ハート・オブ・ゴールド

15

「受験なんてそんなもんだろ。てかオレたちとうとう受験一度もしないんだな」
「だけど冬休み、あいつ寮が閉まる間しか帰らなかったんだぞ」
「そりゃ学校でも講習やってたし、予備校は寮の方が近いからだろ」

1月、が受験で相手をしてくれないので健司は不貞腐れていた。家庭の状態に少々問題があるとはいえ、寮も年末年始には無人となる。あくまでも学生寮、ふたりのためだけにスタッフを全員無休にするわけにもいかない。健司は冬休みに入るのと同時に祖父母宅に身を寄せたが、はギリギリまで残っていた。

「寮が閉まるのは28からで、ええと確か27の18時までには出なきゃいけなかったんだよな?」
「で、戻っていいのが5日の朝9時」
「その間どこにいたんだ」
「皆人の方のじいさんちに行ってたらしいけど」

皆人の方、つまりの祖父母の家に世話になっていたらしいが、は「受験だから」とあまり詳しいことを話さなかったし、健司の相手もしてくれなかった。クリスマスもカウントダウンもなし。

というか進路が決まって受験がないバスケット部員のうち、実家が遠くない数人で集まってカウントダウンをしに行ったのだが、「監督彼女いんのになんでこんなとこいんの? 嫌味?」とチクチク突っつかれて、ちょっと寂しかった。というかそのせいで今ものすごく寂しい。かまってくれない。

がかまってくれないっていうか、お前が暇なんだろ」
「暇」
「引っ越しは?」
「まだ何とも。家にあるものは修吾の金で買ったもの、てことになるしな」
「それはそうだけど……

春から都内の大学に通うことになる健司は、当初の提案通り祖父母の家に世話になる。例の「還付金」はたんまり残っているとかで、祖父はそれを正当な手段に使えるのが楽しいと言って修吾がかつて使っていた部屋を全面リフォームしてしまった。以前の面影はまったくない。

修吾はその部屋で大学4年間を過ごしたわけだが、やがてわざわざ元いた神奈川の「地元」に豪邸を構えるに至る。それは近くに皆人の地元があったからだと健司とは考えている。常に比較対象として皆人の近くにいなければならなかったんだろう。そして少しでも優位に立ちたくて。

「暇ならバイトとかしてみれば?」
「バイトったって…どうせ卒業する頃にはやめなきゃいけないんだし」
「短期でもいいじゃん。これを逃したらバイトするチャンス、しばらくないぞ」
……そうか、そうだよな」

何しろ部活はないしはかまってくれないしで、本当に暇だ。もしいい短期バイトがあれば付き合う、と花形が言うので、健司はさっそくフリーマガジンを持って帰り、近所で出来そうな短期バイトを探し始めた。

そして自由登校を前に翔陽の近くで働き始めた。短期可能でランダムシフト希望、ということでいわゆる「仕分け」のアルバイトだったが、そもそもが毎日駆けずり回っていたタイプなので、疲れることはなかったし、生まれて初めてのアルバイトは中々楽しかった。

やがて自由登校に入ると、今度は教習所通いが入ってくる。これも今を逃せばのんびり通っている暇が取れるのは大学での引退後である。健司は花形たちとアルバイトをしたり教習所に通ったり、また祖父母や叔母夫婦と今後の相談をしたり、かまってもらえなくて寂しかったけれど、それなりに忙しく過ごしていた。

はセンター試験の数日前を最後に連絡を絶った。だが、彼女も孤軍奮闘している最中だし、健司はひたすら耐えた。自分の予定もまだはっきりしないけれど、家がどうなっていて、は無事に受験をクリアしたら春からどうするのか――それもちゃんと聞いていなかったけれど、じっと待っていた。

一方、無事に健司をゲットできた元東桜の監督は相変わらず機嫌がよく、暇なら練習に参加してもいいよなどと言ってくれた。が、暇だったのは年明けしばらくのことで、2月に入ってしまったらあまり暇がなくなってしまった。

……お前なにそれ」
「なにそれって、バイト代出たから買った。欲しかったんだよなこれ」

2月末、初めての給料が出た花形はピカピカの腕時計をつけて健司の前に現れた。腕時計の前にその傷だらけのメガネ直せよ、と思ったが、一応言わないでおいてやる。

「お前何に使ったんだ」
「いやまだ何も……てか確認してなかった」
「金持ちめ、滅びろ」
「別にオレは金持ちとかそういうことじゃねえだろ……

健司の場合、今のところ生活が安定しないので、あれが欲しいこれが欲しいがパッと思いつかないだけだ。強いて言えば自分専用のキッチンが欲しいというところだが、それはきっと言ってはいけないことだろうと思われるのでこれも黙っておく。

しかし、毎月生活費兼小遣いが振り込まれるだけの口座には自分で働いて稼いだ金というものが入っている。修吾たちから見たらささやかな額だろうけれど、それでも健司が自分ひとりで得たものだ。さて、それは何に使おうか。貯金という選択肢もありだが、なんとなく記念に使っておきたい気もする。

健司がそんなことをぼんやり考えている間に、3月に突入した。

揉めに揉めていた藤真との2組の夫婦だが、こちらは当然離婚の運びとなった。藤真家の方は母親が激怒していてこれを許さず、家の方は皆人が許さなかったからだ。の母親は何もためらうことなく修吾のもとへ行き、に残った。

一方夫婦で会社を経営しているような状態だった藤真家はもっと揉めた。何しろ不倫相手はの母親だけでなく、忠臣稲田さんもだ。というかどうも修吾の「本命」は稲田さんだったらしい。独身の彼女には娘がひとりいて、一応これは修吾の子ではないらしいが、娘は修吾を父だと思っているとのこと。

健司との婚約、これに修吾は「皆人の女を全て奪う」という目的があったわけだが、表向きに修吾と皆人の間では、それぞれ自分の会社を子供に継がせて、自分たちは海外で新たな事業を起こそうという取り決めがあったらしい。もちろんそれもご破算だ。

そういうわけで、藤真家は会社もろともふたつに割れた。元々修吾がひとりで起業したものだが、それから20数年、健司の母親の派閥も出来ていて、この不倫騒ぎで余計に溝が深くなってしまった。というか事情が事情なので、修吾は形勢不利、だいぶ崖っぷちを歩かされていた。

それでも真っ二つに割れた状態はお互いに都合が悪い。修吾は稲田さんを含む創業当時のメンバーと共に経営の中心から外れ、予定通り海外事業部創設という形で隔離が決まった。修吾は職場では稲田さんを、プライベートではの母を隣に置くことになった。どちらとも結婚はしない模様。

「それでちゃんはどうなったの。残ったって言っても、お父さんがあれでしょ」
「元々皆人も海外進出を考えてたんだよ。だから修吾と同じ。あっちは予定が少し早まるかも」
……皆人さんはいいのよ。ちゃんはどうしたって聞いてるの」

3月、卒業を控えるだけになった健司は、祖母と一緒に広いキッチンでパンを捏ねていた。冬休みも世話になっていたが、いざ同居を開始してみたら祖母も料理が趣味、同じ顔して同じ趣味だったので、時間が出来るとこうしてキッチンに並んで立つことが増えていた。なので叔母夫婦がよく食べに来る。

というか、今この祖母は、厳密には「母」だ。紆余曲折を経て健司は祖父母の養子に収まった。あと2年間で成人するけれど、これから4年間学生をやる都合上、修吾のように収入以外全て不安定な状態の保護者では困ることも多いだろうという判断だった。そのため、両親は離婚したが健司は藤真健司のままである。

「ええと、だからどうせ皆人が海外に行っちゃうから、そのままでいいということで、ていうかどうしても皆人に大学4年間の面倒を見させたいらしくて、なんか色々条件付けてひとり暮らしするってことになった……はず」

というのも、健司も自分の家のことでバタバタしていたし、それは受験が重なっていたも同じで、無事に志望校に合格したということはわかっているけれど、その後どうしたかはあまりはっきり耳に入ってきていない。

「それじゃちゃんと学校に行ける状態ではあるのね?」
「それは大丈夫だと思う。この間退寮したって言ってたし、もうあのの家は売りに出されたみたいだし」

皆人は修吾のように粘着質でない代わりに、とにかく冷たい。本人は「合理的」と自称しているが、万事ドライで情がなく、のひとり暮らしが決まると、さっさと家財を処分して自分は東京のマンションを本宅とした。そんなわけで早くもあの家は売りに出されてしまったというわけだ。

「あの家で育ったも同然だから、ちょっと寂しかったんだけどね」
ちゃんもそうだったんじゃないの」
「それが、の方から見に行ったりするのはやめよう、って言われて」

いい思い出はそのまましまっておこう、今帰っても嫌なことを一緒に思い出すだけだし、自分たちが修吾と皆人の管理下から抜け出して新たなスタートを切る、そのためにもあの家のことは忘れよう、はそう健司を諭した。執念深い修吾のこと、もしかしたらあの家を買い戻すかもしれないし、と言って笑っていた。

……なんとなく、色んなものが次々になくなっていくから」
……そうね」
「実は増えたものの方が多いんだけど、今少し、とも会えないから」
……大丈夫、ちゃんはいなくなったりしないわよ」

受験のせいもあって、年明けからこっち、健司は放置が続いていた。そのせいで少しばかりに対してはナーバスになっている。大学に入るまでの短い春休み、一緒に過ごす時間が欲しかったのだが、まだ新居が落ち着かないらしいからは暇がないと言われ続けている。

そんな中、これまで修吾の見栄でしかなかったのが一転、揉めてたけど我が社は問題ありません、をアピールする形で創立記念パーティーを開く運びとなった。が、これはもう修吾ひとりが主催するものではないので、とうとう健司や祖父母、叔母夫婦はお役御免となった。

だが、なぜかそこにが出席するという話が飛び込んできた。

とはいえそういう話が飛び込んできただけで、やっぱり詳しいことは話してもらえず、健司は不安感がピークに達していた。あいつそんなところに行ってなにするつもりだ。が、それを確かめるためだけに自分までパーティに行くには親ふたりとの関係があまりにもよろしくない。何しろ親権は祖父母のものだ。公的な「親」でなくなってしまっている。

健司はを心配に思う一方で、婚約騒ぎから始まった自分たちのこの恋を改めて考え直していた。有耶無耶になっているが、もう婚約は破棄されたと言っていいだろうし、けれど今もふたりは思い合っている。が好きだから一緒にいたい、少なくとも健司はそう思っている。

それをちゃんとと話し合いたい。修吾も皆人も関係なく、自分たちは自分の意思で互いを思っているのだと、それを確かめたかった。もうすぐ婚約させられてから3年の月日が経過する。それを前に区切りをつけ、やがて始まる新生活の中でも手を取り合っていけるように。

健司はリフォームされたきれいな部屋の中で、じっと預金通帳を見ていた。

「この度は本当に申し訳ありませんでした」
「えっ、やめてください、謝っていただくようなことは何もありません」
……だけど、こんなことに、なって。私も娘がいるから、その」
「それは私たちの親4人の問題です。稲田さんは関係ありませんよ」

都内某所のホテル、ロビーの片隅では稲田さんに深々と頭を下げられていた。藤真の創立記念パーティーである。当然皆人は来ていない。だが、は昨年同様パーティに相応しい装いをしてやってきた。

「というか、突き詰めれば悪いのは皆人と修吾小父さんだと思いますけど」
「そ、そうね……
「私はまだいいです。だけどこのことで1番苦しい思いをしたのは健司です」
「それは、はい、わかってます」
「だから稲田さんいつも色々助けてくれてたんですよね。全部知ってたから」

修吾とは学生時代からの付き合いだという稲田さんは、かつては修吾のプライベート、健司に関わることでも的確なサポートをしてくれる最強のスタッフだった。だが、それは彼女も一応親であるところからくる健司への「罪滅ぼし」であった。修吾は好きでも、親としての修吾は好きではないという。

「私の娘にも一応良くはしてくれるし、娘は父親と思ってるようだけど、それはいずれ話そうと思ってます」
「修吾小父さんを父親と思わないように、ということですか?」
「いいえ、健司くんにとって、社長がどういう父親だったのかということを」
「それは……ショックを受けませんか」
「私と娘はそれを知らなきゃいけないと思うんです」

それでなくとも修吾にはまだの母親もいると言うのに、稲田さんは律儀だ。聞けば毎月の健司の生活費やら彼の生活に必要な手続きその他親がやらねばならない事務的なことは全て彼女が請け負ってきたそうだ。

……さん、健司くんとお付き合い、してるのよね?」
「はい、もう1年になります」
「私がこんなこと言うのはおかしいんだけど、でも、健司くんはあなたがいれば大丈夫だと思います」

それは事実だ。しっかりと頷くを稲田さんは真正面から見つめる。

「それと同じように、修吾にも私がいないと、ダメなんです。あなたのお母さんでは、補えないの」

は再度頷いた。それもよくわかる。稲田さんは健司にとっての、本当の修吾を長く知る唯一のパートナーなのだろう。自分の母親は皆人の元から解放されたい一心で操られていただけの、愛人だ。だけど稲田さんは違う。彼女がいなければ修吾は今度こそ地に落ちる。

「私の父も同じですけど、修吾小父さんは、モンスターです。どうか、目を離さないで下さい」
「ええ、そうします。もうさんたちに迷惑かけるようなこと、出来ないようにね」

稲田さんはそう言って少しだけ笑った。

がこの創立記念パーティーにやって来るということは、稲田さんから修吾に伝わっているはずだ。の母親が顔を出しているかどうかはわからないけれど、今日は目的を持ってやって来た。以前のようにスィートを与えられたりはしないので、ロビーで時間を待つ。

そして、去年と同じ巨大なフロアにてパーティが始まると、クロークに荷物を預けてひとりで向かう。美容院できっちりと纏めてもらった髪、黒のドレス、そして左手の薬指にはハリー・ウィンストンのエンゲージメント・リング。

去年は慣れないせいで少しヨロヨロしてしまったハイヒールも、もう平気だ。

フロア内は例年通りどこだかのお偉いさんで溢れかえっている。効きすぎた暖房がイブニングドレスなご婦人の肌を温め、スリーピースのスーツの紳士たちの額に汗を浮かせ、ホテルのスタッフがひっきりなしにドリンクを運んでいる。弦楽四重奏の準備があるのも去年と同じようだ。

そのフロアに入ったは、ど真ん中をひとりで進んでいく。

健司とふたり、ベランダの片隅でダンスの真似事をして初めてのキスをした、あれから1年の月日が流れようとしている。思い出すだけでもつらいことばかりだった。たくさん泣いたしたくさん怒ったし、時には何もかもが嫌になって死んでしまいたくなったこともあった。

だけど、健司がいてくれたから、耐えることが出来た。

健司を守らねばと思えば、ひとりで泣いているのが馬鹿らしくなった。

そういう気持ちを、決意を、心をくれたのは健司だ。

怖いことがあると、いつも健司の服をぎゅうぎゅう引っ張って泣きべそをかいていた。怖い夢を見れば隣で寝ていた健司をぎゅうぎゅう締め上げた。それを思い出せば自然と優しい笑顔が浮かぶ。フロアを突っ切るに、修吾が気付いた。隣には着飾った自分の母親がいたが、勇気はくじけない。

修吾も皆人も、それからお母さんも。私は健司を守るためなら、なんでもやるから。

? なんでひとりでこんな――
「これを返しに来ました」

慌てる母親を見もしないで、は修吾に向かって左手の甲を突き出した。薬指には指輪がある。

……そうだな。もう婚約などどうでもいい。それは返してもらおうか」

さすがに修吾は動じない。の母親を制して、姿勢を正す。は指輪を引き抜くと右手の親指と人差し指でつまみ、ちらちらと揺らしてみせる。ダイアモンドの煌めきが弾ける。

「婚約は解消だけど、は私が継ぎます」
「な、何言ってるのよやめなさい」
「それから、健司も私がもらいます」
……好きにしろ」

不穏な空気を察知して、遠巻きに見ていた来客たちも息を呑む。確かあれは社長の親友の娘のはず……

「全てのものを手に入れる、夢、叶わなくなっちゃったね、小父さん」
……なぜそれを」
「もう健司は二度と戻らない。この世にたったひとりの小父さんの息子はもう二度と手に入らない」
「なんだと」
「小父さんには心がない、愛情がない、家族もない、友達もいない、あるのはお金だけ」
、いい加減にしろ」
「お金以外何も持ってないから、何もかもが欲しいんだね」
!」

つい声を荒げた修吾に、はにっこりと微笑んで見せる。

「大丈夫、皆人もお金以外何も持ってないから。私と健司はそういうもの、全部持ってるけどね!」

そしては右手を真横に目一杯伸ばすと、つまんでいた指輪を床に落とし、呆気にとられている人々の中をくるりと背を向けてその場を立ち去り、両手で大広間のドアを開いて出ていった。

修吾はその後姿を見送りつつ、背後に控えていた稲田さんを呼びつけると、指輪を拾うように言いつけた。

「お預かりしておきます」
「そんなもの捨ててしまえ」
「230万のダイヤモンドリングですよ」
「大した金じゃない」
「じゃ、私が頂きます」
……勝手にしろ」

の母親が苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、稲田さんは構わずにポケットの中に入れた。

一方、大広間を出たはスタスタと廊下を行き、クロークで荷物を受け取るとコートを着込んで荷物を抱え、意気揚々とホテルを出た。興奮している。気持ちが良かった。修吾に言いたいことを全て言って、しかも言い返せなくさせてやった。修吾に勝った!

今だけかもしれない、修吾は負けたなんて思わないかもしれない、勝った気になってるだけかもしれない、だけどそれでいい。修吾と皆人は何も持ってない、だけど自分たちは全て持ってる、愛情も家族も友達も、あのふたりは持ってなくて、しかも欲しいとも思ってない大事なもの、私たちには、あるから!

そして改めて、それをくれたのが健司だと思うと今度は泣けてきた。

青白いイルミネーションと夜景の明かりの中、は足を止めて鼻をすすり上げた。これで自分も健司も、やっと自分の意志で生きていける。「指示」なんかじゃなくて、自分で迷って自分で選んで、失敗しても成功してもそれを誰かのせいにしたりせずに歩いていけるはずだと思うと、胸がいっぱいになる。

そういう道を、健司と並んで歩いていけたら。

そんな風に思って彼に会いたくなった。その時。

LEDイルミネーションが巻きつけられた街路樹の影に、健司が佇んでいた。いつかのオーダースーツにコートを羽織り、穏やかな表情でを見つめていた。は駆け出し、地面を蹴って健司に抱きついた。

、迎えに来たよ」