしい叔母さんはしかし、ひょいと身を乗り出して声を潜めた。

……だけど結局付き合ってるのよね?」
「ええとそれは、婚約とは全然関係なくて、婚約自体は解消になって欲しいんだけど」
ちゃんもそう考えてるの?」
「はい。父の計画とは関係なく、その、はい」

照れが出てしまったは俯いてしまった。なんと言えばいいのかわからなくなってしまったからだ。まさかここで父の計画とは関係なく健司が好きですだの一緒にいたいですだの、そこまで言えるほどの精神力はない。まあしかし充分伝わっただろう。叔父さんがなんだかニヤニヤしている。

「もう15年くらい一緒だから……ふたりでいる方が自然だったんだ」
「だけど、私たちがお兄ちゃんに婚約なんか解消しろと言ったところで……何よまだ何かあるの」

健司が困った顔をしたので、叔母さんはうんざりといった様子で傾いた。

「実はオレ、バスケやってるんだけどさ」

それは知ってるよ、という顔で4人が頷くので、健司はにフォローしてもらいながら、自分が今どういう状況にあるのかを全てブチ撒けた。も健司が割と本気ですごい選手なのだということを大袈裟にならないように付け加える。

途中やっと料理が運ばれてきてみんなで手を付け始めたけれど、健司の話に真剣に耳を傾けてくれた。

「そっかあ……これが試合に出られないようなヒラ部員ならお兄ちゃんが正しいわよと思うところだけど、ちゃんの言うように、もったいなさすぎるね。そんな理由で続けられないなんて。かといって例えば奨学金だって親の所得制限があるし、働きながら運動部なんて不可能だし」

叔母さんの言うとおり、八方塞がりなのだ。

「そういう難しい状況だってことはわかってるんだけど、相談できる人がいなくて」
「そ、そうよね……
「それに一応父さんの親と妹だし、何か参考になることないかなって」

それを息子の口から言われてしまった修吾の親と妹はがくりと頭を落とした。修吾のことではきっと何も助けられることはない。修吾の独裁的な振る舞いに対しても、ストッパーになれるくらいなら、彼をあんな不遜な人間にはしなかった。皆人もそうだが、修吾は手のつけられないモンスターだったのだ。

すると、祖父母ふたりがなにやらひそひそと話し始めてしまい、気まずくなった叔母さんは急に話を変えた。

「てか健司それじゃ部活で忙しくてちゃんと会う暇ないんじゃないの」
「それが……今でも半分くらい家で生活してて」
「客間があるんですけど、小学生くらいからほぼ専用になってて」
「あっ、うん、それは得だったわね、うん。でもあと半分は家帰ってるんでしょ」
「うん。でもひとりだからついんところに行っちゃうんだよな」
「えっ、ひとり?」
「あれ? ほら今父さんと母さん東京にマンション買って」

知らなかった。叔母夫婦は額に手をペチンと打ち付けて呻いた。この夫婦、行動がよく似ていて可愛らしい。

「あのでっかい家にひとり!? あんただけ!? ご飯どうしてるのよ」
「あー、ええとそれは」
「お、おばさま! 健司、くん、ものすごく料理上手なんです!」

今度は健司が照れたが、それを押しのけてが出てきた。は健司のスペシャルモーニングを食べて以来すっかり健司の料理のファンで、ふたりきりの時はあれこれと作ってもらいたがる。お気に入りはやっぱりパンケーキ。それを「あーん」してもらいたいと思っていることはまだ内緒だ。

「えっ? ちゃんじゃなくて、健司が?」
「そうなんです、パンケーキ超おいしいんです。自分で配合した生地でほんとにおいしくて」
「ほ、ほんとに? ちょ、健司今度私にも作ってよ」
「そ、そんな大したものじゃないよ、普通のだよ」
「何言ってんの、そんな謙遜してどうすんの、アレほんとにおいしいのに」
「なんだよそんなにうまいの? 健司くんオレにも頼むよ」
「えええマジすか」
「パンケーキ以外もおいしいし、バスケできなくなったらカフェとかやりたいねって話してるんです」

は健司のパンケーキがおいしいんだとアピールしたいあまり、ニコニコしながらそんなことを口走った。健司はテーブルに手をついてがくりと頭を落とし、叔母夫婦は一瞬止まった後にまたふたり揃ってニヤニヤし始めた。は首を傾げる。

「えっ、私なにか……
「いやいや、ふたりでカフェとかかわいいなあと思ってさ」
「美味しいパンケーキがあるカフェを切り盛りする若夫婦とかいいなあと思ってさ」
「ファッ!? あのっ、私そんな、そういうあれでは」

が狼狽えるのでふたりは余計にニヤニヤする。

「ふたりって婚約させられてから意識し始めちゃったとかそーいう?」
「お、叔母さん……
「いーじゃないの、ちょっとくらい。てか付き合い始めたのいつ頃なの」
「ええとその、この間の創立記念パーティーの時……
「おいおいおいオレたちもいた時じゃん、何だよ裏でそんなことが起こってたのか」

ふたりは楽しそうだ。叔父さんはワインが進む。

……婚約が嫌で、それをきっかけに大喧嘩しました」
……そか、そうだよねえ」
「オレもひどいこと言って、高校入ってから一年半くらい、口も利かなかった」

ワインは進んでいるが、叔母夫婦は実に温かい眼差しでふたりを見ていた。大人と言えば強烈なのしか知らない健司は、恥ずかしさで固くなっていた心が緩む。このふたりは修吾みたいに上からガミガミ言ったりしないから、話してもいいのかも。

「お互いその頃は本当に何とも思ってなくて、だけどオレはに言い寄る男がいるとか聞くと何となく面白くなくて、どういうやつかわかると、あんなのダメだ、もっといい男じゃないとダメだとか、なんか父親みたいになってて、ちょっとくらいは嫉妬だったと思うんだけど、邪魔したりして」

健司の告白にはあやうくジュースを吹き出しかけた。邪魔してたの!?

「何、ちゃん知らなかったの」
「し、知りませんでした……
「顔も頭もよかったんだけど全然いい奴じゃなくて、そいつをぎゃふんと言わせて、こういうバカから守ってやれたとか、得意になってた。は別にそういうバカに騙されて付き合ったりしないのに、余計なことして」

北里くんのことだ。当時はもっともっといい男じゃなかったらには相応しくない、だから排除してやったんだ、そういう気持ちだった。しかし、その「もっといい男」というのは、何と比べての話だ? というところだ。結局、青山に一橋に北里の3名が「不合格」だったのは、自分より劣ると思ったからだったんだろう。

ちゃんは好きな子とかいなかったの」
「ええとその、もし適当に付き合ってしまって、そっちを本当に好きになったらつらいだろうなと」

の場合はそこがスタート地点だった。健司のことは嫌いではなかったけれど、その頃は好きでもなかった。そして嫌いにもなりたくなかった。だから、結局結婚しなければならないのなら、余計な執着を産み出さないようにしておきたかった。

「だけど、去年のIHで健司が怪我をした時、すごく怖かったんです。命にかかわるような怪我じゃないのに、慌てて病院に行ったら、救急車が止まってて、運ばれてきた方の家族らしい女の人がふたり、大泣きしてたんです。それを見て、もし健司がいなくなったらと思ったら、ものすごく怖くなって」

叔母夫婦もからかってこないし、健司も照れて止めに来ないので、は続けた。

「今回のことも、小父さんがあんまりひどいことを言うので、私が守らなきゃと……

健司に言葉で伝えたことはなかった。静かに手が伸びてきて、テーブルの下でそっと繋がれる。

「そういうこと出来るの、私しか、いないと思ったんです。ずっと、一緒だったから」

叔母夫婦も優しく頷いてくれた。には健司、健司にはしか、いないから。

そんな風にホンワカしていたら、ひそひそ話をしていた祖父母が顔を戻してきた。

「健司、行きたい大学とかは決まってるのか?」
「えっ!? いやその、IHが飛んでスカウトの話も飛んだから、今は具体的には」
「希望もないのか?」
「そりゃ、バスケットの強い所がいいなあと思ってるけど」

あの失礼なスカウトの話があったせいで、健司は他の選択肢はまるで考えていなかった。修吾という分厚い壁があるので、ここしかないと思い詰めても後がつらいだろうし、まずはIH、としか考えてなかったのだ。祖父はそれを聞きながら何度か頷き、そしてまた身を乗り出してきた。

「健司、この東京あたりの大学でいいなら、学費はおじいちゃんが出してやる」

それを聞くなり、健司はもちろん、叔母夫婦とまでもが悲鳴を上げた。何だいきなり!

「静かにしなさい、話を聞きなさい。何もオレが働いて大学行かせてやるなんて言ってないだろ。いや、仕事はしてるけど、オレたちはそれで充分生活していかれてる。そうじゃない、お前を大学に行かせてやれるだけのお金、あるんだよ。……修吾が、これで貸し借りなしだと言って、大金を押し付けてきたから」

座がしんと静まり返る。もちろん叔母夫婦は知っていただろう。健司も知っている。も父親が同じことをしている。だが、そういう祖父は寂しそうな顔をしていた。

「オレとおばあちゃんにとって、修吾は子供だ。あいつが学校に通って勉強すること、そのお金を出すことを『貸し』だと思ったことなんかなかった。その見返りになにかもらおうとか、オレたちの望む人間になれとか、思ったことなんかなかった。だけど修吾は大金を押し付けて、これでもうチャラだと、そういうことを言ったんだ」

叔母は俯いてしまった。直接その場にいたわけではないだろうが、一緒に育った兄妹である。想像はつく。

「これで自分の学費や生活費は自分で稼いで出したことになる、最高の親孝行だ、と満足げだった。修吾は高校と大学が私立だったから、どちらも公立だった子に比べればお金はかかった方だ。だけどそれをオレたちは憎らしいと思ったことなんかない。でも修吾は借りがあると思ってしまったんだろう」

口を開きかけた健司はグッと飲み込み、頷く。謝罪の言葉を口にしそうになってしまったのだ。

……悔しかったよ。ほら金は全部返した、だからもう文句ないだろって言われてるみたいで。修吾はこれで新しく家でも建てろと言ったんだけど、どうにもその金を使うのが悔しくてな。そんな家に住んでたら、嫌でも『修吾に建ててもらった家』だと思って暮らすことになるじゃないか」

おじいちゃんも中々強い。そういう彼の表情は厳しかった。

「だから、とりあえず大きな地震が来ても大丈夫なくらいに補強してリフォームしたんだけど、見た感じはそれほど変わってない。普通に暮らしてる以上は、あの家はオレが買った家だ。だから、ほとんど残ってるんだよ」

そこに来て全員がハッと顔を上げた。そうか。

「最初はな、残した金は使わないで取っておいて、オレたちどっちか、後に死ぬ方が修吾に『使わなかったぞ』と言ってやるか、それで残った金は寄付しようか、この子らに相続させようか、なんて思ってた。だけど健司、お前が使いなさい。親の金だし、学費だし、堂々と使え」

そしておじいちゃんは相続候補になっていた叔母夫婦にすまんと頭を下げた。叔母夫婦はいいのいいの、と慌ててそれを押しとどめた。というかそんな事情で相続させられたら修吾に何を言われるかわかったものじゃない。いらない。健司にあげる。

「もし今の家から通いづらいようならおじいちゃんちに来てもいいよ。部屋はある。修吾の使ってたものだけど」

何しろガッチリ補強リフォームしてあるから、あと20年は暮らせる、とおじいちゃんは締めくくる。

「オレも負けっぱなしじゃ悔しいのはどうにも修吾の親だよな。あの金使わないで取っておいたんだぞ、なんてのより、あの金で健司を大学行かせてやったぞざまみろ、の方が気分がいいわ。子供を育むのは金だけだと思ってやがるんだよ、あの馬鹿は。ほんとにオレたちはどこで間違ったんだか」

自虐オチになってしまったおじいちゃん、何も言えないその娘や孫。そこにが声を上げた。

……おじいさまもおばあさまも、間違ってなかったと思います」
「えっ?」
「もし修吾小父さんが途中からおかしくなってしまったのだとしたら、それはたぶん、私の父のせいです」

全員がを見た。確信を持ったの声に耳を傾ける。

「翔陽でライバル関係にならなかったら、ふたりともあんな風にはならなかったのでは」

皆人も同じことだとは思った。彼も親に養育費を全額返してやるなんて出来た息子で誇らしいだろうな、と言っていた。暗にお前もそうしろと言われているような気がした。さて、親に大金を返してやるなんてこと、どちらが言い出したんだろうか。修吾でも皆人でも、きっとどちらかが言い出したら負けじと自分もやろうとしたのではないだろうか。

あのふたりは、相手に負けたくない、ただその一心で自らを怪物に育てたのではないだろうか。

「だから、誰のせいでもないと思います」

そして、修吾と皆人、ふたりが同時にこの世に存在する限り、モンスターは消えないということでもある。