ハート・オブ・ゴールド

10

言いたいことを全てブチ撒けたので、修吾は満足して帰っていった。の母親が送りに出ている間に、は健司を連れて部屋に逃げ帰った。話には聞くし、そんなドラマや映画もあるけれど、まさか自分の目の前にあれほどひどい言葉を口にする人間が現れるとは。

幸いの部屋は鍵がかかる。と健司が中学生になった時、何を心配したのか皆人がつけたものだ。

「健司、大丈夫、私絶対健司の味方だから」
……

床に崩れ落ちた健司を抱きかかえたは声をかけながら彼の頭を撫でた。

「一緒に考えよ、小父さんの言いなりにならなくて済む方法、考えよう」
「無理だよ、どうやってそんなこと、オレもう無理だ、バスケ続けられない」
「そんなことないよ、健司みたいなすごい選手が諦めてどうするの」
「すごくないよ、勝てない、どうしても勝てないじゃん、バスケやる資格なんかないんだよ」

ショックのあまり冷静な思考が出来なくなっている。健司はにしがみつき、震えながら泣き出した。無理もない、一応は親だと思っていた修吾から暴言を吐かれて、深い傷を負っている。だが、ただ慰めてやればいいというものではない。健司はそれはそれで負けず嫌いだからだ。

「小父さんの言ったことに惑わされてどうするの! あんなこと信じないでよ!」
「だって……事実だろ、オレがベスト16止まりなのは事実だ!」
「そうじゃない、あんな小父さんの勝手な理屈、あれを正しいなんて思ったらダメだよ!」

毒の言葉を浴びせかけられたせいで、また修吾の主張に反論できる気力もなく、その上どこかで修吾に対して「自分の意志で生きる自分を愛してくれる親」を求める気持ちがあったことが重なり、健司は修吾の言うことが正しくて自分にはもうバスケットを辞めるしか選択肢がないと思い込んでいる。

は健司を強く抱き締め、背中を擦りながら語気を強めた。

「スカウトが消えたから何? 本当にいい選手が欲しかったんなら健司のこと諦めるっておかしいでしょ。健司の試合を見たことがあったらそんなことわかるはずでしょ。大学で教えてる先生ならそんなことわかるでしょ!? その監督がおかしいの! きっとあちこちで同じこと言って同じように白紙にしてるよ」

それはそれでこんな状態でなければプライドに障っただろうが、今はもうこれしかにも考えが及ばない。

「それに、まだあるでしょ、冬もあるでしょ。いい、健司、おかしいのは小父さんの方だからね!」

は健司の顔を両手で挟み、しっかりと支えて真正面から覗き込んだ。

「健司は、私と小父さん、どっちを信じるの」
……
「でしょ。だったら私の言うことを頭に残してあっちは忘れるように努力して!」

こっちも中々に強引な理屈だが、健司はようやくの言葉を飲み込める状態になってきた。

「たかが1試合負けたくらいでもうバスケできないなんてみっともないこと、私の前だけにして。健司の後ろには100人近い部員がいるんだよ。それを束ねてきた監督なんだよ。勝った試合もあったでしょ、それだけで他のただの選手とは違うんだよ、それ思い出して。そんな人があんな下らない言葉に負けてバスケやめるなんて、言ったらダメだよ! 花形くんたちになんて言うつもりよ! お父さんに怒られたからやめますなんて言うの!? 私そんなの許さないから! 健司がバスケやめるのはもっともっと先! もう自分が満足行くバスケできないって心から思えるまでやめたらダメだし、バスケやめても小父さんの会社なんて入らないの! バスケやめたら健司は私と一緒にカフェやるの! そう決まってるの!!!」

ほとんど怒鳴るような声だった。けれど、の言葉に泣きながら頷いた健司は腕を伸ばしてぎゅっと抱きついた。もまた抱き返してやって、よしよしと頭やら背中やらを撫でてやる。もはや健司に愛情をかけてやれるのは自分しかいない。はそう覚悟をし始めていた。

、ここにいて、オレと一緒にいて……
「大丈夫、絶対どこにも行かないから。だからバスケやめるなんて言ったらダメだよ」

何度も頷く健司はの服をギュッと掴んでいた。いつか小さなが怖がってそうしていたように。

は改めて思う。私たちは裕福な家に生まれて何不自由ない生活を送れていると思ってた。それを親に感謝し、有難く思わなきゃいけないんだと言われてきた。だけどこんなの、「何不自由ない生活」なんかじゃない。豪邸があったって高級車があったって、健司はこうして傷つけられて泣いてる。

今健司に必要なものを、修吾はなにひとつ与えてやれない。親なのに、ひとつもない。

そんな修吾に健司は渡さない。今度は私が健司を守る。

翌日、何食わぬ顔で登校してきたは昼休みに図書室に行き、過去の翔陽の記録を辿り始めた。

普段は鍵のかかった部屋にしまい込まれている記録類だが、が皆人の娘だということが幸いした。父が在学していた当時のアルバムなどを見せてもらえないかと担任に頼んでみたところ、あっさり許可が降りた。も普段から問題のある生徒ではないので、なぜそんなものが見たいのかとも聞かれなかったほどだ。

親の年を逆算し、目的のアルバムに手をかけ引き出す。クラス写真や個人写真はどうでもいい。はページを捲り、学生生活の思い出を綴ったところまで進める。

この学年の3年間の年表がまとめられていて、1年生から3年生までの行事やトピックを振り返っている。

本人の言う通り、修吾は3年生のインターハイで剣道個人戦を4位と記されていた。の背中がぞくりと震える。だから修吾が優秀で健司が凡庸だということではない。けれど、本当に修吾は文武両道だったのだ。敵の能力値の高さに身震いがした。

ページをめくると、モノクロ写真のページが現れた。クラスごとではなく、行事単位でのスナップがまとめられている。その最初のページからいきなり修吾と皆人だ。おそらく体育祭か何かのショットだろうが、10代のふたりが得意げな顔で肩を組んでピースサインをしている。

この笑った感じは、少し、似てる――

自信に満ちた口元、きりっとした眉は健司に似ている。今の自分と変わらないであろう年齢のふたりに、は複雑な感情が渦巻いて喉が詰まった。このふたり、この頃から今みたいだったんだろうか。それともこの頃はまだただちょっと目立つだけの普通の高校生だったんだろうか。

でも、文武両道だったかもしれないけど、ふたりともなんか感じ悪い。きっと同じ時に健司がいたら、ふたりとも叶わなかったに決まってる。健司はバスケ部のスターで翔陽で1番有名で実績もあって、そういう人だけど、だけど本当の意味でみんなから慕われてる。あんたたちなんか、影で悪く言われてたに決まってる!

その後も大量に修吾と皆人が現れるので、はそれを飛ばし、他に見るものがないとわかると、修吾と皆人のクラスを確認して棚に戻した。今度は卒業文集だ。

個人情報にあたりでもしたのか、ところどころシールが貼られて隠されているが、それでもふたりの卒業に寄せる作文は読むことが出来る。これまたふたりとも整った字をしていて、はまたイラッとくる。

どちらも充実した高校生活であったことを淡々と綴り思い出をなぞっているけれど、しかしどうにもその主題は「いかに自分がすごかったか」というところに置かれているように読めてしまい、は客観性を維持できなくなってきた。どこを読んでも自慢話のように思えて仕方がない。何でこれで好かれたんだ。

しかし、ふたり揃って終盤に後悔を綴っていた。修吾はIHで優勝できなかったこと、そして皆人の方が女の子にモテたことを後悔として挙げている。修吾も造作の整った顔をしているが、この頃の皆人は今の健司のような王子様風で、きっと微妙なところで差が開いていたに違いない。

一方皆人は、IHベスト4に比べたら運動がライバルである修吾には遠く及ばなかったこと、つまり文武両道の「武」が欠けていたことを悔やんでいた。ということは、きっと成績では皆人の方が勝ちが多かったんだろう。

文集の巻末には女の子が書いたのであろう可愛らしいページが入り、なんでもランキングだの、アルバムには記されないようなクラストピックなどが手書きで綴られている。そこでもふたりは1位を取りまくり、やれ顔がいいだのスタイルがいいだの頭がいいだの、そんなことで「1番」に祀り上げられている。

そこにきては「これ、調子に乗ってもしょうがないかも」と思い始めてきた。

ふたりの間で多少の勝ち負けはあっても、大多数の生徒から見たら本当によく出来た優秀な生徒だったんだろう。それが評価となって特別扱いを受けている。ちやほやされている。アルバムでも文集でも、修吾と皆人は翔陽の中心だ。これが大学へも持ち越され、不幸にも優秀なままだったら。

修吾と皆人がおかしくなるのは当然かもしれないという気がしてきた。

作文の欄外、それぞれが将来の夢を書き記す場所に修吾と皆人はまったく同じことを書いていた。

「全てのものを手に入れること」

静かに文集を閉じたは、震える腕に力を入れ、息を吸い込む。

私と健司は、あんたたちのものになんか、ならないから――

この日健司はあまりにも具合が悪いのでが部屋に閉じ込めて鍵をかけて出てきた。健司のクラス担任には昨日から下痢が止まらないと伝え、花形には自分で連絡しておくように言いつけてきた。

そして授業が終わると飛んで帰り、母親が不在なのでキッチンへ引っ張り出して温かいものを食べさせた。健司は見るも無残な腫れた目をしているが、昨日よりは落ち着いている。皆人は帰ってこないし、の部屋に泊まってずっと慰めてもらったので、だいぶ回復している。

「なんでわざわざ下痢なんだよ……
「だって急に高熱じゃわざとらしくない? トイレから出られないって言ってきた」
「マジかよ明日先生の顔見らんねえ」
「女子か」

欠席理由下痢に不満があるようだが、少しずつ笑顔も戻ってきている。は健司が食事を終えると隣に座って肩を抱く。出来るだけ触れている時間を長く保とうと思ったのだ。

「もう少ししたら、これからのこと考えようね」
「そうだな……
「バスケ部のみんなって進路決まってるの?」
「ええと、スカウト来てたやつもいた気がするけど」

そうやって健司に話をさせていたときのことだ。テーブルの上の彼の携帯が軽やかな音を立てた。

……叔母さんだ。すっかり忘れてた」
「叔母さんて、小父さんの妹さん?」
「そう。この間の創立記念パーティーの時にまた出席させられてて、そうだ、連絡先交換したんだった」

試合を見に来てもらおうなんて考えていたこともすっかり忘れていた。しかし今となっては見に来てもらわなくてよかったかもしれない。健司はメッセージを確認すると、スッと背筋を伸ばした。

「どしたの」
……叔母さんに、話してみようかな」
「今回のこと?」
「ていうか、ずっとこんな風になってたことを。オレたち、相談できる大人がいないだろ」

も頷く。せめて普通に話せるのはの母親くらいだが、彼女は例えそれがどんなことであっても皆人に逆らったりはしないので、頼りにならない。

「パーティの時、ふたりに『彼女連れてこい』って言われてたんだよな」
「え。だけど私は――
、一緒に行ってくれない?」

健司がこんなに苦しめられている原因の一端は皆人にもあるのじゃないかと思うとは二の足を踏んでしまうが、こんな状態の健司にはあまり拒否を示したくなかった。甘やかせばいいというものでもないけれど、そのくらいならなんとか頑張れる気がする。

「いいけど、いつ?」
「今度の土曜の夜。元々練習が17時までだし、東京まで行くことになるけど」

連絡先を交換したはいいがパーティ以来ろくに連絡を取っていなかった。叔母の方も健司が忙しいだろうと思って遠慮していたのだろうが、夏に大きな大会があるとだけ聞いていた彼女はその日程だけでも、と考えて連絡を寄越してきた。その大会には出られないのだと言わなければならないのはつらいが、いい機会かもしれない。

それに、何も考えずにを「彼女」だと紹介できるのは叔母たちしかいない。

「小父さんがいなければ少し遅くなっても大丈夫だよな」
「土曜なら、うん、確実に帰ってこないね」
……また東京でデート、しない?」

ひょいと顔を寄せてきた健司はやっと楽しそうに頬を緩めた。幼馴染の彼女と一緒に修吾も皆人もいないところへ行く、それが彼をこれだけ穏やかにさせるのかと思うとは少し胸が痛むが、つまり健司にはそういうものが必要なのだ。修吾と皆人のいない環境、そしてバスケット。

「叔母さんたちに会うんじゃないの?」

いたずらっぽく笑い返したに健司は顔を擦り寄せる。

「おじいちゃんたちもいるだろうからそんなに遅くならないよ。その後でデート」
「次の日も練習なんだし、じゃあ日付変わるまでね」
「シンデレラだな」
「この場合シンデレラって健司だけどね?」
「あれっ?」

へらへら笑いながら、しかしはシンデレラに夢のようなひと時を与える魔女になりたいと思った。パートナーは王子様なのだろうが、いじめられているシンデレラに魔法でドレスや御者やカボチャの馬車を出してお城へ行けるようにしてあげたい、そういう魔法使いになりたい、強い力が欲しい――そう思った。

翌週の土曜、修吾はもちろん皆人も帰らず、の母も健司と出かけると言うと特に小言はなく、は予定通りに地元の駅で待っていた。前回のようなパーティドレスではなく普通の私服だったが、むしろその方が非日常感が出てしまい、少しだけ緊張していた。

何しろにとって健司の私服というものも9割方ジャージか制服、創立記念パーティーのようなスーツは割と見慣れているが、高校生が遊びに行く時に着るような私服はほとんど見たことがない。まさかあいつとんでもないファッションセンスの持ち主だったらどうしよう……

スポーツウェアばかり着ているアスリートにありがちな謎センスだったらどうしよう、とおののいていただったが、数分して現れた健司は普通の服だった。というか年相応の装いのせいで少し可愛らしくなっていた。

「何そのホッとしたみたいなため息」
「いやその、普段ジャージだし、私服がとんでもないことになってたらどうしようかと」
「失敬な。お前だって普段制服じゃん」
「えっ、おかしい? これ」

だいぶ迷って選んだ服だったので、は慌てて体をバタバタとはたいた。

……そんなことないよ、すげーかわいい」
「ファッ!?」
「遅れるから早く行こう」

勢いで言っただけだった健司はぼそりと言うと、の手を引いて改札に向かった。そして改めて思う。そっか、今日私、「健司の彼女」として一緒に行くんだ……

こっそり付き合いだしてから2ヶ月少々というところだが、はやっと実感らしきものが生まれでてくるのを感じていた。幼馴染で友達で家族のようなもので、だけど今は、彼氏と彼女なんだ、家とか関係なく、好きだから付き合ってる、そういう男の子と女の子、ただそれだけなんだ――

電車を乗り継いで1時間半ほどで叔母の指定した駅までやって来たふたりは、改札を出るなりわくわくして待っていたらしい叔母夫婦に迎えられた。ふたりはいないとか言っていたくせに健司が彼女連れでやって来てくれたことが嬉しいらしく、終始ニコニコしていた。

「健司くんのこのスペックで彼女いないとかありえないと思ってたんだよな」
「しかもバスケ部でキャプテンでしょ、それでいませんとか自虐も甚だしいわよねえ」

今日は駅の近く、叔父の馴染みの洋食店だという。祖父母は既に店にいるとのことなので、ふたりは叔母夫婦の後を着いていく。まだの娘だということは話していないらしい健司だが、緊張しているの手を取って繋ぐ。

このところ、ずっとは「傷付いて弱っている健司を守れるのば自分だけ」だと思っていた。しかしこうして手を繋いでもらうと、途端に緊張していた自分を思い出し、健司の手が「大丈夫」と言っているようにも聞こえて、子供の頃に健司の服をぎゅうぎゅう掴んでいたことも思い出す。

お互い助け合いながら、そういうのがいいなあ。私が怖くても健司がつらくても、どんな時でも。

少々レトロな佇まいの洋食店だが、赤いテント看板にレンガ張りの外装が大変可愛らしい。は思わず歓声を上げ、叔母さんは「見た目も可愛いけど超おいしいのよ」と弾んだ声を上げた。と健司はうんうんと素早く頷く。既に換気扇から放出される芳しい香りが漂ってきている。

入ってすぐの角に当たる席には既に健司の祖父母、あの修吾の両親が待っていた。は初対面だが、父親母親どちらにもあまり似ていないと思っていた健司は祖母似だったらしい。そっくりだ。祖父の方に似たらしい叔母さんが彼女連れできてくれたのよ、とはしゃぐ。

貸し切りというわけではないので、挨拶もそこそこに席についた健司は、座が落ち着くのを待って声を上げた。まずはどうしても「彼女」が誰なのかを言っておかなければならない。反応如何によってはこのまま退席しなければならないかもしれないが、隠してはおけない。

「ええと、彼女、なんだけど」
「はいはい、同じ翔陽の子? 家は近いの?」
「あ、うん、翔陽はそうなんだけど――え、自分で言う?」

に袖を引かれた健司は目を丸くしたが、は背筋を伸ばして主に健司の祖父を見つめながらはっきりと名乗り、そして静かに頭を下げた。

「は、初めまして、と、申します」

全員絶句。つまり、このふたりの「婚約」の件も彼らは知らないわけだ。叔母が首を傾げる。

って、あのくんのさん?」
「はい。皆人の娘です」
「この間の創立記念パーティーにも来てたよな、くん」
「はい、あの時私もいました」
「そうだった!?」

修吾の高校時代を知らない叔父はともかく、それをつぶさに知る祖父母と叔母は目玉が落ちそうだ。だが、祖母の言葉にと健司は落胆とともに「やっぱり」と納得して呆れた。

「学校同じだって言うけど……親がああいう関係だって最初から知ってて付き合ったの?」

と健司が地元の家に置きっぱなしで育てられてきたことも、全く知らないらしい。健司はの方をちらりと見てから顔を戻し、彼はそっくりな顔の祖母に向かって苦笑いをしてみせた。

「おばあちゃん、オレたちちっちゃい頃から一緒に育てられたんだ。ずっと、の家で」

再度絶句してしまって何も言えない祖父母と叔母夫婦、そしてと健司の後ろから、「ご注文お決まりですか〜?」という従業員の陽気な声だけがその一角に響き渡った。