ハート・オブ・ゴールド

08

言い訳は簡単についた。は母親に生理になってしまったと嘘をつき、これには皆人も修吾も帰ってはならんと言えなかった。しかも今日は主なお客様にきちんと「婚約中の藤真修吾の息子と皆人の娘」を演じてみせたので、とりあえずどうしても引き止めねばならない理由もなかった。

修吾は健司に残れと言いかけたものの、婚約者が体調不良で退席するのに僕だけ残りますではかっこつかない。どことなくドヤ顔の健司はわざとらしくの肩を抱いて大広間を出て行った。

パーティの方もお開きの時間が近付いてきているし、祖父母や叔母はとっくに帰っているし、もう用はない。一度家用の部屋へ戻り、その間に健司も最上階のスィートへ取って返して私物を纏めて部屋を出る。すると、廊下の向こうから稲田さんが小走りでやって来た。

さん大丈夫?」
「大丈夫です。準備が不足してるみたいで、不安だから帰りたいっていうので」
「それはそうね、今車を呼ぶからロビーで待っててもらえる?」

稲田さんにとってはまだ仕事中、嘘をついているのは申し訳ないが、それには及ばない。

「電車で帰ります。その方が早いし、高速に乗られたら途中で何かあっても素早く対処できないし」
「だけどもうこんな時間だし、ふたりだけだと――
「稲田さん」

健司は荷物を持ち替えると、少し笑顔を作って首を傾ける。

「大丈夫です、オレもも、もう子供じゃないです」

年齢的にはまだ未成年だ。親の庇護の下で生きている高校生だ。けれど、子供ではない。穏やかな笑顔の健司の言葉に稲田さんはなんと返したらいいか迷っているようだったけれど、やがて小さく頷いて手にしていたスマホをポケットに戻した。彼らに手助けはいらない。大人ではないけれど子供でもないから。

「現金はある? Suicaもチャージしてある?」
「あー、帰るくらいなら足りると思います」
「じゃあ少し持っていって」
「えっ、いいですよ、そんなの」

稲田さんは小脇に挟んでいた薄っぺらいバッグから万札を取り出して突き出した。健司は慌ててそれを押し返す。東京から神奈川の家に帰るだけだし、家は駅から遠くないし、どう考えても1000円あれば問題ない。

「女の子と一緒に帰るんでしょう。まだそんなに遅くないから、途中でお茶飲んで休憩してから帰ったらどうですか。さんなら慣れてるかもしれないけど、素敵なカフェ、女の子は好きですよ」

途端にカッと頬が熱くなった健司だが、素直に受け取ってスーツの内ポケットにねじ込んだ。

「じゃあ、お先に失礼します」
「気をつけてね」

稲田さんはいつになく穏やかな表情でエレベーターに乗り込む健司を見送った。

こちらも荷物をまとめたと合流した健司は徒歩でホテルを出た。といっても巨大なホテルなので、表の通りに出るまでしばし歩かねばならない。ロータリーを抜けメインアプローチを過ぎてようやく敷地の外に出る。駅までは遠くない。何ならすぐ近くの地下連絡通路に降りてしまっても構わない。

しかし、健司はの手を取って地下へ降りる階段を通り過ぎる。

ふたりともスーツやパーティドレスに合わせたコートを着て手を繋ぎ、ぴったりと寄り添いながら夜の町を歩く。LEDを絡ませた青白いイルミネーションがふたりの行く手をぼんやり照らしている。

「何も食べてないだろ、大丈夫か」
「そういえばガブガブ水飲んだだけだったね。健司もお腹減ったんじゃないの」
「実はだいぶ前からグルグル言っててさ。稲田さんがお茶して帰れば、って金くれたんだ」

確か稲田さんは素敵なカフェでお茶を飲んで帰ったら、と提案していたはずだが、健司は頭の中が白米でいっぱいになっている。今日はろくな運動はしていないけれど、気を使いすぎてそれだけで腹が減った気がする。

「なんか、デートみたいだね」
「デートでいいじゃん」
「じゃあ初デートだ。ドレスとスーツでイルミネーションと夜景だ」

は楽しそうに声を弾ませて跳ねた。素敵なカフェに連れて行ってやりたいのはやまやまだが、何しろ腹の音が治まらない。健司は一応にファミレスでもいいかと訪ねた上で、足早に店に入った。

「こんな時間だけど私も食べちゃおうかなあ」
「オレ昼もほとんど食べてないんだよなあ、バタバタしてて」
「子供の頃よくコスモドリア食べてたよね」
「よく覚えてんな」
「ああ……無理……ロイホのオニオングラタンスープには勝てない……
「いいから早く決めろよ腹減った」

はメニューを見ながらああでもないこうでもないと迷っているが、既にハンバーグにオニオングラタンスープのついたセットと即決した健司はテーブルの下で足を突っついた。結局は思い出のドリアとスープをオーダーして、満足そうにメニューを閉じた。

……ふたりでご飯食べにお店入るの、初めてだね」
「その前にふたりで出かけたこともないだろ」
「えっ、あるよ、ほら昔、夏休みにどうしてもアイス食べたくて何だっけ、そうだホブソンズ」
……小3の時だろそれ」

学校帰りに通りかかるアイスクリームショップが気になって仕方なかった健司は、夏休みにをそそのかしてふたりだけでこっそり食べに行ったことがある。通学路のことなので一応目的は達せられたのだが、帰宅する頃には勝手に外出したことがバレてガッチリ叱られた。

健司の方はそれでも、アイス食べに行っただけなのに悔しい見つからないようにやれば平気だ、という反抗心があったのだが、が心から反省してしまい、以後どれだけ健司がそそのかしても付き合ってくれることはなくなってしまった。もうそろそろ10年前になる話だ。

……学校の誰かに見られたらどうしよう、付き合ってるって思われたらどうしようって思ってた」
……嫌だったか?」
「囃し立てられると思ってたからね。健司とふたりで冒険したのは楽しかったよ」

思い返せば、と健司は喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかった。喧嘩と言って思いつくとすれば、勝手に婚約させられたあの日の夜くらいしか出てこない。婚約さえなかったら喧嘩もなかった。

視線を逸らしたは窓の外に目を移し、頬杖をつく。着替える暇がなかったのでパーティドレスのままだ。左手の薬指にはまだ突き刺さるような光を放つエンゲージメントリングがある。窓の外の夜の色、ファミレスの明るく柔らかい照明、その間で頬杖をつくはなんだか輪郭がぼやけて見える。

「今度は、どうする」
「今度って?」
「今の話。学校でバレたらどうする?」
「うーん、なんか想像もつかないけど……自慢したいわけじゃないし、でも隠したいことでもないし」

まだ心が決まらないのかもしれない。は首を傾げている。

「健司は?」
「オレもそんなところだ。これ、別に、新しいことじゃないから」
「そうだね……そんな感じ、するね」

元に戻ったというわけではない。ただ、こうしてふたりで過ごすことは記憶がない頃から当たり前のことだったから、時計の針を進めた感覚はない。ただその当たり前から離れていただけだった。

「だけどもう……誰かの意見とかそういうのは、いらないかな」

こんなこと、誰かに決めてもらうことじゃない。自分たちで選ぶことだから。

夜景の裾を手を繋いで歩き、サラリーマンだらけの電車に乗り、ふたりは慣れた地元の駅まで戻ってきた。

せっかくの「デート」なのだし、は家までの道のりを歩きたがった。が、慣れないハイヒールに足が悲鳴を上げ、ヨタつくようになってしまった。結局ふたりはタクシーで柔らかいオレンジの夜間照明に照らされた家に帰ってきた。藤真家同様白亜の豪邸だが、どこか無機質で冷たく見える。

「自分でも呆れるけど、ここに来ると帰ってきたって気がするんだよな」
「自分の部屋もあるしね」

セキュリティを解除しつつ通用口から入ったはくつくつ笑いながら必要なところに明かりを灯していく。

「今タオル出すから部屋行ってて。入っててもいいよ、ベッドにでも置いておくから」
「なんか明日部活行かれそうだな」
「行く?」
……ま、それは明日でいいや」

冗談で言ったつもりの健司はの真顔に苦笑いを返すと客間へ入っていく。自宅の私室と同じくらい慣れた部屋だ。半年以上振りでも慣れた匂いは消えていなくて、全身を安心感が覆う。

健司の「日常」の半分はここにあった。子供の頃の思い出や笑い話や細かな記憶はだいたいこの部屋と家のリビングと、そしての部屋だ。風邪を引いて寝込んだこともある、宿題が終わらなくて机に頭をぶつけながら遅くまで起きていたこともある、思春期に差し掛かってからはにノックを徹底しろと言ったこともある。

健司は荷物を解いてスーツを壁にかけると、タオルを届けてくれるというに甘えてバスルームに直行した。ペーパータオルで拭いたけど満員電車でまた汗をかいたし、駅を出てから少し歩いたせいで冷えたし、どうにも気持ち悪かった。熱いシャワーに今日の疲れを全て洗い流す。

息子と親友の娘を婚約させておりまして……などという前時代的なことをよく恥ずかしげもなく言えたものだと健司は呆れていたが、言われている方も半分くらいは「えっ、今時そんなこと本気で?」という顔をしていた。中には絶賛の向きもあったけれど、ほとんどがふたりの愛想笑いに気付いていたように見えた。

ほどよく温まったところでバスルームから顔を出すと、ドアのすぐ脇にあるチェストの上にタオルが乗っていた。家のランドリールームにはこうした来客用のタオルなどが収納されているのだが、いつも出てくるタオルは同じ。きっと健司専用なのだろう。その柔らかいタオルを顔に押し当てながら、健司はくすくすと笑った。

また冷えないようにさっさとルームウェアに着替え、髪を乾かすと、もっと全身が緩む。廊下の外でバタバタいう足音が聞こえるので顔を出してみたら、が忙しなく階下へ降りていくところだった。

「どうした、大丈夫か」
「もう終わるよ、これ、指輪どこに置こうかと思って」
「金庫かなんかか?」
「金庫なんか開け方知らないもん。とりあえずケースは代用品で」
「代用品、てお前それタッパーじゃないか!」

の手のひらに乗る小さなプラスチックのタッパーに健司は吹き出し、壁にへばりついた。推定で200万以上するハリー・ウィンストンのエンゲージメントリングがタッパーの中でコロコロいっている。

「だって指輪のケースなんて私持ってないもん!」
「だからってタッパーはないだろ……ハンカチかなんかに乗せて親父さんの書斎に」
「鍵かかってる」
「んじゃ寝室の枕元とか」
「健司のところもそうだろうけど、あんまり帰ってこないから」
……部屋に置いとけ。んで、帰ってきたら返しな」

無理に目の届かないところに置くくらいなら、のドレッサーの上にでも置いておいた方が安全だ。はうんうんと頷く。というか彼女もルームウェアに着替えているけれど、髪がドレスアップされたままでなんだか可笑しい。健司は耳の前でくるくると巻かれている髪を指で弾いて顔を近付けた。

も疲れただろ。風邪引く前にちゃんと汗流しておいで」
「う、うん、そうする」

急に近付いてこられたので驚いたのか、はサッと身を引くと部屋に戻っていった。

それを見送った健司ははたと止まり、のろのろと部屋に戻って私物を片付け始めた。ホテルのバルコニーからこっち、自分でも完全に勢いだったなとは思っている。はどうだったんだろうか。今、なんだかそそくさと逃げられてしまったような気がする。

から遠い存在になりたくないという自分の気持ちは前から持っていたことだと思っている。ただ婚約という勝手な横槍にかき回されてしまっただけで、美しく装ったによろめいて思ってもいないことを言ったとは思っていない。しかし、は何も言わなかった。

ただキスを受け入れて、デートだと喜んで、もう誰かの意見に左右されたくないと言っただけだった。

もう間違いなくのことは好きだと思っている。その「好き」はもしかしたら同級生たちのそれとは違うかもしれない。それでもかすかにレモンの香りがするの唇に自分の唇が触れた時は背中がぞくりとして、幸福感に満たされた。――はどうだったんだろう。

不安が押し寄せてきた健司は、しばし時間を置いてから白のニットカーディガンを羽織って部屋を出た。そろそろもシャワーを終えて落ち着いている頃だ。それでなくとも今日は自分たちの意志で一緒に帰ってきた。少し話すくらい、構わないだろう。時間もまだそれほど遅くない。

少し緊張しながらノックをすると、気が抜けるほどいつもどおりの返事が返ってきた。

「もう落ち着いたか? ちょっと入ってもい――え!?」

ドアを開けて縁に寄りかかり、入ってもいいかと聞こうとした健司は驚いて飛び上がった。顔を上げて健司を見るなり、が目を赤くして口元を手で覆ってしまったからだ。彼女もまた白っぽい色のふんわりしたニットを羽織っていて、なんだかペアルックのようだ。

「ちょ、どうした、大丈夫か」
「ご、ごめ……

健司は慌てて部屋に入り、を引き寄せて頭を撫でてやる。ボタボタ泣くというほどではないにせよ、は目を赤く染めて潤ませている。感情が高ぶって一瞬のうちに押し寄せてきてしまった、という感じだ。

「どこか痛いとかなんか――
「ううん、そうじゃないの、ごめん、びっくりさせてごめん」

は手の甲で涙を拭いながら、ゆっくりと笑顔を作る。そして、健司の服にぎゅっとしがみつく。

「ドアが開いたから、顔を上げたの。だけど、私の視線の位置、健司の顔じゃなかった。首のあたりだった」

意味がわからなくて首を傾げた健司に、はまた微笑んで見せる。

「2年前、まだ毎日のように健司がこの部屋に来てた頃、あの頃の感覚だったの。だけど、この2年の間に健司は背が伸びて、もう少し顔を上げなかったら見えないくらいになってた。それだけの時間が流れちゃったんだ、って、そんなに長い間、健司がこの部屋に来てなかったんだって思ったら、わーっと来ちゃって」

バスケット部の中では高い方ではない。だが、それほど差のなかった2年前からすっかり成長した健司は、を上から見下ろしている。健司の肩幅の中にすっぽりと収まってしまって、やけに小さく見えてきた。そういう変化が一気に見えてきた、それはわかる。美しいも同じことだ。だけど――

「それ、どういう、意味?」
……一緒にいられたはずの時間が、もう取り戻せないって思ったら、つらくて」
「それは、どうして?」

また少しずつ距離を縮め顔を近付けた健司は、の髪を撫で梳きながら囁いた。

「一緒に、いたかったなって。そうしたらもっと早く、健司のこと好きだって、わかったのに」

健司がぼんやり抱いていた不安は一瞬で消え去り、気付いたときにはキスをしていた。ずいぶんと小さくなってしまったを腕に抱いてキスを繰り返しながら、婚約させられてしまった日のことを思い出していた。

婚約? それって結婚てことだよな? 結婚したらどうするんだ、夫婦になる、家族になる、子供が生まれる。オレと子供作るってこと? それって、とヤるってことだろ。マジかよ! そんなの、そんなの――

考えてはいけないことのような気がして、しかしそう思えば思うほど気になって、一周回って嫌悪感を抱くようにもなった。確かにあの頃はそんなの嫌だ、としか考えられなかった。、それ以上でもそれ以下でもない、だけど相手をどう思うかなんてこと、結論を出したくなかった。曖昧なままでよかった。

それでも、その頃既に「好き」の欠片は間違いなくふたりの中に存在していた。けれど、が言うように、2年間を離れて過ごしたせいで、ずっと見えなかった。

今は、見える。

健司はを抱き上げてベッド運ぶと、ころりと転がしてその上に覆い被さる。急に抱き上げられて驚いただったが、すぐに意図を察してリモコンに手を伸ばし、部屋の明かりを落とした。優しいダウンライトの光がぼんやりと照らすベッドの上、健司はと額を合わせる。

……、今日ここで寝ていい?」
「寝ちゃっていいの? サンタ、来るかもしれないよ」
「そか。じゃあ、起きてよっか」

の腕が伸びてきて健司の体を引き寄せる。ゆっくりと唇が重なり、指が絡まり、少しずつ吐息が漏れる。

「健司……私処女だよ」
「ひどいこと言ってごめん」
「ううん、そうじゃなくて、誰とも、付き合わなかったよ、って。好きになれる人、いなかったから」

健司はの服に手をかけながら、ニヤリと笑った。

「オレも」