ハート・オブ・ゴールド

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そこからのことは、まさに泥沼で地獄絵図で悲惨な日々だった。

しかし、そんな不埒な大人たちの揉め事に「子供」は巻き込んではいけないのである。と健司の祖父母や親戚はもちろんだが、この事件の中で1番意外な所がふたりのために動いてくれた。翔陽高校である。

方やバスケット部のエースで主将で監督で3年間に渡り部を牽引してきた立役者、方や淡々と定期考査の順位を上げ続けている好成績ホルダー、親は確かに有名なOBで高額寄付のツートップだが、その親の揉め事で将来に関わる大事な時期を振り回されていい理由にはならないし、守るべきは寄付金ではなくて生徒だ。

特には受験が控えているし、健司の方も正式にスカウトが来ているにも関わらず話が進まない進路不確定状態。本人たち、親族代表で来てくれた健司の叔父さん、そして花形からも事情を説明された学校側は、あくまでも特例として、この中途半端な時期から越境入学者用の寮を提供してくれることになった。

翔陽から電車で1駅、バスは乗り継いで40分、自転車でも可、という寮は寮生と寮スタッフ、そしていかなる場合でも校長教頭各担任監督までしか入れないという厳重な設備である。特に女子棟は男子禁制でスタッフは女性のみ、こちらは校長教頭各担任監督でも男性なら呼び出しのみというさらに堅牢な牙城である。

そもそもふたりの親の寄付金の貢献度を考えると、この措置を取ることに問題は全くなかった。しかも卒業まで日数で言えば半年もない。毎月の使用料に関しては一旦健司の祖父が例の「還付金」から出しておくことになった。の親がそれどころではなかったからである。

さてその親たちであるが、4人全員がそれぞれ大喧嘩状態という大惨事。

修吾との母親の関係が始まったのは実にふたりが2歳の頃まで遡るということが判明すると、感覚が麻痺してきた叔母さんあたりはゲラゲラと笑っていた。そんなに長い間関係を続けてきた方もバカだし、全く気付かなかったパートナーの方もどうなんだと笑い、そして最終的に泣いていた。あまりにみっともない。

さらに修吾は稲田さんとも関係があったと聞いたときには健司も笑った。

の母親は結婚後に家に入ることを強要され、をひとりで育てていたところに修吾の子を預かれと命令されたことでまず皆人から完全に心が離れてしまった。修吾はそこにつけこんで手懐け、離婚を望む彼女に健司や皆人の監視をさせ、事が思い通りに運んだ暁には離婚後も面倒見てやると言い続けてきた。

修吾の目的は、「皆人の女」を全て奪うことにあった。

「ほら、これ。この頃からそういうつもりがあったんじゃないかな」
「好敵手の皆人に比べ、女子諸君の支持を得られなかった……ほんとだ」

親たちの馬鹿馬鹿しい事情が明らかになった後、ははたと思い出し、花形も伴って健司と図書室に向かった。例の卒業文集である。充実した高校3年間に後悔があるとしたら、運動で修吾に負けていたことを挙げる皆人に対し、修吾はIHで優勝できなかったことと、皆人ほどモテなかったことを挙げている。

「それに、もしここで勉強の方で皆人が修吾に負けてたら、皆人はスポーツで負けてたなんて書かないと思う」
「勉強では皆人の方が勝ってたってことか」
「つまり、藤真の親父さんは運動でしか勝てなかったことになるな」

学生生活の記録を見る限りでは修吾も充分人気のある生徒だったはずだ。しかし今の健司のように王子様風の皆人には女子が、当時翔陽最強だった剣道部の主将の修吾には男子の方が多く好意を寄せているようにも見える。親友でライバルの顔をしながら、修吾はこの頃から牙を研ぎ続けてきたことになろう。

……親友の方がモテたからって、そんな執拗になるものか?」
「それは……こういうことじゃないのかな」

揃って首を傾げた健司と花形には父親ふたりの文集の作文のページを指差してみせる。ふたりの将来の夢はどちらも同じ「全てのものを手に入れること」である。修吾にとっては、親友でライバルの持っているもの、自分になくて親友にはあったもの、それらも全て、であったのだろう。

皆人の妻は簡単に手に入った。しかし、娘はそういうわけにはいかない。つまり健司との婚約にはそういう思惑もあったのだ。の母親が「あとほんの数年だったのに」と言ったのは、「あと数年してが藤真家に嫁に入ったら修吾の目的が達せられて自分も離婚できる」という意味だった。

まあしかし、彼ら彼女らは離婚でもなんでも好きにしたらいい。慰謝料だの今後の生活だのも、そこは適当にしてくれればいい。問題は娘と息子である。しかも高校3年生、時間に余裕はない。

だが、自分たちの大喧嘩でそれどころではない親4人はそれぞれの親にたしなめられようがお構いなし、揉めていても仕事はなくならないのだし、多忙なあまりと健司のことなどまるで見向きもしなかった。

はまだ受験が先の話なので一旦措くとしても、健司は本当に時間がない。健司の進学に対して願望のなかった母親の方はすぐに頷いたけれど、やはり最大の難関は修吾だった。両親の言うことはもちろん聞かないし、校長と教頭が出てきても会おうとすらしなかった。

ここで妙案を思いついたのが、誰であろう花形だった。

部室で校長と教頭と差し向かいになっている部長、という図を見て驚いた彼はしかし、話が耳に入るや首を突っ込んできて提案をした。いわく、「修吾氏の剣道部時代の恩師はいませんか」である。

「今更そんな人が言ったところで……
「いや、オレは勝算あると思う。親父さんが唯一勝ってたのが部活なんだ。そこは聖域のはずだ」
「だけどそんな人にどうやって頼むんだよ。子供の進学認めてやれって言ってもらうのか?」

健司は懐疑的だったが、校長が一応藁にもすがる思いで当たってくれることになった。何人ものOBや元教員などを経由して当時の監督にたどり着いたのは冬の選抜の予選の真っ最中のことだった。煩わしいことから離れてバスケットに集中していた健司が順調にトーナメントを勝ち進んでいる頃である。

軽く事情を聞いた元監督は快く相談に応じてくれたが、何しろ当事者である健司が忙しくてそれどころではなく、しかし当時の修吾を知るということは皆人のことも知っているはずなので、が代理に立った。

「えっ、の娘さん!? そうか、あの……
「父のこともご存知なのですか」
「当時、この翔陽高校は藤真とのふたりを中心に回っていたんだよ」

白髪頭の元監督はしかし剣道の師範代らしく、まっすぐな背をした厳しい顔つきの御仁であった。それでも健司が予選の最中での娘が代理で来たと聞いて顔を綻ばせた。孫を見ているような気がしたのかもしれない。

「藤真は、修吾は今で言うところの『肉食系』ってやつだった。考える前に行動あるのみ、人生に睡眠時間などという無駄な時間があるのがもどかしい……そんなようなことをよく言ってた。それもいいが、自己管理出来ずに睡眠を疎かにするようなのは一流にはなれん、と私もよく言ったんだが、聞きゃしなかったね」

は余計な口を挟まず頷きながら、また重い気持ちになった。皆人がショートスリーパー体質なのだ。

「また、君のお父さんの方がとにかくモテたんだな。あれは当時の職員だったらみんな知ってる。女の子たちは皆人くんが大好きでな。だけど当人はクールで言い寄る女の子に笑顔を振りまいたりしなかった。それを修吾は『あいつは人間味がない、自分はあんな風にしない』と言ってたな」

元監督はにこにこしながらそんなことを言うが、たちは何も修吾と皆人が不倫で揉めてますなんてことは言っていないのだ。修吾の息子が大変優秀なバスケット選手だが、修吾の妨害にあってバスケットによる進学を阻まれているというだけの相談だった。なのに出てくる話はこれだ。

そして健司の担任が持ってきたバスケット部の写真を見せられると、感嘆の声をあげた。

「おいおい、これじゃ修吾の息子じゃなくて、皆人くんの息子みたいじゃないか」

楽しそうな元監督、その向かい側で事情を知ると校長と健司の担任は顔色が悪い。健司は顔だけで言えば父方の祖母似であるが、すらりと背が高くて顔が小さく、少々女性的な可愛らしい顔をした王子様風の容貌をしている。当時の皆人がそんな風だったと監督は笑っている。

修吾の健司への執拗な束縛、そして競技から引き離そうとするあの異様なまでの執着は、ここにあったに違いない。勉強でも及ばず女の子も皆人の方が好き、唯一完全に勝利していたのはスポーツのみ。そんな修吾の目の前で健司はバスケットを始め、それが得意になり、その上皆人のような王子様風に成長していく――

バスケットで進学など許しがたいことだったんだろう。皆人が、自分の唯一の聖域にまで踏み込んでくるようで。

「ほう、これは翔陽のためにも健司くんにはバスケットを続けてほしいですなあ」
「そう思われますか」
「もちろんです。優秀なアスリートの育成は突き詰めれば国益に繋がります。それを自分のようなビジネスマンにならなくてはダメだ、と思っているようでは、修吾もまだまだですな。いいでしょう、彼を呼んで下さい。幸いこの翔陽の近くに甥が住んでいます。そのついでに立ち寄ったということで」

懐かしくて立ち寄ってみたら、なんと教え子の息子が在学中と聞いて年寄りがわがままを言ったと伝えなさい、と監督は自信たっぷりに微笑んだ。校長はさっそく修吾に連絡を取り、元監督がいらしてて、藤真さんを呼んでくれと言って聞かない、とそのまま伝えた。

は電話で話す校長の後ろで、祈るように手を組んでいた。これで修吾が恩師など知ったことか、こっちの手を煩わせるなら寄付を止めるぞと逆ギレしませんように、と祈っていた。

果たして、修吾は今すぐ行きますと言って電話を切ったと聞き、は思わず目を潤ませた。

「じゃあは職員室で待ってようか」
「はい、お願いします」
さんが早く受験に専念するためにも、うまくいくことを祈りましょう」

その日、は職員室で延々修吾を待ち、修吾が来てからは元監督との話が終わるのを待ち、予選を勝って帰ってくるという健司も待っていた。すべてが終わり、戻ってきた健司が職員室にやって来たときにはすっかり暗くなっていた。

、悪かったな。でも勝ったよ」
「どうだったんだ、藤真の親父さん、来てくれたのか」
「こらこら、お前たちちょっと待て、はここでずっと待っててくれただけだろ」

健司と一緒に気になって着いてきた花形にも詰め寄られたは、何から話せばいいかわからなくておろおろしていた。そこへ今日の段取りをひとりでこなした校長がやって来て、健司の肩をポンと叩いた。

「勝ったのか、おめでとう! 次でブロック突破だったな」
「はい、絶対に夏の予選は繰り返しません」
「そうとも、その意気だ。喜びなさい、お父さん、推薦を認めてくれたぞ」

このことはも聞いていなかった。何しろ修吾が帰ったのがほんの20分ほど前のことだ。朗報には泣き出し、健司は気が緩んでへらっと笑い、花形はそんな健司の肩を掴んで乱暴に揺すった。

職員室の片隅にパイプ椅子で並んで座ったと健司と花形は、元監督が来てからのことを改めて校長から聞かせてもらうことになった。

「花形くんの読みはドンピシャだった。電話で連絡した時も迷うことなくすぐに行くと言って、本当にすぐ来たんだ。監督には校長室にいてもらったんだけど、入ってくるなり膝につきそうなほど頭を下げてね。監督とは実は2年間だけしか一緒じゃなかったらしいんだが、私もあんな藤真さんは初めて見たよ」

ちょっとドヤ顔の花形の横で、健司とは目を真ん丸にしていた。校長も初めて見ただろうが、息子の健司だってそんなもの見たことない。ていうかそれ本当に修吾? という顔をしている。

「今ふたりのお家が揉めていることは伏せていたし、だけどここに来ればバスケ部が活躍してることはすぐにわかるし、監督はその方向で話を進めてね。お父さんは自分のことを話したいようだったけど、監督は健司くんの方を延々褒め続けた。で、普通はそういう流れになるわけだけど、よく育てたなってお父さんも褒めた」

一応修吾は高校3年生の時にIHでベスト4に入っているし、その息子がまた良い選手に育っていれば、何も知らないかつての恩師がそう言って修吾を褒めるのはごくごく一般的な展開だろう。だが、それを望まなかった修吾は徐々に顔が歪んできた。

「だけど監督は手を緩めなくて、もう大袈裟なくらい健司くんを褒めちぎった上で、やっとお父さん自身の話になって、だけどそれも早々に切り上げて、どうも監督は『年でボケ気味』みたいな演技をしていたんだな。話を遮って健司くんの進路の話を強引にねじ込んだんだ」

そこで言葉に詰まった修吾だったが、すかさず校長はスカウトが来ていることを突っ込み、元監督はまた大袈裟に喜んだ。あの時お前は剣道は高校までなんて寂しいことを言ってこんな仕事人間になっちゃったけど、そうか、息子はアスリートの道を行けるのだな! と手を叩いて喜んだ。

少々苛ついた顔をしていた修吾だったが、元監督の「オレはお前の八相の構えが本当に好きだったんだ。あれが見られないと思ったら、本当に寂しかったんだ」と言う言葉にぐにゃりと体を崩し、項垂れた。

「あくまでも監督はふらりと遊びに来たかつての指導者、健司くんのことは褒めるだけ。だけど私がスカウトの話を出したもんだから、そうかそうかあの大学なら知り合いがいるし、健司くんの試合も見てみたい、なんて言い出した。もう進学が決まったものだと思っちゃってる……そういうお芝居だったんだな」

監督は校長に大学の所在地を確かめたり、校長室にあるバスケット部の写真をしげしげと眺めたり、本気で健司を見たがっている素振りを見せた。元監督が写真を眺めてぶつぶつ言っているので、校長は素早く修吾に「もう認めてくれませんか」と囁きかけた。

大きくため息を付いた修吾は片手で頭を抱え、しかし元監督をぼんやりと眺めながら、「わかりました」と頷いたという。その声は多分に「諦め」を含んだ声色だったけれど、校長はそれを自分の心にだけしまって、そしていつか忘れようと思った。自分の子供の望む進路、それが「諦め」であるのは、哀しい。

「おそらく監督はそれを聞いていんだろう、そこからどうでもいい雑談めいたことばかりになって、その間に私は中座して、推薦の話が進められることを連絡しておいたからね」

向こうの監督は何しろ3年前に1度健司を取り逃がしている。今か今かと待ち構えていたようで、校長から連絡が行くと、こちらも大喜びしていたという。これで健司の進学はほぼ問題なしということだ。ホッとした健司もまた、体をぐにゃりと丸めて大きくため息を付いた。今日は試合にも勝ったし、いい日だ。

職員室を出た3人は真っ暗な廊下を昇降口に向かう。と花形は少し浮き立っていた。

「まだちょっと信じられないんだけど、ほんとに小父さんOKしてくれたのかな」
「だから言っただろ、ああいうタイプは家族は蔑ろにしても、恩師には弱いんだよ」
「これで予選も突破できたらもうほんとどうしよう、私倒れるかも」
「何言ってんだ、はこれからが本番だろ。予選突破したらオレは今回の期末捨てるからな」

楽しそうにはしゃぐふたりの間で、健司は緩みきった顔でぼんやり歩いていた。

「健司、大丈夫?」
「おいおい、まだ予選残ってんだぞ。しっかりしろ」
「花形……ありがとな」
「おいやめろ、気持ち悪い」
「ぶん殴るぞ」

ふざけているようだが、花形は日常を預かっておくと言った手前、そういうノリに付き合う気はないようだ。

「これで何も問題なし、本当に予選に集中できるな」
「ああ、負ける気がしないよな」
「予選の決勝は見たいなあ。また海南とやるんでしょ」
「そりゃそうだ。あいつらを倒して本戦行くんだから」
「予選突破したら健司特製鍋でお祝いしようよ」
「なんで祝われる側のオレが作るんだよ」

気持ちはすっかりリセットされて、チームの状態も最高、健司が監督として最後のトーナメントとなるこの予選、翔陽は宣言通り決勝まで駒を進めて、宿敵海南との一騎打ちを迎えた。これを倒して本戦へと進み、限界まで自分を試したい。さらなる高みに挑みたい。

だが、結果は敗北。僅差ではあったものの、負けてしまった。

試合後、しばし言葉が出てこなかった健司たちだったが、それを過ぎると、仲間たちは健司の健闘を讃えて、監督として労いの言葉をかけてくれた。2年生のときの怪我を境に、監督はいなくなるわ新しい監督は来ないわ3年生のIH予選は負けるわ、バスケット部だけでもろくなことがなかった。その上監督はプライベートでもろくなことがないと言うのに、誰より一生懸命だった。それを誰もが尊敬していた。

試合の日の夜、にメッセージが届いた。

「オレ、翔陽入ってよかった。翔陽のバスケ部でよかった」

それを見たは、寮の机に突っ伏して嗚咽を漏らした。望んだ環境じゃなかった、苦難もありすぎた、その上プライベートではバカバカしい邪魔ばかり入って、この3年間は決して「マトモ」じゃなかった。しかし健司は最後の試合を経てこの心境に到達したのだ。

がいてくれてよかった。あの時、バスケやめるなんて言ったらダメだって、自分が満足するまでバスケ続けなきゃダメだって言ってくれて、本当にありがとう。もう終わりだなって心から思えるまで、オレ諦めないよ」

そんなことないよ、健司が耐えたから、頑張ったからじゃん、と言いたかった。だけど涙が溢れて言葉がうまくまとまらない。電話をして直接ブチ撒けてもよかったのだが、こっちもマトモに喋れる気がしなかったはグズグズ泣きながら携帯を抱き締め、すぐ隣の棟にいる健司を思い、そして改めて思った。

健司のこの心を守りたい。修吾の闇に飲まれることのなかった健司の心をずっと守っていきたい。

自分にそんな心があるとは思えないけど、何かできることはあるはずだ。

そしてそれは、私にしか出来ないことだから。