ハート・オブ・ゴールド

05

高校生の男の子ひとり、頭に怪我をしてしまって、自宅に連れて帰るための迎え、それを赤の他人がやってやらねばならないということに、は大いに疑問を感じていた。

ただ一応、今回の場合、IHは飛行機の距離で行われていて、何とか行かれそうだった健司の祖父母では不安が残ることと、どうしてもというなら都合がつかないでもなかった健司の叔母はまだ仕事中で、勤務時間の都合上、翌日まで待たねばならないという事情があった。藤真家も修吾以外は普通の家庭なのである。

その点家、とその母親なら話が早い。現地の監督と直接連絡を取り合った結果、すぐに現地に向かい、夜の便でとんぼ返りの予定になった。羽田までの往復は修吾の部下が車を手配してくれるというし、翌朝一番で精密検査が出来るよう病院も当たってくれているとのこと。

2時間後の便を確保できたという連絡を受けたと母親は、迎えの車に飛び乗った。

「健司大丈夫かな……
「本人は意識もあるし、傷自体は小さいって話だったけど」
「傷!? なんでバスケでそんな怪我するの」

現地には監督と顧問のふたりしか引率がおらず、また運の悪いことに、3桁近い部員が押し寄せているというのに、保護者が数人しか来ていなかった。何しろ観光シーズンの飛行機の距離、来ていたのは3年生のスタメンの親だけ。そんなわけで、現地では動揺が激しく情報が錯綜し、翔陽から数人が応援に飛んだという話だ。

ふたりは慌ただしく搭乗手続きをして機上の人となり、夕方頃には健司が搬送された病院に到着することが出来た。とはいえとんぼ返り、今から3時間以内にまた空港へ戻らねばならない。

「私が先生にお話聞いてくるから、は健司のことお願い」
「わ、わかった」

こういう時のための要員でもある。は母親と別れ、監督と一緒に処置室へと向かった。

……君は翔陽の生徒なんだよね? 藤真と親しいんですか」
「父親同士が翔陽のOBで、当時からの親友なんです」
「えっ、もしかしてさん?」

両親とも出張中で代理が来るとは聞いていたが、まさか同じ翔陽の生徒が母親と来るとは思っていなかったらしく、監督は怪訝そうな顔をしていた。だが、の話を聞くと目を丸くした。何しろ藤真にと言えば、である。

……健司とは、一緒に育ちました」
「そうか……。あのねさん、怪我は彼のせいではないんですが、怪我のせいで負けました。藤真はチームの中心だし、それが流血の怪我をしてしまったんで、試合どころではなくなってしまいました。部員たちもそうなんですが、その、藤真はものすごくショックを受けています」

は処置室の手前で監督と向かい合い、声もなく頷いた。有限のバスケット、それをこんな形で――

「藤真、あまり自分のプライベートなことは話したがらないんだけど、もし君や君のお母さんが親しい間柄なら、少し気にかけてやってもらえたら、と。その、ご両親は彼にあまり関心がないようだし」

は修吾の顔を思い出しながら、しっかりと頷く。もう1年以上も口を利いていないけれど、外来を通り過ぎて救急受付の方へ回された時には言葉を失って体が冷たくなった。健司を運んできたものではないけれど、救急車が止まっていて、患者家族と思われる女性がふたり、声を上げて泣いていた。ものすごく怖かった。

もちろん健司はいますぐ命に関わるような状態ではない。適切な処置を受けて、空路での帰宅を許可されている。しかし、薄暗い救急受付を通り過ぎた時、はもし健司を失ったら、という想像をしてしまい、余計に怖くなった。いて当たり前の存在だった健司がもし明日消えてしまったら?

それを思うと、気まずいくらいどうということはなかった。もし健司が大荒れで手がつけられなかったとしても、しばらくは家で預かりたいと思っていた。修吾たちの帰国はまだ先だというし、ということは健司はだだっ広い豪邸にひとりなのだし、せめて検査の結果が出るまで目を離したくなかった。

両親は彼に関心がない――そうではないのだ。関心はある。ただそれが、「バスケットに夢中な高校2年生の男の子」ではないというだけで。もしこれがバスケットと勉強がどちらも同じくらいのバランスで、なおかつ将来については父と同じ道を歩むのだと決めていたなら話は別だ。自慢の息子だったろう。

は、この1年間健司に遠慮して距離を置いてきたことを後悔していた。一緒にいたら怪我をしなかったというわけではないけれど、それでもこんな時、もっと簡単に彼を心配できたのにと思った。監督が立ち去ったので、はノックをしてから処置室のドアを開けた。

「稲田さんすみませ――!?」

が顔を覗かせるなり、健司は素っ頓狂な声を上げた。ちなみに稲田さんは修吾の部下で、たちがここへ来る手配などをやってくれた人だ。修吾や家との中間に入ってくれたので、てっきり稲田さんが来るのだと思ってしまったんだろう。慌てた健司はのろのろと起き上がる。

「ちょ、起きて平気?」
……大丈夫、これから帰るんだから起きられるに決まってるだろ」
「今お母さんが先生と話してる。21時前のフライトを稲田さんが手配してくれたからね」

ベッドに腰掛けた健司は頭に包帯を巻いて翔陽のジャージ姿、足元には遠征用の大きなスポーツバックが転がっていた。の話を聞くと健司は何度も頷き、携帯で時間を確かめると肩を落とした。

……悪かったな、こんなところまで」
「いいって、そんなこと。どうせ私もお母さんも家にいたんだし」

自分の親が海外にいること、こんな時すぐに移動可能な大人はの母くらいしかいないこと、それを健司はよくわかっているし、きっと稲田さんであってほしいと思っていたのだろう。だが、稲田さんは普通に仕事中。修吾の部下だが藤真家の召使いじゃない。

……痛い?」
「いや、痛み止め飲んでるし、今は別に」
「監督も顧問の先生もすごく心配してたよ」
「迷惑、かけちゃったな」
「でも怪我したのは健司のせいじゃないんでしょ」

ベッドに腰掛けたまま俯いてボソボソ話す健司は、監督が言うほど落ち込んだり荒れているようには見えない。しかしは、健司の心の奥底に深い傷がついているのだと思った。怒ったり嘆いたりする余力もない、そんな気がした。は健司の向かいにしゃがみ込むと、彼の膝に両手を置いた。

「あのさ、検査が終わって、バスケしてもいいよって言われるまで、うちに来ない? 部屋はほら、あるし、前と同じで日中はお母さんしかいないし、夏休みだから私もいるけど、邪魔、しないし――

見上げると、健司は生気のない顔をしていた。目が虚ろで、無気力そのものという表情をしていた。

「健司、帰ろう。それで、ちゃんと治して早く戻ろう」

に手を取られると、ぼんやりした健司は力なく頷いた。

周到な稲田さんの手配により、プレミアムシートで羽田まで戻ってきた3人は、また稲田さんの手配した車で神奈川の家まで戻ってきた。現地を出たのが遅かったので、もう日付が変わろうとしていた。

「お風呂はシャワーで首から下を洗うだけならOK、顔は下向いてそっと、それかタオルでね」
「ごめんね小母さん、久し振りに来たのにこんなことで」
「そういうのいいから」

時間の配分がうまく行かず、現地では何も口に出来なかった3人は、羽田に着いても迎えが既に来ていたのでまた何も飲まず食わず、健司は朝から、とその母親は昼から何も食べていなかった。健司の腹が悲壮な音を立てているので、の母は急いでキッチンに立つ。

「今が部屋を準備してるから、ご飯食べたら早めに休みなさいよ」
「あの、何か手伝おうか」
「いいから座ってなさい。怪我してるんだし、慣れないことしない方がいいわよ」

優しいの母の笑顔に健司はウッと言葉に詰まった。1年以上もこの家を離れていたせいで、彼女は健司が料理を趣味にしてしまったことなどまるで知らない。もちろんも知らない。それは同時に、この1年の間に母娘がどんな風だったかを健司もまるで知らないことになる。

ちっちゃい頃から面倒見てもらってきたのに……恩知らずってこういうこと言うんじゃないのか?

着替えもせずに慌ただしくキッチンで食事を用意するの母を見つめながら、健司は胸が痛んだ。1年以上振りに言葉を交わしたも、何も憎まれ口など叩かないで自分のことを心配してくれた。に「帰ろう」と言われて思い浮かんだのは、この家だった。

もう寝るだけなのだし消化のよいものを、と母がやわらかくうどんを煮ている間に、が戻ってきた。こちらも着替えもせずに両手にタオルを抱えている。

「荷物は部屋に入れてあるから」
「えっ、重かったろ、ごめん」
「平気平気。これ今日の分のタオルね」

健司がいつも使っていたのはバスルーム付きの客室なので、タオルだけ貸してもらえれば問題ない。

「ええとそれで、明日は朝イチで病院なんだよね?」
「そうよ、稲田さんがまた迎えを寄越してくれるそうだから、7時にはここを出られるようにね」
「えー、もう日付変わっちゃうじゃん。早くしないと」
「ひとりで行けるよ」
「バカ言わないの未成年! はいいけど明日は私も行くの」

に遠慮したつもりの健司は、うどんを運んできてくれた母に突っ込まれて肩をすくめた。未成年と言われると反論できない。だが、今日は午後いっぱい病院の処置室で横になっていたし、それほど疲れていない。早起きは慣れているし、明日も問題ないだろう。

「むしろお母さんが早く寝ないとだね」
「小母さんごめん」
「健司、しつこい」
「じゃあ私ここの片付けとかするから、ふたりとも早く食べて早く休んで」

3人は疲れた体に優しい温かいうどんを食べ、はキッチンやリビングの後始末を請け負い、健司と母は翌朝のためにすぐに休んだ。家も藤真家同様だだっ広い豪邸なので、は2時頃まで後始末に奔走し、そしてやっとすべての明かりが落ちて静かになった。

家の客室、慣れたベッドに横になりながら、健司は深く息を吐いて目を閉じる。

この部屋がこんなに落ち着くとは知らなかった。のいるこの家が、こんなに安心できるなんて初めて知った。の母のうどんは懐かしい味がして、すうっと体に吸い込まれていくみたいに馴染んだ。自分の料理も美味しいけれど、こんなに体を緩めてはくれない。好みの味で腹が満たされるだけだ。

自分の家も部屋も気楽だ。だけど、この家にいれば何もかもが「大丈夫」という気がした。

との婚約の件はまったく解決を見ていないけれど、それはもう気にならなかった。の言うように、今は怪我を治して早く部に戻れるようにすることだ。いつか訪れる結婚の時に後悔を残さないために、自分は自分の時間を精一杯生きなければ。

婚約の件はひとまず後回し。今は自分のバスケットを取り戻すことに集中しよう――

その後2日に渡る検査と、10日間の経過観察を経て、健司の頭は一応問題なしとの結果が出た。ただし、こめかみの傷は抜糸もまだだし、運動にはしばしの制限が設けられた。バスケットは接触の多い競技だし、健司は飛び抜けて背の高い選手でもない。頭部への再ダメージリスクは極力減らす必要がある。

だが部に戻れるだけで充分だった。IHが健司の怪我で終わってしまい、試合直後は荒れていたらしい3年生も、健司に頼っていたのは自分たちで、怪我で出た穴を埋められなかったのも自分たちだから、と落ち着いていたし、とても心配してくれた。もちろん同学年の仲間たちもだ。

さすがに今回ばかりは親も心配したけれど、これを機会にバスケットを控えたらどうだと修吾が言い出したので、その場で決裂、やっぱりふたりは東京に購入したマンションにいる方が多いので、健司の生活はほとんど元に戻った。の母親がしばらくはこまめに連絡を寄越していたけれど、それもやがて落ち着いた。

少しずつ傷も回復し、夏のIHで自分たちの限界を試せなかった翔陽バスケット部は冬の選抜に向けてまたハードな練習の日々を送っていた。秋が深まり、風が冷たくなってきても、健司たちは汗だくになって体育館で走っていた。そんな頃のことである。

「藤真ってさんと付き合ってるの?」
「はい?」

バスケット部の練習には、だいたい女子の見学がつきものである。土日の練習でも数人はいるし、平日なら10人を切ったことがない。この2年ばかりはだいたい健司目当て。しかし、当の健司が色恋興味なし状態なので、ほとんど諦めてしまった女子も多い。その代わり、仲の良い友達付き合いじみてきた。

プライベートで遊びに行く暇もなければ、健司にその気がないので、あくまでも校内だけの関係だが、そういう女子のひとりが突然そんなことを言い出した。この時たまたま健司と一緒に花形と長谷川がいたので、ふたりもギクリとした。なんで今急にそんなこと。

は小さい頃から知ってるけど……なんでそんなこと」
「A組の子がさ、夏休みに交換留学行ってて、帰ってきた時に羽田で一緒にいるの見たって」

それ8月のことじゃないか。もう10月末だぞ、なんで今頃そんな話が出てきたんだ――そう言いたいのをぐっと堪え、健司は少しため息をつく、IHが飛行機の距離だったことも、怪我のことも知っているだろうし、が藤真健司と幼馴染という噂は1年生の頃からあったはずだ。プライベートに踏み込み過ぎだろう。

「それ、怪我して帰ってきた時だよ。親がいなかったから、のお母さんが来てくれたんだよ」
「えっ、なんで?」
「父親同士が翔陽出身で親友なんだ。たまたま動ける人がのお母さんしかいなくて、頼まれてくれただけ」
「じゃあなんでさんも来たの?」

健司は淡々と説明したけれど、納得してくれない。花形が首を突っ込んできた。

「現地もパニックだったんだよな。監督と顧問がふたりとも病院行っちゃってオレたち何をどうしたらいいかもわかんなくなっちゃって。でも親子が来てくれたんで監督も先生もすぐ戻ってこれた。オレたちはすごく助かったんだよ。てか小さい頃から知ってるんだから、のお母さんも狼狽えただろうし」

もっともな説明に健司と長谷川も頷いた。だが、それでもがいたことの理由にはならないらしい。

「ふーん。でも噂になってるよ、気をつけた方がいいんじゃない?」
「噂って……
「ふたりでくっついて歩いてたって話だから」

そりゃあ怪我してショックでしかも腹ペコで健司がヨロヨロしていたからだ。花形も長谷川もそれが想像できるけれど、もうあれこれと訂正をしても逆効果なんじゃないかという気がして口をつぐんだ。

……勘違いがあるみたいだな。そういう事実はないよ」

彼女たちは健司に何を言わせたくてこんなことを聞いてきたのだろう。彼がこんなことを聞いて何を言うと思っていたのだろう。まだなんとなく納得していない様子だったが、健司が手を挙げて立ち去ってしまうと、ひそひそ話を交わした後に、彼女たちも帰っていった。

「動ける大人がの母親しかいなかったんだ」
「そういや親が出張でいないって言ってたもんな」
「イギリスにいた」
「そりゃしょうがねーわ」

健司の後ろを着いてきた花形と長谷川も呆れた声を出した。

「いきなり飛行機の距離を今すぐ来てくれってのも、ん家なら簡単だろうしな」
「手配は親父の部下がやってくれたけど、まあそういうことだ。それでも大変だったんだからな」
……が悪いみたいな言い方だったな」

長谷川の低い声に、花形はため息を付き、健司は言葉に詰まった。

「なんか……お前ら大変だな。もこれじゃ鬱陶しいだろうに」
「もし本当に付き合ってるってことだったら、どうするつもりだったんだろうな」
「糾弾、したんじゃないか。興味ないって言ってたくせに、って」

少なくとも長谷川と花形にはそんな風に見えた。と付き合ってるって噂があるけど藤真、私たちにどう言い訳するつもり? と責め立てられているような気がしたのだ。

一方で、検査結果が出るまでの間家に寝起きしていた健司は、また変なのが周辺に沸いて出た、という感覚で苛ついていた。男の次は女かよ。オレたちは限られた時間の中で普通の高校生やろうと一生懸命過ごしてるのに、なんで邪魔するんだよ。放っといてくれよ。に構うなよ。

「どうすんだ藤真」
「どうするって?」
「放置でいいのか」
「まあ、に被害が及ばなければオレの出る幕でもないだろ」

自分が首を突っ込めばは余計に立場が悪くなろう。健司は努めて気楽に受け応えた。ただし、本当にに実害が出てしまったらただでは済まさない。自分も皆人から何を言われるかわかったものじゃない。全て、全て何もかも迷惑だ。

オレはただ、バスケットがしたいだけなのに。