ハート・オブ・ゴールド

09

広い敷地、広い豪邸、その中の広い庭に面したの部屋は耳に痛いほど静まり返っていた。家はまさに閑静な住宅街というところにあり、稀に大型犬の吠え声が聞こえる程度で、車の音もめったに聞こえない。

はぐっすりと眠り込んでいたが、健司の方は朝練に慣れた体が勝手に目を覚ました。寝床に違和感を感じた彼はしかし、状況を思い出すと隣で寝ているにぺたりとくっついて二度寝をしようとした。幸い今日も休み。例年通りなら皆人たちはどんなに早くても昼過ぎにならないと帰ってこない。

が、朝練に慣れた早起き脳は二度寝を拒否、の優しい匂いに埋もれて眠りたい健司の体を容赦なく叩き起こす。仕方なく健司はベッドを抜け出して自分用になっている客間のバスルームに入り、のんびりシャワーを浴びた。二の腕に引っかき傷を見つけた時はつい慌てたけれど、他は問題ない。

髪もしっかり乾かしてから戻ったが、よほど疲れたのかは微動だにせずすやすやと眠っている。

そっとベッドに戻り、またにぺたりとくっつく。の体に腕を回すと、否が応でも昨日のことを思い出す。怒涛の1日だった。記憶を再生するだけでも目が回りそうだ。とどめにと一線を越えてしまうなどまるで予想していなかったことだ。だが、後悔はないし、まだ全身に幸福感が残っている。

婚約させられてしまった時はむしろ、とこんな関係になるなど、考えるだけで気分が悪かった。そういう存在じゃない、例えて言うなら自分の母親や女性の親族と同じようなもので、キスですら絶対に無理だと思っていた。まあそこは逆に空白期間があったことで感覚が薄れたのだろう。全然無理じゃなかった。

無理じゃないどころか、の体はあまりにも気持ちがよくて、夢中になってしまった。

そんな風に感じた自分すらも愛しくて、恥じらいと不安で涙目のはもっと愛しくて、思い出しただけで胸が軋む。健司はのおでこに唇を寄せて目を閉じる。眠気は戻ってきてくれないけれど、こうしてくっついているだけでも癒やされていく。

親同士が勝手に立てた「プロジェクト」なんぞは知ったことではないし、今もそれについては解消を望んでいるけれど、と恋仲に落ち着いたことにはホッとしていた。思い返すとこの2年間、どこかで居心地の悪さを感じていたような気がしているが、それももうない。

そうして健司がぼんやりし続けること1時間、普段のアラームが作動した携帯が軽い音を立て、やっとが目を覚ました。健司同様すぐに状況を理解できない様子のだったが、やがて全てを思い出すと腕を伸ばしてぺったりとくっついてきた。

「おはよ」
「おはよう。体、大丈夫か」
「たぶん。今は平気。もう起きてたの」
「朝練の習慣がな……

くすくす笑うを抱き寄せた健司がそう言うと、途端に腹がギュルルルと鳴りだした。

「お腹減ったの? ご飯食べたの遅かったのに」
……まあ、その後に運動したしな」
……その言い方やだ」

照れて足をバタバタさせるの首筋にキスをしながら、健司ははたと思いつく。

「そうだ、オレが朝飯作ってあげるよ」
「えっ!? 朝飯って……
「ちょっと冷蔵庫覗いてもいいか?」
「い、いいけど、何作るの」
「それはまだ内緒。オレ先に行ってるから、シャワー入って着替えておいで」

パーティで汗をかいて帰ってきてシャワーを使ったけれど、また汗をかいてしまい、しかしふたりとも疲れていたのでそのまま寝てしまった。も髪が一筋頬に張り付いている。

健司はを置いて部屋を出ると、そのまままっすぐにキッチンへ降りていく。材料が足りなければ買いに行かないとならないし、先に確認してしまわなければ。他人の家だが勝手知ったる台所だ。健司は迷わず冷蔵庫を開け、調味料や冷蔵不要の食材の入る棚も検める。

しばらく冷蔵庫と棚をパタパタ開け閉めしていた健司だが、やがて仁王立ちになってニヤリと笑った。

……イケる!

のろのろとシャワーを浴びたは、以前のようにラフ過ぎるルームウェアで健司の前に現れるのがなんとなく恥ずかしくなってしまい、ウォークインクローゼットの中でたっぷり10分はウロウロしてから部屋を出た。出るなり甘い香りが漂ってきて、は急いで階段を降りる。

「お、もういいのか」
「うん。なんかすごいいい匂いするなと思って。何作って――うわ、すごい!」
「食べられそうか?」

キッチンに並んだ、朝食と言うにはだいぶ豪勢な料理には歓声を上げた。オムレツ、サラダ、マッシュポテト、スープ、フルーツ、そして健司が今焼いているのは薄焼きのパンケーキだ。はすごいすごいと言いながらキッチンに駆け寄る。甘い匂いの正体はパンケーキだったらしい。

「それほど大量に食材使ってないけど、小母さんに見つかったらすまん」
「大丈夫だよ、健司が料理してることは知ってるんだし、卵にジャガイモに粉くらい」
「でも人に食べてもらうの、初めてだ」

健司はふつふつと気泡が出てきたパンケーキをひっくり返して、鼻で笑った。最初は家から遠ざかったせいでやむなく始めた料理だったけれど、それから2年、すっかり楽しくなってしまった。今まで誰にもその腕を振るう機会に恵まれなかったけれど、その最初の人がとは。

「口に合えばいいんだけど」
「大丈夫だよ、普段から自分で食べてるんでしょ。健司が美味しければ私も大丈夫」

小さな頃からの母親の手料理で育ってきたのだ。苦手な食材など好みの差はあれど、慣れた味を美味しく感じることに関しては共通しているはずだ。健司が美味しいならもおいしい。はそっと近付いて健司の腕にまとわりつく。昨夜から羽織っていた白のニットがの頬をくすぐる。

「すごい、きれいなパンケーキ。ホットケーキミックスなんてあったっけ?」
「いや、生地から作った」
「ほんとに? すごいね、健司、カフェとか出来るんじゃない?」

まだ食べてもいないが、は感心しきりでべた褒めしている。健司の方もスイーツ類はパンケーキが基礎になっているので、褒められて嬉しいし、その「カフェ」という言葉にふわっと胸をくすぐられた気がした。腕を引き抜いてを抱き寄せると、顔を近付ける。

「バスケ出来なくなったらカフェもいいかもしれないな」
「そのためにも腕、大事にしないとね」
……も一緒にやる?」

照れくさそうに微笑むをさらに引き寄せて、しっかりとキスをする。ああそれはいいかもしれない、いつかと一緒にカフェ、もちろん自分がもういいと思うまでバスケを続けられてからの話だけど、小さくていいから、と一緒にそんな店を持てたらいいな――

「じゃあ最初のお客様に味を見てもらおうかな」
「わー、どうしよう、なんか緊張する」

健司はいそいそとダイニングテーブルに皿を運び、は紅茶を入れる。甘い香りが漂うふたりだけの朝食だ。と距離を置きたくなったせいで始めた自炊だったのに、始めてみたら楽しくなってしまい、それが淡い夢になるなんて。、おいしいって言ってくれるかな――

「それじゃ、い、いただきます……!」
「ど、ぞうぞ」

緊張と期待のは早速パンケーキにナイフを入れ、えいっとばかりに口に運ぶ。

…………健司」
「ど、どうした、なんか変だったか」
「超おいしいんだけど、なにこれ……
「マジか!」

がしかめっ面をしたのでサッと背筋が冷えた健司だったが、直後に身を乗り出した。は信じられないという顔でもぐもぐやっているが、美味しいならそれでいいのだ。健司もホッとしてスープマグに手を伸ばす。

「健司、ほんとにカフェやった方がいいよ。これおいしいよ」
「はは、ありがとう」
「いやお世辞じゃなくてほんとにおいしいんだってば! 優しい味で甘すぎなくてほんとおいしい」

それはそうだ。どうにもミックス粉が甘すぎるので、ネットで探した配合を元にかれこれ半年くらい試行錯誤して完成したオリジナルの配合だ。激甘なスイーツとしては成立しないかもしれないが、こんな風に朝食にするのにはぴったりだ。実は藤真家の冷凍庫にはこのパンケーキがだいたい20枚くらい冷凍してある。

「オムレツもポテトもおいしい〜。ねえねえ、他には何作るの」
「何っていうこともないけど、その時に食べたいものを好きに作ってるからなあ」
「そんなになんでも作れるの!?」
「そういうことじゃないって。どうせ食べるの自分だけだし、いい加減だし失敗することも多いよ」

それも事実なのだが、さんはあまり聞いていない模様。

「これを自分だけとはもったいない……。よし、私も一緒に食べてあげるよ!」
「じゃあ今度はがうちに来る?」
「行く行く。健司のご飯食べに行く!」

ふいに7歳のクリスマスと、一昨年のクリスマスを思い出した。いつでも一緒にいてくれた、両親との思い出は少ないけれど、いつどんな時を振り返っても健司の思い出の中にはがいる。だけは一緒にいてくれるのだ。健司は、自分もにとってのそういう存在になりたいと思った。

婚約の件はともかく、こうして付き合いだしたと健司はしかし、だからといって「自分たち付き合ってます」というアピールをするようなこともなく、普段通りの生活に戻った。何しろ健司は暇じゃないし、新学期が始まれば最上級生、高校バスケットの選手としていちばん大事な年がやって来る。

変化があるとすれば、健司がまた家に出入りするようになったことと、が藤真家へ行く機会が増えたことくらいだろうか。さすがに突然が藤真家に泊まってきますなんていうことは出来ないけれど、それでもふたりはお互いの家を行き来しつつ、家では母親の目の届かないところでイチャついていた。

学校でも、は特に変化のない生活を送っていたが、健司の方は最上級生であり校内一実績のあるバスケット部の主将であり、ついでにルックスもよくて家は金持ちという、なんだかふざけた人物になってしまい、しかし部員たちからの信頼が厚いので、実質生徒ヒエラルキーの頂点に君臨していた。

もはやこうなると告白する気も失せるチート藤真監督、彼は翔陽に入学して以来の快適なバスケットライフを送っていた。誰より自分を理解してくれる彼女がいて、選手兼監督は忙しいけれど部は順調そのもの、立場が偉そうになってしまったせいでわらわらと囲まれることも少なくなり、煩わしさもなくなった。

そして時間が空けばとふたりで料理をしたりお菓子を作ったり、趣味の方も楽しい。

婚約の件は相変わらず宙に浮いたままになっているが、修吾は何も言ってこないし、健司には都内の私大からスカウトが来ていた。浪人など許さない、さっさと受験に備えろと言っていた修吾だったけれど、受験に備える前に有名私大への入学が確約されてしまうかもしれない。

そうなれば「ちゃんと大学に進学する」という父親ふたりの「指示」はクリアできるわけだし、それはつまり、健司のバスケットライフはまた4年間延長が決まったことになる。受験がなければ冬の選抜まで悠々と部活を続けられるし、少しだけ未来に希望が見えてきた。

高校生最後のインターハイ、その予選が始まる頃になると、健司はとのことをカミングアウトしてもいいかなという気にすらなっていた。家族はまあいいとしても、信頼のおける部の仲間には言ってもいいかな、などと考えていた。きっとからかいつつも歓迎してくれるんじゃないだろうか。そんな風に思っていた。

だが、翔陽は予選最初の試合で負けた。

高校生最後のIHへ出場できないことが確定すると、それまで沈黙を守ってきた修吾がとうとう口を開いた。

「これでわかっただろう。お前の選手としての能力などその程度だ。これを機にすっぱりバスケをやめろ」

健司個人のバスケット選手としての能力は、依然県内トップクラス、誰がどう見ても5本の指に入る選手だった。それはライバルである海南大附属の主将と「双璧」と並び称されてきたことからも明らかで、それゆえに関東の高校バスケット関係者の間では普通に名の知れた選手であった。

だから都内の私大からスカウトが来ていたのだし、予選もシードだったわけだし、決して修吾の言うように「健司が大したことない選手だったから負けた」ということではなかった。

だが、それを自分で言ってどうなるというのだろう。ただの自画自賛としか受け取ってもらえない。

IH出場が潰えたことでスカウトは白紙、熱のこもった勧誘をしてきた監督は連絡がつかなくなり、翔陽は相変わらず監督不在、顧問の先生は毎度引率のみの保護者、健司が本当に将来を望まれるような選手であることを、修吾に説明してくれる大人がひとりもいなかった。

試合が終わり、学校で解散になるまではなんとか自分を保っていられた健司だったが、それを過ぎると一目散にのところへ帰ってきて落ち込んでいた。にそばにいてもらわないと、不安で仕方なかった。

小さい頃からずっと、は怖い思いをしていると健司の服をぎゅっと掴んで離さなかった。だが、今は健司の方がそういう状態にあり、はそんな彼にずっと寄り添っていた。

誰に監視をさせていたのか、試合に負けたことを聞きつけた修吾が家に押しかけてきたのは1週間後の夜のことだった。に付き添われてリビングまでやって来た健司は、ソファに腰を下ろして俯いたまま、修吾の勝ち誇った声を返事もせずに聞いていた。

「スカウトの話が消えたのは当然だ。いいか健司、この世の中では『実績』が『信頼』を生むんだ。実績のないものには信頼を寄せる価値はなく、価値のないものには投資しない、それがルールだ。たまに勘だの温情だのでそのルールを破るやつもいるが、そういうリスクを取るようでは一流にはなれないんだ」

修吾はの母に掛けるよう勧められたが無視、健司の斜め前に立ちはだかって腕を組み、大きな声で朗々と語っている。というか健司はスカウトの話など修吾にした覚えがなかった。一体どこから聞きつけたのだろう。遠巻きにハラハラしていたは、それが引っかかっていた。

というか一流だの投資だの、何の話だ。これが試合に負けてしまった息子への言葉だろうかとは呆れたが、そんなことを今修吾に言い返してもどうにもならない。余計に無関係なことで説教されるだけだ。

「例えお前が日本一のバスケット選手だったとしても、それが将来どうなるというんだ。アメリカのNBAとかならともかく、日本のプロリーグの年俸などたかが知れてるじゃないか。選手生命だって長くない、故障と隣り合わせ、引退後の身の振り方は? タレントにでもなるつもりか?」

健司が翔陽に入学してから2年と数ヶ月、敢えて黙っていた修吾は、こうして反論の余地のないタイミングを伺っていたのかもしれない。それが訪れなかったらまた別の手段を考えたろうが、こうして彼の理屈の上では隙のない説教を展開し、「プロジェクト」に健司を引き戻す機会を虎視眈々と狙っていたのかもしれない。

「だいたい、予選で躓いているようじゃ話にならんだろうが。IHは出て当たり前、それが大前提だろう。そのIHでどれだけ勝ち進めるか、その結果がせめて『実績』ギリギリだ。もう高3だっていうのにジュニアの強化選手に選ばれてるわけでもなし、自分のチームが砂上の楼閣だって、もうわかっただろう」

健司は無反応だが修吾は続ける。余計な芽は根まで絶やすということか。

「去年は確か2回戦で敗退、今年は予選敗退、それでよくバスケット選手だなどと」
「小父さん、それは――

あまりにひどいよと言いかけただったが、修吾は一歩進み出ると構わず言い放つ。

「オレはIHで個人戦ベスト4まで進んだぞ。お前の最高記録は、どこだ?」

静まり返るリビング、確かに修吾は高校時代に剣道をやっていたけれど、ベスト4など、息子は初耳だった。

「ああ、1年生の時がベスト16だったな? さあ何か反論があるか?」

虚ろな目をした健司はのそりと立ち上がると、父親より少し高くなった背を屈めて掠れた声を出した。

「父さんにとって、オレって、なんなの?」
「なんなのって息子に決まってんだろう。いい年して何を言ってるんだよ情けない」
「息子って子供だろ、あんたオレの親だろ、こんなことして、楽しいの?」
「楽しいわけないだろうが! いつまで経っても現実を見ようとしない息子に手を焼いてるところだ」

健司の肩がかすかに震え出す。思わず駆け寄って支えたの腕にも震えが伝わってくる。

「もう目を覚ませ。充分遊ばせてやっただろうが。そうやってお前が遊んで暮らす金は誰が出してると思ってるんだ。無一文で暮らせるわけがないことくらいはさすがにわかるな? お前が勉強もせずにバスケットに夢中になっていられるのは、親が毎日懸命に働いているからだ! それを忘れるな!」

満足したらしい修吾はテーブルの上のお茶をがぶりと飲む。まだ震えている健司は、支えてくれるの手に縋り、そしてにしか聞こえないほどの声で、囁いた。

、オレ、もう無理」