ハート・オブ・ゴールド

02

父親ふたりの勝手な判断で許嫁通り越して婚約させられてしまった健司とはその夜、家に帰り着くと大喧嘩をした。何か明確な原因があったわけじゃない。ただふたりとも目の前の状況が理解できなくて、それによるストレスで頭に血が上っていた。どうでもいいことから言い合いになり、喧嘩に発展した。

「だいたい、なんで勝手にあんなこと決めるの!? おじさん何考えてるの」
「オレが知るかよ! お前んとこのおじさんだって何考えてんだよ!」
「子供を産め、ってどういうことよ! 何で男の子が産まれることになってるの!?」
「だからオレに聞くなよ! てかお前もその指輪いつまでもつけてんじゃねえよ!」

ゴワつきの残る翔陽の制服のの左手には、あまりに不似合いなダイヤモンドリングが嵌っている。

「つけたくてつけてるわけじゃないもん!」
「だったら外せよ!」
「今取るってば!!」

混乱しているのでは指を曲げたままぐいぐいと引っ張る。それではいつまで経っても抜けないので、苛ついた健司はの手を乱暴に取り上げて指を伸ばし、力任せに指輪を引き抜いた。

「痛い!」
「我慢しろ! てか何でオレが会社継ぐことになってんだよ!」
「知らないよそんなこと!」
「オレは親父の会社なんかで働きたくない!」
「私に言わないで!!」

大声で怒鳴りあったふたりはしかし、ショックと混乱で疲れてソファにぐったりと倒れこんだ。

「なんで小母さんいないんだよ……ホテルにもいなかったじゃないか」
「連絡、取れない」
「腹減った」
「私に言わないで」
「オレたち結婚するのか?」
「知らないそんなこと」
、オレの子産むのか?」
「もうやめてよ、そんなこと言ったってしょうがないじゃん!」

が力任せに投げつけたクッションを健司は片手で受け止めて抱き締める。ふたりともがっくりと肩を落とし頭を落とし、何度もため息をつく。ふたりとも昼に食事をしたきり、もう20時を過ぎているし、の母親とは連絡が取れないし、状況がわからないので不安になるばかりだ。

……もしオレたちがそんなの嫌だって言ったらどうなるんだろう」
「親が強制的に結婚させることなんて出来るのかな……
「そんなの出来ないよな? だったら――だったら自分で働いて生活しろって言うだけか」

思わず明るい表情で顔を上げた健司だったが、自分で言い直してまた頭を落とした。そもそも本人たちが一代で成金にのし上がったタイプなので、ふたりがどう駄々をこねようとも「親の言うことに従えないなら勝手に生きろ」が返ってくるだけだ。特にもうふたりは中学を出ているので一応不可能ではない。

って……将来何かやりたいこととかあるんだっけ」
「これ、っていうのはないけど、なんとなくなら、一応」
「それって大学行かないとなれないもの?」
「それはまだわかんないけど……大学行かないなんてお父さんが許さないよ」

の言うように、修吾と皆人は万事が万事このようにして子供を育ててきた。というよりそういう風に「指示」をしてきた。ふたりとも忙しくて子どもと一緒に遊ぶ、なんていうことはほとんどしたことがない。はそれほど遺恨に思っていないようだが、お父さんとキャッチボールをしたことがない健司は多少根に持っている。

ふたりにとってと健司は自分たちの方針通りに生きてゆくものだと思っているし、それが嫌なら出て行けという姿勢も崩さない。もちろんそこには「出て行ったところで、どうせ生きていかれない」という余裕があるからだが、ふたりはそれなりに従順な子供として生きてきたので、逆らうとも思っていないだろう。

「だけど、そんなの、自分の人生親に決められてそれでいいのかよ」
「だって今までは公立中学行け、翔陽行け、くらいしかなかったじゃん」
「そうだけど……だったらオレたち大学行って親の会社入って結婚するしかないじゃないか」
「私に言わないでよ。私だって、そんなお父さんの会社に入るなんて思ってなかったし、結婚だって……

確かに修吾と皆人は「指示」で子供を育ててきたが、何しろまだふたりとも高校入学前の15歳である。中学高校くらいならまだ後々修正は効く範囲だろうが、就職に直結する高校後の進路と結婚となれば話は別だ。

「健司はどうしたかったの」
「そりゃまあその……
「バスケ選手か……
「その呆れた顔やめろ」
「しょうがないでしょ、おじさんの顔もどうせこんなだよ」

いくら話しても抜け道が見つからない。頭が冷えてきたふたりはキッチンを漁って適当に食事を済ませると、部屋に入って寝てしまった。はもちろん自分の部屋、健司もしょっちゅう泊まりにくるので、3つある客室のひとつはほぼ専用になっている。

その翌朝、皆人が珍しく家にいたので、ふたりは焦って彼に詰め寄った。が、皆人は冷たい目で一蹴した。

「誰のおかげで生きてこれたと思ってるんだ。しかもこんな贅沢な暮らし」
「そ、それはそうだけどさ、おじさんは嫌じゃないの、今から娘の結婚相手なんか」
「だからだろ。どこの馬の骨とも知れないのならともかく、お前なら文句ないじゃないか」
「ないの!?」
「まあ、学力はまだ努力が必要だけど、後は問題ないだろ」

とはいえ健司も特に成績がひどいというほどでもない。文武両道で美少年が裏目に出た。

「だけどお父さん、会社を継ぐとかいうことならもっと優秀な人の方が」
「それは素質の問題じゃなくてお前たちの努力の問題だ。努力して優秀な人間になれ」
「そ、それはともかく、だとしても結婚はどうなの? 私が子供産んだら仕事は――
「産休はあるし復職も保証がある。これからの女は子育てしながら働くのが当たり前だ。甘えるな」

あれこれとまくし立ててみたと健司だったが、相手は皆人である。口で勝てるわけがない。

「ふたりともいい加減にしなさい。これはもう決まったことで、他にもたくさんの人が関わっている大きなプロジェクトなんだから、子供みたいな駄々をこねるんじゃない。進路も仕事も結婚も、文句があるならこの家を出て自分で稼いで生きて行きなさい。オレと修吾はそうやって来た。やれるものならやってみなさい」

皆人の冷たい言葉の向こうで、の母親は険しい表情のまま黙ってお茶を淹れていた。ふたりと同じように戸惑いがあるのかもしれないが、皆人の言うことは彼女にもそのまま当てはまる。結婚以来専業主婦を貫いてきたので、いきなり放り出されたら生活できない。

ふたりはすごすごとの部屋に戻ると、はベッドに、健司は床の上にばったりと倒れ込んだ。

「オレたち終了……
「プロジェクトって何……
「何がオレと修吾はそうやって来た、だよ。親の金で大学まで出てきたくせに」
「だけどお金ほとんど返してるらしいよ、あのふたり」
…………終わった。マジおわた」

修吾と皆人は収入が増えるに従い、親に養育にかかったと思われる相当の金銭を返してしまっている。なので祖父母たちは息子のやることに口を挟めないわけだ。孫ふたりが「指示」で育てられていることはおそらく知らないだろうから何も言ってこないし、そもそもあまり会わない。

「つまり、大学までバスケやったらその後は親父の会社、親父の会社が嫌なら今すぐバスケを捨てる、てことか」
「今すぐって、高校の間は結婚なんかしないだろうし、まだ3年時間があるって思えば」
……オレ、そんな暇ねえよ」

結局のところ、どんなに永らえてもあと7年でバスケットを取り上げられるという現実に打ちのめされて、健司の声が刺々しくなる。彼にとって今最も大事なのはバスケットであり、それを続けていかれる環境であり、それが奪われてしまうかもしれないことは、もはや絶望だった。

「どうせバスケできなくなるんだったら、それまではもうオレバスケしかやらない」
「はい?」
「優秀な人間になる努力なんかするか、バカバカしい。バカに会社継がせてやる」

もうそんなことしか父親たちの横暴に逆らう方法が思いつかなかった。健司はのそりと立ち上がると、冷たい目でを見下ろす。まだ父の背にも届かない健司だが、ベッドに腰掛けていたは天井を見上げるほどに上を向いた。健司はある意味では憎しみのこもった目をしていた。

「まさか18になったら即結婚ってこともないだろうけど、どうせ逃げられないんだったら、それまでの間に好きなだけ遊んでおけよ。オレ、別にお前が処女じゃなくても気にしないから」

そんなことをに言って何になるというんだろう。けれど、憤る心をどうやって納得させ落ち着かせたらいいかわからなかった。ちょうど目の前にいるのは小さな頃から一緒に育ってきた幼馴染だ。ひどい言葉をぶつけられてすくみ上がっているに構わず、健司はスタスタと部屋を出ていき、そのまま自宅へ帰ってしまった。

そしてその日の夜、の元に健司からメッセージが届いた。

「婚約してることは誰にも喋るなよ。それから、明後日からは名前で呼ばないでくれ」

健司の怒りはもっともだ。と違い、何より熱中しているものがあるだけに、それをいつか取り上げられるということの前にあって、冷静になれない気持ちはわかる。だが、それなりに仲良くやって来た幼馴染からこんなことを告げられてしまったはショックで思わず涙がこぼれた。

なんで喧嘩したみたいになってるんだろう。私たちには喧嘩する理由なんかなかったのに。悲しい。

もしこのまま親に逆らえずにずるずると時間が過ぎて、結婚することになったのだとしたら、こんな風にギスギスした状態で夫婦にならなきゃいけないんだろうか。そもそもこれまでは一切の恋愛感情を抱いたことはなかったはずだが、さらに険悪な精神状態で結婚しなきゃならないんだろうか。

はベッドの上で体を丸め、声を殺して泣いた。健司とそんな関係になりたくなかった。

2日後、翔陽の入学式。普段子供のことなど「指示」で済ませている修吾と皆人だが、自分たちの出身校に我が子が入学するとなれば話は別だ。どちらも仕事を投げ出して朝からスーツをしっかり着込み、1番気に入っている車で子供を連れて翔陽に降り立った。

保護者のための駐車スペースはございません、ご列席の際は公共交通機関をご利用下さい――というお願いも修吾と皆人には関係ない。寄付金の額が違う。見るからに高そうな車で乗り付け、子供を連れ立って敷地内を行くので、も健司もものすごく目立つ。は俯いて髪で顔を隠していた。

どちらもできれば親の社会的地位と自分は切り離して生活したいと願っていたのだが、入学初日からふたりは「セレブ」ということになってしまった。それでもまだは地味に生活を送ることが出来るけれど、健司はそうはいかない。何しろ翔陽は神奈川では伝統的にバスケットの強い高校だ。

というか修吾のゴリ押しがあったとは言え、一応健司はバスケットを理由にした推薦入学である。その上それは方便ではなくて、本当に優秀な選手である。東京のIH常連校の監督が修吾に土下座したほどの選手だ。

部活が解禁になったその日から、健司は女子のアイドルになった。部員数が3桁を越す強豪チーム、そこに入ったばかりの1年生でありながら、近く開催されるIH予選ではスタメン間違いなしと噂され、その上アイドルの名に恥じない整った容貌をしていて、しかし傲慢なところはなく、むしろ明るくて人懐っこい。

1年生の間ではもちろん、全学年合わせても健司はとても有名な生徒になっていった。

そんな中、は静かに穏やかに学校生活を送っていた。もちろん入学時のことは多くの生徒に目撃されているので誤魔化しようがないけれど、部活は付き合いで活動日の少ない文化部に入り、ひたすら目立たないように毎日を過ごしていた。一緒になって目立ったら父親たちの二の舞いだ。しかし、

「だけどって藤真と知り合いなんでしょ?」

何度も何度もそう聞かれた。は淡々と答え続ける。

「んー、親が友達だからね」
「えっ、幼馴染なんじゃないの?」
「小学校は一緒だったけど、中学は違うし……
「そっかあ。でも噂んなってたよ〜セレブで幼馴染で許嫁だって」

安直な発想だと馬鹿にしたいところだが、実際は成金で幼馴染で婚約中である。は心の動揺を顔に出さないように、ゆっくりと息を吸い込む。何度も嘘をついているけれど、嘘に慣れることなんかなかった。

「少女漫画だな〜。藤真モテるし、聞いたら否定しといてよ〜」

健司のことを「藤真」と言うたびに、心に傷がついた。刃物でグサリと刺されたような気がした。

そして自宅に戻り、健司がやって来なくなった客室を見るたびに、同じように心が痛んだ。気楽な幼馴染だったのに、勝手な父親たちの「プロジェクト」のせいで、自分たちは友達ですらいられなくなってしまった。

もしかしたら本当にお互いのことを愛しく思うようになったかもしれない。その可能性はゼロではなかっただろう。けれど、そうでないまま大人になっていく可能性の方が大きかった。少なくともいきなり婚約させられてしまう直前まではそうだった。お互い中学時代はそれなりに好きな人もいたのだ。

そうやって家族のような幼馴染のまま大人になり、いつかお互いが家族を持ってもそんな関係でいられたかもしれないというのに、一瞬で壊れてしまった。その上、父親たちは今から距離を縮めておけと「指示」をするようになり、デートなら金を出してやるとまで言い出した。

しかし健司は入学式の前を境に家には一切近寄っておらず、その上、入学前以来、とは口もきいていなかった。実際のところ、家に来ないのなら特に用があるわけでなし、もしどうしても連絡しなければならないことがあれば、携帯で連絡を取り合えばいいだけなので、直接会話する理由がなかった。

あんなに毎日一緒にいて、一緒に遊んだり食事をしたりして過ごしていたのに。小学校に上がるまでは風呂だって一緒だったくらいなのに。は掃除が繰り返されるだけの客室をぼんやり眺めながら、いつでもここに健司がいた幼い日々のことを思い、また心が痛んだ。

そして、健司が翔陽で人気者になり、男女の別なくみんなから好かれているのを見ても、また心が痛んだ。

どうせ結婚しなきゃいけないなら、それまでの間に好きなだけ遊んでおけ――健司はそう言って出て行ってしまった。その通り健司は好きなだけ女の子と遊んでいるんだろうか。いくらでも寄ってくるのだから、選びたい放題だろうな。みんなみんな、女の子は健司が好きだった。

気楽な幼馴染を奪われて恋をする気力もなく、その上地味に過ごしたいは適当に男の子を引っかけて遊ぶなんていうことは出来なかった。したいとも思わなかった。もし誰かと付き合って、その人のことを本気で好きになってしまったら、別れを耐えられないと思ったからだ。

100パーセント期間限定、今は彼氏欲しいけど婚約してるんでその内別れてくださーい! なんていうことが、出来るとは思えなかった。まだ心の底から人を好きになるという経験もなかったし、そうである以上は「遊び」に手を染めるのは怖かった。割り切って戻って来られなかったらと思うと、全身が冷たくなる。

はそういう意味では臆病だったのだ。怖い時はいつも健司の服を掴んでいた。

十数年ぶりの1年生スタメンでIHに出場したという健司の噂を聞きながら、は夏の青空を見上げていた。にとって恋愛は遊びにはならない。だったら、どうしても結婚を避けられないのだとしたら、この3年間は自分を納得させるために使おう、いつでも父親たちから離反できるように勉強もしよう、そう思った。

さあ、明日健司と結婚しなさい。いつそうなってもいいように、健司を好きになる努力をしよう――

それが簡単にできるくらいならこんなに悩まないのに、という言葉をは必死で頭の中から追い出した。