大広間には既に来客が大勢詰めかけていて、皆人も姿が見えない。出来るだけ目立ちたくないと健司はドアを薄く開いて音もなく忍び込み、壁伝いに回りこむと、スタッフの出入りが激しいあたりに素知らぬ顔をして落ち着き、その上なんとなく顔を逸らしていた。父親ふたりが接客している間はこうして顔を背けていれば絡まれることもないはずだ。
最初はを連れて祖父母や叔母夫婦のところに行こうかと思った健司だが、彼らは逆に目立つので修吾や皆人に捕まりやすいと思い直し、それにはも同意だというので、ふたりはジュースのグラスを手にこそこそしている。大広間は暖房が効きすぎていて喉も渇く。
「こんなに暖房強くすることないのに……」
「ああいうドレス着た女の人がいるからじゃないのか」
健司は顔をくいっと払って、広間の女性たちを指す。修吾の仕事上の付き合いがある来客なので高齢の女性も多いが、殆どの人がノースリーブだ。桜の開花予想も出ている時期だけれど、まだ夜は冷える。
「まだ寒いんだから長袖着てればいいのにな」
「まあ、イブニングドレスということなんだろうけど……舞踏会じゃあるまいしね」
「イブニングドレス?」
「外国の習慣だよ。夜用のドレスでは肌を見せることが多いの。だから私のも、ほら」
は羽織っているショートジャケットの襟をサッとめくってみせる。ジャケットの中はベアトップになっている。さらけ出された胸元の肌に健司は慌てて目を逸らす。鎖骨にかかるペンダントのきらめきが目に痛い。
「へえ、そうなんだ」
「だけどそういうのはもっと立派な舞踏会とか晩餐会とかであって、こんな創立記念パーティじゃね」
ぶつくさ言いながらグラスを傾けるの唇は艶やかな色を湛えていて、また健司はドキドキしてきた。化粧してるだけだろ、そんなところ初めて見たからびっくりしてるだけだ、ジャケットの中が袖なしだから何なんだよ、水着姿だって見たことあるだろ、最後いつだ、そうだ、小4だ、いつの話だよ!
ドキドキが治まらないのが居心地悪くて、健司は足を踏み変えてポケットに手を突っ込む。全部修吾が悪い。あいつが創立記念パーティなんかにオレたちを呼ぶから、大人たちだけでやってればいいのに、子供のオレたちまで巻き込むからこんなことになるんだ。そう、オレたちはまだ子供なんだよ。
「それにしても、部活よく休めたね監督」
「ああ、花形がなんとか都合つけてくれて」
「花形くんて仕事できるナンバー2って感じだよねえ」
「オレが仕事できないみたいな言い方だな」
「ていうか……健司って割と感性の人だと思ってたからさ」
名前を呼ばれるだけで、またドキリとする。おかしいぞオレ、これだぞ。
「感性?」
「監督が出来るのもそういうとこが鋭いからかなと思ってたんだけど」
「……自分じゃよくわかんないけど」
「そういえば、料理するんでしょ」
「……オレそんなこと言ったっけ」
に料理が趣味になっただなんて一言も言っていない気がした健司だったが、はさらりと母親に聞いたと言い出した。そういえば頭の怪我の検査の際、待ち時間が長すぎて会話のネタがなくなってきて、つい喋った記憶がある。
「調味料とか計らないでしょ」
「なんで知ってんだ」
「だから感性の人だと思ってたんだって」
もちろんお菓子はそういうわけにいかないけれど、日々の食事などはもう手加減である。というか材料の買い出しから洗い物まで全部自分でやるので、計量に必要な器具を洗うのが面倒くさいのだ。さすがに幼馴染ということだろうか。健司は少し恥ずかしくなりながらも、に見抜かれたことが少し嬉しかった。
この2年くらいまともに話してないけど、やっぱりオレのことよくわかってんな。オレはどうなんだろう。のこと、わかってるんだろうか。だったら、調味料、計るんだろうか。ていうか料理、したっけ?
ぼそぼそとそんなことを喋っていたふたりだったが、こそこそするのにも限界がある。若干申し訳なさそうな稲田さんがスタスタと近付いてきて、修吾と皆人が呼んでいるという。諦めのため息を付いたふたりは、グラスをスタッフに預けて稲田さんに向き合った。
「……社長が、手を取ってくるようにと。あとこれを」
「何ですか……ってこれどうしたんですか、うちにあったものじゃないですか」
「ですから、様が」
さすがの稲田さんも言いづらそうだ。彼女の手には例の「婚約指輪」が乗っていた。家の金庫に入っていたものだ。何しろハリー・ウィンストンのエンゲージメントリング、平均価格で200万以上するものだ。おそらく皆人はが従わないと見越して勝手に持ってきたんだろう。
「これを付けて、健司くんの腕に手を添えて来なさい、と」
このパーティの場で嫌だと逆らったところで、いるのは修吾と仕事上で深い関わりのある大人ばかり。親の金でのうのうと暮らしている子供が駄々をこねていると思われるのが関の山だ。はまたため息をついて指輪を取り、少しためらってから左手の薬指に嵌めた。
しかしそれを見ていた健司は、2年前、高校入学前に翔陽の制服でこの指輪をつけていた時はなんて分不相応なんだろう、子供の手にこんなものちっとも似合わない、と思っていたのに、今見たらそれほど不似合いでもなくなってるな、と少し感心した。の手は大人の女性の手になりかけていた。もう子供じゃないのか……?
「しょうがない、一仕事してくるか」
「高校生活と大学生活の安泰のために頑張ってきますか」
健司の差し出した腕には手を添えて、稲田さんの後に着いて行った。正直なところ健司は大学でバスケットが出来るかどうか怪しいと考えているが、まだ高校生は1年残っている。受験に備えてさっさと引退しろと言われないためにも今日は我慢だ。
だが、との距離が近くて、それだけは少し心が弾んだ。、いい匂いしてるな……
修吾に呼び出されてから約1時間、と健司は社長さんだの会長さんだの専務さんだのに紹介されまくり、そのたびに褒められたり貶されたり、また、は男性に健司は女性にベタベタ触られまくった。健司は出来るだけを庇うようにしたのだが、おっさんらは気付くと手を伸ばしているので防ぎようがないこともあった。
また、それまでは大広間の隅っこでこそこそしていたからよかったのだが、フロアの真ん中に出てしまった2人は汗をかいてきた。照明はギラギラと照りつけるし、乾いた暖房の風は容赦なく吹き付けるし、汗が出るし喉も渇く。は少し声がかれている。
ふたりがやっと解放されたのは、余興が始まる前。修吾の大学時代の同期の嫁がバイオリニストで、知人を集めて今日のために特別に弦楽四重奏を演奏してくれることになっている。これを修吾が無視することは出来ないので、演奏の支度が始まる頃にふたりは逃げ出すことが出来た。
とにかく大広間の温度も空気もつらい。は足早にバルコニーに逃げ、健司は飲み物を取りに行った。気取ったグラスの少量の飲み物では間に合わない。正直、ペットボトルのスポドリがほしい。しかしペットボトル片手に大広間を横切ろうものなら、後で何を言われるか。
迷った健司はスタッフに頼み込んで、ピッチャーに水とレモン果汁を入れてもらい、ついでにペーパータオルとお湯の用意も頼み、トレイの上に乗せてもらうことにした。そして出来るだけ背を向けたまま歩いてトレイを隠しながらバルコニーに向かい、客の興味が四重奏に向いてるのを確かめると素早く外へ出た。
大広間のバルコニーは広く張り出しており、一角にはソファとテーブルのセットが設えられ、東京の夜景が一望できるようになっている。まるで夜景の中の空中庭園だ。細かな光の降り注ぐバルコニー、吹き付けるビル風が熱せられて乾かされた肌に気持ちいい。
そこでを目にした健司は思わず足を止める。彼女はバルコニーの手すりにもたれて背を向けていた。あまりに暑かったのではジャケットを脱いでおり、ベアトップのパーティドレスで風を受けている。
夜の群青と夜景の光がの白い肌を浮かび上がらせ、健司はしばし見惚れた。
つい昨日までの「」とは、初々しい翔陽の制服を着た女の子であり、それは15歳であり、小さな頃から誰とも分かち合えない日常を共に過ごしてきた幼馴染だった。さもなくば、着の身着のまま飛行機の距離を飛んできて迎えに来てくれた大事な家族だった。
確かに昨日までのは、女ではなかった。
「お待たせ」
「うわ、ごめんね任せちゃって」
「これ、お湯とペーパータオル。汗、拭けるだろ」
「わあああ助かるありがとう」
は早速ペーパータオルに飛びつき、お湯で湿らせて首やら腕やらを拭きはじめた。というか汗をかいて気持ち悪いのは健司も同じ。ジャケットを脱いで彼も首やら額やらを拭きはじめた。汗をかいたまま3月の風を浴びていると冷えてくるが、ペーパータオルで拭き取るだけでもかなり不快感が取れる。
ついでにレモン果汁の入った水をごくごくと飲み干し、遠慮なくハーッと息を吐いた。
「あー疲れたーベタベタ触られて最悪」
「可哀想なことしたよな、ごめん」
「なんで健司が謝るの。普段は口うるさいくせに知らん顔してるお父さんが悪い」
「指輪も外していいぞ」
「……これはちょっと価格的に怖いから付けとくわ」
成金の娘でも好きなだけ豪遊できるような育て方をされなかったので、は左手の薬指に嵌まる200万を紛失したらと思う方が怖い。健司も思わず吹き出して頷く。もしこれを紛失したら恐らく連帯責任とやらで自分もろくな目に合わないと思われるからだ。
健司もシャツをバサバサとはたいて湿気を飛ばし、きっちりと水分を拭き取ったところでネクタイを締め直す。はよっぽど暑かったのか、まだジャケットを脱いだままだ。
そこへフロアの方からゆっくりとワルツが流れてきた。優しげで軽やかな曲だ。
「お父さんたち、本当にあれの良さがわかってるのかな」
「音楽聞いてるところなんか見たことないけど」
「まあ、私もクラシックの良さはわかんないけど。きれいだなーってくらい」
手をひらひらと翻らせているの言葉に、つい「もきれいだよ」と言いそうになってしまい、健司はギュッとネクタイを締め上げる。何考えてんだバカ。
「でも成金の創立記念パーティでよかったかもね。これが舞踏会だったら踊らされてたかも」
パーティドレスのスカートをつまんだは踊るようにふらふらと揺れた。風に乗っての匂いがふわりと漂う。懐かしい匂いだった。サンタクロース見たいから今日は寝るのやめようと言って船を漕ぐをベッドから引きずりだした記憶がよみがえる。の部屋の匂いだ。
本当に小さい頃は一緒のベッドで寝ていた。それが別々の部屋で寝かされることになったのは、皆人の「男女七歳にして同席せず」主義からだ。サンタクロース見たさに夜更かしていたクリスマスの翌年から、突然と健司は一緒のベッドで寝てはいけないと言い渡された。
初めてひとりで家の客間で寝かされた時は怖かった。はいないし、部屋の匂いはなんだか無機質で緊張するし、子供の目には広くて暗いのがたまらなく怖かった。
安心できる匂い、その持ち主であるに健司は無意識に手を差し出していた。
「んっ?」
「お嬢様、一曲いかがですか」
「え、踊れるの?」
「もちろん無理」
「ですよねー」
しかしそう言いながらは右手を重ね、左手を健司の肩に乗せた。何ぶん知識もないので正しいホールドではないが、健司も迷わず右手での背を支えた。はへらへらと笑っている。
「あんな空気の悪いホールより、こっちの方が全然いい! 夜景きれいだし静かだし臭いおじさんはいないし!」
健司も笑いながらとくるくる回る。3月の冷えた、しかしどこか丸くて暖かい風がふたりの髪を揺らす。
「やばいなー、こんなところ学校の誰かに見られたら登校拒否起こす」
「オレは海南に見られたら軽く死ねる」
「海南強いよね〜。またあの監督の余裕な顔がイラッと来る」
「あれっ? お前試合見に来てたの?」
「何言ってんの、いつも行ってるじゃん! お母さんもたまに来てるよ」
「嘘だろマジか! 全然知らなかった、てか何で言わないんだよ!」
「えー、一番前で見てるから気付いてると思ってたのに!」
ふたりはくるくる回りながら声を立てて笑った。突然婚約をさせられてしまってから2年、意味もなくギスギスした時間が過ぎてしまったけれど、かつてと健司はこんな風に気楽に笑って話せる関係だった。それが破綻する時が来るなど、考えたこともなかった。
「試合中に客席なんか見てないって!」
「そうなの!? 女の子たくさん来てるのにこの贅沢者」
「オレのせいかよ!」
けたけた笑ったふたり、健司は思わず手を離しての体を抱き締め、そのまままたくるりと回った。一回転して足を止めると、もそっと両腕を健司の首に巻きつけて、まだくすくすと笑っていた。
ベアトップのの体は3月の風に晒されてなお温かく、その肩に顔を埋めた健司は、何より心が落ち着く匂いに包まれて静かに息を吐いた。目を閉じれば心を騒がせる装いの美しいなどどこにもいない。小さな頃からすぐ隣にあった唯一無二の存在の証、それがこのの匂いだった。
その存在を失うのは嫌だし、少なくとも当分は以上の存在になれる人などいない気がした。
しかし、手のひらに吸い付くようなの肌の感触に、健司は意地悪な声を出す。
「どっちが贅沢者だよ、お前確かええと、そうだ、青山と一橋と北里」
「なんでそれ知ってんの!?」
「バスケ部で噂になってたくらいだからなあ」
「何もないって! なんかみんな人のこと勝手にセレブ扱いして気分悪かったんだよね」
親の経済力だけでいえば充分セレブということになるかもしれないが、ふたりとも中学は公立で揉まれろ指令が明けたばかり、セレブと言われても家が豪邸というくらいで、お小遣いの増額などは微々たるものだった。それをセレブなんでしょ、とテレビやネットで聞きかじったような感覚で来られても困るだけだ。
健司は腕を緩め、思い出してげんなりしているを見下ろす。
「……付き合わなくてよかったのか」
「そんなのと付き合いたいと思わないけど」
「……今誰かと付き合ってんの?」
「……別に」
健司が低い声でぼそぼそと話すので居心地が悪くなったか、はぷいっと顔を逸らした。
「高校、あと1年しかないんだぞ」
「だからって、好きでもないのと付き合っても時間の無駄じゃん……」
「本当に後悔しないか」
「何の後悔よ」
「……逃げる方法が見つからなかったら、オレしか残らないじゃないか」
は顔を戻すと、少し俯いてため息を付いた。
「だからって無差別に誰かと付き合えばいいってものじゃないでしょ」
「そうだけど」
「健司こそあんなに大量の女の子に囲まれてて誰とも付き合わないとか」
「オレは一分一秒でも多くバスケに使いたいんだよ」
それは本音だ。厳しさを帯びた健司の声には顔を上げ、手を伸ばして前髪を払う。
「こんな怪我しても、やめたいって思わないんだもんね」
「いつか取り上げられまではやめるつもりないし…………女の子はお前がいるからいいよ」
「そっかあ……えっ?」
つい普通に返事を返してしまったは、驚いて首を傾げた。今なんて言った?
「オレも別に好きな子とか、いなかったし、まだバスケの方が大事だし」
「嫌だったんじゃないの、婚約」
「そりゃ嫌だったよ。自分たちで望んだことじゃないのに、勝手に決められたら腹立つだろ」
高校入学前の時点で自分たちが相思相愛なら何の問題もなかった、ただそれだけのことだ。本来なら自分たちで考えて決めることなのに、それを親の権限で勝手に決め、その上それを「プロジェクト」などと呼んだ、それは到底許せるものではない。当たり前だ。
「……だけど自分で思ったことなら、嫌じゃない」
「何を、思ったの」
「……別に他の女の子とか、いらないなって、オレにはがいるから、いらないって」
言葉にすると驚くほどすんなりと自分の心に馴染んだ。別の女の子は特に必要ないのだ。で全て満足だから。共通の思い出、安心感、お互いの理解、悪く言えば「慣れ」の集合体でしかないとしても、不満がないものをわざわざ捨てる必要があるとは思えなくなっていた。
新しい女の子よりも、もう自分の人生の中に2度と現れない存在のの方がいい。
「あいつらの言いなりになって結婚するとかそういうの関係なくがいいって、オレがそう思っただけ」
少しずつ少しずつ、ゆっくりと顔を近付けていった健司、は逃げなかった。避けなかった。
3月の風がビルの隙間を縫って吹き付け、のパーティドレスのスカートをはためかせる。無数の光が取り巻く無機質な東京の夜を背にして健司はの体を両腕でくるみ込み、そっと唇を押し付けた。の腕が伸びてきて健司の首にからみつく。
「……が好きだってことは、もうずっと前から当たり前すぎて、忘れてた。ごめん」
は黙って首を振り、また健司にぎゅっとしがみついた。
「、帰ろ。スィートなんかじゃなくて、うちに帰ろう」