あなたに花を

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修学旅行から1週間ほど経った、土曜日。この日は葉奈が校外学習で留守にしていて、夕方には横浜に帰着することになっていた。店長はまたの父親の親族と遺産関係で話があるといって出かけている。ふたりは横浜で落ち合って一緒に帰ってくる予定だが、時間は未定だ。

「もう秋だってえのに、ちゃんはまーだそんなとこ行かされてんの」

が朝からひとりで店番をしているので、亀屋の小父さんが来ている。

「でもお母さんは行かれないし、私も未成年だから、やっぱり店長になっちゃうんだよね」
「だけど、来年受験だろうが」
「小父さん、私就職だよ」
「え? そうだったか?」

なぜか小父さんは間違ったことを言われたように首を傾げた。

ちゃん、進学だって言ってた気がするんだけどなあ」
「また店長が気持ちだけで言ってるんでしょ。現実的に無理だよ」

気持ちは有難いが、これは少し無神経だなとは思った。翔陽は専門も含め進学が殆どを占めていて、就職はごく稀だ。だって本当なら同級生たちのように進学したい。しかし何せ金がない。奨学金はどうだとかいう問題ではなく、ただでさえ母親の医療費も底を尽きかけているし、生活費の当てがないのだ。

今は貯蓄でなんとか食いつないでいるが、が働かなければ母子ふたりは生きていかれない。さすがにを進学させて母親の医療費を全額負担するほどの余裕はフローリストにはない。

それでも今、が高校に通い、明るく清潔なアパートで生活出来ているのは、商店街の人々の協力の賜物である。食材惣菜の差し入れや、学用品などもプレゼントしてくれる小父さんたちがいなければ、はとっくに退学に追い込まれていただろう。

父親が母親を刺し、母親は意識不明、家族同然に過ごしてきたはとこも父子家庭。収入が途絶えたので高校を退学して働かなくてはならないかもしれない――そんな事態を目の当たりにして、商店街の人々はいてもたってもいられなくなってしまった。

幼稚園児の頃からよく知っているが、泣きもせずに黙々と店番をしている姿を見るだけで向かいの雑貨屋のおじいちゃんなど涙目になっていたくらいだ。なんとか高校を退学しなくて済む方法はないかと店長とさんざん話し合った。翔陽が私立だったのもまた不運だった。

結果的にはの父方の祖父が学費だけは全額引き受けてくれたことで退学の件は何とかなった。だが、医療費が毎月とんでもない数字を叩き出してくれている。保険や貯蓄があっても足りないものは足りない。事件後、は店長と商店街の小父さんたちの援助で食いつないでいる状態だった。

には何も非はない。それでもは好きな仕事に就くという選択肢すらない。

花形に比べれば良い成績ではないものの、大学進学が出来ないほどバカじゃない。担任などは残念がるが、こればかりはどうにもならない。自宅から自転車や徒歩で通えて、なおかつ少しでも高い収入になる仕事を選ぶしか道がない。

例えば若先生が花形父のようにを嫁に欲しいとでも言ったとする。だがメルヘン母と違っての場合、当座のところ生きているだけで精一杯の母親がセットだ。これごと引き受けようという御仁でなければこの場合も成立しない。今のところ若先生はそこまでに惚れているわけでもなさそうである。

そんなわけで、には他に道がないのだ。

「しかし土曜だってのに、人が少ねえなあ」
「連休だからねえ、みんな遠出しちゃってるのかもよ」

小父さんはフローリストを出て、自分の店を覗き込む。亀屋はおばあちゃんが数人女将さんとくっちゃべっている。向かいの雑貨屋は普段からあまり人がいないし、栃木屋もえどやも今は販売より仕込みで忙しい。土曜の昼はなかなかに混雑するからだ。

時間が早いとは言え、人も少なくて静かで穏やかだ。も店を出て、伸びをする。すると、忙しない足音と共に旭さんが飛んできた。手にはこの商店街初出店となるハード系パン屋の袋がぶら下がっている。商売物はうどんだし、この夫婦は小麦ばっかり食べている。

っ、ちゃ、あの、あのね、今そこで」
「あっ、旭さんおはよー。どうしたの、そんなに焦って」

走ってきたのだろうか、旭さんは肩を大きく上下させている。さすってやろうとするの手をガッチリ掴み、何かを言いたいらしいがとにかく息が切れている。すると、唐突に亀屋の小父さんが「うおっ」と変な声を上げた。が何事かと顔を上げると、店の前に花形が立っていた。

「に、兄ちゃん、久し振りだな」
……ご無沙汰してます。旭さんも」
「と、透くん……

旭さんはよろよろとから離れて亀屋の小父さんと寄り添って小さくなった。花形は、言葉が出ず立ち尽くすの前まで歩み寄ると、表情も変えず静かに言った。

「花、欲しいんだけど」

しばらくぶりの花形の登場に、フローリスト周辺には妙な緊張が走った。暇な亀屋の小父さんと雑貨屋のおじいちゃんは完全に野次馬体制に入っている。朝のサービスタイムが終わって客が切れてしまったあさひ屋夫婦も店の角から首を伸ばしてはらはらしている。

「どんな花、ですか」
「花束」

ぎくしゃくと店内に戻るの背中を追って、花形も店内に入り、いつか額をぶつけた入り口をくぐった所で足を止めた。は作業台の上のメモを引き寄せて、花形の顔を直視しないままペンを取る。

「花は、どういったものをご用意、しますか。ご予算は」
「予算は、1万くらい。大きくて、女の子が喜んでくれるようなのを」

ふたりが店内に入ってしまったし、特に客もいないので野次馬は増えつつある。亀屋の小父さんと雑貨屋のおじいちゃんは亀屋側から首を突き出して覗いている。それを嗜めていた女将さんも客が途切れると一緒に覗きだした。店を離れられない夫を残して旭さんも戻ってきている。

「小父さん、透くんなんだって?」
「なんか花束くれとか言ってて……
「また花形さんに頼まれたとかか?」
「そんならもう本人が買いに来るでしょうよ、いちいち息子に頼まなくたって」

手早く花束を作っていく、店の入り口でじっと待っている花形。野次馬はどきどきするばかり。

「なんだかちゃん、泣きそう。大丈夫なのかな、透くん何言ったのよ」
「旭ちゃん落ち着きなって」

小父さん小母さんたちより情報量の多い旭さんは気が気でない。今でも好き合っているふたりなのに、この刺さりそうな重い空気は一体何なんだ。しかもまたこんなときに店長や葉奈がいないと来ている。だが、重苦しい空気に息が詰まりそうなのはの方だ。

女の子が喜ぶような花束を、花形はどうするつもりなのだろう。しかも予算が1万とは。は薔薇をふんだんに使いながら、出来るだけ華やかな花束を作っていく。赤、ピンク、黄色、カスミ草も。華やかで可愛くてなんといっても豪華な、女の子なら誰でも喜ぶような、素敵な花束を。

この花束を花形から受け取る女の子は、どんな顔をするのだろう。笑顔、それとも感激のあまり泣き出す? はそんな考えを必死で締め出した。笑顔の花形がこの花束を差し出すところを想像したら、泣き出してしまいそうだったからだ。

長谷川はああ言ったけれど、人の気持ちなど移ろいやすく1秒で180度反転する。は揃えた花にラッピングを施しながら、ずっと父親の顔を思い出していた。錆びたナイフを構えてよろよろしていた父親を思い出すと、どんどん心が冷えて灰色になっていく。恋も夢も将来も、あの父親の娘である以上はもう望めないのだから。

手早くはあっても、予算1万の大きな花束なので時間がかかる。野次馬の方もずっとどきどきし続けて、息切れしてきた。かといって背中を向けてしまうことも出来ない。その上、フローリストに向かう花形を見て、野次馬が若干増えている。亀屋の小父さんたちは何度も説明しつつ、ちらちらと店内を覗き込んでいた。

ラッピングの締めに、は持ち手にリボンを結んだ。ループリボンを作り、何本もリボンが垂れ下がるように付け足して添える。無我夢中で作った花束は、会心の出来だった。さすがに店長には及ばないけれど、それでも女の子がもらうことを考えれば夢のような花束に仕上がった。

メルヘン母の言葉が蘇ってくる。この花束で花形は誰の心に花を咲かせるのだろう。

……お待たせしました」
「ありがとう。じゃあこれ」
「はい、1万円ちょうどですね。レシートお待ちください」

は出来るだけ笑顔を作って花束を手渡した。あまりちゃんと笑えていない気がしたが、1万円を手にレジを操作してレシートを出す。レシートを受け取ると、花形は頭を屈めて店を出る。野次馬の皆さんがぎくりと身を強張らせた。花形はに作らせた豪勢な花束を持っている。それ、どうするんだよ透兄ちゃん!

花束を抱えた花形の後を追って、は店先まで出てきた。そして、深々と頭を下げる。

「ありがとう、ございました」

そう言ったの前で花形は振り返ると、野次馬の見つめる中、手にした花束を静かに差し出した。

…………え?」

の視界は突然花で埋め尽くされた。状況が理解出来ないの手を取り、花形は大きな花束をに持たせた。手渡したばかりの渾身の力作が、また自分の手の中に戻ってきていて、は混乱している。

「え、えと、これ、あの」
……あげる」
「あげっ、あげるって、これ、女の子に」
「お前も女の子だろ」

顔を上げたの目の前で、花形は照れくさそうに微笑んでいる。それを見ていたの視界はじわじわと滲み、火がついたように熱い目から涙がぼろぼろとこぼれた。赤い薔薇の花びらの上に涙が落ちて、きらりと輝いてはまた滑り落ちる。

……好きな人に、花を贈りたいと思ったんだ」

は花束を抱えながら、口元を覆って声を上げないように耐えている。

「あと、ごめん、一志に聞いた。修学旅行のときのこと」

返事をしたいが、手を離してしまったら声を上げて泣き出してしまうかもしれない。ぼそぼそと喋っている花形を見上げるだけで精一杯のは膝が震え始めた。

「だからその、えっと、まだ一緒にいたいんだけど、だめかな」

は即座に首を振った。だめな理由がない。そして、なんとか唇をこじ開ける。

「透くん、透くん」

名前を呼ぶくらいしか出来ない。それでも花形には何より聞きたかった言葉だった。

花形は一歩進み出て花束を取り上げると、商店街の皆様方が見守る中、を引き寄せて抱き締めた。遠巻きに、けれど隠れる様子もない野次馬の囲みから、控えめながら歓声が上がった。亀屋の女将さんと旭さんは抱き合って涙ぐんでいる。小父さんたちも方々でよかったよかったと頷きあっている。

、ずっと一緒にいてください」

そう囁いた花形の言葉に、は何度も頷いた。

が落ち着くまでバックヤードにふたりで居な、と亀屋の小父さんが店番を買って出てくれた。

「あ、もう少ししたら藤真と一志とうちの母が来ます」
「そうかそうか、みんなまた来てくれるんだなァ、よかったよかった、あーよかった」

小父さんはにこにこしながら、バックヤードの引き戸をピシャリと閉じた。

「お、小父さん、そんなあからさまな」

正座していた目の前で引き戸が閉じた花形の袖をがツンツンと引っ張った。花形が振り返ると、真っ赤な目をしたが飛びついてきた。花形は足を崩して、を両腕でしっかりと抱き締めてやる。

「バカなことしてごめん」
「若先生のことか?」

はまた小刻みに頷く。

「でも店先で喋っただけだろ。どこか出かけたりとかそういうのは」
「してない、それとなく誘われたけど、全部断った」
「だったらいいじゃないか。オレもちょっと色々面倒くさかったし、お互い様だ」

は鼻で笑う花形の眼鏡をそっと外した。いつか店の入り口に頭をぶつけた花形の眼鏡をこうして外したのも、だった。あの日、ひっくり返った花形を運び込んだのはこのバックヤードだった。半年くらい前のことのはずだが、遠い過去の出来事のように感じる。

にしか聞こえないくらいの小さな声で言うなり、花形は唇を重ねた。そしてまた、静かに抱き合った。幸い店は鉢植えを買っていく客が数人来ただけで、ふたりは30分ほどバックヤードで過ごした。

その後藤真たちが到着すると、フローリストの周辺はまた沸き立った。やっとコロッケにありついて上機嫌の藤真はのエプロンを強奪して店番を始めた。長谷川がと花形と話しているとメルヘン母も到着、彼女も店番をやると言い出した。

白いシャツにカフェエプロンの藤真が店先で笑顔を振りまいた結果、フローリストは平時としては最高の売り上げを叩き出した。しかも店の外に並んでいた一鉢200円のパンジーは売り切れた。はぽかんとして藤真の顔を見上げている。

「藤真、接客上手だね……
「えっ、そう? じゃあオレ、バスケ出来なくなったら商売でも始めようかな」

そしたらこの商店街に出店しろと亀屋の小父さんが言い、よく響く胴間声で笑った。みんなそれもいいかもしれないと思ったが、同業でないことを祈った。

そしてこの一連の騒動の中でもクライマックスに当たる「透兄ちゃん花束事件」において、その場にいられなかった店長と葉奈は地団駄を踏んで悔しがった。その後も親しい人々の間では語り草となったこの事件だが、その話が出るときに店長と葉奈がいると不機嫌になったということだ。