すべての希望が潰えた気がして、健司は絶望の淵にあった。
神奈川代表は一旦バスで横浜駅まで戻り、そこで解散になった。健司は途中まで花形たちと一緒に、彼らと別れてからはに寄り添ってもらいながら自宅に戻った。
いつものように家でもよかったのだが、正直が相手でも生返事しか出来ない気がしたし、そういう不貞腐れをぶつけたくなかった。今日は自宅に帰るという健司をも止めなかった。ただ、あまりにヨロヨロしているので送って行かせて欲しいと言っただけだった。
慣れた自宅への道を辿り、家同様やっぱり白を基調とした豪邸には通用門から、そして通用口から入る。
「ご飯は食べなくてもいいけど、水分取るの忘れないようにね」
「ああ……」
「明日は学校行かれそう?」
「たぶん」
「キツかったらいつでも連絡して」
「ごめん……」
ヨロヨロの健司の荷物を取り上げたは、そう言いながら彼の部屋へ一緒に向かった。シャワーだの食事だのはこの際二の次だ。部屋に放り込んでキッチンからペットボトルの水でも持ってきて枕元に置いておけばいいだろう。そう考えていた。寝てしまえるならそれでもいい。
だが、通用口から入ってきたふたりは、リビングに差し掛かったあたりでビタッと足を止めた。
も健司も、今まで生きてきた中で、最も不愉快なものを目にしてしまった。
だだっ広いリビングの巨大なソファの上で、修吾との母親が抱き合ってキスをしていた。
空気が歪む。健司はぐらりと傾き、はそれを支えているのか恐怖のあまりしがみついているのか、わからなかった。ふたりに見られていることに気付いたのは、修吾の方が先だった。さすがに驚いて身を起こし、それに驚いたの母もふたりを見て悲鳴を上げた。
だが、悲鳴を上げたいのはと健司の方である。
「向こうの家に帰るんじゃなかったのか」
「国体の帰りだし、そうすると思ったのよ。試合の日はいつもうちだから」
「何、やってんだよ、お前ら……」
なじり合うふたりに、健司の顔は怒りと悲しみで歪んだ。は真っ青になって震えている。
「安心しろ、はオレの子じゃない」
「頭、おかしいのか……?」
「言葉に気をつけろ。言っていいことと悪いことがあるぞ」
「お母さん、ひどい、どうしてこんなこと」
涙声のがそう訴えかけたが、の母はため息をついて服の乱れを直すと、返事もせずに修吾を振り返り、彼の腕に手を添えた。の喉がウッと詰まる。吐き気をもよおす眺めだったに違いない。
「どうするのよ、こんな中途半端なところでバレちゃって」
「おい」
「しょうがないだろ、不可抗力だ」
「約束、守ってくれるんでしょうね」
「おい」
「それは心配するな。面倒なのは皆人の方だぜ」
「ああもう、あとほんの数年だったのに。だからマンションの方にしようって言ったのに……」
「おい!!!」
ふたりのことなどお構いなしで何やら話し合っている修吾たちに、健司はとうとう怒鳴った。
「親に向かっておいとはなんだ、おいとは」
「親? お前らみたいなのを親だなんて思うわけないだろ」
「小さい頃から育ててもらってて何だその言い草は。文句があるなら出て行け。翔陽も退学しろ」
修吾はソファにふんぞり返ってそう言い放った。何を言ってもいつもこの理屈である。健司は頭の奥がぼんやりと、しかしつめたく冷えた気がして、一呼吸つくと、隣で震えているの腕を掴んだ。
「、行こう」
「うん」
ふたりとも、親の顔は見なかった。そのままくるりと踵を返すと、足早に藤真家を出た。穏やかな天気の秋の午後、ふたり揃ってヨロヨロのまま、表の通りを行く。
「、一旦お前ん家行こう。そこで支度して、家出よう」
「うん。健司は私物とか、いいの」
「大したものないからいいよ。ん家にあるものだけで済ますから」
「どこ行く?」
「まだ時間が早いから、とりあえず叔母さんのところ、行こう」
「私も行ってもいいの」
「たぶん大丈夫だろ、てかこんな状況で離れたくないよ」
ふたりは弱々しく手を繋ぎ、歩きではあまりにしんどいので、途中からタクシーに乗った。家まで乗り付け、入り口という入り口にチェーンをかけ、万が一の母親が戻ってきても入れないようにした上で、バタバタと支度をした。修吾はああ言うけれど、ふたりとも高校を退学するつもりはなかったし、いくらこんな事態でも何日も休みたいとは思わなかった。
ある程度準備が整ったところで健司は花形に直接電話で連絡を入れ、また厄介なことになってしまったので自分もも一旦家を離れると伝えた。明日は月曜だが、どう考えても行かれない。
「そんなに大変なことになってんのか?」
「すまん、ちょっとどうにもならないくらいひどいことになってて」
「も大丈夫か?」
「いや、全然大丈夫じゃない。でもふたりで行動してるし、ちょっと親戚のところに行ってくるよ」
「……わかった。何かお前らふたりが一緒に休んでてもおかしくない言い訳、考えとくよ」
花形の気遣う声が、ありがたいけれど重い。健司は頷きながら返事をして、ぼそりと付け加えた。
「まあ、もう知られてもいいけどな。正直、オレたちも自分たちがどうなるのかわからないんだ」
「藤真、いつもの日常はちゃんと取り戻せるから、捨て鉢になるなよ」
「いや、無理だろ。するつもりないけど、退学かもしれないぞ」
「いいからお前らは自分たちの身の安全だけ確保しとけ。他のこと考えるのは後でいいから」
そして花形は彼らしい淡々とした声で言った。
「お前らの『日常』はこっちで預かっとくから、あとで取りに来い。いいな」
どういう意味だよとツッコミたくなったけれど、信頼に足る副主将の声に健司は頷いて返事をしていた。何度もコートの中のことは彼に任せてきた。それで間違いなかったから。だから大丈夫、という気がした。
花形との通話を切った健司は、次に叔母に電話をしてもいいかとメッセージを送った。数分でいいよと返ってきたので、すぐに電話をかける。電話の向こうの叔母の声は明るくて、心が痛む。しかも前日に国体の試合を見に来てくれていたので、余計に申し訳なさが募る。
「久し振りー! 昨日会わないで帰ってきちゃったけど、すごい試合だったねえ!」
「叔母さん、ごめん、緊急事態なんだ」
「えっ!? 何よ、どうしたの、大丈夫!?」
狼狽える叔母に、健司は直球で事態を説明した。修吾との母が浮気してた。悲鳴が上がる。
「ごめん……健司ごめん、ほんとにごめんなさい」
「なんで叔母さんが謝るの、てか泣かないでよ」
まあ内容が内容だけに無理はないが、今ちょっとそれどころではない。
「そういうわけだから、ちょっとみんなに相談もしたいし、泊めてもらえないかな。も一緒に」
「もちろんいいよ、今すぐおいで。来られる? 迎えに行こうか?」
「大丈夫、ふたりで電車で行くよ。駅からはタクシーで行きたいから、なんて言えばいいか教えて」
健司が叔母との通話を終えたあたりでが戻ってきた。制服姿である。
「制服かさばるから着てきちゃった」
「だよな。叔母さんOKだって言うから行こう」
「あ、ちょっと待って」
さっさとこんな家は出ていってしまおう、と手を引いた健司を、が引き止める。
「どうした」
「あのさ、こんなひどい状態だけど、私健司のこと好きなの変わらないから」
「……」
「てかもう家族って何なの、って感じだけど、健司だけは失いたくない、だから――」
泣き出しそうな顔でそう言うを、健司は引き寄せて抱き締めた。
「オレもそう思ってるよ。何とかしてふたりでいられる方法、見つけような」
耳に痛いほど静かな家、ずっと一緒に過ごしてきた家が今は、悪魔の棲家に思えた。
最寄り駅からタクシーに乗り、直接叔母夫婦の家に向かったふたりを真っ赤な目をした叔母さんが出迎えてくれた。そして家の中では既に祖父母が待ち構えていて、まずはおじいちゃんがに土下座をするので、ふたりは慌ててそれを押しとどめた。
「お前たちは真っ当ないい子に育ったっていうのに、どうしてこんな……」
「ごめんね、ふたりともごめんね」
「だから、皆が悪いわけじゃないよ、謝らないでよ」
だが、このふたりの親の不埒な行いは目に余る。祖母も泣いている。すると、荷物を傍らに置いた制服姿のが少し首を傾けたまま手を挙げた。叔父さんが気付いて声をかけてくれる。
「あの、謝るのは私の方かもしれません」
「は? なんでちゃんが」
「どう考えても伝わるはずのない健司の情報が、かなり前から修吾小父さんに筒抜けだったんです」
スカウトが来ていたこと、学校の成績、翔陽が予選で敗退したことを聞きつけるのも早かった。
「健司が一言も話していないことを小父さんはよく知ってました。私の母が、伝えていたんだと思います。小学生くらいならともかく、もう高校生なんだから、普通なら直接話せばいいことじゃないですか」
だとしたら、ふたりの関係は相当前から始まっていたということになる。それでなくとも修吾と皆人はもう20年以上の付き合いだし、どこでどう誤った道を進むことになったのか。
「……うちは仕事上で知り合ったって聞いてるけど、んとこって」
「ええと、皆人の大学の後輩、なんだけど、ああ、そうだ……」
「なんだよ」
上を向いて記憶を掘り起こしていたは、何かに気付くとがっくりと肩を落として俯いた。
「大学は同じなんだけど、私の母を、父に紹介したのは、修吾小父さんだったんです……」
想像以上に自分の親たちの闇が深いので健司も項垂れた。だが、ふたりとも高校3年生の秋、健司は冬の選抜も控えているし、進学の件はクリアになっていないし、のんびりしている暇はない。この件を黙っている代わりにどんな進学先でも認めろ、というのは修吾に通じないだろう。急いで何らかの手段を講じなければ。
「ともかく、まずはもうくんと義姉さんには報告しないと無理ね」
「ちゃん、君のおじいちゃんおばあちゃんは連絡取れるかな」
「はい、あとで話します」
ため息ばかりの一同だったが、腕組みの厳しい顔をした祖父は、低い声で続けた。
「いいか、ことを丸く収めるのは後回しだ。まずは健司とちゃんが高校をちゃんと卒業できるまで通わせられるようにすること、健司は推薦入学の許可を取り付けること、ちゃんはちゃんと受験できるようにすること、これが最優先だ。あとはなんとでもなる。ふたりもいいな」
と健司はやっと肩の力を抜いてしっかりと頷いた。自分たちの学校や将来を最優先してもらったのは初めてで、嬉しいのと同時に、この人たちと一緒にいれば怖くない、そう思えてきた。
祖父母の家の方が大きい部屋があるそうだが、とりあえずこっちに来てしまったのでふたりは今夜は叔母夫婦の家に泊まることになった。それに、この叔母夫婦の家は15年ほど前に中古を買い上げてリフォームしたものらしく、修吾には住所を知らせていないのだという。ふたりの安全が確保できる。
その後、の祖父母にまず連絡が行き、そこから皆人にも報告が行った。皆人は声を荒げてを連れて来いと喚いたそうだが、祖父母の方もの居場所は知らないし、教えるつもりもなかった。彼らは少し遠方に住んでいるため、を預かるなどは現実的ではないけれど、協力すると言ってくれた。
次に健司の母親。これは健司が直接連絡を入れたが、出張先にいて、なるほど不倫の逢瀬にはいいタイミングだったというわけだ。こちらは皆人と違って冷淡に激怒しており、明日の朝には帰れるから今はまだ何もするな、修吾はもちろん夫婦も許さんと言い捨てて電話を切ってしまった。
「ちゃんにとばっちりが来ないなら、義姉さんは割と味方かも」
「そうかな……」
「その調子じゃ徹底抗戦の構えみたいだし、あんたたちのことも含めてなあなあにはしないと思うの」
方々への連絡を済ませ、安全な場所で安心したと健司が食事を取れるようになったので、祖父母は一旦自宅へ戻った。早急にの祖父母と話をしたいと言っていたし、それは孫のいないところでしたかったのだろう。なのでお腹が空いたというと健司のために、叔父さんがひとっ走り買い出しに行っている。
「あのさ、健司、これは私がちょっと思いついちゃっただけなんだけど」
「どしたの」
「義姉さんの考えにもよるけど、あんたさ、うちの子にならない?」
少し恥ずかしそうに顔を背けた叔母さんはそう言ったきり黙ってしまった。本当に思いつきだったんだろう。
「ええとその、それが嫌とかじゃなくて、どうなんだろう、もう18なわけだし」
「そか、どうせあと2年経てばそういうの、関係なくなっちゃうんだね」
ドギマギした健司に、も相槌を打った。悪くない考えだと思うが、そこまでしなくても、という気がしないでもない。というか健司が望むベストな状態はバスケットで進学してひとり暮らしである。
「……ごめん、忘れて。こんなことならいっそ私が、って思っちゃったの」
「ううん、そう思ってくれるの、嬉しいよ。叔母さんたちがいてよかった」
もう修吾を家族や父親だと思う気持ちはあまり残っていなかった。それよりはこの叔母夫婦や、祖父母や、の方が家族だという気がした。母親ですらもう遠い。それを悲しいとか悔しいとか思う気持ちもない。ただ、こんな風に振り回されずに自分の道を行きたいと思うだけだった。
その後、叔父さんが買ってきたとりとめもない食事を取り、ふたりの提案で楽しい気分になれるものを見よう! と「モンスターズ・インク」を見て、と健司は22時頃には唯一の客間に通された。並んで敷かれた2組の布団が生々しいが、それがなんだか笑えてくる。
「叔母さんと、叔父さんとオレで寝るのかと思ってた」
「子供さんいないから、そういうところ厳格じゃないのかもよ」
「まあこの状態でここで何かしようとも思わないしな……」
だが、そう言いながら薄ら笑いの健司の目の前では布団をくっつけた。
「何してんだ」
「えっ、ダメ?」
「ええとその、一応叔母さん家なんだし」
「でも何かするわけじゃないんでしょ」
だからといってあからさまにくっつけて寝るのはけじめがないのでは……と言いかけた健司の目の前ではころりと横になる。最低限の荷物で来たのでふたりとも翔陽のジャージである。どちらも色気はゼロだ。
「健司、気持ちが疲れた」
「まあ、そりゃな」
「健司、手繋いで」
「……いいよ」
「健司、一緒に寝よ」
叔父さんの書斎という名の細長い納戸から引っ張り出してきた電気スタンドの明かりの下で、健司はの隣に横たわり、彼女の手を取ってしっかりと繋いだ。叔母たちには感謝をしているし、健司にとっては有難くも大事な家族だ。けれど、はそれ以上に最後に残った1番大事な存在だった。
「疲れたし、怖かったし、気持ち悪かったけど、健司と手繋いでこうしてると落ち着く」
「……ちっちゃい頃からこうやって寝てたからな」
「怖い夢見たときとか、目が覚めて健司がいるとぎゅうぎゅう締め上げて蹴られたなあ」
「そりゃお前、ぐっすり寝てんのにいきなり息ができなくなるんだぞ」
ずいぶん小さな頃からと健司はこうしてふたりで寝かされていた。それも今考えると不思議な話だ。健司は預かっている子なのだし、一晩中幼児だけで寝かせるのは不用心という気がしないでもない。それがどういうことだったのかは、あまり考えたくない。
「それで蹴られて私が泣くと、いい子いい子してくれたんだよね。ちっちゃいのに、健司、いい子だったね」
「……たぶん、自分もそうしてもらいたかったんじゃないかな」
怖い夢に目が覚めても、手を繋いでくれる大人はいなかったから。は手を伸ばして健司の頭を撫でた。
「健司が親にしてもらえなかったことは、全部私がやってあげるからね」
「いいよそんなの」
「なんで」
「は親代わりじゃないだろ」
「……じゃあ、なに?」
いたずらっぽく笑うの顔を引き寄せて、健司も笑った。
「知ってるだろ」
「知らないよ」
「恥ずかしいから言わない」
「えー」
照れて言葉にできない健司の足をはドスドス蹴ったが、その足を絡め取った健司は首を伸ばしてチュッとキスをした。今はそれで勘弁してくれ。そんなことを思う様口にできる時も来るさ、たぶん。
「……でも、怖い夢を見た時には、こうしてて欲しい」
そんな時にそばにいて欲しいのはひとりだけだから。
「が怖い夢見た時も、オレ、ここにいるから」