ハート・オブ・ゴールド

06

健司の怪我は経過もよく、彼は万全の状態で冬の選抜予選に挑んだが、またしても予選最終で海南に敗北、2年生の公式戦を早々に終えることになってしまった。3年生は全員引退、2学年体制に移行した翔陽バスケット部は、健司を主将に置いて新たなスタートを切った。

ところが、冬休みに入る直前、バスケット部を4度IHに導いてきた監督が急な病でその任を降りることになってしまった。顧問の先生はいるけれど、こちらは完全にド素人、大きな大会の試合には同行してくるけれど、客席で見てるだけの人だ。バスケットのことはよくわからない。

「どーすんだ」
「どーすんだよほんとに」
「監督ってどうやって見つけてくるんだ?」
「監督いなかったら練習の方針も何もかも決まらないじゃないか」

2学年体制になり、自然とチームの中心になった健司、そして花形長谷川高野永野だが、まさかの監督不在という非常事態には狼狽えるしかなく、顧問の先生を通じて学校側も監督探しをしていると聞かされても、日々の練習や来年度へ向けてのチーム作りが遅れることの方が問題だった。

「とりあえず練習のメニューは去年の今頃のを参考に、今年の弱点を補えるようなものにしようか」
「今年の弱点というと……
「それに来年はオレたちが入るとかなり高さが出るな」
「そうだな、それを活かす方法も考えていこうか」

このあたり本人に自覚はないし、もし誰かに指摘でもされれば嫌悪したに違いないが、さすがに修吾の息子である。修吾もまた自然と集団の中でリーダーにおさまるタイプだった。健司とは方法論が違うけれど、場を取りまとめてチームを動かしていく能力に長けていることは同じだった。

健司は現状不足と思われる要素をピックアップし、単純にそれを補うために必要と思われる練習を挙げていく。それと同時に自分を含めた3年生5人で構成されるであろう新年度のメインチームの戦略をあれこれと模索し始めた。それを新副主将である花形が補う形で翔陽は何とか動き出した。

そんな手探り状態のまま年が明けたが、時期的なこともあって新しい監督を今すぐ引き受けてくれるという人材は現れないままだった。実際、大きな大会は5月のIH予選までない。あるのは地域の小規模な大会とか、交流戦とか、遠征とか、そんなものばかり。学校側も新学期に間に合えばいいと考えていたかもしれない。

部員たちにとっては、IHにも出場するような強豪校が監督不在という非常事態を学校側はあまり深刻に考えていないように見えた。1月や2月という中途半端な時期、「明日から監督やって下さい」という要請に良い返事ができる大人は滅多にいない――ということはまだわからない。大人びていても高校生である。

そういう状況の中、自然とバスケット部は健司を「監督」と考えるようになっていた。

選手としては当然ながら、ベンチで采配を振るってもその役目を完璧にこなしていた。普段は温厚だけれど、彼は妙なカリスマ性を滲ませるようになり、それに惹かれた部員たちが慕う様子を見せれば見せるほど、健司の「監督」としての存在感は増していく。

去年の秋頃に少し不穏な影を覗かせたの件もあれ以来耳にしないし、仕事が忙しくて健司に構ってる暇のない修吾はますます本宅に寄りつかないので、いつになく平穏な日々が続いていた。

そんな3月のことだ。すっかり翔陽の監督になった健司は、部室で花形に声をかけた。

「すまん、春休みのスケジュールなんだけど、ちょっと直してもいいか」
「どうした」
「ほんとにすまん、その、親父の社の創立記念で、どうしても」

修吾は大学卒業を間近に控えた3月に単身起業、そこから破竹の勢いで自社を大きくしてきた人である。それだけに、この創立記念パーティだけは何があっても豪勢に執り行う。去年も渋々出席した健司だったが、今年は監督という責任ある立場になってしまったので、こんな理由で休まなければならないのが余計に厭わしい。

「おおそうか、気にするな1日くらい。そっちも大変だな」
「ほんとにすまん、たぶん翌日の昼には帰れると思うから、その日の午後なら」
「年に一度のことなんだからいいって。2日休めよ」
「ううう、すまん……助かる、ありがとう」

毎年修吾はホテルの大広間を貸し切り、スィートも目一杯借り上げ、親しい人や家族をそこに一泊させる。なので早くても帰宅は翌日の昼頃になってしまう。体は疲れないが、精神的な疲労が激しいことは必至なので健司は花形に頭を下げて礼を言った。そんな様子の健司に花形は久々の「ニヤリ顔」を見せる。

……も来るのか?」
? さあどうだろうな、去年は確かインフルだっつって欠席してたけど」

それは事実だ。皆人がこんな大事な時にインフルエンザだなんて自己管理がなってないとブチブチ文句を言っていたので覚えている。嫌々出席していた健司は下痢したとでも言って逃げればよかったと思ったものだった。こんなパーティに出席するくらいならトイレに籠城していた方がマシだ。

「まあ2年連続インフルはさすがにわざとらしいだろ」
「そしたら久し振りに会うんじゃないのか」
「まあそうだろうけど、別に一緒にいなきゃいけないわけでもないし、は一応客だからな」

何を聞き出そうとしたか花形は話を伸ばしたけれど、健司にとってはそれが全てである。は来るかもしれないが、とその母親は皆人という修吾の親友の「飾り」でしかない。またお姫様みたいなドレスを着させられて来るかもと思うと笑ってしまいそうになるが、出来るだけ早く退散できるよう協力してやりたい。

突然婚約させられてしまってから2年の月日が流れようとしていた。

その間、いつかバスケットを奪われても後悔が残らないように全力で取り組んできた。しかし、どうしても海南に勝てないことに関しては「あの時こうしていたら」という後悔はどこかに必ず残っている。全力でやれば後悔がないなんて、絵空事だった。残された時間との向き合い方はまだ模索中だ。

一方で、に対しては婚約させられてしまった時にきつく当たってしまったことを後悔し始めていた。何も婚約者だなんて言う必要はないし、あんな風に絶交状態にならなくてもよかったはずだ。怪我の一件での母親も、自分にとってはとても大事なものだったと思い知らされた。

に言い寄ろうとする「変なの」を排除したことも、そういう幼い頃からずっと一緒にいてくれた人たちを、自分の家族にはないものをくれた人たちを「変なの」から守りたいからだったんだろうと思った。

いくらなんでも高校を卒業してすぐに入籍、なんていうことはないだろうし、もしかしたら婚約の件は事情が変わってくるかもしれないし、そんな時にもギスギスした関係を残さず、怪我した自分を助けてくれたのように、自分もを助けたいと思った。力になりたい。支えたい。

「だけど藤真、お前昔に比べたらのこと話す時、怖い顔しなくなったな」
……怖い顔?」

またニヤリと笑った花形は、健司のオウム返しには答えずに立ち去った。あとに残された健司はひょいと首を傾げた。オレ、そんな顔してたのか。まあ、最初は婚約のことが腹立たしくて仕方なかったしな。でも怪我してわかったんだよ、とそういう関係でいるの、嫌だったんだって――

一応ホスト側なので、健司は朝からスーツで都内の巨大なホテルに来ていた。身長が伸びて去年のスーツが着られなくなってしまったので、わざわざ作り直した。これもまた修吾指定の銀座にあるテーラーまで行かされたので、そのせいで練習を半日休んだ健司は不貞腐れていた。

しかし今日と明日の2日間を乗り切ってしまえば、また1年はこんなことに関わらなくて済む。健司は出来るだけ修吾や母には近寄らず、やはり毎年呼ばれては仕方なくやって来る祖父母や叔母夫婦と一緒にいるようにしていた。この人たちは本当に「普通の人」である。

修吾は翔陽から私大へ進み、卒業間近の3月に起業、以後は仕事に没頭して生きてきた。元はといえば神奈川のごくごく一般的な家庭育ちであったが、そこから修吾だけが別世界に羽ばたいていってしまった。叔母は高卒で就職し、健司が生まれた頃に結婚したが子供がなく、現在は夫とともに東京は杉並区で暮らしている。

祖父母の方も教育費全額相当を返されたけれど、それが増殖するわけじゃない。修吾が大学進学をした頃にやはり仕事の都合で東京に転居をし、その際に購入した家で慎ましく暮らしている。成金は修吾ひとりだけだ。

「健司、あんたかっこよくなったねえ」
「やめてよ叔母さん、こんなかっこつけたスーツ、子供が着るものじゃないよ」
「そんな背が高くて男前で何言ってんだよ。仕立てがいいから違和感ないぞ」
「叔父さんまでそんなこと……普段はほぼジャージなのに」

慎ましい一般家庭の夫婦なのに、こんなハイクラスのホテルの大広間やスィートに来いと言われても迷惑なだけである。ふたりが何とか無難に見えるような服装を選んできたのがわかる。それでもどことなく浮いてしまう。たまにしか着ない礼服が体に馴染まないのと同じだ。洋服と中身と場所が調和していない。

それを申し訳なく思うのと同時に、確かに血の繋がった親族だというのに、この叔母や祖父母とあまりに疎遠だったことに気付いた健司は、もう高校生なんだから、好きに連絡を取り合って会っても構わないはずだよな、と考えた。にもらうしかなかった「普通の生活」をこの人たちは持っているかもしれないのだ。

「叔母さんて毎日仕事してんの?」
「そりゃ、一応正社員だからね。週休2日で働いてるよ」
「うちは子供いないし、ふたりで働いてても気楽だからなあ」

それなら土日か祝日でないとダメか。もし叔母がアルバイトやパートなら、春休みの間に都合をつけてもらえるかも、と思った健司は、心中でそっとため息をつく。土日祝日は自分の体が空かない。春休みの部活は9時から18時まで、早朝練習は自由、居残りも自由。それが基本毎日である。

「どうしたの、そんなこと今更」
「いや、ちょっと、たまに遊びに行きたいなとか思ったんだけどさ」

健司が言うなり叔母が目の色を変えて首を突き出してきた。

「ほんとにどうしたの、私は嬉しいけど、お兄ちゃん……あんたのお父さんがいい顔しないでしょ」

一応修吾は「親戚と交流を持ってはいかん」とは言っていない。ただ修吾本人が完全に別世界の人間なので、この創立記念パーティと冠婚葬祭以外では親しく付き合おうとしない。それが妹にこんなことを言わせる事態を招いている。叔母が兄に対してあまりいい感情を持っていないことは健司でもわかる。

「まあそうかもしれないけど、子供じゃないんだし、好きな時に会うくらい、別に」
「そうだよなあ。もうひとりでは電車乗れません、ていう年でもないんだし」
「じゃあ連絡先交換しよっか。健司がよかったらおじいちゃんたちも一緒にいい?」
「うん、頼もうと思ってたんだ。中学入る前に一度遊びに行ったきりだったから」

祖父母の方も、小学生の頃はまだ年に一度くらいは交流があった。しかし中学に上がって健司の部活が忙しくなると、親ですら顔を出さないので一気に疎遠になった。何しろ成金、お小遣い欲しさにおじいちゃんおばあちゃんに会いにゆく、なんていう動機もなかった。

……そしたら、一度みんなでご飯食べに行こうね。安いところだけどさ」
……そういうところがいい。あれ、叔母さん待ち受けかわいいね」
「いや、ちょっ、見ないで!」
「いい年してディズニープリンセスだからなあ」
「叔母さんもしかしてディズニーオタ?」
「こっち見ないで下さい」

会場内にいる修吾にバレないように、健司は声を押し殺して笑った。叔母はディズニーが大好きなようで、よく見たらスマホケースもディズニーだった。手にしていたハンカチもディズニー柄だった。叔母がディズニー趣味だったなんて、知らなかった。叔父はからかっているが、彼のタイピンもディズニーデザインだ。

こんな風に話がしたかった。叔母さんどのくらいディズニー好きなの? もしかして家中ディズニーグッズだったりするの? 叔父さんも元々好きだったの? てかオレ最後にディズニーランド行ったの、小4だ!

こそこそと叔母と連絡先を交換した健司は、なんだか楽しくなってきた。親に内緒で遊びに行く計画だ。

「その時は彼女も連れておいでよ」
「え、オレ彼女いないよ」
「はあ?」

きょとんとした顔の健司に、叔母と叔父はふたり揃って奇怪なものを見るような目をした。

「そんな照れなくたって、彼女のひとりくらい」
「あー、その、部活、忙しいからさ」
「健司くんはバスケットだったか?」

健司が神奈川ではだいぶ名の知れた選手であることも、ふたりは身内なのに知らないのだ。健司はそれを寂しく思うのと同時に、どうせ修吾たちは試合なんか見に来ないのだから、再来月には始まるIH予選を見に来てもらったらいいんじゃないかという気になってきた。オレ選手兼監督なんだよ!

そして、自分の身近な、しかし貴重な「一般的な大人」であるふたりに少し甘えてみたくなった。

……もしかしたら高校の間しか出来ないかもしれないから」

また目を丸くしているふたり、しかし遠くから修吾の呼ぶ声が響いてきて、和やかな時間は破られた。

……健司、連絡待ってるからね」
「うん、また後でね」

家を迎えにいけという修吾の言いつけで最上階に向かっている健司は、全面ガラス張りのエレベーターの中から外を眺めていた。すっかり日が傾き、林立するビルに無数の明かりが灯り始める。ガラスに映る自分の姿が夜景に重なって透けて見えていた。

健司はぼんやりと考える。叔母たちと会う時にはなら連れて行ってもいいかもしれない。

父親も母親も一緒にはいてくれなかったけれど、この子が一緒にいてくれたから、オレ寂しいとかなかったよ。父親とキャッチボールしたことないっていうのだけはちょっと腹立つけど、その他のことは全部、がくれたから、大丈夫だったよ。そう紹介したかった。

そして家にあてがわれた部屋が近付いてくると、健司は中学3年生の時の皆人の会社の創立記念パーティを思い出す。もう15歳だというのに、は全身ピンクで頭にもピンクのリボンがついていた。会場に現れたは恥ずかしさで俯いてプルプル震えていた。思い出すだけで腹筋が危険だ。

もう高校3年生になるけれど、さて本日皆人は一体をどうプロデュースしてるんだろう。子供の頃からは皆人のおもちゃだった。人前で着る服は全て皆人が指示をして揃えさせていたし、小学生の間は髪型も皆人の決めたものでなければならなかった。

娘とはこういうものでなければならない、という皆人の「美学」とやらにはずっと従ってきた。

本当のはどこにあったんだろう。自身の望みはどこに隠れているんだろう。自分にとってそれはバスケットだったけれど、はどうだったんだろう。婚約の件はともかく、健司はそういう「本当の」というものを守ってやりたいという気がしてきて、急にこそばゆくなってきた。

さてじゃあ、ピンクのドレスのお姫様を迎えに行きますか。健司は家の部屋のインタフォンを鳴らす。

「あ、健司……じゃなくて藤真です。そろそろ……
「ただいま参ります」

応対に出たのは皆人の部下だ。修吾のところで言う稲田さんみたいな人だが、なぜか上司に似てえらく冷淡な人だ。健司はつい慣れた様子で名前を名乗ってしまったのが恥ずかしくなってきた。一歩下がって待っていた健司の前でドアが開き、皆人が出てきた。皆人も久し振りだが、こちらも相変わらず冷淡な顔をしている。

「早かったな。早くしなさい」
「慌てなくてもまだ時間あります」
「健司、今日は頼んだぞ」
「えっ?」

話を聞いていない皆人が厳しい顔でそんなことを言うので、健司は虚を突かれて素っ頓狂な声を上げた。

「えっ、じゃない。のエスコート、ちゃんとやってくれよ。そんな緩んだ顔してるんじゃない」
「エスコート? オレが?」
……お前、婚約の件忘れてるんじゃないだろうな」
……健司ごめんね、そういうことだから今日はお願い」

スタスタと歩いて行ってしまった皆人の後を追いかけたの母も、すれ違いざまに片手で健司を拝み、先に行ってしまった。ドアの傍らに控えている皆人の部下と残された健司はため息をつきつつ、を待った。

すっかり忘れていたけれど、藤真の創立記念パーティでが来ている。婚約の件は避けて通れない。今日はまたふたり揃ってどこそこのお偉いさんだの何だのに挨拶をしまくらなければならないというわけだ。それを数時間、気が重い。やっぱり明日も休みにしてもらって正解だった。花形マジ感謝。今度スタバ奢るわ。

「おーいまだかよ」
「ごめん、今行くー!」
……先程までおめかしについて社長と喧嘩してらしたんですよ」
「ああ、またですか」
「ご安心下さい、今日はちゃんが勝ちました」
「へえ」

皆人の夢見る「良家の子女」幻想に打ち勝ったとは。やるじゃん。

「ごめんごめん、アクセサリーの件でどうしてもお父さんが折れなくて」
「なんだよ今度はアクセサリー……
「何とかピンクを排除できたよ。はー、長い戦いだった。わ、健司もまたスーツすごいね……

いつもの調子で部屋から出てきたは、健司の姿をサッと検めると、ニヤリと笑った。皆人の部下は部屋に留守番である。貴重品が置いてあるので、神経質な皆人は絶対に部屋を無人にしない。ホテルのセキュリティすらも信用していない。

皆人の部下に見送られたふたりは歩いてエレベーターホールまで向かう。エスコートを演出したいのか、皆人たちは先に行ってしまった。ホテルの廊下を歩きながら、柔らかい照明の中で健司は頭の芯がぼんやり痺れているような気がした。

いつも全身ピンクのお人形だったは、プリンセスラインの膝丈パーティドレスにショートジャケットを合わせ、色は甘く華やかな少し金色にも見えるベージュ、そしてその揉めたというアクセサリーは控えめながらもパールだった。指先はクリアで温かいピンクベージュに染められており、しかも、化粧をしていた。

こんなは初めて見る。って、こんなにきれいだったか? てかこれ本当に

ガラス張りのエレベーターに乗り込み振り返るがまるで光を振りまいているように見える。健司はそれにぼんやり着いて行きながら、じわじわと早く激しくなる鼓動に目眩がしてきた。

なんだこれ、なんでオレこんなにドキドキしてるんだ――